第15話 医療崩壊都市・トキソイドクライシス 10
歌舞伎町五丁目、居酒屋 ろくでなしの奥座敷。
今夜の宴には、医局長片山も参加していた。
片山は煙草をふかし、赤嶺丈二はジョッキを握りつぶす勢いで泡を飲んでいた。
向かいに座るのは、医薬品卸の奈々男。
顔を赤らめ、汗をかきながらグラスを握っている。
「……だから言ってるっしょ、正規の卸からはもう出てこねぇんすよ。でも……でも!神田佐倉町……“志那寅薬舗”って薬屋があるんすよ。
表は漢方屋ですけど、裏じゃ……正規に出せない薬をさばいてる」
片山の目が細く光った。
「志那寅……聞いたことがあるな。裏口専門の薬屋か」
丈二が手を叩いて笑った。
「なァんだ、薬舗っていっても、どうせ裏は“闇のドラッグストア”ってわけね? アタシの筋肉ドーピング剤もそこにあるかしらァ?」
奈々男は顔を引きつらせて言った。
「……どんな薬でも揃うのは確かです。期限切れでも、ロットなしでも……港にコンテナで入ったブツでも……」
片山は煙を吐き、にやりと笑った。
「……やっぱり命の綱の在庫は、畳の下じゃなくて、闇の倉庫に眠ってるってことか」
丈二は大きく肩を揺らし、楽しそうに言った。
「決まりねェ。次の飲み会は、美倉町の“薬屋買い出し見学ツアー”の後よ?」
*
翌朝、神田佐倉町。
戦前からの問屋街は、再開発の波に取り残されていた。
昼は古いビルの軒先に紙箱や麻袋が積まれ、薄暗い倉庫の隙間からは乾いた埃と薬草の匂いが漂う。
夜になれば人通りは途絶え、裸電球だけが路地を照らし、向こう筋の国道を走るトラックの唸りが響くだけだ。
アスファルトはひび割れ、雨水が黒い水たまりとなって溜まっている。
ガードレールの隙間には古新聞が吹き寄せられ、排水溝からは下水の湿った臭気が立ち上る。
路地裏では野良猫が魚の骨を漁り、時折、カラスが古びた看板の上から鋭く鳴き声を落とした。
かつては薬種問屋や雑貨商がひしめき合い、荷車が絶えず往来していた。
今はその多くが姿を消し、残ったのは色褪せた木看板と、どこか怪しげな店ばかり。
表向きは漢方や古道具を扱うが、裏では何が動いているのか、誰も確かめようとしない。
赤嶺丈二の巨体がアスファルトを軋ませ、片山秀人は煙草を指に挟んで歩いていた。
二人の靴音だけが、路地の奥に反響する。
「……ねえ、片ちゃん。ここ、まるでクジラの腹の中じゃないの」
丈二がオネエ口調で笑った。
「息をするだけで錆と黴の匂いが肺に張り付くわ」
片山は応えず、先を見据えて歩みを止めた。
そんな寂れた路地の一角に、煤けた木製の看板が揺れていた。
志那寅薬舗。
暖簾はくすんだ赤で、陽に焼けて文字は半ば消えかけている。
表には乾燥させた薬草や古い秤が並び、古色蒼然とした雰囲気を醸しだす。
鼻を突く空気に、漢方薬のような甘さと地下に潜んだ黴臭さが入り混じっていた。。
この店の奥に何が眠っているのかを知っている人間はすくない。
片山は煙を吐き捨て、灰をアスファルトに落とした。
「……ここだ」
丈二は巨体を揺らし、暖簾を指でつまんだ。
「さァて、命の綱がどんな顔で並んでるのかしら……」
鈴の音が鳴った。
その瞬間、街の闇に引き込まれるように、二人の背は暖簾の奥へ消えていった。