第32話 医療崩壊都市・トキソイドクライシス 27
警視庁本部、厚いカーテンに覆われた会議室。
長机には幹部たちがずらりと並び、室内の空気は乾いていた。
机上の書類の上で、死体写真が無造作に回された。
――神田川で見つかった全裸死体。
血を抜かれ、皮膚は白蝋化し、四肢に瀉血痕。
さらに病理解剖では、熱帯熱マラリアに典型的な所見――脳浮腫、肝脾腫、肺水腫。
場内にざわめきが走る。
だが、それは驚愕というより、信じ難い事実を認めようとしない人間の拒否反応に近かった。
「……で、君はこれが感染症のテロだと言うのか?」
初老の幹部が眼鏡を外し、机に叩きつけるように言った。
「あり得ない。日本はマラリア流行地ではない。死体は反社の揉め事で殺されたどこかの不良外国人だろうな、……それ以上でも以下でもない」
加奈子は立ち上がり、写真を叩きつけるように示した。
「肺水腫!肝脾腫!脳のうっ血!マラリア死の典型です!東京のど真ん中でこんな遺体が出た以上、これは偶然でも個人犯罪でもない。――誰かが意図して持ち込んだんです!」
「君は妄想に取り憑かれている。いい精神科医を紹介しようか?」
別の幹部が冷ややかに笑った。
「伝染病ならそれは厚労省の仕事だ。われわれ警視庁の仕事は都内の治安維持。今も凶悪事件が後を絶たん、その対応でみんな手一杯だよ……」
加奈子の声は震えていた。
「瀉血の跡は"見せしめ"です。血を抜かれた死体を川に流す……これは警告なんです。東京を標的にした"感染症テロ"のね!」
室内の空気は冷え切っていた。
誰もが黙り、誰もが加奈子を見ない。
その沈黙は、孤立を意味していた。
やがて、議長格の警視正が低く言った。
「涌島さん。君の情熱は認める。しかし、われわれは根拠のない不安を、都民に向けて煽るわけにはいかん。――本件はあくまでも、"異常死体の一件"として処理する。それ以上の扱いは不要だ」
机の上の死体写真は、文書ファイルケースの冷たい紙束の中に押し込まれた。
光を失ったそれは、再び闇に葬られることを意味していた。
加奈子は唇を噛み、拳を握った。
「……また繰り返すのですか。罪を見て見ぬふりをする……」
加奈子が、かれこれ、三十年前にカルト集団が起こしたサリンガスを用いた化学テロのことを指して言っているのだろうと誰もが思っていた。
あの時使われたのは神経毒サリン、しかし今、加奈子が主張しているのは、蚊によって媒介される原虫性感染症、マラリア。
これを使ってテロを起こすなど、荒唐無稽な発想にしか思えない、そもそも、マラリアを媒介する蚊を大量に培養しているうちに自らも感染しかねない、そんなリスクを冒してまで破壊活動に固執するテロリストがいるのだろうか?
加奈子以外の警視庁高官の貌がそう語っていた。
警視正は、立ち上がって、一言述べて会議の終了を宣言した。
「まあ、明後日には、ロンドン出張中の本庁特別行動隊長の長谷川警視正が帰国する……。一度、彼の意見を訊いてみよう、それまでは、現場の訊きこみと被害者の身元確認に全力を投入してくれたまえ……」
会議室の窓から、東京の高層ビル群が見える。
その街の空には、すでに黒い影が覆い始めている――彼女だけがそれを見ていた。
警視庁本部を出た加奈子は、熱風に晒されながら歩いていた。
背広の男たちに囲まれた会議室では、自分の声はただの「妄想」として押し潰された。
感染症テロの危険性を訴えても、誰も聞こうとしない。
残ったのは孤立と、頭を割るような怒りだけだった。
「……見て見ぬふりか。命が削られる現場の声は、闇に葬られるわけなのね……」
その呟きと共に、脳裏にこびりついた疑念と焦燥は、消えるどころか熱を増すばかりだった。
加奈子は、ふと耳にした名前を思い出した。
――歌舞伎町、埼京医大の第四内科、あそこには感染症内科がある。
先日、生活保護詐欺の容疑者海老田を私的逮捕した男、赤嶺丈二。
そこに医局長の片山秀人、そして"神醫"と噂される外道の外科医・阿羅業がいる。
患者を救う大義のためなら闇の世界に突っ込むことも辞さない凶賊の連中。
彼等なら何か……。
加奈子は丈二に連絡をとった。
「あら加奈ちゃん!」
「ジョージ……、相談したいことが」
「ごめんなさい、今ウチ野戦病院状態なのよ」
「野戦病院?」
「そう、さっき中野の建設現場で、大事故が起こったらしいの。これから重傷患者が、どどんと担ぎ込まれるらしいから、あたしたちも外科の手伝いにいくところ!」
「!」




