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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

姉に奪われた初恋は、親の道具だった私の名を呼ぶ


「受け取ってほしい。僕の太陽」

「……は?」


 王宮の華やかな大ホールの一角。


 美丈夫の騎士が、堂々たる体躯をかがめ、ひざまずいて花を捧げていた。


 私に。


 な、な、なぜ!?


 驚愕する私とは対照的に、美しい銀髪のその騎士は、穏やかな表情で、神秘的で強い意思を宿したトパーズの瞳をまっすぐ私に向けていた。


 日に焼けた健康的な彼の肌と、口元に白く輝く歯、そして私に捧げられた大きな黄金色の花。


 そのコントラストは、ひときわ美しかった。


 ――あの、人違いでは?


 そう言いたいが、喉がカラカラで声が出ない。


 私はヴァイオレット。二十歳。


 伯爵家の生まれだけど、今は小さな研究所に勤めている。花にまつわる仕事に没頭するだけの、何の取り柄のない地味な女だ。


 ここでは今、華やかな戦勝記念パーティーが催されている。けれど、私は自分の意思で来たわけではなかった。


 私の気持ちなど一度も顧みたことのない父に命じられて来たのだ。


 そんな私が、なぜか謎の騎士にひざまずかれ、国中の貴族たちの視線を一身に浴びていた。


 普段の動きやすい仕事着に慣れきってしまったせいで、苦しく感じるドレスが、汗でびっしょりになりつつある……。


(綺麗な花。ひまわりよね……?)


 騎士が捧げる花の、少し甘く、そして瑞々しい草木の香りを感じながら現実逃避しそうになる。


 それにしても、なんて立派な殿方なのだろう。


 重厚な騎士服をまとい、その服に負けないどころか、むしろ突き破っちゃうんじゃないかというほどの、たくましい体躯に見とれてしまう。


 国王陛下から授けられたばかりであろう大きな金の勲章と、彼の銀髪が、シャンデリアの明かりを受けてキラキラと美しく輝いていた。


 彼の柔らかな笑顔には清々しさ、先ほど発した低い声には大人の男性の色気。


 こんな紳士、国中の女性が放っておくわけない。


(やっぱり人違いだわ……)


 だって私は、一応伯爵家の娘でも庶子。異母姉と間違えられたかとも一瞬思ったけど、美人の彼女と地味な私は全く似ていない。


(まずいわ……)


 男性経験なんてない私は、過呼吸で倒れそうになっていた。そんな私が状況を打開するため、かろうじて言えたこと。それは――


「あ、あの、どちらさまですか?」

「あれ?」


 騎士様はきょとんとした。




◆◇◆◇◆◇


 先月のこと。


「あっ!」


 研究所での仕事が終わり、寮に帰ってきた私は慌てて駆け出す。門の前で、寮母さんが顔をしかめながら、荷物をえっちらおっちらと運んでいたのだ。


「だ、大丈夫ですか!?」


 寮母さんが腰を痛めていることを私は知っている。


「あら、ヴァイオレットさん!」

「私が持ちます!」


 オゴッ!


 代わりに持った荷物が想像以上に重くて、後退りしそうになりながらふんばる。


「ふぅぬぬぬっ!」

「だ、大丈夫!?」


 逆に心配されてしまう私。


「え、ええ。だ、大丈夫です」

「貴族のご令嬢にこんなもの持たせられないわよ!」

「かまいませんわ」


 研究所で働いていたら、重いものを持つなんて日常茶飯事だ。


「ふん! よいしょっとおぅ!」

「ふふっ。ありがとう、ヴァイオレットさん」


 荷物を運び、どっこらせと置いて立ち上がると、寮母さんが苦笑していた。


「あ、そうだわ」

「どうされましたか?」

「ヴァイオレットさん宛に、お手紙預かっているの」

「えっ?」


 ――手紙。


 もしかしたら。


 レイモンド様からのお手紙かしら?


