第31話 医療崩壊都市・トキソイドクライシス 26
曇天が低く垂れ込め、鉄骨と足場を覆っていた。
公団の高層集合住宅建設現場の地面には泥水が溜まり、セメントの白い粉が熱風に舞っていた。
作業員のひとり、まだ若い鳶職が手袋を外して掌を見つめていた。
鉄筋の端で裂けた古傷がまだ疼いていた。
「……おい、この前、怪我したやつ、破傷風になったって話……本当か?」
隣でタバコをふかしていた年配の土工が、顔を曇らせた。
「本当だ。顎が固まって、痙攣で身体が弓なりになってな……救急で運ばれたが一時は死にかけたそうだ」
若い鳶職の顔に怯えが浮かぶ。
「冗談じゃねえよ……オレら毎日、泥にまみれて傷だらけだぞ。で、でも一本でも注射打っときゃ安心できるんだろ?」
年配の男は深く煙を吐き、虚ろに答えた。
「安心できるはずの薬が、この国にはもうほとんど残っちゃいねえって話だぜ。どこの病院の倉庫も空っぽだとよ」
別の作業員が会話に割り込んだ。
鉄帽の下の額に汗をにじませ、低く言った。
「じゃあ俺たちは、ケガしたら……死ぬってことか?」
「ケガしなきゃいいんじゃねーか、な……」
ここの現場一帯は、かつて沼を埋め立てて造った養豚場が建っていた場所だった。。
元々地盤は脆弱、豚の糞便の残滓があちこちに残っていて生物学的汚染が深刻な状態だった。
そういう場所に高層集合住宅を建てるためには、汚染土を入れ替え、基礎を十分に深くうち込まなければならない。
彼らは、汚泥で何が埋まっているかもわからない状態で、土を掘り返さねばならなかった。
ケガをしない保証など、あるわけがなかった。
現場に沈黙が落ちた。
クレーンの唸りが重く響き、足場の鉄がきしんだ。
誰も言葉を継げず、ただ目の奥に不安を沈めた。
その瞬間、遠くで異様な音がした。
鋼鉄が呻き、地鳴りのような振動が地面を這った。
空気は張り詰め、全員が一瞬、呼吸を忘れた。
次の瞬間――クレーンのワイヤが金切り声を上げた。
甲高い音が夏空に突き刺さり、鉄骨の塔がわずかに傾いた。
それは寿命が尽きた巨大な獣が、死をむかえて、苦しい全身をよじる前の、最後の溜息のようだった。
「あぶない――逃げろッ!」
誰かの絶叫が耳を裂いた。
だが、遅かった。
轟音。
鉄骨とコンクリートが、一斉に牙をむいた。
巨大な構造体が空気を切り裂き、落下の衝撃で風が爆ぜた。
作業員たちの体は紙のように吹き飛ばされ、重機も足場も一緒くたに地面へ叩きつけられた。
地面は揺れ、粉塵が濁流のように押し寄せた。
目を開ければ砂が突き刺さり、息を吸えば肺にコンクリートの粉が詰まった。
耳は叫びと鉄の破砕音で満たされ、どこからが人の声で、どこからが鋼鉄の悲鳴か分からなくなった。
「助けてくれ!」「脚が、脚が!」
「おい!ここに挟まってる!」
呻きと絶叫が粉塵の渦の中から響いた。
倒れた鉄骨の下に手足だけが突き出し、泥と血に塗れて震えている。
片足を潰された男が泥の上を這いずりながら、歯を食いしばって逃げようと両手で地面を掻いた。
泥にまみれた創傷からは赤い血が噴き出し、鉄粉と混じって異様な臭気を放った。
負傷者の多くは皮膚を裂かれ、汚泥に汚染された傷を抱えた――その一つ一つが破傷風菌が入り込む玄関となった。
煙のような粉塵の中、立ち上がれる者は少なかった。
誰もが泥にまみれ、鋼鉄の棺に閉じ込められた囚人のように呻いていた。
クレーンの残骸がなおも燻り、火花を散らす。
白昼の建設現場は、一瞬にして地獄に変わっていた。
その惨状を見下ろしながら、現場監督が蒼白な顔で呟いた。
「……早く……救急車」
声は粉塵に飲み込まれた。




