第18話 医療崩壊都市・トキソイドクライシス 13
微生物学教室の奥、薄闇に沈む古文書室。
阿羅業神醫は顕微鏡を片目に、黄ばんだ書類を繰っていた。
戦中に旧陸軍が残した「人体実験記録」。
ペスト、コレラ、破傷風――頁に記された数値の裏には、数えきれぬ人の呻きと断末魔が染みついていた。
大日本帝国陸軍防疫給水部の軍医が、行ったとされる非人道的、人体実験を詳細に記した実験ノートと論文、そして、無数の顕微鏡スライド。
「……彼らの死は終わりではなかった。記録となって残る。残された記録は、次の世代に引き継がれなければ……、かつての忌まわしい記録をなかったことにしたい連中から、俺は彼らの記録を守ってやらなくてはならん」
阿羅業が低く呟く。
その声に応えるように、ドアがノックされた。
やや強引なノックだった。
「……いるぜ」
扉が開き、煙草の煙をまとった片山が先に姿を見せ、続いて巨体の赤嶺丈二が肩を揺らして入ってきた。
二人とも、闇に取りつかれた気を背負っている。
「阿羅業、ちょっと頼みたいことがある」
片山の口元は笑っていない。
丈二がどさりと卓に何かを置いた。
「ねえ見てよォ、カムイちゃん。今夜の目玉商品。ジャーン!」
箱の蓋を開けると、中には月光を溶かしたような艶を放つ繊維の束。
宝石よりも妖しい輝きを放ち、空気まで震わせるような存在感。
「アルヘンティナ・ジゼル……7ー0」
阿羅業の目が一瞬、釘付けになった。
丈二は胸を張った。
顕微鏡の光で曇っていた瞳が、雷に打たれたように見開かれる。
「……馬鹿な……幻の手術糸だぞ。アンデスの高山にしか生息しない蔓草からしか作れない、十年に一度、市場に出るかどうか……」
指先でそっと触れた瞬間、糸は絹よりもしなやかで、かつ鋼鉄のように強靱な感触を与えてくる。
阿羅業の喉が、ごくりと鳴る。
「まさに、俺を釣る糸か……」
丈二はにやりと笑って言った。
「でお願い。ある美女の顔を"ちょっとだけ"変えてほしいの。裏の報酬は、これ」
片山が煙を吐きながら渋く言う。
「要は、闇の在庫でな。お前に手術を頼む報酬だそうだ。闇の薬屋の依頼だ。……だが、下手をうつと、命に関わる。やるか、やらんかはお前に任せる」
阿羅業はしばらく黙ったまま二人を見た。
片山が横で灰を落とし、低く付け足す。
阿羅業は黙ったまま糸を凝視した。
指先で巻き取ると、月光のような光沢が指の骨に食い込むように輝く。
「……この糸で縫えば、確かに"貌"を変えられる。跡も残さずに、だ」
「正規ルートには乗らん代物だ。残るのは裏市場だけだ。……やるのか、やらんのか」
しばしの沈黙。
やがて阿羅業は、顔を上げた。
その眼には、古文書を読む時の陰鬱ではなく、外科医としての冷たい決意が宿っていた。
「……面白い。久しぶりに、俺の技を震わせる素材だしな」
丈二は巨体を揺らして拍手した。
「やだァ、カムイちゃん、素直でいい子! やっぱり筋肉より、アンタの技のほうが役に立つわねェ」
阿羅業は軽く鼻で笑った。
「筋肉で糸は縫えんからな」
古文書室の重苦しい空気に、わずかな笑いが溶けた。
だがその糸が、これから誰の顔を変え、どんな運命を呼ぶのか――
三人の誰も、まだ知らなかった。
歴史の罪を凝視していた目で、阿羅業は今度は眼前の生々しい闇を凝視する。
「……忌まわしい過去に塗れた俺に、さらに忌まわしい手術をさせるってわけだな」
丈二がにやりと笑う。
「でもね、阿羅ちゃん。世の中は不思議なもんで、命を救うためには、忌まわしいミッションもこなさなけりゃいけないこともあるんじゃないの?」
片山は灰を落とし、短く言った。
阿羅業は小さくため息をつき、顕微鏡の電源を落とした。
「……まぁ仕方ねえ。闇と闇を掛け合わせて、光が残るならな……」
机上の記録と顕微鏡スライドを静かに片付けながら、彼は付け加えた。
「……だが覚悟してもらおう。俺の手にかかれば、闇はさらにその罪深さを増す」
丈二は嬉しそうに拍手をした。
「やだわァ、やっぱり頼りになるのはアンタしかいないのねェ」
片山は煙草を咥え直し、灰を弾いた。
その灰は、古文書室の闇にゆっくり落ちていった。
緊急事態を告げる内線電話が鳴った。
「ICUに急変患者! 搬送中の破傷風患者が痙攣発作!」
阿羅業は書類を閉じ、無言で立ち上がった。二人の方をみた。
「お前らも来るんだろ?」
片山も丈二も頷いて、席を立った。
白衣の裾が、煤けた研究室の床を払った。