第27話 医療崩壊都市・トキソイドクライシス 22
最凶医大基礎医学棟。
古びた鉄扉を越えた先にある、外界から隔絶された微生物学の実験室。
白衣の老人が顕微鏡に身を屈め、わずかな光のもとで試料の微細構造を見つめている。
教授、位田餓鬼大輔、百四歳。
八十年もの時を、日本陸軍の闇、そして、軍医学校の亡霊と共に生きてきた男。
骨ばった手が震えながらも、試薬瓶を決して取り落とすことはなかった。
「……トキソイドは、確かに再現できる。だが」
声は掠れ、煤けた壁に吸い込まれた。
背後で見守る片山が、低く問う。
「だが、何だ」
老人は顎を震わせ、深く頭を垂れた。
「実験室でつくれる量では、足らん。このペースでは、全国を襲ってくる破傷風の猛波は止めきれん」
沈黙が続いた。
試験管の中で、無数の命を繋ぐはずの液が揺れている。
だが、今の規模でつくられるその量は、あまりに少なかった。
赤嶺丈二が巨体を壁にもたせ、低く唸った。
「……結局、俺たちがどこぞから何本か盗んでくれば済む話じゃない。でも、それだけじゃ患者は救えねえのよね」
片山は煙草を噛み、煙を吐き捨てた。
「トキソイドだけじゃ間に合わない……。このままじゃ、破傷風は東京でブレイクアウトする」
その言葉は、ICUの警報音より暗く重く、部屋に落ちる。
位田餓鬼教授は目を閉じ、震える手で試験管を包み込んだ。
「……わしは、人間を殺すために細菌兵器を製造した。だが、今は、人間を生かすために働いている。作り上げたトキソイドで償いたいが、償いには到底足らぬ」
老人の瞳から、乾いた涙が光った。
「……やはり、足らぬか」
片山はその姿を見つめ、唇を固く結んだ。
丈二がゆっくりと立ち上がった。
「なら、俺たちが動くしかない。闇でも、裏でも、なんでも使う。トキソイドに繋がる道を広げてやる」
老人の震える肩が、わずかに揺れた。
歌舞伎町、居酒屋「ろくでなし」奥座敷。
片山と丈二は再び郭と面会していた。
畳に煙が漂い、郭が骨ばった指で眼鏡を押し上げる。
片山が、郭の猪口に酒を注ぎながら言った。
「トキソイドをどれだけ精製しても、この国の最大需要には追いつかない可能性が高い。……だからこそ裏モノを回す必要がある」
郭が目を細めた。
「裏……どこにある?」
郭は声を低め、鞄から取り出した帳簿を開いて、頁の奥を顎で示した。
「今、知り合いの華僑が管理している、横浜、大黒埠頭の倉庫に、東南アジアから届いたばかりの"番号の削られたバイアル"が眠っている。トキソイド、グロブリン、それにワクチンもだ。正規には流れんが……効き目は確かだ」
丈二が肩を揺らし、笑った。
「筋肉じゃ菌は殴れないけど、闇の液体なら殴れる……ってわけね」
片山は煙を吐き、低く言った。
「……教授が光を繋ぐなら、俺たちは闇を掻き集める」
郭の眼鏡が鈍く光った。
「それでこそ、生と死の狭間を渡れる者たちだ。華僑には私から連絡をいれる。なかなか気難しい奴でな。一見客との取引はやらんそうだ」
「急いでくれ、待った無しなんだ。それと……」
「マラリアの件か……」
「相変わらず鋭いな、ドイツの貿易業者に、ハイドロキシクロロキン三万人分と迅速の抗原検査キットを十万箱発注をかけた。これでも足る量ではないと思うが……」
「ありがとう、検査キットは足らなければCOVID-19の時に使ったPCR検査の設備をまたフル回転させよう。それより郭さん、お嬢さんは元気かね」
「よせばいいのに、顔を変えて「別人」になったとたん、さっそく新しい友達と遊び歩き始めやがった」
「そうか、あんたも気をつけてくれ。反社組織があんたを直接狙ってくることもあり得る」
「気はつけてはいるが、私の稼業は渡る橋が危なければ危ないほど、見返りは大きいからね」
「ふむ」
店の外で、救急車のサイレンがけたたましく流れていた。




