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第40話 医療崩壊都市・トキソイドクライシス 35

 広瀬綾香は静かに視線を落とし、言葉を選ぶように唇を震わせた。


「……達郎さん、私……赤ちゃんができたの」


「えっ?」


 その一言が、柘植の胸に突き刺さる。


 嬉しさと同時に、絶望が背筋を駆け上がった。


 職を失った研究者に、父親を名乗る資格はあるのか――。


「……本当か?」


 声は掠れ、乾いていた。


 綾香は頷いた。


「あなたの未来が見えない。でも、私ひとりでは、この子を守れない……」


 達郎は両手で顔を覆い、爪が額に食い込んだ。


「わかった。大丈夫だ……必ず未来をを見つける。君は何も心配しなくていい。何としてもだ」


 綾香と生まれてくる新しい家族のために、彼は転職先のポストを求めて駆け回った。


 必死で、心当たりの大学の研究室に赴き、研究所の扉を叩き、人事の担当者に頭を下げた。


 汗が滲んだ履歴書を、幾度も書き直した。


 だが返ってくるのは、どこも同じ言葉だった。


「今は予算枠がない」


「研究は外注に切り替えたからなあ」


「人員増員の検討の余地なし」


 喫茶店の片隅で、彼は冷えたコーヒーカップに顔を伏せた。


 綾香と子どもを想うたびに、胸の奥で鈍い痛みが走った。


 ――研究者としての未来はまだみえない。


 だが、父になる責務から逃げることは許されない。


 柘植達郎の背に、焦燥と孤独の影が長く伸びていた。


 だが、そんな中、思いがけない仕事の話が舞い込んできた。


 雨に濡れた求人誌を、柘植達郎は駅前のベンチでめくっていた。


 ページを繰るたび、視界に入るのは「学歴不問、未経験歓迎」、「日払い可能」の安っぽい文字ばかり。


 なまじ、博士号という品書きを持つ自分には、もはや働く場所などないのだよと、紙面が嘲笑あざわらっているようだった。


 濡れた指先が、小さな広告の上に止まった。


「生物科学系技術者急募:孑孑ボウフラなどの研究用水棲生物の飼育管理責任者。高額報酬保証。学位取得者は更に優遇」


 目にした瞬間、胸の奥がざわついた。


 自分が十年以上追い続けてきた研究対象の名。


 今の自分にとって、これ以上なく馴染み深いものだった。


「高額報酬」の四文字が、彼の心を射抜いた。


 綾香と生まれてくる子を養うためには、金が要る。


 研究を失った自分に残された唯一の武器が、水棲昆虫の知識なら――。


 達郎はスマホを握りしめ、震える指で番号を押した。


 受話器の向こうで、低い声が即答した。


「面接、すぐに」


 電話が切れた後、達郎はしばらく雨に濡れたまま立ち尽くした。


 駅前のネオンが眩しかった。


 ――それが、闇への入口であることを、彼はまだ知らない。






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