姉に奪われた初恋は、親の道具だった私の名を呼ぶ
「――受け取ってほしい。僕の太陽」
王宮の大ホールの一角で、一人の騎士が堂々たる体躯をかがめ、ひざまずいて色鮮やかな花を捧げていた。
――私に。
(な、な、なぜ!?)
美しい銀髪の騎士は穏やかに微笑み、神秘的なトパーズの瞳で真っ直ぐに私を見つめていた。日に焼けた健康的な彼の肌と、口元にきらめく白い歯、そして私に捧げられた大きな黄金色の大輪の花――。
そのコントラストは、ひときわ美しかった。
(あの、人違いでは……?)
そう告げたいのに喉が渇ききって声が出ない。
――私の名は、ヴァイオレット・モールダン。二十歳。一応は伯爵家の生まれだけど、今は王立の小さな部門に勤めている。花にまつわる仕事に没頭するだけの、何の取り柄のない地味な女にすぎない。
今ここでは、華やかな戦勝記念パーティーが催されている。けれど、私は自分の意思で来たわけではなかった。私の気持ちなど一度も顧みたことのない父に命じられて来たのだ。
そんな私が、なぜか謎の騎士に突如ひざまずかれ、国中の貴族たちの視線を一身に浴びていた。
(それにしても綺麗な花……。ひまわりよね……?)
騎士が捧げる花の、甘く瑞々しい香りに包まれながら思わず現実逃避してしまう。
そして、目の前の彼にも――。
重厚な騎士服をまとった逞しい体躯。柔らかな笑顔には清々しさ。先ほど発した低い声には大人の男性の色気。
国王陛下から授けられたばかりであろう金の勲章と、その銀髪がシャンデリアの明かりを受け、キラキラと美しく輝いていた。こんな紳士、国中の女性が放っておくはずがない。
(やっぱり、人違いだわ……)
だって私は、伯爵家の娘でも庶子にすぎない。異母姉と間違えられたのかとも一瞬思ったけど、美人の姉と地味な私はまったく似ていない。
(まずいわ……)
気を失いそうになりながら、かろうじて言えたこと。それは――。
「……ど、どちらさまですか?」
「あ、あれ?」
騎士様はきょとんとした。
◆◇◆◇◆◇
先月のこと――。
「あっ!」
勤め先の研究所から寮に帰ってきた私は、慌てて駆け出した。
門の前で、寮母さんが顔をしかめながら重そうな荷物を運んでいた。寮母さんはたしか腰を痛めていたはずだった。
「だ、大丈夫ですか!?」
「あら、ヴァイオレットさん!」
「私が持ちます!」
うぐっ!
代わりに持った荷物が想像以上に重くて、後退りしそうになりながらふんばった。
「ふぅぬぬぬっ!」
「だ、大丈夫!?」
「え、ええ。だ、大丈夫です」
「貴族のご令嬢にこんなもの持たせられないわよ!」
「かまいませんわ」
研究所で働いていたら、重いものを持つなんて日常茶飯事だ。
「ふぅん! よいしょっとおぅ!」
「ふふっ。ありがとう、ヴァイオレットさん」
荷物をどっこらせと置いて立ち上がると、寮母さんは苦笑していた。
「あ。そうだわ!」
「どうされましたか?」
「ヴァイオレットさん宛のお手紙を預かっているの」
「えっ?」
――手紙。
もしかしたら。
レイモンド様からのお手紙かしら?
……しかし、もし期待が外れたら、ひどく残念な気持ちになってしまう。心の中で「無心、無心……」と唱えながら、部屋に戻った寮母さんを待った。
「こちらよ。お仕事おつかれさま!」
「ありがとうございます」
受け取った手紙をなるべく視界に入れないように素早く鞄にしまったとき、自分の荷物にふと気付く。
「こちら、試作品なのですけど――」
寮母さんに差し出したのは、オレンジ色の花。
「あら素敵! マリーゴールドかしら? あ、でも、白い線も入ってて……。これは見たことないわ。珍しいわねぇ」
「実は、研究所で最近開発した花なんです」
それは、私が開発したばかりの「魔法花」だ。勤め先の部署では、魔法を使って花の新種を作っている。観賞用はもちろん、美容や健康効果のある新しい花を作り出そうと日々奮闘中だ。
マリーゴールドには、もともと肌の不調を和らげる効能がある。そこへ血流を促し、痛みを鎮める薬草を組み合わせてみたのだ。
「安全性の検査が終わりましたので、持ち帰ってきました。よろしければ、お部屋にお飾りください」
「え、いいの? とっても貴重なものなんでしょう?」
「かまいませんわ」
寮母さんの痛み止めに少しでもなってくれたら、私も嬉しい。
「ありがとう!」
「どういたしまして」
寮母さんと別れた後、そそくさと自室に入った。
ガバッ。
素早く鞄から手紙を取り出し、差出人を確認した。
……手紙には見慣れた封蝋が押されていた。
「家、か……」
期待外れのがっかりどころではない。
最悪だった。
大きな溜め息をつきながら封を切った。手紙には、「家に直ちに帰ってくるように」とそっけなく書かれてあった。
「帰らなきゃ……。嫌だな……」
それから数日間、憂鬱な気持ちを引きずったまま、仕事をせねばならなかった。
私はモールダン伯爵家の庶子として生まれた。平民の母は伯爵家のメイドをしていて、伯爵夫人が姉を妊娠中に私を身籠った。父は金銭を渡して母を実家に帰した。その後、母は私が七歳のときに流行り病で亡くなってしまった……。
それから間もなくして私は、モールダン伯爵家に引き取られた。
生まれる前から捨てられたも同然だった私がなぜ引き取られたのかというと、私が「魔力持ち」だったからだと思う。
