第14話 医療崩壊都市・トキソイドクライシス 9
歌舞伎町五丁目、居酒屋「ろくでなし」に赤嶺丈二はいた。
奥座敷は、煙草の煙と焼き鳥のタレの焦げる匂いでむせ返っていた。
業者どもの笑い声が飛び交い、ジョッキがぶつかり合う音が絶えない。
だが、その片隅だけは妙に静かだった。
ジョージは、胡座をかき、ビールを舐めるように口に運びながら、獲物を狙う獣の眼で鈴木奈々男を見据えていた。
奈々男は焼酎をあおりながらも、視線を泳がせ、喉の奥に言葉を呑み込んでいる。
「……ジョージ先生、ここで喋る話じゃないっすよ。風の音だって耳を持ってる」
ジョージは笑った。
笑みは甘いが、指先に握った唐揚げの骨を握り潰すと、乾いた音を立てて砕けた。
「なァ奈々男ちゃん。アタシの筋肉は嘘をつけないのよ。……黙ってりゃ優しいけど、怒らせると勝手に動いちゃうの」
奈々男の額に汗が滲んだ。
周囲の喧騒とは裏腹に、この座敷だけは氷の檻のように冷たかった。
「……返品の山。あれは、倉庫の奥で眠ってるんすよ。いや、眠らされてるって言ったほうが正しいか……」
ジョージはジョッキを傾け、泡を舌で払った。
「眠りはいつか覚める。ブツはどこへ流れてるの?」
奈々男は唇を噛み、やがて観念したように吐き出した。
「……ロット番号削られたワクチンにトキソイド。ラベルも剥がされ、どこの製造か分かりゃしない。でも、現場はそんなこと気にしちゃいない。効くか効かねぇか、それだけで手が伸びるってもんで」
ジョージの目が細く光った。
「へェ……じゃ、その"効くか効かないか"の代物、どこから持ってきた?」
奈々男の声は震えていた。
「……外国からっす。八つ目が危ないってんで、儲けに目ざとい現金問屋が手をまわしてます。コンテナで港に入って、帳簿には残らない。誰も追えないし、追おうともしない」
ジョージはにやりと笑い、卓上に身を乗り出した。
「いい子ねェ。やっぱりアンタは話せば分かる子よ。さァ、もう一杯いきましょうか。命より高ぇ酒をね」
奈々男は乾いた喉で焼酎を流し込みながら、背筋を冷や汗で濡らしていた。
この夜、自分が口にした言葉が、どんな業火を呼ぶのかを、まだ理解していなかった。
*
四内医局、赤嶺丈二がズカズカと医局長室に踏み込んできた。
身体中からまだ焼き鳥の焦げた臭いが発散していた。
「……片ちゃん、ちょっといいかしら」
煙草をふかしていた片山医局長は、目だけを動かして巨体を見た。
「なんだ、ジョージ。昨夜は遅かったろ」
丈二は椅子を引き、卓に腰を乗せるようにして身を屈めた。
「マルケンの奈々男ちゃんから、いい話を仕入れてきたのよ」
片山の眉がわずかに動いた。
丈二は声を落とし、ニヤリと笑った。
「並行輸入ワクチン・トキソイド、ロット番号を削られた薬、倉庫の奥で眠ってるってさ。正規ルートにはながれてこない闇商品。しかも、コンテナで港に入ってる外国産なの、おーほっほっほ」
片山は煙を深く吐き、灰を落とした。
「……つまり、帳簿にのらないブツが、裏で回っていると」
「そういうこと。効くか効かねぇか、それだけで現場は買う。で、誰も追わない。深入りしたら首が飛ぶからねェ」
片山は長く黙った。
窓の外では夕陽がビルの隙間に沈み、光が血のように赤く医局を染めていた。
「……闇の薬か。だが、死にかけた患者にとっては、それが唯一の救いになることもある」
丈二は笑った。
「筋肉じゃ菌は殴れないからね。だからこそ、アタシらが動く意味がある」
片山は煙草を揉み消し、目を細めた。
「裏の薬か……どこかで必ず、誰かが握ってるということか。知りてえな、そいつのこと」
その声には、医師というより盗賊の響きがあった。医局の空気が、一瞬にして冷たい鋼の匂いに変わる。