 ……しかし、もし期待が外れたら、ひどく残念な気持ちになってしまう。心の中で「無心、無心……」と唱えながら、部屋に一度戻った寮母さんを待つ。


「こちらよ。お仕事おつかれさま!」

「ありがとう存じます」


 寮母さんのいつもの優しい笑顔に癒やされながら、受け取った手紙をなるべく視界に入れないように素早く鞄に入れたとき、自分の荷物にふと気付いた。


「こちら、試作品なのですけど」


 そう言って寮母さんに差し出したのは、オレンジ色の花。


「あら素敵! マリーゴールドかしら? あ、でも、白い線も入ってて……。これは見たことないわ。珍しいわねぇ」

「実は、研究所で最近開発した花なんです」


 それは私が開発したばかりの「魔法花」。私が勤める「魔法植物研究所」では、魔法を使って花の新種を作っている。


 観賞用はもちろん、美容や健康効果のある新しい花を作り出そうと、日々奮闘中だ。


 マリーゴールドには元々、お肌のトラブルを軽減する効用がある。それにさらに、血流促進と鎮痛効果がある薬草を掛け合わせている。


「安全性の検査が終わりましたので、持ち帰ってきました。よろしければ、お部屋にお飾りください」

「え、いいの? とっても貴重なものなんでしょう?」

「かまいませんわ」


 寮母さんの痛み止めに少しでもなってくれたら、私も嬉しい。


「ありがとう!」

「どういたしまして。いつもありがとう存じます」


 寮母さんに花を渡して別れた後、そそくさと自室に入る。


 ガバッ。


 素早く鞄から手紙を取り出し、差出人を確認する。


 ……手紙には実家の封蝋が押されていた。


「家、か……」


 期待外れのがっかりどころではない。最悪だった。大きな溜め息をつきながら封を切る。


 手紙には、「家に直ちに帰ってくるように」とそっけなく書かれてあった。


「はぁ、帰らなきゃ……。嫌だな……」


 それから数日間、私は憂鬱な気持ちを引きずったまま、仕事をせねばならなかった。




 私はモールダン伯爵家の庶子として生まれた。平民の母は伯爵家のメイドをしていて、伯爵夫人が姉を妊娠中に私を身籠った。


 父は金銭を渡して母を実家に帰した。その後、母は私が七歳のときに流行り病で亡くなってしまった……。


 それから間もなくして私は、父の――モールダン伯爵家に引き取られることになる。


 生まれる前から捨てられたも同然だった私が、なぜ引き取られたかというと、私が「魔力持ち」だったからだと思う。


 魔力持ちの人間は比較的珍しい。庶子であったとしても、政略結婚の駒として利用できると父は考えた。


 また、伯爵夫人が、母と同じ流行り病で同時期に亡くなられていたことも、父の身勝手な判断を後押ししたのかもしれなかった。




「ごきげんよう」


 手紙を受け取った翌週。休暇が取れた私は、実家の屋敷に来ていた。


「ヴァイオレットお嬢様、おかえりなさいませ」

「久しぶりね。お父様はどちらかしら?」

「はい。ご主人様は、ただいま書斎にいらっしゃいます」


 久しぶりに会った執事と別れ、書斎へ向かう。


「ヴァイオレットです。失礼いたします」

「……入れ」


 部屋に入る。顔を上げた父はいつも通り不機嫌な表情だった。


「遅かったではないか。父が呼んでいるのに、何をグズグズしていた」

「……私にもお勤めがございます。呼ばれたからといって、すぐにお休みをいただける訳ではございません」

「生意気を言うな!」


 バァン!


 父が机を激しく叩きつけ、私は思わず目をつぶる。


「仕事というのはあれか、花だか何だかをいじくって色を変えるとか、そんなものだったな。何の役にもたたん! 心底くだらん!」


 大好きな仕事や花のことを罵倒され、涙が出そうになるが、ぐっと堪えた。


「お前を呼んだのは他でもない。今度、戦勝記念パーティーが開催されることは知っているな? 王家主催で参加必須だ。出ろ」


 わが国は、多くの国々が入り乱れて争う大きな戦に参加していた。七年間も続いたそれが先日、ついに終結したのだ。


「それともう一つ。お前の見合いを始める。まともに社交ができるようになったからな。この家のために、少しでも役に立て」

「……」


 予想していた中で最悪の話だった。


 私は今の仕事で、なんとか一人で生きていけている。何より、仕事が楽しい。しかし、父にとっての私の存在価値は、昔と何ひとつ変わっていなかった。


「お前が外に出ることを許していたのは、戦が続いていたからだ。だがそれも終わりだ。くだらない仕事をとっとと辞めて帰ってこい」

「……」

「これは伯爵家当主としての命令だ。わかったな!」


 取り付く島もなかった。




「あら?」


 うなだれて書斎から出た私は、派手に着飾った美人とばったり出くわす。


 ――異母姉だった。


「放蕩娘が里帰り?」

「……」

「くだらない仕事にずいぶんと夢中みたいだけど、一体この家に何の用よ?」

「……」


 私が貴族学校を卒業後に就職した魔法植物研究所は、歴史も浅く、予算も少ない弱小部門。しかし、わけあって花に魅せられた私にとっては最高の職場だ。


 就職を機に、家で居場所の無かった私は公営の寮に住んでいる。なので、家と距離を取り続けていたのは事実だけど……。


「そもそもお前に、貴族のはしくれとしての自覚はあるのかしら? なによ、その地味な服。平民と変わらないじゃない。恥ずかしくてしょうがないわ」


 私の簡素なワンピースをけなした姉は、豪華な赤いドレスを着ていた。


「……」


 この家は私が子供の頃は羽振りがよかった。しかし長引く不況で、今は火の車のはず。


 大丈夫なのだろうか?


 反応の乏しい私にいらついたのか、姉はさらに言い掛かりをつけてきた。


「もしかして、家を出たのはいいけどお金に困って、たかりにでも来たの?」

「……違います。お父さまが見合いをしろと」

「見合いぃ!? ハッ! お前みたいな地味な女、まともな相手がみつかるとは思えないわ! お父さまにこれ以上迷惑をかけないで頂戴」


 私のことを鼻で笑った姉はニッコリと笑う。


「私はね、名門の侯爵家の方とのお話が始まりそうなの。さすがお父さまよ! 早くお会いしたいわ!」


 社交が本格的に再開したら、美貌の姉は引っ張りだこになるのだろう。


「メイドの娘のお前なんて、この家に一生かかわらないで欲しいものね。あら、もうこんな時間! 穀潰しと話している場合じゃないわ!」


 今日は夜会の予定でもあるのか、姉は立ち去っていった。




 寮に帰る前に、わずかに残った気力を振り絞り、屋敷の自室に向かった。


 就職が決まったときに、逃げるように家から寮に移ったので、部屋に私物がほぼ残っているのだ。


「あの植物図鑑は手元に置いておきたいわ……」


 仕事を続けられないのなら、もう意味はないかもしれないけど……。


「え……?」


 自室だったはずの部屋の中を見て、私は愕然とした。


 そこには、姉のものと思しき衣服がぎっしりと詰め込まれていたのだ。通りがかった執事にたずねる。


「あ、あの、ここって……?」

「こちらの部屋は、ヴァイオレットお嬢様が移られた後、キャロリンお嬢様が使われております」


 やはり姉の物置になっていた。


「私のものは……?」

「申し訳ございません。キャロリンお嬢様のご指示で、こちらにあったものは、もう……」


 私の物はゴミ扱いされ、全て捨てられてしまっていた。




「う、ううっ……!」


 寮の部屋に帰ってくるなり、ずっと堪えていた涙が溢れ出した。


 身勝手な父に傲慢な異母姉。


 子供のころから何一つ変わっていなかった。でも、心底悔しいのは、彼らのことよりも。


 就職して社会に出て、少しは変わったと思っていた自分が、結局は何一つ言い返せない無力な人間だと、思い知らされたことだった。


 なんて私は弱いんだろう……。


 情けなくて、悔しくて。


 私はしばらく泣き続けた。


「……ダメよ」


 自分の頬を両手でぴしゃりと叩く。


「いつまで泣いていたって、しょうがないわ。何か手はないの?」


 しかし、どうしたらいいというのだろう?


 実家と絶縁する?


