第10話 医療崩壊都市・トキソイドクライシス 5
湾岸倉庫の奥の赤い絨毯の上で、葉烈峰は紫煙を吐き出した。
その目は、毒蛇のように鋭い光を放っていた。
専務・泡渕は背筋を強張らせながら、その視線を受け止める。
汗が額を流れ落ちる。
葉は低い声で切り出した。
「泡渕、お前はまだ“金の匂い”を知らんようだな。工場を差し出すだけが取引じゃない。もっと大きな獲物がある」
泡渕は眉をひそめた。
「……大きな獲物?」
葉は懐から書類を取り出した。
白い紙に刻まれた数字の列──日経225オプション。
「これを仕入れておけ。売り建てだ。M計画が成功すれば、日経平均は必ず暴落する」
泡渕の喉が音を立てた。
「……暴落……」
「そうだ。病は人を殺すだけじゃない。市場を殺し、国家を麻痺させる。暴落した瞬間に買い戻せば──お前は億万長者だ」
葉の声は氷のように冷たく、だが甘美だった。
その言葉は、泡渕の耳を焼き、胸の奥に黒い火を灯した。
「億万長者……」
呟きは震えていた。
恐怖と欲望が混じり合い、背骨を這い上がる。
葉は薄く笑った。
「金も、女も、権力も──すべてこの指先で掴める。だが条件は一つ。お前は俺の指示に従う。八つ目科学は、もはや我々のものだ」
泡渕は拳を握りしめ、やがて静かに頷いた。
「……承知しました」
倉庫に風が吹き込み、鉄骨が低く軋む。
その音は、未来の日本の破滅を告げる鐘のように響いていた。
泡渕の眼には、もう専務としての理性は残っていない。
ただ、欲望に支配された人間の眼だけが、そこにあった。
*
翌朝、八つ目科学本社。
ガラス張りの高層ビルの一室、専務室のブラインドは固く閉ざされていた。
泡渕専務は机に広げたノートパソコンを睨んでいた。
ディスプレイに映し出されたのは、証券会社のディーリング画面。
数字が走り、赤と緑の矢印が瞬時に上下する。
指先が震えていた。
「……本当に、暴落するのか……」
昨夜の葉烈峰の声が、耳に焼き付いていた。
「M計画が成功すれば、日経平均は必ず落ちる。その時に買い戻せ。お前は億万長者だ」
泡渕は喉を鳴らし、キーボードを叩いた。
「……日経225、プットオプション……売り建てだ」
電子音が鳴り、取引が確定する。
ディスプレイに、膨大な数字が並んだ。
会社の資金から流用した金。
その瞬間から、八つ目科学の未来は、市場の暗黒に賭けられた。
背後の窓から、朝の光が差し込む。
しかし泡渕の顔は光を拒み、影に沈んでいた。
彼は眼鏡を押し上げ、声にならない笑いを漏らした。
「……これで俺は、奴らの仲間だ」
胸の奥には恐怖もあった。
だがそれを凌駕するのは、欲望の熱だった。
沢山の人が死に、都市が混乱し、株式市場が崩れ落ちる──。
そのすべての上に、自分だけが黄金を握って立つという幻影。
画面の数字がまた動いた。
泡渕は両手を握りしめた。
「勝つぞ、勝つぞ、勝つぞ……」
オフィスの静寂に、彼の囁きが溶けていった。