第12話 医療崩壊都市・トキソイドクライシス 7
午後のカンファレンスが終わった医局は、戦場を通り抜けた後のように妙に静まり返っていた。
その静けさは、疲労と無関心が溶け合った、だらけた沈黙だった。
机の上には、飲みかけの缶コーヒーや半分溶けたアイスバーが散乱、放置されている。
片方の椅子には、若い研修医が白衣を脱ぎ捨て、背もたれに体を沈めてスマホをいじっていた。
別の席では、助手の一人が実験用のマウスのケージを引っ張り出し、ピーナッツを与えて笑っている。
「ほら、こいつのほうが俺らより元気だな」
そんな声に、誰かが気の抜けた笑いを返す。
赤嶺丈二は、冷凍庫から取り出したチョコモナカアイスをかじっていた。
巨体に似合わぬ甘党ぶりで、白衣の胸ポケットには常に駄菓子が突っ込まれている。
「やっぱり甘いもん食わないと、筋肉が拗ねちゃうのよね」
そう言って肩をすくめると、医局秘書たちの間にまた小さな笑いが走った。
医局長の片山はソファに寝そべり、週刊誌を顔にのせて居眠りを決め込んでいた。
灰皿には吸い殻が山のように積まれている。
「……これが命の砦の中枢かよ」
片山はしれっと呟いたが、誰も聞いていない。
窓の外には夕暮れが迫っていた。
鈍色の光が医局の中に流れ込み、漂う倦怠の影をさらに濃くした。
この、だらけきった空気の奥に、嵐の気配を感じ取る者はまだ殆どいなかった。
トキソイド危機の報せが、もうそこまで迫っていたにもかかわらず。
だらけた空気に満ちた第四内科医局。
アイスの棒をゴミ箱に放り投げる音が響いた瞬間、内線電話のベルが唐突に鳴り響いた。
――けたたましく、居眠りを許さぬほどに。
片山医局長は、顔にのせていた週刊誌を乱暴に払いのけ、受話器を掴んだ。
「……第四内科、片山だ」
電話口の声は、切羽詰まっていた。
「至急の伝達です。厚労省から通達がありました。八つ目科学の生産ライン停止に伴い、破傷風トキソイドの市場供給が一時停止……在庫の追加配分は"未定"とのことです」
医局内の空気が凍りついた。
赤嶺丈二がアイスの棒を握ったまま振り返る。
「……ちょっと待ちなさいよ。それってつまり、患者に打つトキソイドが……」
「もう、一本も残っていない」
受話器を握る片山の手が、白くなるほど力を込めていた。
研修医の白子が、マウスのケージを押しやりながら呟いた。
「……破傷風って……あれ、下手したら死ぬ病気ですよね……」
片山は黙っていた。
だが、その沈黙は医局員全員の背に重くのしかかった。
赤嶺が立ち上がる。
その巨体が白衣をきしませ、低い声が医局に落ちた。
「片ちゃん……備えの冷蔵庫、開ける時が来たんじゃない?」
片山は短く息を吐き、受話器をゆっくりと置いた。
沈みきった医局の空気に、鋭い緊張が走った。
今までの倦怠は霧散し、戦場の前の静寂へと変わっていた。
立ち上がる片山。
「俺は今から管理人の位田餓鬼教授にかけあってくる。ジョージ、お前のコネで野良で出回っているワクチンとトキソイドを。可能な限りかき集めてくれ」
「あいよ」
二人は医局を出るとお互いの目的の地に向かって進みだした。