 いや、父が自分の「道具」をみすみす手放すわけがない。


 仮に強引に絶縁できたとして。私の職場は一応、王立の組織だ。家絡みのトラブルが問題視され、解雇なんてこともあり得るかもしれない。


 研究所の上司や先輩方は、新卒で入った私が珍しいのか、とても可愛がってくださる。しかし彼らに相談するには、あまりに私的なことだ。


「……」


 いつの間にか私は収納扉を開け、小箱を取り出していた。


 箱に詰められた、たくさんの手紙。


 ――私の宝物。


 生きてるって、私に感じさせてくれるもの。


 寮に移るときに持ってきて良かった。危うく捨てられるところだったのだから。


 取り出した手紙には、美しい文字で書かれた差出人名。


 ――レイモンド・グレンウィル。


 その名を指でそっとなぞる。


 優しくて……。楽しくて……。


 初恋の人――


 私は萎れた気持ちを、なんとか奮い立たせようとした。




 グレンウィル公爵家のレイモンド様とは彼が十六歳、私が十一歳の頃に初めてお会いした。


 そのときの私は、社交シーズンで連れられて訪れた、とある貴族の屋敷の庭で、一人ぼっちで泣いていた。


 姉とその友人から「家のお荷物」だとなじられ、なかなか泣かない私に飽きた彼女たちが去った後、私は一人で泣いていたのだ。


『……大丈夫かい? どちらのお嬢さんかな?』


 顔を上げると、ほっそりとした長身の、流れるような金髪をした男の人が立っていた。


 その真っ白な肌と青い瞳に、私は目を奪われた。


 まるでお母様に昔読んでもらった絵本に出てきたエルフみたいだ、と思ったことを今でも憶えている。


『……』

『びっくりさせちゃったね。僕はレイモンド。なにか悲しいことがあったの?』

『……』


 何も言えない私を心配そうに見る、優しげな瞳が印象的だった。


『つらいときは、無理して話さなくてもいいよ……。そうだ。泣いているお姫様のため、ここは一芸をお見せしよう』


 エルフみたいな男の人はそう言うと、目を閉じて何やら小声で唱える。


『よっと』


 途端に、目の前に光でできた、ちっちゃな花のようなものが現れた。


『わあ!』


 生まれて初めて目の当たりにした魔法に心底驚く。


『すごいわ……! たんぽぽね!』

『……はずれ』

『えっ?』


 いやでも。黄色いし、小さいし。


『ひまわりのつもりだったんだけどね……』

『ひま、わり……?』


 ひまわりって大きいよね?


