第23話 医療崩壊都市・トキソイドクライシス 18
凍りつくような沈黙に支配された手術室。
無影灯の白光が、翳を殺し、全てを裸にさらけ出していた。
美しい少女は手術台に横たわり、点滴ラインから鎮静剤がゆっくりと流れ込む。
まぶたは震えを残しながらも閉じられ、呼吸は規則的に落ち着いていた。
その貌は――黄金比をなぞったかのように均整のとれた、美の極致。
だが、その美しさこそが彼女の鎖。
執拗な反社組織に狙われ、父、郭の動きを縛り、命を追い詰める呪いの刻印だった。
阿羅業は、滅菌ガウンをまとい、静かに準備を整えていた。
器械台に並べられた鋼の器具は、月光の刃のように光を返した。
幻の手術糸――アルヘンティナ・ジゼルは滅菌トレーの中に眠り、その繊細な輝きは、存在そのものが秘宝のようだった。
片山は背を壁に預け、無言で立っていた。
丈二は巨体を揺らし、落ち着きなく貧乏揺すりを続けていたが、その眼差しは真剣に阿羅業の手元を追っていた。
郭は両手を固く握り、祈るように手術台を見つめていた。
阿羅業は娘の貌に視線を落とした。
その黄金の貌を、氷の瞳で見つめた。
沈黙が、さらに重く降り積もった。
心電図のリズム音だけが、かすかな生命の証として響いていた。
「……美しい貌は、心を斬る剣かもな」
阿羅業が低く呟いた。
その声は、己自身に言い聞かせるようであった。
「美しい貌は人を救いもする。だが、その呪縛は当人を斬り殺しもする。この娘は美の剣に捉われた。なら――その剣に傷つけられないうちに鞘の内に収めねばならん」
片山が煙を吐き、わずかに眼を細めた。
丈二は肩を揺らし、冷や汗を流した。
阿羅業の手に震えはなかった。
血に濡れた戦場の野良手術でも、細菌兵器に侵された死体の山でも、この手は決して揺らがなかった。
阿羅業はメスを手に取った。
冷たい鋼が掌に吸い付くように馴染み、無影灯の光を反射した。
「彼女にとって――貌を変えることは、生命を長らえること。死神に貌を覚えられた者は、この世に長くは留まれないからな」
静寂の中、その声は鋼鉄のように重かった。
郭の喉が鳴り、目に涙が浮かんだ。
阿羅業の刃先が娘の顔に寄った。
細く、正確に、ミクロン単位で皮膚を撫でる。
切開ではない、傷を残さぬ針路を導いてゆく……。
「……さあ、死神に捉われた貌の呪縛を断つぜ」
その言葉とともに、メスは沈黙を裂いた。
室内の空気は、誰も息をすることすら忘れるほどに張り詰めていた。
そして阿羅業の手から放たれる一太刀が――少女の生と死の境界を揺さぶる光となった。
無影灯の白光の下、阿羅業神醫の指先は一切の迷いを見せなかった。
極細のメスでわずかな皮膚の入り口を作り、針を滑らせる。
そこから幻の糸――アルヘンティナ・ジゼルが、静かに皮下へ吸い込まれていく。
糸は月光を飲み込んだように艶やかに震え、肉を裂かずに走行を変えた。
頬の筋肉を微妙に引き、目尻の角度をわずかに改める。
皮膚は切られず、縫い目も残らない。
だが、貌の印象は確実に、少しずつ変貌を遂げていった。
呼吸のリズムに合わせるように、阿羅業神醫は針を進めた。
一本。
また一本。
まるで運命の糸を編み直すように、阿羅業の手は寸分の狂いもなく動いた。
片山は煙草を握りつぶし、吐き捨てるように呟いた。
「……これが、貌を盗む業か」
丈二は巨体を揺らし、思わず声を漏らした。
「魔法……いや、外道の神業だわ……」
郭は祈るように手を組み、涙で視界を曇らせていた。
最後の結びが終わった時、阿羅業は針を置き、余分な糸を切り落とした。
「……終わった」
低く冷徹な声が室内を貫いた。
ガーゼを外し、無影灯の下に晒された娘の貌。
そこにあったのは――さっきまでの黄金比の女神ではなかった。
輪郭がわずかに変わり、目尻が柔らかく下がり、頬の陰影が異なる。
その変化は決定的であった。
誰も、これが郭の娘だとは気づかないだろう。
少女はゆっくりと瞼を開き、鏡を見つめた。
「……私じゃない……」
阿羅業は冷たくも静かに応えた。
「死神に顔を覚えられた者は、生き延びられない。だが今のお前は“誰でもない”。だから、生き延びられる」
郭の嗚咽が室内に落ちた。
「……ありがとう……。これで、この子は……」
片山は煙草に火を点け直し、短く言った。
「――命を繋ぐためなら、貌なんぞ何度でも盗めばいい」
丈二は肩を揺らし、大きく笑った。
「死神も騙されるわねェ……アタシら凶賊医局にゃ似合いの芸当だわ」
阿羅業の目は氷のように冷たく澄み切り、ただ冷徹に光っていた。
「……これが俺の業だ。貌を変え、命を延ばす――それが“神醫”と呼ばれる所以だ」
無影灯が静かに消えた。
そこには新しい貌を与えられた娘と、罪の境界を踏み越えた男たちの影だけが残っていた。