魔力持ちの人間は比較的珍しい。庶子であったとしても、政略結婚の駒として利用できると父は考えた。また伯爵夫人が、母と同じ流行り病で同時期に亡くなられていたことも、父の判断を後押ししたのかもしれなかった。
「ごきげんよう」
休暇が取れた私は、実家の屋敷を訪れていた。
「ヴァイオレットお嬢様、おかえりなさいませ」
「久しぶりね。お父様はどちらかしら?」
「はい。ご主人様は、ただいま書斎にいらっしゃいます」
久しぶりに会った執事と別れ、書斎へと向かった。
「ヴァイオレットです。失礼いたします」
「……入れ」
顔を上げた父はいつも通り不機嫌な表情だった。
「遅かったではないか。父が呼んでいるのに、何をグズグズしていた」
「……私にも勤めがございます。呼ばれたからといって、すぐにお休みをいただける訳ではございません」
「生意気を言うな!」
父が机を激しく叩きつけ、思わず目をつぶった。
「仕事というのはあれか、花だか何だかをいじくって色を変えるとか、そんなものだったな。何の役にもたたん! 心底くだらん!」
「……」
「お前を呼んだのは他でもない。来月に戦勝記念パーティーが王宮で開催されることは知っているな? 王家主催で参加必須だ。出ろ」
「……」
わが国は、多くの国々が入り乱れて争う大きな戦に参加していた。七年間も続いたそれが先日、ついに終結したのだ。
「それともう一つ。お前の見合いを始める」
「えっ……?」
「まともに社交ができるようになったからな。お前のような穀潰しでも、この家のために少しでも役に立て」
――予想していた中で最悪の話だった。
私は今の仕事でどうにか一人で生きていけている。何より、仕事が楽しい。しかし、父にとっての私の存在価値は昔と何ひとつ変わっていなかった。
「お前が外に出ることを許していたのは、戦が続いていたからだ。だがそれも終わりだ。くだらない仕事をとっとと辞めて帰ってこい」
「……」
「これは伯爵家当主としての命令だ! わかったな!」
取り付く島もなかった。
「あら?」
うなだれて書斎から出ると、派手に着飾った美人とばったり出くわした。
――異母姉だった。
「放蕩娘が里帰りかしら?」
「……」
「一体この家に何の用? くだらない仕事にずいぶんと夢中らしいけど、なんて職場だったっけ?」
「……」
私の就職先である「魔法植物研究所」は、歴史も浅く予算も少ない弱小部門だ。けれど、わけあって花に魅せられた自分にとって、くだらないどころか最高の職場だ。家で居場所の無かった私は、就職を機に公営の寮で暮らしているので、家と距離を取り続けていたのは事実だけど……。
「そもそもお前に、貴族のはしくれとしての自覚はあるのかしら? なによ、その地味な服。平民と変わらないじゃない。恥ずかしくてしょうがないわ」
私の簡素なワンピースをけなした姉は、豪華な赤いドレスを着ていた。
「……」
この家は私が子供の頃は羽振りがよかった。しかし長引く不況で、今は火の車のはず。
……大丈夫なのだろうか?
反応の乏しい私にいらついたのか、姉は言い掛かりをつけてきた。
「もしかして、家を出たのはいいけどお金に困って、たかりにでも来たの?」
「……違います。お父さまが見合いをしろと」
「見合いぃ? 何言ってんの!? お前みたいな地味な女、まともな相手がみつかるとは思えないわ! お父さまにこれ以上迷惑をかけないで頂戴」
姉は私のことを鼻で笑うとニッコリと笑った。
「私はね、名門の侯爵家の方とのお話が始まりそうなの! さすがお父さまよ! 早くお会いしたいわ!」
社交が本格的に再開したら、美貌の姉は引っ張りだこになるのだろうか。
「メイドの娘のお前なんて、この家に一生かかわらないで欲しいものね。――あら、もうこんな時間! 穀潰しと話している場合じゃないわ!」
今日は夜会の予定でもあるのか、姉は立ち去っていった。
寮に帰る前に、わずかに残った気力を振り絞り、屋敷の自室に向かった。就職が決まったときに逃げるように家から寮に移ったので、部屋に私物がほぼ残っているのだ。
「あの植物図鑑は手元に置いておきたいわ……」
仕事を続けられないのなら、もう意味はないかもしれないけど……。
「え……?」
――自室だったはずの部屋の中を見て、愕然とした。
そこには、姉のものと思しき衣服がぎっしりと詰め込まれていたのだ。通りがかった執事に思わずたずねた。
「あ、あの、ここって……?」
「……こちらの部屋は、ヴァイオレットお嬢様が移られた後、キャロリンお嬢様が使われております」
「私のものは……?」
「申し訳ございません。キャロリンお嬢様のご指示で、こちらにあったものは、もう……」
私の物はゴミ扱いされ、すべて捨てられていた。
「う、ううっ……!」
寮の部屋に帰ってくるなり、ずっと堪えていた涙が溢れ出した。
――身勝手な父に傲慢な異母姉。
子供のころから何一つ変わっていなかった。でも、心底悔しいのは、彼らのことよりも……。就職して社会に出て、少しは変わったと思っていた自分が、結局は何一つ言い返せない無力な人間だと、思い知らされたことだった。
なんて私は弱いんだろう……。
情けなくて、悔しくて。
しばらく泣き続けた。
「……ダメよ」
自分の頬を両手でぴしゃりと叩く。
「いつまで泣いていたって、しょうがないわ。何か手はないの?」
しかし、どうしたらいいというのだろう?
実家と絶縁する?