 ひまわりの概念と、目の前のちっちゃな光の花とのギャップに混乱する。


『実はね、魔法はあんまり得意じゃなくてさ。イマイチな出来でごめんね』


 イマイチなんて、とんでもない。とっても素敵だわ。


 そう思った。


 いつの間にか涙が引っ込んでいた私は、慌ててカーテシーをした。


『わ、私、ヴァイオレットと申します。ええと、モールダン家のものです』


 家の名前を出すと、その男の人は驚いた表情を浮かべた。


『モールダンのお嬢さんだったのか……。実は君か、君のお姉さんと婚約する話があるみたいで、ここに来たんだ』

『えっ?』


 当時は羽振りが良かった実家は財力にものをいわせ、公爵家の次男のレイモンド様との婚約を進めようとしていたのだ。


 その後すぐ、レイモンド様は姉の婚約者候補に決まった。諸々のことを考えれば、当然の成り行きだったと思う。


 しかし、モールダン家を時おり訪れるようになったレイモンド様は、私のことをなぜか気にかけてくださった。


 妙な噂でも立ったら困るので、ほんのわずかな時間だったけど……。


 レイモンド様とは、いつも他愛のないおしゃべりをした。ときどき私が亡き母の思い出話をすると、彼がじっと聞いてくれるのが、特に心の癒やしだった。


『それでは質問です』


 今日もレイモンド様からの、恒例の魔法クイズタイムが始まる。


『よっ、と。……どうだい?』

『可愛い! わかったわ!』

『正解をどうぞ』

『羊ね! 間違いないわ!』

『残念、犬でした』

『えー! 犬ってこんなにモコモコしてないわ!』

『うーん、サイズ感はよかったと思うんだけど……』


 そんな風に、レイモンド様は手品をよく失敗しながら、私を驚かせたり、笑わせたりしてくれた。


 そのことはいつの間にか、私に一つの大きな変化を起こす。


 この家に引き取られた理由でしかなかった魔法が、人を幸せにする素敵なものだと思えるようになっていたのだ。


 ――そしていつしか、私は恋をしていた。


 誰にも言えない恋を。


 だって、私は庶子。子どもでもわかった。自分は本来なら、やんごとなき公爵家の方とそもそも話せるような立場ではないのだと……。


 ただ、変化が起きたのは私だけでなかった。


 その後、大きな戦が起きると、なんとレイモンド様は若くして遠い戦地に行ってしまったのだ――




 戦争が始まって三年目。


 姉は、レイモンド様のことをすっかり忘れてしまったのか、持ち前の美貌を振りまいて他の殿方、それも複数の方々と交際するようになっていた。


 すると姉の交際相手同士で傷害事件が起きた。


 それがグレンウィル公爵家に知られたことで、姉とレイモンド様の婚約は白紙となった。


 私は大いに呆れたし、姉に対し強い怒りを覚えたものだ。


 それから一年後。


 当時十七歳になっていた私に一通の、知らない差出人からの手紙が届く。


 開封すると、なんと戦地のレイモンド様からだった。


『――ヴァイオレット。あれから元気にしているかい? 君に変な詮索が入らないよう偽名で送ったけど、びっくりしちゃったかな? だとしたらすまない。僕は無事だ』


 それから私たちは文通を始めた。研究所に職を得た私は寮に住むようになり、手紙の差出人名は偽名でなくなった。


 ありきたりのことしか私は手紙に書かなかった。しかし、彼への初恋の気持ちを押し花に込め、いつも手紙に添えて送っていた。


『グレンウィル公爵家のレイモンド様が、前線で目覚ましいご活躍をされたらしいわよ!』


 そんな噂を聞いたこともあった。でも私は、彼が無事に返ってくることを、ただひたすら祈った。


 今年に入ってから、戦の趨勢を決める激戦が繰り広げられていると聞くようになる。


 一方、レイモンド様からの手紙は途絶えていた。


 仕事が忙しくなって私は手一杯だったけれど、彼のことを一日たりとも忘れたことはなかった。


 だから私は、不本意な出席とはいえ、レイモンド様のお姿を戦勝記念パーティーでひと目だけでも見ることができたら……そう思っていたのだ――




◆◇◆◇◆◇


「もう帰りたいわ……」


 戦勝記念パーティーの最中、私は慣れないコルセットに早くも音を上げかけていた。


 普段の動きやすい仕事着とは正反対の、実家が用意した華美なドレスを見る。


 ……美人の姉と違って、私には似合わないと思った。


「凄い熱気……」


 七年続いた戦いがようやく終結した。


 王宮の大ホールには国中の貴族が集まり、長かった戦が勝利で終わったことの安堵と喜びで満ち溢れていた。


「ちょ、ちょっと休憩……」


 人酔いを覚え、ホールの中央から離れた高台の椅子に腰を下ろして、一息つく。


「せっかく来たけれど、これじゃ、無理ね……」


 本当は、逢いたい男性(ひと)がいた。


 お話することはできなくても、せめてひと目だけでも叶うなら。


 それだけを拠り所にここへ来たけれど、この混雑ぶりに自分の見込みの甘さを痛感し、気持ちは下がる一方。


 遠くから歓声が聞こえてきた。功労者の方々が受勲されているのだろうか。やがて、とりわけ大きな歓声が上がり、万雷の拍手が響いた。


 ホールは大層盛り上がっているのだろう。具合は最悪だけど、せめて拍手をしようと立ち上がりかけた、その時だった。


「……?」


 遠くから、長身でひときわ逞しい体つきの男性が、こちらの方に歩いてくるのが見えた。


「騎士の方……? 歴戦の殿方は、遠くからでもわかるくらい鍛え方が違うのね。凄いわ……」


 ぼんやりと独り言をつぶやいていた私は、最初は気が付かなかった。


 その騎士が、私目掛けて進んできていることに。


「ん? あ、あれ……?」


 騎士が私のことを見ているような気がして、思わず振り返る。ここはホールの端。後ろにあるものは、壁と窓とカーテンだけ。周りには誰もいない。


 何やら黄色い花を手にしたその人の顔を、ようやくはっきりと認識する。


 肌は日に焼け、こんがりと小麦色に染まっていた。


 美しい銀髪の奥にのぞく、神秘的なトパーズの瞳。


 そして、恐ろしく整った顔立ち。


 彼は微笑みながら私の前に立つと、ひざまずいた――


「受け取ってほしい。僕の太陽」


 騎士が私に花を捧げてくる。


「……は?」


 わ、私に!?


 な、な、なぜ!?


 周囲からどよめきが聞こえたような気がしたが、それどころではなかった。まるで永遠のように感じた混乱の時間を経て、私は一つの問いを絞り出した。


「あ、あの、どちらさまですか?」

「え?」


 騎士様はきょとんとした。


 そして、これは一本取られたね、というような顔をしてからニッコリと笑った。


「……!」


 その笑顔に私はハッとする。


「それでは質問です」


 騎士様は長い睫毛を閉じ、目を閉じて何やら小声で唱える。


「よっ、と。……どうだい?」


 その光が形作る、大きくて、黄色い鮮やかな花。


 彼が持つそれと、そっくりな花――


 ひまわり……。


「正解をどうぞ。――ヴァイオレット」

「レイモンド、さま、なの……?」


 呆然とつぶやいた私に、彼は不思議そうな表情を浮かべ、自分の髪に手を伸ばした。


「ああそうか、昔は髪が長かったよね。戦地だと色々面倒だから切ったんだよ」


 今の彼の髪型はミディアムヘアで、さらりと揺れる前髪のシャープな印象が、とてもよく似合っていた。


「びっくりさせちゃったかい? ヴァイオレット」


 彼はニコニコと笑った。


 印象が大きく変わっていたのは、特にその体つきだった。


 お伽噺の魔法使いのエルフのように儚げだった貴公子は、全身が筋肉で何回りも大きくなっていた。まるで冒険小説に出てくる強靭な戦士のようだ。


「髪を切ったから、イメージがちょっと変わったかな?」

「ちょ、ちょ、ちょっと?」


 い、いや。


 髪の長さだけの問題じゃないのですけど……。


 レイモンド様の、森のエルフから屈強な戦士へのジョブチェンジとか。


 髪と瞳の色も昔とぜんぜん違うとか。


 そもそもこの人だかりの中で、なぜ私のことがわかったのかとか。


「……」


 さらに、この場の全員がこちらを見ているなどで、私の頭の処理能力はもはや限界を迎えつつあった。


「レイ、そんなに待ちきれなかったのか? まったく困ったやつだ」


 声のする方を見やると、金髪碧眼の貴人がお供を引き連れて立っていた。レイモンド様は立ち上って振り返ると言った。


「殿下。彼女とは戦争の間、一度も会えなかったのです。致し方ございません」

「……!」


 私も慌てて椅子から立ち上がりカーテシーをした。貴族の社交にほとんど出ていなかった私でも、この御方が誰なのかわかったから。


 ――王太子殿下だ。


「レイ、お前の気持ちもわからんでもないが、ヴァイオレット嬢が驚いているじゃないか?」


 えっ? ど、どうして私の名前を?


