第13話 医療崩壊都市・トキソイドクライシス 8
埼京医大の正門に掲げられた銘板は、今日も陽の光を浴びて白く輝いている。
だが、その背後に眠る歴史を知る者は少ない。
戦時下──。
この大学は「軍医学校」の外郭として拡張され、細菌兵器研究の拠点の一つであった。
戦後、進駐軍により研究設備の多くは破壊された。
だが一部の施設は、表向き「実験用研究棟」として名を変え、扉を閉ざして、静かに息を潜めて生き続けた。
それが、微生物学教室附属秘密研究棟。旧陸軍時代から残る製造施設だった。
外観は外観は老朽化したコンクリートの箱を彷彿とさせる研究棟にすぎない。
窓は錆びつき、廊下の床板はきしんでいた。
だが扉の奥に足を踏み入れた瞬間、別の世界が現れる。
内部は、半世紀を越えてもなお、GMP(医薬品及び医薬部外品の製造管理及び品質管理の基準に関する省令の適合基準)を満足させる設計が保たれていた。
GMPに準拠するには、施設(ハードの要件)、無菌環境、クリーンルーム(ISOクラス5から8)での作業、空調・HEPAフィルターによる微粒子制御。ゾーニング、清浄度ごとに部屋を区切り、人や物の動線を分離。交差汚染を防ぐこと。
装置管理として培養器・バイオリアクター・充填機は滅菌・定期校正が義務づけられている。
モニタリング、温度・湿度・差圧・微生物数をリアルタイムで監視。記録は改竄不能の形式で保存すること。
入退室管理、人員はガウニング(無菌衣着用)を経てエアシャワーを通過。指紋・カードキーで入室者を限定すること。
無菌室、滅菌ライン……すべてが戦後80年を経てもなお、GMP適合基準を満たす"眠れる巨人"は沈黙を守っていた。
ここの極秘重要資料室には、かつての日本陸軍防疫給水部隊の研究者による非人道的行為としか言いようのない秘密研究の証拠が眠っている。
その一部はGHQに供出されたが、それ以外のほとんどの人体実験データを記録した論文、標本、実験試料の類がこの場所に秘匿されているという。
それら、供出を免れたデータは旧日本軍の闇の証拠であり、誰も触れてはならぬ遺産だった。
誰も語ろうとしない歴史が眠っている。
かつて、細菌兵器研究の拠点にされた。ペスト、コレラ、破傷風……そして名前を口にすることすら憚られる、人を人と見なさぬ病理。
戦後、進駐軍により施設の多くは焼かれ、書類は押収され、表の歴史は闇に葬られた。
だが――いま片山に必要なのは、そんなものではなかった。
必要なのは感染症と闘うための薬品の入手がままならなくなった今、自分たちの力で闘うための施設だ。
夕闇迫る基礎医学棟。
片山秀人は煙草をくわえ、古びた鉄扉を押し開けた。
中には、骨ばった白髪の男が顕微鏡に身を屈めていた。
微生物学教室の主、位田餓鬼大輔教授。
旧軍時代から、この施設を「守り続けてきた」亡霊のような存在。
「……片山か、四内の」
掠れた声が実験室に響いた。
片山は躊躇なく歩み寄り、机の端に布袋を置いた。
札束の端が覗き、鈍い音が室内に響いた。
「教授。この施設で破傷風トキソイドを作ってくれ。患者を救うためだ」
位田餓鬼の目が細く光った。
「……君は知っているな。この部屋が何を孕んでいるか」
片山は煙を吐き、冷ややかに答えた。
「かつてこの国が、共存共栄とうそぶきながら殺戮に狂奔していた時代の亡霊。だが、我々に必要なのは過去じゃない。明日の患者を救う薬品だ」
長い沈黙。
蛍光灯の下、教授の顔は骸骨のように見えた。
やがて彼は、重い吐息と共に頷いた。
「……いいだろう。だが下手を打つとお前、二度と陽の当たる場所には戻れんぞ」
片山は灰を落とし、目を細めた。
「別に構わない。この難題を克服するために、俺たちに許されている進路は悪の道だけだ」
教授はわずかに笑った。
「ならば、この施設を動かしてやろう。80年眠り続けた"闇の工場"を」
照明が一つ、また一つと灯り、培養装置が低い唸りを上げ始めた。
闇に封じられていた巨人が、再び息を吹き返す。