いや、父が自分の「道具」をみすみす手放すわけがない。
仮に強引に絶縁できたとして。私の職場は一応、王立の組織だ。家絡みのトラブルが問題視されて解雇されるなんてこともあり得るかもしれない。
研究所の上司や先輩方は、新卒で入った私が珍しいのかとても可愛がってくださる。しかし、彼らに相談するにはあまりに私的なことだった。
「……」
いつの間にか収納扉から、小箱を取り出していた。
箱に詰められた、たくさんの手紙。
私の宝物。
生きてるって、私に感じさせてくれるもの。
寮に移るときに持ってきて良かった。危うく捨てられるところだったのだから。
取り出した手紙には、美しい文字で書かれた差出人名。
――レイモンド・グレンウィル。
その名を指でそっとなぞる。
優しくて……。楽しくて……。
初恋の人――。
萎れた気持ちを、なんとか奮い立たせようとした。
グレンウィル公爵家のレイモンド様とは彼が十六歳、私が十一歳の頃に初めてお会いした。
そのときの私は、社交シーズンで連れられて訪れた、とある貴族の屋敷の庭で、一人ぼっちで泣いていた。
姉とその友人から「家のお荷物」だとなじられ、なかなか泣かない私に飽きた彼女たちが去った後、一人で泣いていたのだ。
『……大丈夫かい? どちらのお嬢さんかな?』
顔を上げると、ほっそりとした長身の、流れるような金髪をした男の人が立っていた。その真っ白な肌と青い瞳に、私は目を奪われた。
まるでお母様に昔読んでもらった絵本に出てきたエルフみたいだ、と思ったことを今でも憶えている。
『……』
『びっくりさせちゃったね。僕はレイモンド。なにか悲しいことがあったの?』
『……』
黙り込んだ私を心配そうに見つめる、優しい瞳が印象的だった。
『つらいときは、無理して話さなくてもいいよ……。そうだ。泣いているお姫様のために、ここは一芸をお見せしよう』
男の人はそう言うと、目を閉じて何やら小声で唱えた。
『……よっと』
途端に、光でできた小さな花のようなものが現れた。
『わあ!』
それは、生まれて初めて見た魔法だった。
『すごいわ……! たんぽぽね!』
『……はずれ』
『えっ?』
いやでも、黄色いし……小さいし……。
『ひまわりのつもりだったんだけどね……』
『ひま、わり……?』
『実はね、魔法はあんまり得意じゃなくてさ。イマイチな出来でごめんね』
そう言いながら、エルフみたいなお兄さんは恥ずかしそうに長い金髪をかき上げた。
イマイチなんて、とんでもない。とっても素敵だわ。
そう思った。
いつの間にか涙が引っ込んでいた私は、慌ててカーテシーをした。
『わ、私、ヴァイオレットと申します。ええと、モールダン家のものです』
家の名前を出すと、その男の人は驚いた表情を浮かべた。
『モールダンのお嬢さんだったのか……。実は君か、君のお姉さんと婚約する話があるみたいで、ここに来たんだ』
『えっ?』
当時羽振りが良かった実家は財力にものをいわせ、公爵家の次男のレイモンド様との婚約を進めようとしていたのだ。
――その後すぐ、レイモンド様は姉の婚約者候補に決まった。諸々のことを考えれば、当然の成り行きだったと思う。
しかし、モールダン家を時おり訪れるようになったレイモンド様は、私のことをなぜか気にかけてくださった。妙な噂でも立ったら困るので、ほんのわずかな時間だったけど……。
レイモンド様とは、いつも他愛のないおしゃべりをした。ときどき私が亡き母の思い出を語ると、彼は黙って耳を傾けてくれた。その時間が、私にとって何よりの癒やしだった。
『――それでは質問です』
今日もレイモンド様からの恒例の魔法クイズタイムが始まる。
『よっ、と。……どうだい?』
『可愛い! わかったわ!』
『正解をどうぞ』
『羊ね! 間違いないわ!』
『残念、犬でした』
『えー! 犬ってこんなにモコモコしてないわ!』
『うーん、サイズ感はよかったと思うんだけど……』
そんな風に、レイモンド様は手品をよく失敗しながら、私を驚かせたり、笑わせたりしてくれた。
そのことはいつの間にか、私の中に一つの大きな変化を起こした。
この家に引き取られた理由でしかなかった魔法が、人を幸せにする素敵なものだと思えるようになっていたのだ。
――そしていつしか、私は恋をしていた。
誰にも言えない恋を。
だって、私は庶子。子どもでもわかった。自分は本来なら、やんごとなき公爵家の方とそもそも話せるような立場ではないのだと……。
ただ、変化が起きたのは私だけでなかった。
その後、大きな戦が起きると、なんとレイモンド様は若くして遠い戦地に行ってしまったのだ。
戦争が始まって三年目。
姉は、レイモンド様のことをすっかり忘れてしまったのか、持ち前の美貌を振りまいて他の殿方、それも複数の方々と交際するようになっていた。すると姉の交際相手同士で傷害事件が起きた。それがグレンウィル公爵家に知られたことで、姉とレイモンド様の婚約は白紙となった。私は大いに呆れたし、姉に対し強い怒りを覚えたものだ。
それから一年後。
当時十七歳になっていた私に一通の、知らない差出人からの手紙が届く。開封すると、なんと戦地のレイモンド様からだった。
『――ヴァイオレット。あれから元気にしているかい? 君に変な詮索が入らないよう偽名で送ったけど、びっくりしちゃったかな? だとしたらすまない。僕は無事だ』
それから私たちは文通を始めた。研究所に職を得た私は寮に住むようになり、手紙の差出人名は偽名でなくなった。ありきたりのことしか私は手紙に書かなかった。しかし、彼への初恋の気持ちを押し花に込め、いつも手紙に添えて送っていた。
『グレンウィル公爵家のレイモンド様が、前線で目覚ましいご活躍をされたらしいわよ!』
そんな噂を聞いたこともあった。私は、彼が無事に返ってくることだけを、ただひたすら祈った。
今年に入ってから、戦の行方を左右する激戦が繰り広げられていると耳にするようになった。その頃から、レイモンド様からの手紙も途絶えてしまった。私は毎日、彼からの便りを待ち続け、届かないたびに胸を締めつけられるような落胆を味わった。
私自身も仕事に追われ手一杯の日々だったけれど、彼のことを忘れた日は一度たりともなかった。
だからこそ、この戦勝記念パーティーでレイモンド様の姿をひと目だけでも見られたなら……そう願っていたのだ――。
◆◇◆◇◆◇
「うっ……。き、気分が……」
戦勝記念パーティーが始まってまだ間もないというのに、私は慣れないコルセットに早くも息苦しさを覚え、音を上げそうになっていた。
「……」
普段の動きやすい仕事着とは正反対の、実家が用意した華美なドレスを見つめた。
……美人の姉と違って、私には似合わない。
「凄い熱気……」
七年に及ぶ戦いがついに終結した。王宮の大ホールには国中の貴族が集い、長かった戦が勝利で終わったことの安堵と喜びで満ち溢れていた。
「ちょ、ちょっと休憩……」
人酔いを覚え、ホールの中央から離れた高台の椅子に腰を下ろして一息ついた。
「せっかく来たけれど、これじゃ、無理ね……」
本当は、逢いたい男性がいた。
話すことはできなくても、せめてひと目だけでも叶うなら。
それだけを拠り所に来たけれど、この混雑ぶりに自分の見込みの甘さを痛感し、気持ちは下がる一方だった。
遠くから歓声が聞こえてくる。功労者の方々が受勲されているのだろうか。やがて、とりわけ大きな歓声が上がり万雷の拍手が響く。ホールは大層盛り上がっているのだろう。せめて自分も拍手をしようと立ち上がりかけた、そのときだった。
「……?」
遠くから、長身でひときわ逞しい体つきの男性がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
「騎士の方……? 歴戦の殿方は、遠くからでもわかるくらい鍛え方が違うのね。凄いわ……」
ぼんやりと独り言をつぶやいていた私は、最初気が付かなかった。
その騎士が、私目掛けて進んできていることに。
「ん? あ、あれ……?」
騎士が私のことを見ているような気がして、思わず振り返った。ここはホールの端。後ろにあるものは、壁と窓とカーテンだけだ。
黄色い花を手にしたその人の顔を、ようやくはっきりと認める――。
肌は日に焼け、こんがりと小麦色に染まっていた。
短く美しい銀髪の奥にのぞく、神秘的なトパーズの瞳。
そして、恐ろしく整った顔立ちとたくましい体躯。
彼は微笑みながら私の前に立つと、ひざまずいた――。
「受け取ってほしい。僕の太陽」
騎士は花を捧げていた。
わ、私に!?