 再び汗が全身から吹き出している私の前に、王太子殿下が立った。


「面をあげてくれ」

「はっ」

「ヴァイオレット嬢、はじめまして。あなたのことはよく聞いている」

「わ、私めのことを……?」

「レイからだ。あなたは王立の研究所に勤めているらしいね。わが国の文化の発展に寄与してくれて、どうもありがとう」

「も、もったいなきお言葉……」

「殿下。私より彼女とたくさん話さないでください」

「ハッハッハッ!」


 レイモンド様の咎めるような口調を気にすることもなく、殿下は楽しそうに笑った。


「すまんすまん。ヤキモチか。まあしばし待ちたまえ」


 殿下は後ろに控える側近に何やら告げた。


「白鷺の間を押さえた。今から使ってくれ。このホールの三階に行けばわかる。まあ、その。あまり暴走するなよ、レイ」

「ありがたき幸せに存じます。私にとっては、何よりの恩賞です」

「『護国の英雄騎士』は、相変わらず謙虚だね。じゃあごゆっくり」


 殿下は手をひらひらと振って、ホールの中央に戻って行った。


「では行こうか」


 レイモンド様が私に、その大きな手を差し伸べる。


「……」


 私は男性の手など、父のものですら触れたことがない。それでも、とにかくここから離れ、周囲の目線から逃れたい一心で手を乗せる。


 しかし、残念ながら、その願いは叶わなかった。


 なぜかというと、三階に向かうためには大ホールを横断する必要があったのだ。


 レイモンド様にゆっくりとエスコートされながら、真っ赤な顔で俯きとぼとぼ歩く姿を、私はその場の人々に晒したのだった――




 熱気漂うホールとは一転して、三階には静けさが漂っていた。レイモンド様は、フロアに立つ侍女に声を掛け、場所をたずねている。


 うなずいたその侍女は、部屋の前まで直接案内してくれた。


「どうぞごゆっくり」

「ありがとう。ああ、待ちたまえ。こちらは未婚の女性だ。すまないが、部屋の前で待っていてもらえるとありがたい」

「承知いたしました。すぐ側に控えております。何かご用があれば、どうぞお声がけ下さい」


 部屋のすぐ側に立った女性と、ドアを開けるレイモンド様を見ながら、今度こそ落ち着けるぞと私は安堵した。


 部屋に足を踏み入れる。そこは、バルコニーのある、ものすごく広くて豪華な客室だった。


 もしかしてここって、外賓の方々のための部屋なのでは……。


 ホールに敷かれていたものよりも足元が深く沈んでいく絨毯を、恐る恐る踏む。


 安堵したのは早計だった。今度は歩くことが怖くなってきている……。


 部屋の中央には、洗練されたデザインのテーブルが置かれ、美しい食器や飲み物、新鮮そうな果実、軽食などが用意されていた。


 い、いつの間に……。


 怖いものが増えていく私。


「何か飲むかい? お酒以外だと……果実水があるね」

「あ、私が」


 レイモンド様は微笑みながら大きな手でやんわりと私を制すると、ご自分で私の分までグラスにつぎ、そっと渡してくださった。


「……」


 ようやく一息つく。


 さっきまで色々と一杯一杯で、まともに見られなかったレイモンド様のことを、グラスに口を付けながらちらりと見る。


 美麗な黒の騎士服を着こなしているレイモンド様。その広い胸に飾られた勲章が、シャンデリアの明かりを反射していた。


 男ぶりがあまりによくて、国中の女性が放っておかないだろうと思う。パーティーの主役かもしれないのに、私と二人きりになっていて、いいのかしら……?


「ホールの混雑は凄かったね、気分は悪くしていないかい?」


 レイモンド様が眉尻を下げた。


「大丈夫ですわ。ご心配いただき、ありがとう存じます」


 さっきからレイモンド様から漂う、大人の男性にしか出せない色気なようなものが凄い。


 勤め先の研究所は、戦の影響もあってほとんど女性ばかりだし、学生時代を含め交際経験のない私はドキドキしっぱなしだ。


 果実水を半分ほど飲んだころで、レイモンド様はシュンとした様子で言った。


「今日は驚かすつもりはなかったんだ。すまない。殿下の人使いの荒さはひどくてね。王都に帰ってきたのも、実は今朝なんだ」

「えっ? 今日お戻りになられたのですか? お体は大丈夫ですか?」

「ああ、体は割と丈夫な方な方だよ」


 レイモンド様が白い歯を見せて笑う。


 疲れを感じさせない表情と逞しい体つきは、思い出のレイモンド様とは違って、強靭な生命力みたいなものが全身から滲み出ていた。


「久しぶり、だね……」

「ええ……本当に……」


 それから私たちは、文通が途絶えてしまった後に起きたことを、ぽつぽつとお互いに話していった。


 あくまで他愛もないものを。


 最後の激戦のことなどは、当事者ではない私が聞くのは憚られた。


 ただ、あの殿下が、終戦日に珍しく暴走し、祝杯で酔いつぶれあげく川に落ちて救助されたという話は、不敬にあたると思いつつ思わず笑ってしまった。


 髪と瞳の色の変化の理由は、レイモンド様本人から話してくれた。


「奇襲を受けた際に、敵の攻撃魔法から殿下を庇ったことがあってね。そしたら、いつの間にか変わっていた」

「そんな……!」


 思わず口を両手で塞ぐ。


「お体は、その……大丈夫ですか?」

「うん、大丈夫だ。こちらも対抗して魔法を放ったからね。髪と瞳の色が変わった以外は、結局何事もなかった。本当だよ」


 まるで街を散歩していたら、降ってきた塗料が服にかかっただけみたいに笑うレイモンド様。


 なんて強さと幸運を持った人なんだろう……。


 彼と一緒にいられる時間が戻ってきたことが、奇跡のようなことだとわかり、私は強い幸せを噛みしめた。


「ヴァイオレットは、体の調子はどう?」

「はい、至って。元気ですわ」

「そうか」


 ……先日実家で起きたことは話さなかった。


 このお祝いの場にふさわしくないし、悲しい気持ちになりたくなかったから――




「ちょっと暑いね。外に出ようか」


 会話をひとしきりして落ち着いたところで、レイモンド様が立ち上がり、外へと続く扉を開く。


 彼に誘われてバルコニーに出る。灯りにほのかに照らされた王宮の庭園を見ながら、私たちは横に並び佇んだ。


 柔らかで涼しい風が心地良かった。


「ヴァイオレット」

「はい」

「君に婚約の話はないのかい?」

「……まだありません。レイモンド様は?」

「僕かい? ないよ。家には、戦争が終わるまで待って欲しいと伝えてあった」

「左様ですか」

「だから、君のお姉さんに袖にされてからは、何もない」

「あ、はい……。その件は大変申し訳ございません……」


 昔、姉がしでかしたことを思い出して、途端に気まずくなる。


「ごめんね、冗談だよ。本音を言うと、君のお姉さんとの婚約の話が流れた時は、ホッとした」

「え……?」


 意外だった。当時のレイモンド様は姉に淡々と接していたような印象はあったけど、特段不仲というわけでもなかったと思う。


「僕の、昔の恥ずかしい話だけど、聞いてくれるかい?」

「はい」

「僕はね、君と出会ったころ、やさぐれていた」

「えっ?」


 思い出の彼はいつもニコニコと笑っていた。やさぐれているなんて思ったことは一度もなかった。


「僕に兄がいるのは知っているよね?」

「はい」

「文武両道の凄い兄さ。両親は決してそんなことをしなかったけど……。周りの人たちは、優秀な兄と冴えない僕とをよく比較してね。当時は色々と投げやりになっていた」

「えっ……?」


 彼の告白に驚く。私は彼のことを、いつも優しくて、隙を見ては笑わせようとしてくる明るい人だとしか思っていなかった。


「君のお姉さんとの婚約についても、僕には意志なんてなかったし、貴族の結婚なんてそんなものだろうと思って、ただ流されていた」

「……」

「でもね。僕は君に出会った。あのとき一人で泣いていた君が気になって、後で父上に聞いたんだ。君のことを」

「私のことを……?」


 公爵家なら、私の父が隠そうとした母との過去や、私が置かれていた状況などを調べることは、容易だったかもしれない。


「次第に僕は、自分のことを恥ずかしく思うようになった」

「恥ずかしい、とは?」

「君は、家に居場所がなくても、いつも前向きで、年下なのにどこか大人びていて。でも子供らしく、知らないことへの好奇心でいっぱいだった。それに比べて僕は、つまらないプライドを持っているだけで、何もしようとしていなかった」


