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第30話 医療崩壊都市・トキソイドクライシス 25

 引き揚げられた瞬間、現場に居合わせた刑事たちは息を呑んだ。


 それは「死体」という言葉で括るにはあまりにも異様で、あまりにも禍々しかった。


 裸の男。


 四肢にも規則正しく刻まれた切開痕が走り、まるで医療用の瀉血手技を施されたように正確だった。


 血は――なかった。


 皮膚は白蝋のように乾き、筋肉は収縮して萎み、遺体全体がまるで血を抜き尽くされた動物実験の残骸だった。


 人ではなく、屠殺された生き物を見せられている錯覚。


 その断面から滴り出るはずの血は一滴もなく、まるで干からびた祭壇の供物。


 だがさらに異様なのは、検死官から告げられた言葉だった。


「警部、遺体の肝臓と脾臓が異様に腫大してますな、熱帯熱マラリアの所見に一致します」


 加奈子は息を呑んだ。


 群衆のざわめきが遠のく。


 赤い警灯が流れる水面に反射し、死体を血のように染め上げていた。


 加奈子は額に手を当て、立ち尽くした。


「……これは単なる殺人じゃない。もっと大きな……災厄の予兆かも」


 その声は誰に向けられたものでもなく、川面に漂う死臭と共に、冷たい風にさらわれていった。


 彼女の目には、東京全体に迫る影が、黒々と広がり始めていた。


 夜明けの光は冷たく、その光の中で浮かんでいたのは――白く膨らんだ肉塊。


 脳の腫張、肝脾腫大、肺水腫――まず熱帯の流行地でしか見られないはずの惨状が、ここ東京のど真ん中の川から引き上げられたのだった。


 その恐怖が現場を支配した。


 しかし、さらに恐ろしいのはその先だった。


 司法解剖に持ち込まれた遺体の内部は、さらに異様を極めていた。


 肺は重く水を抱き込み、肺水腫の状態であった。


 検死官の言葉通り、やはり、肝臓は肥大し、脾臓もまた異様なまでに腫大していた。


 切り裂けば、どろりと黒褐色の泥のような塊がはみ出してくる。


 東京の川から揚がった死体に、なぜ熱帯病の病理所見が刻まれているのか。


 誰も答えられなかった。


 涌島加奈子警部は、報告を聞くやその場に立ち尽くし、額を押さえた。


「……血を抜かれた挙げ句の、マラリアに冒された死体か……」


 その言葉は、自分の耳にさえ届かぬほど弱く震えていた。


 警部として数多の異常死に対峙してきた彼女ですら、この光景には心を抉られた。


 瀉血された痕。


 失われた血液。


 そして、マラリアに蝕まれた内臓。


 これは単なる殺人ではない。


 東京という大都市を揺るがす、恐怖と混乱の予兆――疫病と殺戮が結びついた宣告に他ならなかった。


 川面に映る死体の影は、都心の高層ビルを背景に、まるで街全体を呑み込む巨大な死神の影に見えた。


 加奈子は、嗄れた声で呟いた。


「……これは、我々に対する宣戦布告なのかしら?」


 その声は風にかき消されたが、この死体は、川面に漂う死臭と共に、不気味な警鐘を鳴らしていた。


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