な、な、なぜ!?
周囲からどよめきが聞こえたような気がしたが、それどころではなかった。
まるで永遠のように感じた混乱の時間を経て――私は一つの問いをようやく絞り出した。
「……ど、どちらさまですか?」
「あ、あれ?」
騎士様はきょとんとした。
そして、これは一本取られたね、というような顔をしてからニッコリと笑った。
その笑顔にハッとする――。
「それでは質問です」
騎士様は長い睫毛を閉じ、目を閉じて何やら小声で唱えた。
「よっ、と。……どうだい?」
その光が形作る、大きくて、黄色い鮮やかな花。
彼が持つそれと、そっくりな花。
ひまわり……。
「正解をどうぞ。――ヴァイオレット」
「レ、レイモンド、さま、なの……?」
呆然とつぶやいた私に、彼は不思議そうな表情を浮かべると、自分の髪に手を伸ばした。
「ああそうか、昔は髪が長かったよね。戦地だと色々面倒だから切ったんだよ」
今の彼の髪型はミディアムヘアで、さらりと揺れる前髪のシャープな印象が、とてもよく似合っていた。
「びっくりさせちゃったかい?」
「……」
「久しぶりだね、ヴァイオレット。……君は前よりもっと素敵になったね」
そう言って彼は、優しげに目を細めた。
一方私は、はしたなくも口をあんぐりと大きく開けたままだ。
印象が大きく変わっていたのは、髪と瞳の色。そして特に、その体つきだった。お伽噺に出てくる魔法使いのエルフのように儚げだった貴公子は、全身が筋肉で何回りも大きくなっていた。まるで冒険小説に出てくる強靭な戦士のようだ。
「あ、髪を切ったから、イメージがちょっと変わったかな?」
「ちょ、ちょ、ちょっと?」
い、いや。
髪の長さだけの問題じゃないのですけど……。
レイモンド様の、森の儚げなエルフから屈強な戦士へのジョブチェンジとか。
髪と瞳の色も昔とぜんぜん違うとか。
そもそもこの人だかりの中で、なぜ私のことがわかったのかとか。
「……」
全身に汗が滲んだ。私の頭の処理能力はもはや限界を迎えつつあった。
「――レイ、そんなに待ちきれなかったのか? まったく困ったやつだ」
愕然としたまま声の方に顔を向けると、金髪碧眼の貴人がお供を引き連れて立っていた。するとレイモンド様は立ち上って振り返った。
「殿下。彼女とは戦争の間、一度も会えなかったのです。致し方ございません」
「……!」
慌てて椅子から立ち上がりカーテシーをした。貴族の社交にほとんど出ていなかった私でも、この御方が誰なのかわかったから。
――王太子殿下だ。
「レイ、お前の気持ちもわからんでもないが、ヴァイオレット・モールダン嬢が驚いているじゃないか?」
えっ?
ど、どうして私の名前を?