 そう切なげに語るレイモンド様の表情は、まるでエルフみたいだった頃の彼と、まったく同じだった。


「今の自分のままで本当にいいのか、ってね。それから僕は、勉学や鍛錬に打ち込むようになった。あ、手品についてはどうだろう? さっきは上手くやれていたかな?」

「レイモンド様……」


 いたずらっぽく笑うレイモンド様を見て、泣きそうになってしまう。彼と過ごしたあの時間がなければ、私の心はとうに折れてしまっていただろう。


 今の私が寝食を忘れるほど花の研究に没頭しているのも、そのきっかけは、レイモンド様が昔見せてくれた花の手品だ。


「戦に行ったのも自分の意志だよ。両親と兄からは猛反対された。でも、一人前の人間として、何か成し遂げたいと思っていたんだ。今振り返ると、なんだか青臭い感じで、恥ずかしいけどね」


 照れくさそうに笑うレイモンド様。


 しかし彼は、前線から一度も戻らなかった。公爵家の人間であれば、どうにでもできたかもしれないのに。


 レイモンド様は自らに課したことを全うしてから、今ここに帰ってきたのだ――


「ヴァイオレット。君に婚約したい人はいるかい?」

「……父からは、見合いを始めるよう言われています」

「君はそれをしたい?」


 神秘的なトパーズの瞳が私を映していた。


「したくありません。でも、貴族同士の結婚なんて、結局は家の都合ですから……」

「じゃあ仮に、だよ。僕が君と婚約したいって言ったら、君は喜んでくれる?」

「ええっっっ!?」


 突然の爆弾発言にのけぞる。


「ちゃんとした理由があるのだけど」

「り、理由!?」

「君が僕のことを、好きだと思っているから」

「ど、ど、どうして?」

「君に手紙でそう伝えられたから」

「ええっ!?」


 て、手紙!?


 再び変な汗を全身に滲ませながら、脳をフル回転させる。文通の中で、今まで書いてきたことを必死に思い出す。


 彼への募る一方の本心とは裏腹に、手紙には無難なことしか間違いなく書かなかったはずだ……!


「僕にはね、『探知』のギフトがある。戦地に行くまで、自分でも気付かなかったけど」

「ギ、ギフト……」


 ギフトとは、魔法とは異なる、特殊で多種多様な能力のことをいう。それは極めて希少なもの。でもそれが、一体どうして繋がるの?


「そのギフトのおかげで、僕には魔力を持つ者を見分けたり、魔力の残滓から様々な情報を読み取ったりすることができる」


 レイモンド様は顔を赤くして目をそらした。


「……君は手紙にいつも押し花を添えてくれていただろう? あれだけ強い気持ちが込められたものを、毎回送られてしまうと、さすがに、ね……」

「!」


 な、な、な、なんですってーっ!!!


 当時、押し花を作る際はいつも、本文にはとても書けないレイモンド様への気持ちを、全身全霊で込めていた記憶がある。


 そして私は、魔力持ち……。


「も、も、もしかして、まさか、最初の手紙から……」

「うん。最初の手紙から数えて、三年間ずっとだね」


 誰にも知られてはいけないはずの私の初恋――


 それはよりによって、その相手にだけ長年の間、ダダ漏れ状態だったのだ……!


「おっと!」


 真実を知って卒倒しかけた私は、レイモンド様の両手に抱えられていた。


「ヴァイオレット、僕と婚約するのは嫌?」


 至近距離の彼を直視できなくて、大きな腕に抱えられながら下を向く。


「い、嫌なんてわけありません。……嬉しい、です。でも私なんて。庶子ですし、花をいじってばかりの役立たずで、レイモンド様にはふさわしくありません」

「庶子かどうかなんて、僕には関係ない。それに君は今の仕事が好きじゃないか。ずっと続けて欲しい」


 そんな……。いくらなんでも私に都合が良すぎる。


「君と文通をしていてね。手紙の押し花からはいつしか、君の仕事への満ち溢れるような希望も感じられるようになっていた」

「……」


 揺れる彼のトパーズの瞳に吸い込まれそうになる。


「前線では色々とつらいこともあった。でも僕は、君からの手紙を何度も読み返しては、戦争を終わらせて君の元へ生きて帰ってみせると、心を奮い立たせた。僕が生き延びて、今ここにいるのは、君のおかげなんだ」

