第16話 医療崩壊都市・トキソイドクライシス 11
柔らかい声が迎えた。
「いらっしゃいませ。滋養強壮ですか? それとも……夜のお力添え?」
郭英志――志那寅薬舗の店主。
鈴の音とともに現れたのは、痩せぎすの男だった。
割烹着に白衣を羽織り、眼鏡の奥には柔和な笑みを貼り付けている。
だが、穏やかさは表向きの仮面にすぎなかった。
頬は削げ落ち、皮膚は黄ばんで蝋のように乾いている。
目尻から頬にかけて深い皺が刻まれ、その影が笑みを不気味に歪めていた。
指は細く長く、骨ばってへバーデンの節が異様に突き出している。
薬草の染み込んだ匂いと、腐った肉のような生臭さが指先から漂っていた。
眼鏡の奥の瞳は、薄い水銀の膜を張ったように光を失っていたが、光の届かぬ底に爬虫類の黒い点が潜んでいた。
相手を見つめるとき、瞳孔がわずかに蠢き、まるで顧客の血管を覗き込むかのように脈動を読む。
笑うと、口角だけが吊り上がり、歯列の隙間から黒ずんだ歯茎がのぞいた。
歯は黄ばんで欠けているが、隙間に溜まる闇がむしろ刃のように鋭さを演出していた。
背筋は折り目正しく伸びているのに、肩だけがやや前に落ち、まるで常に"何かを隠している"ような姿勢を崩さない。
薬舗の主人らしい清潔感を装いながら、全身からは不可解な疲弊と毒気が滲んでいた。
暖簾の奥から漂う薬草と乾物の匂いに混じり、郭の衣からは消毒液と腐敗した血のような臭気が漂っていた。
その匂いを嗅いだ瞬間、客は無意識に背筋を強張らせる。
それが郭英志の纏う"闇"だった。
丈二が巨体を揺らして笑った。
「アタシに精力剤なんていらないわよォ。筋肉だけで夜も日も乗り切れるんだから?」
郭は口角をわずかに吊り上げた。
「そうでしょうとも。……けれど筋肉は、ウイルスやら菌には勝てません。巨像でも一寸の寄生虫に命を奪われることも……。お二人が探しているのは、きっと別の"薬"ですね、無いと命に係わるような……」
片山は目を細め、低く言った。煙草をくわえ、灰を落とした。
「……話が早いな。俺たちが欲しいのは、まさにその命をつなぐ薬だ。表では手に入らなくなったやつ」
丈二は巨体を揺らし、ニヤリと笑った。
「そそ、筋肉があれば夜も日も持ちこたえられるけどね。アタシらが欲しいのは……もっと"深い薬"」
郭の笑みは深まった。
「命をつなぐ薬……なるほど。正規の販路が塞がれた時、人は必ず裏口を探す。ここは、その裏口にございますから」
郭は冷蔵庫の奥から小瓶を取り出した。
ラベルは剥がされ、ただ透明な液体が揺れている。
「ラベル?ロット番号? そんなものはただの飾りです。効けば光、効かなければ闇。それが薬というものですよ」
丈二は手を叩き、愉快そうに声を上げた。
「まぁすばらしい!気に入ったわ! ここなら魔法の"裏の力"が手に入りそうねェ」
片山は煙を吐き、郭を射抜くように見た。
「……裏口からでも、命に届くなら構わない。あんたなら、俺たちが何を欲しがってるかもうわかってるだろう?」
「無論。今、表の現場で何が起こっているか、何が起きそうか、目を利かさなければ、手前どもは首をくくるしかないですからな」
取り出した小瓶をもてあそびながら、郭はにやりと笑った。
「あんたたちは、これが欲しいのでしょう?抗破傷風人免疫グロブリン1500国際単位です」
丈二の笑みが凍り、片山の眼がわずかに光った。
それは、表の医療が決して手を出さない"裏社会の救命"だった。