第35話 医療崩壊都市・トキソイドクライシス 30
ERでの戦場のような喧騒が収まり、医師達は、束の間の休息に入っていた。
夜更けの医局は、旧い蛍光灯の震える光の白さにすら疲れが滲んでいるようであった。
机の上には食べかけの菓子袋と、飲みかけた缶コーヒー。
出前のラーメン丼はスープが乾き、脂の膜が白く固まっていた。
カツ丼の容器は蓋もされず、冷え切った飯粒が散乱している。
空き缶のビールは転がり、甘ったるい残り香とアルコール臭が入り交じって漂っていた。
赤嶺丈二は、その隅に巨体を小さく丸めて突っ伏していた。
白衣の袖口にはカレーのシミ、胸ポケットからはチョコバーの包装紙が覗いている。
低い寝息にあわせ、机がきしみ、菓子袋がわずかに揺れた。
――その脇腹を、細い指先が突いた。
丈二は「んぐ……」と寝言のような声を洩らし、重たい瞼を開いた。
鈍い声と共に目を開けると、目の前に黒いコートの女が立っていた。
切れ長の瞳、冷えた表情。
警視庁警部補、涌嶋加奈子。
「……んん?」
丈二は目をこすり、にやりと笑った。
「……あらァ、加奈ちゃんじゃない。夜這いにしちゃずいぶん殺気立ってるわね」
加奈子は冗談に乗らず、低い声で切り出した。
「――神田川に、全裸の他殺死体が浮かんでた……」
丈二の笑みが消えた。
「ほう……で?」
加奈子は机の上に、ファイルケースを置いた。
中から数枚の写真が滑り出る。
白く干からびた肉体。
心窩に大穴、四肢に瀉血痕。
皮膚は血を失い、蝋細工のように冷え切っていた。
丈二は分厚い指で一枚をつまみ、顔をしかめた。
「……血を抜かれてるわね。まるで動物実験」
加奈子はうなずき、さらに声を落とした。
「司法解剖の結果――肺は水を抱き、肝臓と脾臓は腫大していた。脳浮腫。 ……典型的なマラリア死の病理所見だった」
静寂が落ちた。
外の街のざわめきも、蛍光灯の唸りも消えたかのようだった。
丈二は写真を机に叩きつけ、低く唸った。
「東京の川に……マラリアの死体だって、まぁ。悪い冗談ね」
加奈子は机に両手をつき、丈二の目を射抜いた。
「これはただの殺しじゃない。疫病を絡めた"何か"よ。……私は上層部に訴えた。だが相手にされなかった。だからここに来た。――あんたたちしか、頼めない」
丈二は椅子を軋ませて立ち上がった。
巨体の影が、加奈子の小柄な身体を覆った。
そして深く息を吐いた。
「やれやれやれ……筋肉じゃ菌は殴れないって、また言わされるのね」
だがその瞳は、氷のように光っていた。
「いいわ、加奈ちゃん。アタシら"凶賊医局"が、疫病を弄ぶ連中とやらに喧嘩を売ってやる」
蛍光灯の白い光の下で、警部補と巨体の医者の眼が交わった。
闇に立ち向かう者の決意を宿していた。
「加奈子……その話、もう少し詳しく聞かせろ」
煙草の紫煙とともに片山秀人が現れ、灰を弾きながら低く言った。
続いて背後の闇から姿を現したのは阿羅業だった。
古い実験ノートを携え、冷たい眼を光らせていた。
片山は、加奈子の持参したファイルをひろげて目を細めた。
「……死人は語らないが、病理所見は雄弁だな。肺に水、肝脾の腫大、脳の?血……これは何者かによって"仕組まれた死"だな」
加奈子の眼は揺らがなかった。
「だから力を貸してほしい。これは私一人ではどうにもならない」
片山は煙を吐き捨て、低く呟いた。
「……凶賊医局に頼むなんざ、警部補にとっちゃ屈辱だろうが―― 闇に抗うには、俺たちみたいな外道の方が向いてる」
灰が落ち、机上の缶ビールが転がり、乾いた音を立てた。
阿羅業は机に実験ノートを置いて、冷ややかに笑った。
「かつて、日本陸軍は生物兵器の開発に血道をあげてきた。80年前の戦争の時代に封じられた闇が、今、なぜか、東京で甦ろうとしている。俺には、この死体が、テロと関係あるのかどうかはまだわからんが、あんたと俺らが手を組めば、あるいは闇の本体に近づくことが出来るかもな」
加奈子の眼は揺らがなかった。
四人の視線が交わった。
「そういえば……」
片山は志那虎薬舗で、店主の郭の持っていた錠剤を思い出した。
ハイドロキシクロロキン……今、日本では使用は禁じられているが、かつてのマラリアの特効薬だった。
「郭の奴は何かを知っているな……」
謎を解く糸口がそこにあるような気がした。




