第24話 医療崩壊都市・トキソイドクライシス 19
無影灯の明かりが落ち、郭の長女はゆっくりと鏡を手に取った。
そこに映るのは、もう「黄金比の娘」ではなかった。
頬の影、目尻の角度、口元の印象が変わり――全くの別人だった。
片山は眉をひそめた。
「……どうだ」
阿羅業は沈黙のまま見つめていた。
娘は数秒、鏡を見て――いきなり笑った。
「最高! 私、こっちの顔の方がいい!」
丈二が肩を揺らし、呆れた声をあげる。
「アンタ……自分の貌を失って、悲しむどころか楽しんでんの?」
娘は鏡をひらひら振りながら、満面の笑みを浮かべた。
「だって、別人になったってことは――新しい人生を始められるってことじゃない!」
阿羅業は、初めてわずかに口角を上げた。
「……貌を捨てて生き延びるのではなく、貌を変えて生まれ直すか。なるほど……その軽やかさこそが、生き残る術かもしれんな」
郭の目に涙が滲んだ。
彼女は父に向き直り、笑顔で言った。
「お父さん。私、これから毎日違う人生を楽しんでやるわ」
片山は煙草を噛み潰し、低く呟いた。
「……いい。最凶の医局が救った命は、どうやら骨太だったようだ」
だが阿羅業だけは浮かない表情を崩さなかった。
無影灯に照らされた横顔は、氷の彫像のように陰鬱であった。
片山が目を細め、問いかけた。
「……どうした」
阿羅業は静かに答えた。
「別人になったということは、これまでの人生の道程を棄てることだ。名も、姿も、これまで培ってきた友や人間関係も……すべて断ち切らねばならん。あの娘は、まだそこに気づいていない」
室内の空気が重く沈んだ。
片山は煙を吐き、低く笑った。
「気がかりかもしれん。だがな、阿羅業――その時はその時だ。友も過去も、要るならまた盗めばいい。貌も命も、人生さえも盗んで繋いでやる。あの娘が気づいたとき、俺たちがそばにいれば、それでいい」
阿羅業の瞳に、わずかに揺らぎが走った。
だが次の瞬間には、再び氷のように冷えた光に戻っていた。
娘はまだ気づいていない。
自分が背負うことになる「過去との断絶」に。
だがその笑顔は、闇に閉ざされていた彼女の人生の中のひとつの光となっていた。
*
志那寅薬舗の奥座敷。
薬草と古びた木の匂いが漂う中、郭英志は卓の上に小瓶を置いた。
透明なガラス瓶の中には、青緑色の錠剤がいくつも転がっている。
片山は煙草をくわえ、目を細めた。
「……何かね、これは」
郭は柔和な笑みを浮かべ、しかし瞳の奥に翳を宿した。
「八つ目科学の業務停止の裏で、得体の知れぬ連中が動いています。影の中で、翳を利用して生物兵器を企む――チャイニーズマフィアの影だ」
丈二が巨体を揺らし、鼻で笑った。
「生物兵器だァ? また物騒なことを……で、その青い薬とどう繋がるわけ?」
郭は錠剤をひとつ指でつまみ、光に透かして見せた。
「これは、ハイドロキシクロロキン――と、ある疫病の治療薬です」
片山が低く呟いた。
「……麻拉利亜か?」
郭は声を潜め、まるで呪いを告げるように言った。
「連中はこの国の経済を揺さぶろうとしている。翳を撒き散らし、疫病で街を混乱に陥れる……。この錠剤は、その計画の“合図”だ」
阿羅業が沈痛な眼差しで瓶を見つめた。
「……つまり、破傷風の次に来るのはこいつってことか」
郭は頷き、瓶を押し出した。
「これは、ただの薬ではない。影の中で何が起こるのか、察して備えてくださいということです」
片山は紫煙を吐き、瓶を掴んだ。
卓の上で小瓶が乾いた音を立てた。
その音は、近づく新たな危機を告げる鐘のように響いていた。