「そんな……」


 私だって、つらいときは、レイモンド様からの手紙を何度も読んで、自分を励まそうとしていた。


 そのことを伝えたいのに、どうしても言葉が心に追いつかなくて。涙ばかりが溢れてきて。


 それが悔しくてまた喉が詰まってしまう。


「僕と婚約してくれるかい?」

「……」


 私はうなずきながらレイモンド様に頭をそっと預けた。


 広い彼の胸に包まれながら、私は母の前以外で初めて……人前で泣き続けた――




 レイモンド様と再会したパーティーの翌日。


 いつものように研究所で働いていた私は、ランチをとりに外に出たとき、ふと御婦人方の会話が耳に入った。


「ねえ聞いた!? あのグレンウィル公爵家のレイモンド様が、美人のご令嬢の前にひざまずいて、なんと求婚なさったらしいわよ!?」

「ええ! 本当に羨ましいわ!」

「あの『護国の英雄騎士』様よ! 王太子殿下からのご信頼も大層厚いそうじゃない。これから大出世するのかしら。羨ましいわねぇ!」


 ……。


 妙な汗が滲む。噂が尾ひれをつけて広まっていた。


 その美人の令嬢とやらは、架空の存在です……。




 その後すぐ、彼から手紙が届いた。


『僕たちのことで色々と準備している。一週間、時間をもらえないだろうか?』


 そして一週間後、私はレイモンド様と一緒に馬車に揺られていた――




 私たちが目的地に着くと、品のある年配の男性が先に待っていた。


「ニコラス殿、ご足労痛み入ります」

「いえいえ、レイモンド殿。……そちらのお嬢さんは?」

「お初にお目にかかります。ヴァイオレット・モールダンと申します」

「私の婚約者です」


 ためらいなく言うレイモンド様に、私はつい顔を赤らめてしまう。


「ほほう、こちらの家の方ですか……。本日の用件について、ヴァイオレット様はご存知でいらっしゃるということで、よろしいですか?」


 ニコラス様は厳格そうな第一印象に反して、私を気遣うような表情を浮かべた。


「存じ上げておりますわ。今日はどうぞ、よろしくお願い致します」

「わかりました。何かあれば、ご遠慮なくお申しつけくだされ」


 いま、私たちは実家の屋敷の前に立っていた。


 今日ここに来た目的については、レイモンド様から事前にうかがっている。ちなみにレイモンド様によると、ニコラス様はベテランの凄腕徴税官とのことだ。


「ニコラス殿、この度は無理なお願いをさせていただき、大変申し訳ない」

「ほっほっほっ。殿下からの急なご依頼に、徴税局の者たちはずいぶん慌てておりましたわい。しかし、至急のご用件に迅速に対応するのも、我らの務め。若い者たちは、いざという時の肝の据わり方がまだまだですな」


