第34話 医療崩壊都市・トキソイドクライシス 29
救急車の赤色灯が途切れなく現場に流れ込み、担架が次々と降ろされていった。
ICUに隣接して設けられた緊急初療処置室。
粉塵に咳き込み、口から汚泥を吐き散らかしながら、泥と血にまみれた作業員たちが呻き声を上げる。
「脚が……動かねえ……」「喉が固まる……助けてくれ……」
阿羅業は白衣の袖をまくり、血と泥に染まった創を無造作に抉りながら、次々と縫合していく。
「止血を確保しろ! 呼吸管理だ!」
声は鋼のように冷たく、しかし迷いがなく冷徹に響いた。
秘密実験室は位田餓鬼が、白骨のような指でフラスコを握り、虚ろな眼で培養槽を見守っていた。
滴り落ちる汗は老いさらばえた身体の命そのもの。
「……足りぬ……まだ足りぬ……だが、造るしかない……」
呻くように呟きながら、血と命を繋ぐ抗体を精製し続けていた。
その瓶は、運ばれてきた瞬間に開封された。
阿羅業の手が注射器に液を満たす。
「位田餓鬼教授謹製破傷風トキソイド4500単位、静注を開始する!」
看護師の手が震えるが、阿羅業の瞳は氷のように澄んでいた。
一本、また一本――。
破傷風予防用のグロブリンとトキソイドは、救命のたびに消えていった。
それはまるで老人の命そのものを削り取るように……。
位田餓鬼は椅子に崩れ落ちながらも、震える声で呟いた。
「……わしは戦時に命を奪った。だが今は……一つでも多く命を繋ぐ……」
処置室の片隅で片山がアンプルを弾いた。
「ラボでは、教授の命が削られてる……だがその命が、彼等の命を繋いでいる」
丈二は巨体で患者の身体を押さえ込みながら吠えた。
「筋肉じゃ菌は殺れない! でもこの液体は殺れるのよォ!」
呻き、悲鳴、叫び、泣き声。
その渦の中で、老人の命を削って紡がれた薬が一本、また一本と投与されるたびに、
命の灯が繋がれていった。
だが同時に――瓶の数は減っていった。
残りわずか。
光と闇の狭間で、彼らはなお戦い続けていた。
救急の廊下は血と泥と呻きで溢れていた。
次々に運ばれる負傷者の創傷の手当てに、阿羅業の手が休むことはなかった。
だが冷蔵庫に並んでいたトキソイドとグロブリンの瓶は、すでに底を突こうとしていた。
「もう終いか……」
阿羅業も珍しく弱音を吐いた。
そのとき……。
病院の裏口に、音もなく黒いパネルバンが停まった。
ヘッドライトも消され、ただ夜気の中に獣のように潜んでいた。
スライドドアが開き、影が姿を現した。
医薬品卸マルケンの男――鈴木奈々男。
顔は紅潮し、目だけが落ち着きなく輝いていた。
「……持ってきましたぜ、ジョージさん」
箱の中には、ラベルを剥がされ番号も消された小瓶が整然と並んでいた。
志那虎薬舗の主人、郭が密輸した医薬品がぎっしりと詰まっている。
確かな命を繋ぐ液がかすかに揺れていた。
赤嶺丈二が巨体を揺らして歩み寄る。
「やるじゃないの、奈々男ちゃん……」
低く呟きながら、分厚い封筒を取り出した。
封筒はずっしりと膨らみ、帯の巻かれた札が覗いていた。
丈二はそれを卓に叩きつけるように渡した。
「お礼なのよ。命の数に比べりゃ安いもんよ」
奈々男は震える手で封筒を掴み、口元を歪めた。
「……ありがてえ。こっちは港から直に来たばかりのブツです。効くか効かねえか――それは現場で確かめてもらうしかありませんが……」
丈二はにやりと笑った。
「郭の眼に通った薬が効かないなんてありえねえわ。効かせるのがアタシらの仕事よ」
黒いバンは再び音もなく夜に溶け、残されたのは血と闇に染まった救命の瓶と、汗に濡れた封筒だけだった。
片山が煙を吐き捨てた。
「……闇でも構わねえ。死人を減らせるならよ」
廊下の奥ではまた担架が滑り込み、負傷者の呻きが重なった。
その声に応えるように、闇の薬は次々と注射器に吸い上げられていった。




