16話
「あ、お兄様見て見て! あそこに蝶々が飛んでるよ!」
「蝶なんて、さしても珍しくもないだろ」
「珍しくなくてもいいの!」
素っ気ない態度の兄に、リーネはリスのようにぷっくりと頬を膨らせた。
そんな二人を温かな眼差しで見守る、付き添いのメイドたち。
この日、メルヴィンたちは湖の畔を訪れていた。
リーネが突然王宮にやって来て、
『お兄様! 今日はとってもいい天気だから、私とピクニックに行こ!』
と、読書に耽っていたメルヴィンを、強引に部屋から連れ出したのだ。
そしてメルヴィンも特に文句を言わず、素直に従った。こちらが拒否しようとしても、そういう時に限って人の話を聞かない妹なのだ。
「お二人とも、そろそろ昼食にいたしましょう」
「はーい!」
メイドたちが地面にピクニックシートを敷き、メルヴィンには小さな椅子を用意する。
昼食は、リーネの離宮で働くシェフお手製のサンドイッチ。具の種類が多く、フォアグラやトリュフなどの、高級食材も使用されている贅沢なメニューだ。
それを食べ終えたら、近くの森を散策しに行く。大型の肉食獣はいないらしいが、万が一に備えて近衛兵数人も同行させる。
「銀色の薔薇のお姫様も、こういう森に暮らしてたのかなぁ……」
周囲をキョロキョロと見回しながら、リーネはぽつりと呟いた。
「何だ、それは?」
「私が小さな頃に読んでいた絵本の主人公だよ! 銀色の薔薇が神様の力で人間に変身して、王子様と恋をするのー!」
両手を握り締めて、夢心地な様子で語っている。
「……お前は、今でも小さいだろ」
「小さくないもん! もう七歳だもん!」
「分かった分かった。もう十分大き……リーネ、止まれ」
「え?」
突然肩を掴まれながら呼び止められて、リーネがきょとんと首を傾げる。
一方メルヴィンは、前方を訝しげに睨みつけていた。
「メルヴィン殿下、如何されました?」
「……今、あの辺りを白い人影が通って行ったように見えた」
「本当ですか?」
木々の狭間を指差すと、一瞬で近衛兵たちの顔つきが変わる。王族を狙う野盗が、うろついている可能性が高かった。
「すぐに畔まで戻り、馬車に乗りましょう」
「…………」
「殿下?」
「……正体を確かめたい。ついて来て欲しい」
「で、殿下のご命令であっても、承れません。もしものことがあれば……」
「そうか。だったら、俺一人で見に行って来る」
そう言いながら歩き始めるメルヴィンに、兵士たちは肩を竦める。
強引なところは、兄妹そっくりだ。
だが何があるか分からない以上、リーネを連れては行けない。なので、二手に分かれることにした。
「リーネ殿下は、我々と先に馬車へ戻りましょう」
「よく分かんないけど、分かった! お兄様のこと、お願いねー!」
リーネはメルヴィンの護衛役に手を振りながら、元来た道を戻って行った。
そして残りの者たちで、周囲を警戒しながら奥へと向かう。
(野盗の類いではないな)
ああいった人間特有の、澱んだ気配が感じられない。
だとすれば、ただの通りすがりの平民。
頭の中では既に結論が出ているのに、何故かこの目で確かめずにはいられなかった。
「殿下が人影を見たというのは、この辺りですか?」
近衛兵たちが周りを見渡すが、それらしき人物は見当たらない。
……だが。
(これは……)
メルヴィンは、険しい表情で地面を見下ろしていた。
真新しい血の跡のついた枯れ葉が、ある方向に向かって点々と続いているのだ。まるで道しるべのように。
「殿下……?」
近衛兵たちを待たずに、その血痕を辿って進んでいく。最初はゆっくりだった足取りは、次第に早くなっていった。
そして。
「…………?」
数メートル先で、誰かがこちらに背を向けて佇んでいた。
腰まで伸びた銀色の髪と、純白のウェディングドレス。
何故、こんなところに花嫁がいるのだろうか。
眉を顰めながら、メルヴィンが口を開こうとした矢先、花嫁の姿が消えた。
いや違う、飛び降りたのだ。
追いついた近衛兵たちも、その瞬間を見ていたらしく、「あっ!」と声を上げた。
「あの下は川になっているんじゃ……!」
その呟きを聞いて、メルヴィンは溜め息をつく。
「……彼女を救助してくれ。今ならまだ間に合うかもしれない」
「か、かしこまりました!」
顔も名前も知らない相手だが、このまま放っておくわけにもいかなかった。