さらに汗が吹き出している私の前に、王太子殿下が立った。
「面をあげてくれ」
「はっ」
「はじめまして。あなたのことはよく聞いている」
「わ、私めのことを……?」
「レイからだ。あなたは王立の研究所に勤めているらしいね。わが国の文化の発展に寄与してくれて、どうもありがとう」
「も、もったいなきお言葉……」
「殿下。私より彼女とたくさん話さないでください」
「ハッハッハッ!」
殿下は楽しそうに笑った。
「すまんすまん。ヤキモチか。まあしばし待ちたまえ」
殿下は後ろに控える側近に何やら告げた。
「白鷺の間を押さえた。今から使ってくれ。このホールの三階に行けばわかる。まあ、その、あまり暴走するなよ、レイ」
「ありがたき幸せに存じます。私にとっては、何よりの恩賞です」
「『護国の英雄騎士』は、相変わらず謙虚だね。じゃあごゆっくり!」
殿下は手をひらひらと振って、ホールの中央に戻って行った。
「――行こうか」
レイモンド様が大きな手を差し伸べた。
「……」
私は男性の手など、父のものですら触れたことがない。それでも、とにかくここから離れて周囲の目線から逃れたい一心で手を預けた。
しかし残念ながら、目線から逃れたいという願いは叶わなかった。
なぜかというと、三階に向かうためには大ホールを横断する必要があったから。
私は、レイモンド様にゆっくりとエスコートされながら――真っ赤な顔でうつむいてとぼとぼ歩く姿を、ひしめき合う人々の前に晒したのだった。
階段を登り辿り着いた三階は、大ホールとは打って変わって静けさが広がっていた。
レイモンド様はフロアに控える侍女に声を掛け、部屋の場所をたずねた。うなずいた侍女は、部屋まで直接案内してくれた。
「――こちらです。どうぞごゆっくり」
「ありがとう。ああ、待ちたまえ。こちらは未婚の女性だ。すまないが、近くにいてもらえるとありがたい」
「承知いたしました。すぐ側に控えております。何かご用があればどうぞお声がけ下さい」
部屋の近くに立った侍女とドアを開けるレイモンド様を見ながら、今度こそ落ち着けると安堵する。
パタン。
部屋の中に足を踏み入れる。そこはバルコニーのある、とても広くて豪華な客室だった。
もしかしてここって、外賓の方々のための部屋なのでは……。
ホールに敷かれていたものよりも、さらに深く足元が沈む絨毯を恐る恐る踏んだ。安堵したのは早計だった。今度は歩くことが怖くなっていた。部屋の中央には、洗練されたデザインのテーブルが置かれ、美しい食器や飲み物、新鮮な果実、軽食などが整えられていた。
い、いつの間に……。
怖いものが増えていく。
「何か飲むかい? お酒以外だと……うん。果実水があるね」
「あ、私が……」
レイモンド様は微笑みながら大きな手でやんわりと私を制すると、ご自分で私の分までグラスにつぎ、そっと渡してくださった。
「……」
ようやく胸の内に安堵が広がり、一息つく。
さっきまでは余裕がなくて、視線をまともに向けることすらできなかった彼を、グラスに口を付けながらちらりと盗み見た。
レイモンド様は、美麗な黒の騎士服を見事に着こなしていた。広い胸元に輝く勲章が、シャンデリアの光を受けてまばゆく反射する。その堂々たる男ぶりがあまりに格好よくて、国中の女性が憧れずにはいられないだろうと思った。
今日のパーティーの主役かもしれないのに、私なんかと一緒にいていいのかしら……?
「ホールの混雑は凄かったね、気分は悪くしていないかい?」
レイモンド様が眉尻を下げてたずねた。
「……大丈夫ですわ。ご心配いただき、ありがとうございます」
レイモンド様から漂う、大人の男性にしか出せない色気なようなものが凄い。勤め先の研究所は、戦の影響もあってほとんど女性ばかりだし、学生時代を含め交際経験のない私はさっきからドキドキしっぱなしだ。
果実水を半分ほど飲んだころ、レイモンド様はシュンとした様子で言った。
「今日はすまなかった」
「えっ?」
「君を驚かせるつもりはなかった。本当は手紙を送りたかったけれど、一刻も早くここに戻りたくてね。殿下の人使いの荒さは酷いんだ。実は王都に着いたのも、ついさっきなんだ」
「今日お戻りになられたのですか? あの、お体は大丈夫ですか?」
「ああ、体は割と丈夫な方な方だよ」
レイモンド様は白い歯を見せて笑った。疲れを感じさせない表情と逞しい体つきは、思い出の彼とは違って、強靭な生命力のようなものが全身から滲み出ていた。
「久しぶり、だね……」
「ええ……本当に……」
――それから私たちは、文通が途絶えてしまった後に起きた出来事を、ぽつぽつとお互いに明かした。あくまで他愛もないものを。彼の消息が途絶えた最後の激戦のことなどは、当事者でない私が聞くのは憚られた。
ただ、あの王太子殿下が――終戦日にめずらしく暴走し祝杯で酔いつぶれあげく、川に落ちて慌てて救助されたという話は、レイモンド様の迫真のモノマネにもつられ、不敬にあたると思いつつ思わず吹き出してしまった。
レイモンド様の髪と瞳の色の変化の理由は、彼本人が教えてくれた。
「――奇襲を受けた際に、敵の攻撃魔法から殿下を庇ったことがあってね。そしたら、いつの間にか変わっていた」
「そんな……!」
思わず口を両手で塞いだ。
「お体は、その……大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫だ。こちらも対抗して魔法を放ったからね。髪と瞳の色が変わった以外は、結局何事もなかった。本当だよ」
まるで街を散歩していたら、降ってきた塗料が服にかかっただけみたいに笑うレイモンド様。
なんて強さと幸運を持った人なんだろう……。
彼と一緒にいられる時間が戻ってきたことが、奇跡のようなことだとあらためてわかり、私は強い幸せを噛みしめた。
「ヴァイオレットは体の調子はどう?」
「はい、至って。元気ですわ」
「そうか」
……先日実家で起きたことは話さなかった。
このお祝いの場にふさわしくないし、いまは悲しい気持ちになりたくなかったから――。
「ちょっと暑いね。外に出ようか」
ひとしきり会話を終えて落ち着いた頃、レイモンド様が立ち上がり、外へ続く扉を開いた。誘われるまま私もバルコニーへ出た。灯りに淡く照らされた王宮の庭園を見下ろしながら、私たちは肩を並べて静かに佇んだ。