 ニコラス様は微笑む。


「それにしてもこの度の件、どのように気付かれましたか? さすがは『護国の英雄騎士』ですな」

「とんでもない」


 レイモンド様は穏やかに首を振る。


「長引く不況で、今回のようなことがよくあると、耳にしておりました。あくまで私の仮説にもかかわらず、至急かつ丁寧な調査を行っていただき、ありがとうございました」

「いえいえ、戦中で人手不足だったとはいえ、こちらのチェック漏れですから」


 ニコラス様は続けた。


「わが国の未来を背負う方たちのためになったのであれば、老骨が生き延びてきた甲斐があるというものです」


 私たちは邸内に足を踏み入れる。


「よ、よ、ようこそお越しくださいました……」


 今日はちゃんとドレスを着た私に、執事が驚愕の表情を浮かべていた。ちなみにドレスは、レイモンド様が贈ってくださったものだ。


 応接室に向かい部屋に入ると、父と着飾った姉がいた。


「な、な、な、なんでお前がいるのよ!?」


 彼らは先日のパーティーで、私のことに気づかなかったようだ。


 もしかすると彼らは、レイモンド様が姉に再び婚約を求めてきたのかと思ったのだろうか……。


「レ、レイモンド殿。ほ、本日どのようなご用件で?」


 父も明らかに動揺していた。


「ケネス殿。お久しゅう……。本日は恐れながら、ケネス殿のお嬢様と婚約させていただきたく、参上仕りました」

「こ、婚約とは、娘のキャロリンとでしょうか?」

「違いますな」


 いつものレイモンド様とは違う、冷たい声色が部屋に響く。


「だが、その前にお話させていただきたいことがある」


 レイモンド様はニコラス様の方を見た。


「はじめまして。徴税局のニコラスと申します」

「ちょ、ちょ、徴税局……!」


 お父さまの顔色がみるみる蒼白となり、ニコラス様はテーブルの上に素早く書類を並べる。


「そのご様子では、本日の用件をおわかりのようで……。ちとやりすぎましたな。これだけの額を五年間続けてともなると、弁解は受け入れられません」

「……」


 たくさんの書類を前に絶句する父――


 戦争で不況となり、伯爵家の運営が苦しくなっていた父は、長年に渡って多額の脱税をしていたのだ。


「こちらが追加徴収額と支払期限です。本件は、計画的で極めて悪質なものとみなされましょう。もし支払いが滞れば、爵位の返上だけでは済まないでしょうな」


 書類に記載された額と期限は、今の伯爵家ではとても対応できないだろう。もし対応できなければ、爵位の返上に加えて、父には懲役が課せられことになる。


 ……ぶるぶると震える父を見ながら、複雑な気持ちになる。


 私を常に抑えつけ、恐ろしい存在だと思っていた相手が、今は下される罰に怯え、破滅の淵に立たされていた。


「ケネス殿、一つ提案がある」


 レイモンド様が静かに続けた。


「爵位の返上は覆らないだろうが……。私の家から管理人を送り、伯爵家を観察下に置く。それにより、期限の猶予を得た上で完済すれば、懲役は逃れられるかもしれない」

「……」


 父はレイモンド様にすがるような目線を送った。


「ただし、二つ条件がある。私とヴァイオレットとの婚約を認めていただくこと。そしてもうひとつ。ヴァイオレットとの縁を、金輪際切っていただきたい」


 このことについて、私はレイモンド様と事前に相談している。


「ふ、ふ、ふざけないで!」


 姉が突然立ち上がり私をにらみつけてきた。


「なんで! なんで! なんでなのよ!? お前だけがいい思いするなんて、許せないわ!」


 伯爵家の現状を気づいていなかった姉にとって。


 家がこれから没落すること、そして、地味な私が「護国の英雄騎士」様と婚約するなんて話は、到底受け入れられないだろうと思った。


「キャロリン、控えなさい」

「ふざけないで!」


 姉は父の制止を無視し、淑女の仮面をかなぐり捨てて私に掴みかかってきた。


「……」


 私は目を伏せる。


「君は恥を知らないのか?」


 顔を上げると、レイモンド様が姉の腕を押さえていた。


「今回の提案内容は、ヴァイオレットと話し合って決めたことだ。君たちがずっと見下してきた彼女は、君たちのことをまだ、家族だと思っているというのに」


 姉はレイモンド様の腕を勢いよく振り払った。


「そいつのどこが良いのよ! 何よ! アンタたちに助けてもらわなくたって、この私がいれば、貴族の誰かが手を差し伸べてくれるはずだわ!」

「キャロリン嬢。いいかい」


 レイモンド様は姉に言い聞かせるように言葉を続けた。


「かつて、君の交際相手同士による傷害事件があったよね?」

「……それが何よ?」

「君は知らないかもしれないが、彼らは喧嘩両成敗ということで、その後に前線に送られた」

「……」

「彼らは汚名をそそがんと奮起した。何年もずっと、だ。ある日、王太子殿下が彼らにお褒めの言葉をかけられたとき、彼らは涙を流していたよ」

「だから、それが何なのよ!?」

「この話は、戦地にいた貴族なら誰もが知っている。だからね、君の名も有名なんだ。もっとも、悪い意味で……ね」

「なっ……!」


 姉は驚愕の表情を浮かべた。


「そして、皆が王都に帰ってきた。率直に言って、君にこれからまともな縁談があるとは思えない」

「な、何ですって! そんな昔のことをどうして今さ」


 姉の言葉は、それ以上続かなかった。父の指示を受けた執事たちが姉を押さえ込み、部屋から退場させたのだ。


「……レイモンド殿、見苦しいところをお見せし、大変申し訳ございません。ご提案を受けさせていただきます……」


 力なく頭を垂れた父の前に、レイモンド様は無言で二通の書類を出した。一通はレイモンド様と私との婚約の承諾。そしてもう一通は……。


 父はそれらに目を通すと、震える手でどちらもサインをした。


 もう一通は伯爵家と私との絶縁状だった。これで、今後何が起こっても一切、父と姉は私に関わることができなくなる。


「よろしいか?」


 隣にいるニコラス様がうなずく。彼は公証人の資格もお持ちとのこと。


「今日の用件は以上だ。ヴァイオレット、大丈夫かい? 行こうか」

「はい」


 いつもの声色に戻ったレイモンド様と視線を交わす。


「少しだけお待ちいただけますか?」

「うん」


 父にまっすぐ顔を向ける。


「お父さま。この家に住まわせてくださったこと、そして私に貴族としての教育を受けさせてくださり、さらに就職をお許しいただいたこと、感謝しております。……今まで、どうもありがとうございました」

「……」

「……どうかご自愛くださいませ」


 虚ろな目をした父に、ゆっくりと頭を下げた。


 本当は、言いたことがたくさんあった。けれど、いつものように肝心な時の言葉が出なかったわけではない。


 二度と会うことのない家族との別れは、せめて少しでも穏やかでありたい。


 そう思ったから――




 間もなくして伯爵家の爵位の返上が決まった。


 レイモンド様の家からモールダン家を管理する人たちが派遣され、財産は全て差し押さえられた。


 今後は管理者の指導の下、父はひたすら支払いを続ける。支払いが終れば、父は一人の平民として生きていかなければならない。


 姉のたくさんのドレスや宝石は、お金の用意のため真っ先に売りに出されたらしい。


 しかし、処分作業をしている人に姉が掴みかかって事件となり、この話が社交界に広まったことで、姉の貴族令嬢としての立場も完全に失われた。


 今の姉は部屋に引きこもり続けているとのことだ。


 これから、父と姉がどうなるのか、私にはわからない。何か言える立場でもない。


 だけど彼らがいつか、平穏な日々を過ごせるようになってくれたらと思う――




「おーい! ヴァイオレット! そろそろ行こう!」

「はい! ただいま参ります!」


 朝、レイモンド様が待つ馬車に向かって走る。


 あれから私は寮を出て、レイモンド様の新居に引っ越した。王都の一等地に用意されたお屋敷を初めて見たとき、実家以上の広さと豪華さに私は唖然とした。


 しかし私が一番感激したのは、二階にある書庫。本のためだけに丸々とスペースが設けられ、本棚がそびえ立つ部屋を見て、私はつい叫んでしまった。


『す、す、凄い!』

『ふふっ。君が手紙でよく、植物図鑑のことなどを話していたから。喜んでくれるのはこれかなって』


 喜ぶどころじゃない。大感激だった。


『さ、最高、です……!』

『よかった』


 私の反応に、レイモンド様は嬉しそうに目を細めた――


「お待たせしました」

「大丈夫だよ」


 馬車の前に立ち、白い歯を見せてニコリと笑うレイモンド様。


 黒い騎士服もとんでもなく格好よかったけど、いま彼が着るシックな濃紺の出仕服も、彼の大人の色気を隠すどころか、むしろ引き立てていた。


「……」


 つい赤くなってしまい下を向く。


「大丈夫かい? ヴァイオレット」

「……」


 何も言えない私のことをじっと見つめる彼の瞳。子供のころに、一人庭で泣いていた私のことを心配そうに見ていた、思い出の彼の姿が脳裏によぎる――


「……ヴァイオレット?」

「いいえ」


 胸がいっぱいなまま、そっと首を振った。


「つい昔を思い出してしまいまして」

「えっ? 昔のこと? なんだい、気になるな。教えてよ」


 彼が無邪気な微笑みを浮かべた。


「……秘密です!」


 私が笑うとレイモンド様が手を差し伸べた。


「行こうか!」


 大きくて温かな手に自分の手を乗せながら馬車に乗り込む。王宮に着いた私たちは馬車から降りる。お互い王宮勤めなので、毎朝一緒に通勤しているのだ。


「ヴァイオレット」

「はい」

「帰りも送るからね」


 彼は私の手を取ると、そっと口づけた。


「……!」

「またね」


 手を振りながら去る彼の大きな背中を見つめる。


「……」


 心臓が早鐘を打っていた。


 あのダダ漏れの色気に早く慣れないと、日常生活に支障が……。


 でも、慣れる日なんて来るのかしら?


 そんなことを考えながら立ちすくむ。


「あ! もう時間!」


 私は慌てて職場に向かって駆け出した。







最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。


下の「☆☆☆☆☆」での評価や「ブックマークに追加」を通じてご声援をいただけますと、今後の執筆の大きな励みになります。


なお、別作品も連載中です。


『すべてを奪った転生姫を、空気令嬢は許さない』


【簡単なあらすじ】

ちょい役でぼっちな”空気令嬢”が――

正ヒロインと親友になったことで、乙女ゲーム崩壊の渦に巻き込まれ、気づけばまさかの”悪役令嬢の断罪”と”溺愛ルート”に突入するおはなし


ちなみに、悪役令嬢は本当に極悪です。ご注意を。


▶作品はこちら

https://ncode.syosetu.com/n5587kt/

※完結まで執筆済み

※毎日投稿中です


どうぞよろしくお願いいたします。

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