第39話 医療崩壊都市・トキソイドクライシス 34
「――来月から、君のポストは無くなった。悪く思うな。新人が入ってくるのでポスドクの君の席がなくなるんだ」
研究室の白い蛍光灯の下、主任教授が淡々と告げた。
柘植達郎、三十四歳。
東響大学農学部の博士課程を修了し、専門は昆虫生態――水生昆虫の発育と環境因子の研究だった。
幼い頃から虫を追い、学窓ではひたすら顕微鏡に向かい、夢を見ていた。
「自分の研究で、人の役に立てる日が来る」と。
だが、博士号をとった後のポストドクターの椅子は、任期の終了とともに失われることになった。
三年、五年が過ぎ、そして更新はなかった。
ラボの科学研究費も枯れ、研究員の机も次第に空いていった。
机の上には、柘植が積み上げてきた論文の別刷り。
乾いた紙の束は、学会で注目されることもなく灰塵に帰することになった。
顕微鏡は誰かの誰かの備品となり、机に並んでいたトレイの上の資料は、廃棄されることになる。
「教授、僕は……まだやれることが……、あと一年、チャンスを……」
言いかけた声は、教授の言葉に遮られた。
「君の熱意は理解する。だが、大学は慈善事業じゃない、実績を残せない研究者に居場所を与えるわけにはいかんのだよ」
言葉は雷のように重く、容赦なく落ちた。
柘植は拳を握りしめ、爪が掌に食い込むのを感じていた。
研究室を出た廊下には、春の光が差し込んでいた。
だが、その光は彼にとって、ただ研究者としての死を照らすだけの冷たい輝きだった。
婚約者の顔が脳裏をよぎった。
彼女は同じ大学の医学部出身、埼京医大の第四内科で副医局長を務めていた。
いつも穏やかに微笑み、いつも彼を励ましてくれていた。
「達郎さんなら、きっと教授になるわ。私もずっと支える」
そう信じて疑わなかった彼女の瞳が、今は冷たく胸を刺しているような気がした。
顕微鏡を覗いてきた眼に、涙はこぼれなかった。
だが胸の奥で、静かに何かが崩れ落ちた。
黄昏の喫茶店。
窓際の席で、柘植達郎は冷めきったコーヒーに手を伸ばすこともできず、ただ卓上に拳を置いていた。
爪が掌に食い込み、鈍い痛みだけが自分を現実に引き止めていた。
対面に座るのは、埼京医大の第四内科副医局長・広瀬綾香。
臨床と研究の両輪を操る切れ者と評されながら、私生活では達郎の婚約者であった。
白いブラウスに掛けられた細い銀の鎖が、彼女の呼吸にあわせて微かに揺れていた。
達郎は唇を噛み、言葉を吐き出した。
「……僕は大学を出されることになった。任期も、研究費も、すべて切られた。もう……無職になる」
綾香の瞳が一瞬大きく揺れた。
「そんな……あなたには博士号がある。論文だって、誰もが評価していたのに」
達郎は視線を逸らし、低く言った。
「評価だけじゃ生きられない。席がないんだ。研究室にも、そして君との未来も……」
沈黙が落ちた。
喫茶店のBGMが嘲笑のように響いた。
「……僕の人生の失敗に君を巻き込むわけにはいかない。結婚すれば、君のキャリアまで壊すかもしれない」
綾香は細い指でカップを握りしめ、言葉を探した。
「私……大学病院の副医局長よ。肩書きも、立場もある。けれど、それだけじゃ足りないの。あなたが隣にいてくれなければ……」
達郎の胸に、鋭い刃が暴れるような痛みが走った。
彼女の頬を涙が伝い落ちている。
それでも彼は首を振った。
綾香は声を上げることなく、ただ涙を拭いもせずに達郎の目を見つめた。