柔らかで涼しい風が、とても心地良かった。
「ヴァイオレット」
「はい」
「君に婚約の話はないのかい?」
「……まだありません。レイモンド様は?」
「僕かい? ないよ。家には戦争が終わるまで待ってほしいと伝えてあった」
「左様ですか」
「だから、君のお姉さんに袖にされてからは、何もない」
「あ、はい……。その件は大変申し訳ございません……」
姉が昔やらかしたことを思い出して、途端に気まずくなってしまう。
「ごめんね、冗談だよ。僕の本音を言うと――君のお姉さんとの婚約の話が流れたときは、ホッとした」
「えっ?」
意外だった。
当時の彼は、姉に対してどこか淡々とした態度をとっていた印象はあったけれど、決して不仲というわけではなかったと思う。
「僕の、昔の恥ずかしい話だけど、聞いてくれるかい?」
「はい」
「僕はね、君と出会ったころ、やさぐれていた」
「えっ……?」
思い出の彼はいつもニコニコと笑っていた。やさぐれているなんて思ったことは一度もなかった。
「僕に兄がいるのは知っているよね?」
「はい」
「文武両道の凄い兄さ。両親は決してそんなことをしなかったけど……。周りの人たちは、優秀な兄と冴えない僕とをよく比較してね。当時は色々と投げやりになっていた」
「……」
思いがけない告白に、思わず息を呑んだ。私は、彼のことを優しくて、隙を見ては笑わせようとしてくる明るい人だとしか思っていなかった。
「君のお姉さんとの婚約についても、僕には意志なんてなかったし、貴族の結婚なんてそんなものだろうと思って、ただ流されていた」
「……」
「でもね。僕は君に出会った。あのとき一人で泣いていた君のことが気になって、父上に聞いたんだ。君のことを」
「私のことを……?」
「次第に僕は、自分のことを恥ずかしく思うようになった」
「……恥ずかしい、とは?」
「君は、家に居場所がなくても、いつも前向きで、年下なのにどこか大人びていて。だけど子供らしく、知らないことへの好奇心でいっぱいだった。それに比べて僕は、つまらないプライドを持っているだけで、何もしようとしていなかった」
「……」
切なげに語るレイモンド様の表情は、まるでエルフみたいだった頃の彼と、まったく同じだった。
「今の自分のままで本当にいいのか、ってね。それから僕は、勉学や鍛錬に打ち込むようになった。あ、手品についてはどうだろう? さっきは上手くやれていたかな?」
「レイモンド様……」
いたずらっぽく笑う彼を見て、泣きそうになってしまう。
彼と過ごしたあの時間がなければ、私の心はとうに折れてしまっていただろう。今の私が寝食を忘れるほど花の研究に没頭しているのも、そのきっかけは、レイモンド様が昔見せて笑わせてくれた花の手品だ。
「戦に行ったのも自分の意志だよ。家族からは猛反対された。でも、一人前の人間として、何か成し遂げたいと思っていたんだ。……今振り返ると、なんだか青臭い感じで、恥ずかしいけどね」
彼は照れくさそうに笑った。
しかし彼は、前線から一度たりとも戻らなかった。公爵家の人間であれば、どうにでもできたかもしれないのに。彼は、自らに課したことを果たし終えて、今ここへ帰ってきたのだ――。
「ヴァイオレット。君に婚約したい人はいるかい?」
「……父からは、見合いを始めるよう言われています」
「君はそれをしたい?」
神秘的なトパーズの瞳が私を映していた。
「……したくありません。でも、貴族同士の結婚なんて、結局は家の都合ですから……」
「じゃあ仮に、だよ。僕が君と婚約したいって言ったら、君は喜んでくれる?」
「ええっっっ!?」
突然の爆弾発言にのけぞった。
「ちゃんとした理由があるのだけど」
「り、理由!?」
「――君が僕のことを、好きだと思っているから」
「ど、ど、どうして?」
「君に手紙でそう伝えられたから」
「ええっ!?」
て、て、手紙!?
変な汗を全身に滲ませながら脳をフル回転させる。文通の中で今まで書いてきたことを必死に思い出す。彼への募る一方の想いとは裏腹に、手紙には無難なことしか間違いなく書かなかったはず……!
「僕にはね、『探知』のギフトがある。戦地に行くまで、自分でも気付かなかったけど」
「ギ、ギフト……」
ギフトとは、魔法とは異なる特殊で多種多様な能力で、極めて希少なものだ。
でもそれが、一体どうして繋がるの!?
「そのギフトのおかげで、僕には魔力を持つ者を見分けたり、魔力の残滓から様々な情報を読み取ったりすることができる」
レイモンド様は顔を赤くしながら目を逸らした。
「……君は手紙にいつも押し花を添えてくれていただろう? あれだけ強い気持ちが込められたものを、毎回送られてしまうと、さすがに、ね……」
「!」
な、な、な、なんですってーっ!!!
当時、押し花を作る際はいつも、本文にはとても書けないレイモンド様への気持ちを、全身全霊で込めていた記憶がある。
そして私は「魔力持ち」……。
「も、も、もしかして、まさか、最初の手紙から……」
「うん。最初の手紙から数えて、三年間ずっとだね」
誰にも知られてはいけないはずの私の初恋――。
それはよりによって、その相手にだけ長年の間、ダダ漏れ状態だったのだ……!
「おっと!」
真実を知って卒倒しかけた私は、レイモンド様の両手に抱えられていた。
「ヴァイオレット、僕と婚約するのは嫌?」
至近距離の彼を直視できず、力強い腕に抱き寄せられたまま下を向く。
「い、嫌なんてわけありません。……嬉しい、です。でも私なんて。庶子ですし、花をいじってばかりの役立たずで、レイモンド様にはふさわしくありません」
「庶子かどうかなんて、僕には関係ない。それに君は今の仕事が好きじゃないか。ずっと続けて欲しい」
そんな……。いくらなんでも私に都合が良すぎる。
「君と文通をしていてね。手紙の押し花からはいつしか、君の仕事への満ち溢れるような希望も感じられるようになっていた」
「……」
彼の瞳は切なげに揺れ、その美しさに吸い込まれてしまいそうになってしまう。
「前線では色々とつらいこともたくさんあった……。でも僕は、君からの手紙を何度も読み返しては、戦争を終わらせて君のもとへ生きて帰ってみせると、心を奮い立たせた。僕が生き延びて、今ここにいるのは、君のおかげなんだ」
「そんな……」
私だって……。
つらいときは、レイモンド様から届いた手紙を何度も読み返し、そのたびに自分を励まそうとしていた。
