表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
39/105

第39話 医療崩壊都市・トキソイドクライシス 34

「――来月から、君のポストは無くなった。悪く思うな。新人が入ってくるのでポスドクの君の席がなくなるんだ」


 研究室の白い蛍光灯の下、主任教授が淡々と告げた。


 柘植達郎、三十四歳。


 東響大学農学部の博士課程を修了し、専門は昆虫生態――水生昆虫の発育と環境因子の研究だった。


 幼い頃から虫を追い、学窓ではひたすら顕微鏡に向かい、夢を見ていた。


「自分の研究で、人の役に立てる日が来る」と。


 だが、博士号をとった後のポストドクターの椅子は、任期の終了とともに失われることになった。


 三年、五年が過ぎ、そして更新はなかった。


 ラボの科学研究費も枯れ、研究員の机も次第に空いていった。


 机の上には、柘植が積み上げてきた論文の別刷り。


 乾いた紙の束は、学会で注目されることもなく灰塵に帰することになった。


 顕微鏡は誰かの誰かの備品となり、机に並んでいたトレイの上の資料は、廃棄されることになる。


「教授、僕は……まだやれることが……、あと一年、チャンスを……」


 言いかけた声は、教授の言葉に遮られた。


「君の熱意は理解する。だが、大学は慈善事業じゃない、実績を残せない研究者に居場所を与えるわけにはいかんのだよ」


 言葉はいかずちのように重く、容赦なく落ちた。


 柘植は拳を握りしめ、爪が掌に食い込むのを感じていた。


 研究室を出た廊下には、春の光が差し込んでいた。


 だが、その光は彼にとって、ただ研究者としての死を照らすだけの冷たい輝きだった。


 婚約者の顔が脳裏をよぎった。


 彼女は同じ大学の医学部出身、埼京医大の第四内科で副医局長を務めていた。


 いつも穏やかに微笑み、いつも彼を励ましてくれていた。


「達郎さんなら、きっと教授になるわ。私もずっと支える」


 そう信じて疑わなかった彼女の瞳が、今は冷たく胸を刺しているような気がした。


 顕微鏡を覗いてきた眼に、涙はこぼれなかった。


 だが胸の奥で、静かに何かが崩れ落ちた。


 黄昏の喫茶店。


 窓際の席で、柘植達郎は冷めきったコーヒーに手を伸ばすこともできず、ただ卓上に拳を置いていた。


 爪が掌に食い込み、鈍い痛みだけが自分を現実に引き止めていた。


 対面に座るのは、埼京医大の第四内科副医局長・広瀬綾香。


 臨床と研究の両輪を操る切れ者と評されながら、私生活では達郎の婚約者であった。


 白いブラウスに掛けられた細い銀の鎖が、彼女の呼吸にあわせて微かに揺れていた。


 達郎は唇を噛み、言葉を吐き出した。


「……僕は大学を出されることになった。任期も、研究費も、すべて切られた。もう……無職になる」


 綾香の瞳が一瞬大きく揺れた。


「そんな……あなたには博士号がある。論文だって、誰もが評価していたのに」


 達郎は視線を逸らし、低く言った。


「評価だけじゃ生きられない。席がないんだ。研究室にも、そして君との未来も……」


 沈黙が落ちた。


 喫茶店のBGMが嘲笑のように響いた。


「……僕の人生の失敗に君を巻き込むわけにはいかない。結婚すれば、君のキャリアまで壊すかもしれない」


 綾香は細い指でカップを握りしめ、言葉を探した。


「私……大学病院の副医局長よ。肩書きも、立場もある。けれど、それだけじゃ足りないの。あなたが隣にいてくれなければ……」


 達郎の胸に、鋭い刃が暴れるような痛みが走った。


 彼女の頬を涙が伝い落ちている。


 それでも彼は首を振った。


 綾香は声を上げることなく、ただ涙を拭いもせずに達郎の目を見つめた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