第21話 医療崩壊都市・トキソイドクライシス 16
刃が最後の壊死片を削ぎ落とした瞬間、創部から新鮮な血が滲んだ。
膿の臭気は消え、代わりに鉄の匂いだけが室内を支配する。
阿羅業はメスを置き、滅菌ガーゼで創を覆った。
「メトロニダゾール、もう一本流し続けろ」
短く冷たい指示が飛ぶ。
透明な滴が点滴ラインを伝い、静脈へと落ちていく。
胸郭の揺れ動くリズムから、モニターの警報を発生させていた不整な鼓動を少しずつ本来のものに変わりつつあるのがわかった。
やがて――患者の痙攣は次第に収まり、弓なりに反り返っていた背筋が沈んでいった。
顎の震えが止み、人工呼吸器のリズムと呼吸が同調していった。
モニターの波形が、洞調律で流れ出す。
静かに整った波形を描きだし、赤い警報灯が沈黙する。
沈黙の中に、全員が患者の規則正しく上下に動く胸郭を凝視した。
丈二が大きく息を吐いた。
「……峠は越えたわね」
片山は、トントンと肩を叩いた。
「まだ油断はできねえ。だが……死神の手は一度、振り払ったな」
阿羅業神醫は血に濡れた手袋を外し、無言で腰を下ろした。
その顔は疲弊を滲ませながらも、氷のように冷静だった。
「今日は助けられた。だが……、次に来る患者には――もう、闇の業しか残されていない」
ICUの空気はまだ緊張に満ちていたが、救いはその中に確かにあった。
死の淵から引き戻した命のぬくもりと、そして、闇の薬と外道の技術が生んだ、かすかな光。
絶やしてはならない温もりと光であった。
*
微生物学教室附属秘密研究棟の人影の絶えた廊下の奥、鉄扉で封じられた古文書室。阿羅業はそこへ静かに戻ってきた。
破傷風患者の救命処置を終えたばかりの彼の手には、まだ消毒薬の匂いと血の感触が残っていた。
しかしその手はためらいなく、古い紙束を広げた。
机に並べられたのは、戦中に記された旧日本軍「防疫給水部隊」の実験記録。
黄ばんだ紙面には、毒素投与の量、痙攣発作の発現時刻、死亡確認の文字が淡々と記されていた。
それは、生命蹂躙の記録だった。
阿羅業は無言でページを繰った。
目に映る文字は、先ほどまでICUで目にした患者の苦悶と重なっていく。
時代を越え、死の無念は変わっていなかった。
背後の扉が軋み、白髪の影が立った。
位田餓鬼教授だった。
「……君のおかげで、あの患者は生き延びた」
教授の声は低く、掠れていた。
阿羅業は顔を上げず、ただ記録の文字を睨み続けた。
「……毒素を産み出す源を断たねば、宿主の死は防げない。何処でも、理屈は同じだ」
教授は机に近づき、古びた紙束に目を落とした。
そこには、自分が若き日の見習い士官の一人として触れていた、抹消できない罪の証拠が眠っていた。
「……君は患者を救った。だが、実験台に使われた犠牲者たちをわしは救えなかった。この記録を、全て廃棄せよと命じられた時、火にくべる手が震えて、できなかった。あれから80年……わしは、この証拠と共に老いた」
阿羅業は静かに視線を上げた。
瞳は冷たくも、どこかに深い哀惜があった。
「教授……あんたが焼かなかったから、戦争犯罪の証拠は黙らせられずに残った。
犠牲者は声を上げられないが、この資料は叫び続ける。同じ過ちを繰り返してくれるなという提言として……」
位田の眼に、潤む光がみえた。
「……ありがとう。君に言ってもらえるとは思わなかった。そろそろ、わしも旅立つことになろう。この記録を君たちに託すことが出来て、安心して眠ることができる」
研究棟の窓の外には、月光が差し込んでいた。
白銀の光は、隠されていた戦争犯罪の闇を照らすように紙面に落ち、二人の影を長く伸ばしていた。
二人は 押し黙った。
その沈黙は、過去と現在をつなぐ鎮魂の祈りであった。