――そのことを伝えたいのに。
どうしても言葉が心に追いつかなくて。涙ばかりが溢れてきて。
それが悔しくてまた喉が詰まってしまう。
「ヴァイオレット――僕は君と家族になりたい。これからもずっと共に生きてほしい」
「……」
うなずきながら、彼の広い胸に頭をそっと預ける。
そして、もういない母を除けば初めて……。
人前でずっと泣き続けた――。
レイモンド様と再会したパーティーの翌日。いつものように研究所で働いていた私は、外出の際にふと御婦人方の会話を耳にした。
「ねえ聞いた!? あのグレンウィル公爵家のレイモンド様が、美人のご令嬢の前にひざまずいて、なんと求婚なさったらしいわよ!?」
「ええ! 聞いたわ! 本当に羨ましいわ!」
「あの『護国の英雄騎士』様よ! 王太子殿下からのご信頼も大層厚いそうじゃない。これから大出世するのかしら? 羨ましいわねぇ!」
……妙な汗が滲む。
噂が尾ひれをつけて広まっていた。
その美人の令嬢とやらは、架空の存在です……。
アパートに帰ると、レイモンド様から手紙が届いていた。
『僕たちのこれからのことで、色々と準備している。一週間、時間をもらえないだろうか?』
そして一週間後、私はレイモンド様と一緒に馬車に揺られていた――。
私たちが着くと、品のある年配の男性が先に待っていた。
「ニコラス殿、ご足労痛み入ります」
「いえいえ、レイモンド殿。……そちらのお嬢さんは?」
「お初にお目にかかります。ヴァイオレット・モールダンと申します」
「私の婚約者です」
ためらいなく言うレイモンド様に、つい顔を赤らめてしまう。
「ほほう、こちらの家の方ですか……。では、本日の用件について、ヴァイオレット様はご存知でいらっしゃるということで、よろしいですかな?」
ニコラス様は厳格そうな印象に反して、気遣うような優しげな表情を浮かべた。
「存じ上げております。今日はどうぞ、よろしくお願い致します」
「――わかりました。何かあれば、ご遠慮なくお申しつけくだされ」
いま、私たちは実家の屋敷の前に立っていた。
今日ここに来た目的については、レイモンド様から事前に聞いている。ちなみにレイモンド様によると、ニコラス様はベテランの凄腕徴税官とのことだ。
「ニコラス殿、この度は無理なお願いをさせていただき、大変すまなかった」
「ほっほっほっ。殿下からの急なご依頼に、徴税局の者たちはずいぶん慌てておりましたわい。しかし、至急のご用件に迅速に対応するのも、我らの務め。若い者たちは、いざという時の肝の据わり方がまだまだですな」
ニコラス様は微笑んだ。
「それにしてもこの度の件、どのように気付かれましたか? さすがは『護国の英雄騎士』ですな」
「とんでもない」
レイモンド様は穏やかに首を振った。
「長引く不況で、今回のようなことがよくあると、耳にしておりました。あくまで仮説にもかかわらず、至急かつ丁寧な調査を行っていただき、ありがとうございました」
「いえいえ、戦中で人手不足だったとはいえ、こちらのチェック漏れですから」
ニコラス様は続けた。
「わが国の未来を背負う方たちのためになったのであれば、老骨が生き延びてきた甲斐があるというものです」
私たちは邸内に足を踏み入れた。
「よ、よ、ようこそお越しくださいました……」
レイモンド様と並び、そしてきちんとドレスを身にまとった私を見て、執事は驚愕の表情を浮かべていた。このドレスは、レイモンド様から贈られたものだ。
応接室に入ると、父と着飾った姉がいた。
「な、な、な、なんで、お前がいるのよ!?」
……彼らは先日のパーティーで、私のことを見なかったようだ。もしかすると彼らは、レイモンド様が姉に再び婚約を求めてきたのかと思ったのだろうか……。
「レ、レイモンド殿。ほ、本日どのようなご用件で?」
父も明らかに動揺していた。
「ケネス殿。お久しゅう……。本日は恐れながら、ケネス殿のお嬢様と婚約させていただきたく、参上仕りました」
「こ、婚約とは、キャロリンとでしょうか?」
「違いますな」
いつものレイモンド様とは違う、冷たい声色が部屋に響いた。
「――だが、その前にお話させていただきたいことがある」
レイモンド様はニコラス様の方を見た。
「はじめまして、モールダン伯爵。徴税局のニコラスと申します」
「ちょ、ちょ、徴税局……!」
お父さまの顔色はみるみる蒼白となり、ニコラス様はテーブルの上に素早く書類を並べた。
「そのご様子では、本日の用件をおわかりのようで。……ちとやりすぎましたな。これだけの額を五年間続けてともなると、弁解は受け入れられません」
「……」
絶句する父――。
戦争の不況で伯爵家の運営が苦しくなっていた父は、長年に渡って多額の脱税をしていたのだ。
「こちらが追加徴収額と支払期限です。本件は、計画的で極めて悪質なものとみなされましょう。もし支払いが滞れば、爵位の返上だけでは済まないでしょうな」
書類に記載された額と期限は、今の伯爵家ではとても対応できないだろう。もし対応できなければ、爵位の返上に加えて、父には懲役が課せられことになる。
……ぶるぶると震える父の姿を目にし、胸の内に複雑な感情が渦巻いた。
私を常に抑えつけ、恐れの象徴であったその人が、今は下される罰に怯え、破滅の淵に立たされていた。
「ケネス殿。一つ提案がある」
レイモンド様が静かに続けた。
「爵位の返上は覆らないだろうが……。私の家から管理人を送り、伯爵家を観察下に置く。それにより、期限の猶予を得た上で完済すれば、懲役は逃れられるかもしれない」
「……」
父はレイモンド様にすがるような目線を送った。
「ただし、二つ条件がある。私とヴァイオレットとの婚約を認めていただくこと。そしてもうひとつ。ヴァイオレットとの縁を、金輪際切っていただきたい」
「ふ、ふ、ふざけないで!」
姉が突然立ち上がり私をにらみつけてきた。
「なんで! なんで! なんでなのよ!? お前だけがいい思いするなんて、許せないわ!」
「……」
伯爵家の現状を気づいていなかった姉にとって――家がこれから没落すること、そして、地味な私が「護国の英雄騎士」様と婚約するなんて話は、到底受け入れられないのだろう。
「キャロリン、控えなさい」
「ふざけないで!」
姉は父の制止を無視し、淑女の仮面をかなぐり捨てて掴みかかってきた。
