第29話 医療崩壊都市・トキソイドクライシス 24
靖国神社の石畳を抜け、老人は柴犬を連れて歩いていた。
戦友の名が刻まれた石碑に毎朝頭を下げるのが日課で、今日も変わらぬ習わしの帰り道だった。
犬は鼻をひくつかせ、神田川の土手に差しかかったとき、急に立ち止まり低く唸った。
「どうした、ポンチ……」
首をかしげて覗き込んだ老人の目に、川面の白いものが映った。
朝の光に浮かぶ、裸の肉体。
波間に翻るその姿は、魚でもなく、人間でもなく――血を抜かれた白蝋の像のようだった。
老人は息を呑んだ。
犬が吠え立てる。
「ひ、人が……人が死んどるぞー!」
声は震え、枯れた喉から絞り出されるように土手に響いた。
川面に漂う男の体は、服もなく、四肢に刻まれた切開痕が、禍々しい赤黒い線となって残っていた。
血はどこにもなく、全身は干からびたように白く痩せ、眼窩は落ち込み、開いた口からは泡沫のように濁った水が流れ出していた。
老人の目は戦場を想い出した。
ビルマのジャングルで仲間の兵が飢餓と疫病に倒れ、痙攣しながら痩せ細っていった姿。
その亡霊が、いま川に浮かんでいるようだった。
「やめてくれ……こんなもん、また日本に持ち込むんじゃねえ……」
老人は頭を抱え、犬の首輪のリードを強く握った。
犬が激しく吠え、通りかかった人々が駆け寄る。
その群衆のざわめきの中で、老人は涙に濡れた目を空に向け、震える声で呟いた。
「靖国の英霊よ……どうか、この国を護ってくれ……」
川面の白い死体は、ただ流れに揺れながら、街に迫る災厄を黙示するように漂っていた。
神田川の土手には、すでに野次馬の人垣ができていた。
老人は犬を抱きかかえ、なお震える声で「木乃伊が川に流れてきたんだ」と繰り返していた。
その恐怖に満ちた訴えは、街に溢れる雑音を切り裂き、人々の背筋を冷たくした。
サイレンを鳴らして警察車両が到着した。
赤色灯の光が川面に揺らぎ、波紋のように死体を照らす。
制服警官が人垣を押し分けた。
やがて、黒いコートの女性が現れた。
北新宿署の涌島加奈子警部補――鋭い眼光を持つ彼女は、幾多の修羅場を潜り抜けた刑事であった。
だが、この光景を見た瞬間、彼女の靴音は止まった。
川に浮かぶ白い死体。四肢は硬直しながら水に漂っていた。
裸の肉体には、心窩の中心に、太い穴。
ここから血液は抜き取られたのか、皮膚は蝋のように蒼白に乾き、紅斑が豹紋のように散在している。
眼窩は落ち込み、開いた口からは泥水が泡立つように漏れ出していた。
「……なんとまあ禍々しい……」
加奈子の声は嗄れ、胸の奥から押し殺すように漏れた。
鑑識員が遺体を引き上げる。




