第33話 医療崩壊都市・トキソイドクライシス 28
第33話 医療崩壊都市・トキソイドクライシス 28
埼京医科大学地下微生物学教室附属秘密研究棟、無菌室に、培養装置の低い唸りが響いていた。
位田餓鬼教授は、骨ばった指でフラスコを握り、透明な液体の色を睨んでいた。
その顔は、眼が落ち窪み、全身はやつれ、白衣は汗に濡れて張り付いていた。
徹夜続きの疲れが全身に蓄積していた。
「……もう少しだ。……あとわずかで、抗体が形になる……」
声は掠れ、壁に吸い込まれるように小さかった。
そのとき、鉄扉が叩き破られるように開いた。
片山秀人が煙草をくわえたまま、煤の匂いを纏って飛び込んでくる。
「教授! 崩落事故だ!」
声は震え、肺の奥から絞り出すようだった。
「……何だと?」
「汚染土の堆積している建設現場で、大規模崩落が起こった! 作業員が数十人、いや百人単位で負傷して搬送されてくる。負傷者全員が汚泥に暴露された……破傷風の危険に曝されて……トキソイドが……大量に要る!」
培養装置の唸りがやんだ。まるで、力が尽きたかのように……。
位田餓鬼の顔から血の気が引いた。
「……数十人……いや百人……? この小さな研究室で造れる量では……とても……」
片山は机を叩きつけた。
「教授、量が足らなきゃ死人が出る! 救急車が今もひっきりなしに血まみれの作業員を運んでる! このままじゃ……東京の病院で、破傷風の流行が一斉に起こるぞ!」
老人は震える手でフラスコを握りしめ、目を閉じた。
「……わしは、戦時に人を殺すために細菌を作った。今は、その罪を贖うために命を繋ぐ抗体・トキソイドを造っている。だが、この実験室の規模では……」
片山の声が鋼のように響いた。
「なら、法を動かす! 厚労省の特例承認を取らせる!何が何でも、構わねえ。造らせるんだ!」
老人の眼に、潤んだ光が滲んだ。
「ありがとう、片山。しかし、どうすれば……」
培養装置の唸りがやみ、部屋には重苦しい沈黙が広がった。
位田餓鬼の指が震え、フラスコを抱きしめたまま、白骨のような顔から血の気が引いていた。
そのとき、鉄扉が軋む音がした。
煤けた廊下の奥から、阿羅業神醫が現れた。
片手には、黄ばんだ古い実験ノート。
もう片手には、付箋で幾重にも印をつけられた資料目録。
無言のまま机に叩きつけられた紙束が、鈍い音を立てた。
室内の空気が震えた。
「……これは……」
位田餓鬼が掠れた声を洩らす。
阿羅業は口角をわずかに吊り上げた。
「旧陸軍・防疫給水部。戦時中に行われた非人道的実験の記録だ。ページをめくれ。そこには、旧陸軍の生物兵器開発犯の中心人物の所業が事細やかに記録されている。そしてその息子たちは今、医療行政を牛耳る、与党厚生族の巨魁として、この国の医療を好き勝手に操作し続けている」
片山の眼が細く光った。
「……戦時下における日本陸軍の人道的犯罪の証拠の数々か」
「その通り」
阿羅業の声は氷のように冷たく、だが確信に満ちていた。
「政財界の頂点に立つ連中は、いま表では"国民の命を守る"と正義感面をしているが、本当は、己が一族が、どれほどの無残な骸を踏みつけて来たかを知られたくない。この資料を突きつければ、奴らは黙って"特例承認"を出すしかない」
位田餓鬼は膝を震わせ、老いた眼を潤ませた。
「……わしは燃やせなかった。あの時、火にくべる手が震え、できなかった。八十年、わしは罪と共に老いた。だが……それが、ようやく人々を救うための糧になるのか」
阿羅業は低く笑った。
「罪も、血も、闇にさ迷う亡霊も――使えるものはすべて使わしていただこう。もはは死んだ者は救えぬ。ならば、生き残った者を救うために、力を振るうまでだ」
片山は煙を吐き、机を叩いた。
「教授、《じいさん》やれるか」
位田餓鬼はフラスコを抱き直し、老いた肩を震わせながら頷いた。
「……ああ。これで、光が射すなら」
研究棟の照明が一つ、また一つと灯った。
闇に沈んでいた巨人が、再び息を吹き返すように。
その灯は、過去の犯罪の残した遺産と、現在を生きる者たちの執念を重ね合わせて生まれた――
命を繋ぐための光だった。
「ERから、応援に来いとせっつかれている。俺はERに行ってくる。今夜は俺等も徹夜だ……」
阿羅業はきびすを返し、鉄扉の外へ消えていった。