私は目を伏せた。
「――君は恥を知らないのか?」
顔を上げると、レイモンド様が姉の腕を押さえていた。
「今回の話は、ヴァイオレットと話し合って決めたことだ。君たちがずっと見下してきた彼女は、君たちのことをまだ、家族だと思っているというのに」
「なによ!」
姉はレイモンド様の腕を勢いよく振り払った。
「そいつのどこが良いのよ! アンタたちに助けてもらわなくたって、この私がいれば、貴族の誰かが手を差し伸べてくれるはずだわ!」
「……キャロリン・モールダン嬢。いいかい」
レイモンド様は言い聞かせるように言葉を続けた。
「かつて、君の交際相手同士による傷害事件があったよね?」
「……それが何よ?」
「君は知らないかもしれないが、彼らは喧嘩両成敗ということで、その後に前線に送られた」
「……」
「彼らは汚名をそそがんと奮起した。何年もずっと、だ。ある日、王太子殿下が彼らにお褒めの言葉をかけられたとき、彼らは涙を流していたよ」
「だから、それが何なのよ!?」
「この話は、戦地にいた貴族なら誰もが知っている。だからね、君の名も有名なんだ。もっとも、悪い意味で……ね」
「なっ……!」
「そして、皆が王都に帰ってきた。率直に言って、君にこれからまともな縁談があるとは思えない」
「な、何ですって! そんな昔のことをどうして今さ」
姉の言葉は、それ以上続かなかった。父の指示を受けた執事たちが姉を押さえ込み、部屋から退場させたのだ。
「……レイモンド殿、見苦しいところをお見せし、大変申し訳ございません。ご提案を受けさせていただきます……」
力なく頭を垂れた父の前に、レイモンド様は無言で二通の書類を出した。一通はレイモンド様と私との婚約の承諾。そしてもう一通は……。
父はそれらに目を通すと、震える手でどちらもサインをした。
もう一通は伯爵家と私との絶縁状だった。これで、今後この家で何が起こっても、父と姉は私に一切関わることができなくなる。
「よろしいか?」
「はい」
隣にいるニコラス様がうなずいた。彼は公証人の資格もお持ちとのことだ。
「今日の用件は以上だ。ヴァイオレット、大丈夫かい? 行こうか」
いつもの声色に戻ったレイモンド様と視線を交わした。
「少しだけお待ちいただけますか?」
「うん」
父にまっすぐ顔を向けた。
「お父さま。この家に住まわせてくださったこと、そして私に貴族としての教育を受けさせてくださり、さらに就職をお許しいただいたこと、感謝しております。……今まで、どうもありがとうございました」
「……」
「……どうかご自愛くださいませ」
虚ろな目をした父に、ゆっくりと頭を下げた。
――本当は、言いたことがたくさんあった。
けれど、いつものように肝心な時の言葉が出なかったわけではない。
二度と会うことのない家族との別れは、せめて少しでも穏やかでありたい。
そう思ったから――。
間もなくして伯爵家の爵位の返上が決まった。
レイモンド様の家からモールダン家を管理する人たちが派遣され、財産は全て差し押さえられた。今後は管理者の指導の下、父はひたすら支払いを続ける。支払いが終れば、父は一人の平民として生きていかなければならない。
姉のたくさんのドレスや宝石は、お金の用意のため真っ先に売りに出されたらしい。しかし、処分作業をしている人に姉が掴みかかって事件となり、この話が社交界に広まったことで、姉の貴族令嬢としての立場も完全に失われた。
今の姉は部屋に引きこもり続けているとのことだ。
これから、父と姉がどうなるのか、私にはわからない。
何か言える立場でもない。
だけど彼らがいつか、平穏な日々を過ごせるようになってくれたらと思う――。
「おーい! ヴァイオレット! そろそろ行こう!」
「はい! ただいま参ります!」
レイモンド様が待つ馬車に向かって走った。
――あれから私は、寮を出てレイモンド様の新居に引っ越した。王都の一等地に用意されたお屋敷を初めて見たとき、実家以上の広さと豪華さに唖然とした。けれど、私が一番感激したのは二階にある書庫だった。本のためだけに丸々とスペースが設けられ、本棚がそびえ立つ部屋を見てつい叫んでしまった。
『す、す、凄い!』
『ふふっ。君が手紙でよく、植物図鑑のことなどを話していたから。喜んでくれるのはこれかなって』
喜ぶどころじゃない。大感激だ。
『さ、最高、です……!』
『よかった』
私の反応に、レイモンド様は優しげに目を細めた――。
「――お待たせしました」
「大丈夫だよ」
馬車の前に立ち、朝日に輝きながらニコリと笑うレイモンド様。
黒い騎士服もとんでもなく格好よかったけど、いま彼が着るシックな濃紺の出仕服も、彼の大人の色気を隠すどころか、むしろ引き立てていた。
「……」
つい赤くなってしまい下を向いた。
「あれ? 大丈夫かい? ヴァイオレット」
「……」
顔を上げると目に映ったのは、黙り込む私を心配そうに見つめる、彼の優しい瞳――。
子どもの頃に一人で泣いていたときに現れた、思い出の彼の姿が脳裏によぎる。
胸がいっぱいなまま、そっと首を振る。
「……つい昔のことを思い出してしまいまして」
「えっ? 昔のこと? なんだい、教えてよ」
「ふふっ! ……秘密です!」
レイモンド様が手を差し伸べた。
「行こうか!」
大きくて温かな彼の手に自分の手を預け、馬車に乗り込んだ。王宮に着いた私たちは共に馬車から降りた。お互い王宮勤めなので、毎朝一緒に通勤しているのだ。
「ヴァイオレット」
「はい」
「帰りも送るからね」
彼は私の手を取ると、そっと口づけた。
「……!」
「またね!」
手を振りながら去る彼の大きな背中を見つめた。
心臓が早鐘を打っていた。
あのダダ漏れの色気に早く慣れないと、日常生活に支障が……。
そんなことを考えながらしばし立ちすくんだ。
「……あ! もう時間!」
我に返った私は、職場に向かって駆け出した。
お読みいただき、本当にどうもありがとうございました!
花に関するお話を何か書けたらいいなと思ったことが、この作品のきっかけでした。ヴァイオレットには、これからたくさんの幸せが訪れてほしいですね!
楽しんでいただけたなら嬉しいです! それと、もしよろしければ現在連載中の作品もチェックしていただけたら幸いです。(下の方にあるリンクから直接飛べます!)
今後とも、よろしくお願いします!