表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/105

第23話 医療崩壊都市・トキソイドクライシス 18

 凍りつくような沈黙に支配された手術室。


 無影灯の白光が、かげを殺し、全てを裸にさらけ出していた。


 美しい少女は手術台に横たわり、点滴ラインから鎮静剤がゆっくりと流れ込む。


 まぶたは震えを残しながらも閉じられ、呼吸は規則的に落ち着いていた。


 その貌は――黄金比をなぞったかのように均整のとれた、美の極致。


 だが、その美しさこそが彼女の鎖。


 執拗な反社組織マフィアに狙われ、父、郭の動きを縛り、命を追い詰める呪いの刻印だった。


 阿羅業は、滅菌ガウンをまとい、静かに準備を整えていた。


 器械台に並べられた鋼の器具は、月光の刃のように光を返した。


 幻の手術糸――アルヘンティナ・ジゼルは滅菌トレーの中に眠り、その繊細な輝きは、存在そのものが秘宝のようだった。


 片山は背を壁に預け、無言で立っていた。


 丈二は巨体を揺らし、落ち着きなく貧乏揺すりを続けていたが、その眼差しは真剣に阿羅業の手元を追っていた。


 郭は両手を固く握り、祈るように手術台を見つめていた。


 阿羅業は娘の貌に視線を落とした。


 その黄金の貌を、氷の瞳で見つめた。


 沈黙が、さらに重く降り積もった。


 心電図のリズム音だけが、かすかな生命の証として響いていた。


「……美しい貌は、心を斬る剣かもな」


 阿羅業が低く呟いた。


 その声は、己自身に言い聞かせるようであった。


「美しい貌は人を救いもする。だが、その呪縛は当人を斬り殺しもする。この娘は美の剣に捉われた。なら――その剣に傷つけられないうちに鞘の内に収めねばならん」


 片山が煙を吐き、わずかに眼を細めた。


 丈二は肩を揺らし、冷や汗を流した。


 阿羅業の手に震えはなかった。


 血に濡れた戦場の野良手術でも、細菌兵器に侵された死体の山でも、この手は決して揺らがなかった。


 阿羅業はメスを手に取った。


 冷たい鋼が掌に吸い付くように馴染み、無影灯の光を反射した。


「彼女にとって――貌を変えることは、生命を長らえること。死神に貌を覚えられた者は、この世に長くは留まれないからな」


 静寂の中、その声は鋼鉄のように重かった。


 郭の喉が鳴り、目に涙が浮かんだ。


 阿羅業の刃先が娘の顔に寄った。


 細く、正確に、ミクロン単位で皮膚を撫でる。


 切開ではない、傷を残さぬ針路を導いてゆく……。


「……さあ、死神に捉われた貌の呪縛を断つぜ」


 その言葉とともに、メスは沈黙を裂いた。


 室内の空気は、誰も息をすることすら忘れるほどに張り詰めていた。


 そして阿羅業の手から放たれる一太刀が――少女の生と死の境界を揺さぶる光となった。


 無影灯の白光の下、阿羅業神醫の指先は一切の迷いを見せなかった。


 極細のメスでわずかな皮膚の入り口を作り、針を滑らせる。


 そこから幻の糸――アルヘンティナ・ジゼルが、静かに皮下へ吸い込まれていく。


 糸は月光を飲み込んだように艶やかに震え、肉を裂かずに走行を変えた。


 頬の筋肉を微妙に引き、目尻の角度をわずかに改める。


 皮膚は切られず、縫い目も残らない。


 だが、貌の印象は確実に、少しずつ変貌を遂げていった。


 呼吸のリズムに合わせるように、阿羅業神醫は針を進めた。


 一本。


 また一本。


 まるで運命の糸を編み直すように、阿羅業の手は寸分の狂いもなく動いた。


 片山は煙草を握りつぶし、吐き捨てるように呟いた。


「……これが、貌を盗む業か」


 丈二は巨体を揺らし、思わず声を漏らした。


「魔法……いや、外道の神業だわ……」


 郭は祈るように手を組み、涙で視界を曇らせていた。


 最後の結びが終わった時、阿羅業は針を置き、余分な糸を切り落とした。


「……終わった」


 低く冷徹な声が室内を貫いた。


 ガーゼを外し、無影灯の下に晒された娘の貌。


 そこにあったのは――さっきまでの黄金比の女神ではなかった。


 輪郭がわずかに変わり、目尻が柔らかく下がり、頬の陰影が異なる。


 その変化は決定的であった。


 誰も、これが郭の娘だとは気づかないだろう。


 少女はゆっくりと瞼を開き、鏡を見つめた。


「……私じゃない……」


 阿羅業は冷たくも静かに応えた。


「死神に顔を覚えられた者は、生き延びられない。だが今のお前は“誰でもない”。だから、生き延びられる」


 郭の嗚咽が室内に落ちた。


「……ありがとう……。これで、この子は……」


 片山は煙草に火を点け直し、短く言った。


「――命を繋ぐためなら、貌なんぞ何度でも盗めばいい」


 丈二は肩を揺らし、大きく笑った。


「死神も騙されるわねェ……アタシら凶賊医局にゃ似合いの芸当だわ」


 阿羅業の目は氷のように冷たく澄み切り、ただ冷徹に光っていた。


「……これが俺の業だ。貌を変え、命を延ばす――それが“神醫”と呼ばれる所以だ」


 無影灯が静かに消えた。


 そこには新しい貌を与えられた娘と、罪の境界を踏み越えた男たちの影だけが残っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