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2 再び銭湯

 


 秋台実咲(あきだいみさき)の朝は普通。早すぎもせず遅すぎもしない。人でいっぱいの電車に乗り職場へと向かう。勤務場所は都内の駅ビルの書店。彼女の担当は雑誌であるため人より少し出勤が早かった。


 雑誌は日曜以外ほぼ毎日発売される。日によって量は違うが、それらを開店前にすべて陳列しなければならない。開店は十時。それまでの一時間半が勝負の時間であった。


 雑誌は書店の花形であり、出版不況雑誌不況の時代においてもなお最も売れるジャンルであり、必然仕事量も多い。毎日新しい商品が発売される。毎週、毎月それらが入れ替わる。つまりほぼ毎日棚の商品の入れ替えも行われる。本は、紙は束になるととにかく重い。書店というのはどこか暇で牧歌的な印象があるが、特に雑誌担当はかなりの肉体労働であった。彼女の勤め先が業界でもそこそこのチェーンであり、その中でも比較的面積や売上が多い店舗であるため客数も扱う商品数も多く、仕事は常に忙しかった。その中でも雑誌担当がもっとも仕事量の多いポジションであった。


 とはいえ忙しさは実咲にとってはありがたかった。忙しいと時間が早く過ぎる。暇で暇で一向に時計の針が進まないよりは多少イラついても忙しい方が精神的疲労は少ない。加えてしなければいけない作業が山積みであるため必然レジや客対応の時間は減る。モンスターたる客の相手をする機会が少ない点は助かるが、彼女も身分は正社員。パートとは異なりクレームへの対応などもしなければならなかった。


 午前は開店前に一日の新刊雑誌を出し終えると、レジや返本作業をこなす。それであっという間に午前は過ぎる。昼に弁当を食べ、一服をする。弁当は手作りだが、基本は前日の夕食の残りと冷凍もの。とにかく手間を減らした内容であった。


 午後は午前に比べれば客対応も増える。とはいえ雑誌は一日中忙しく、前日に翌日発売の雑誌がやってくるのでそれを翌朝陳列するための準備に移る。面倒なのが付録をつける作業であった。別々に梱包されてきた雑誌と付録を開封し、それをセットにしてゴムで止める。その作業が恐ろしく面倒で手間がかかる。その間にもレジの応援や社員としての仕事もあり、休む暇などまったくない。実咲自身、書店でバイトを始める前はまさかこんなに忙しいとは思ってもいなかった。そのくせ給料は小売りでも一二を争うほど低いのでやってられないという気分にもなる。



 退勤は五時半。とはいえその時間に帰れたことなどほとんどない。基本的には一時間は残業をしてからようやく帰路につく。一時間で済めばまだいい方であった。タイムカードを押してからまた一服をし、駅に向かい家へと帰る。駅から家までの間にスーパーやドラッグストアに立ち寄って買い物をする、というのが日常であった。




 実咲はもともと大学生の頃からその書店チェーンの別店舗でアルバイトをしていた。時給は恐ろしく安かったが、それでも書店なら静かだし客対応も少なく楽だろう、というイメージで初めたわけであったが、すぐにそれは思い違いだと知ることになる。


 書店は案外客層が悪い。クレーマーの高齢男性はやたら多かったし、週に一度は必ず万引き犯が捕まる。盗撮も日常茶飯事だ。授業後、夕方からのバイトなどであればほぼレジ業務であったが、立地や駅の利用者数、時間などの関係もあり場合によっては長蛇の列ができることもある。立ちっぱなしで休まる暇のないレジ業務は地獄であった。そしてそれは社員となり一日の勤務に変わることでより激化した。



 実咲も当初は大勢と同じように就職活動をしていた。しかしそのあまりの面倒臭さ、馬鹿げた仕様、そして不採用の連続に次第にやっていられなくなった。元来かなりの面倒くさがりなので「なんでこんなことをしてるんだろう。こんなことに意味があるのだろうか」という思いに囚われる。そもそもしたい仕事だって別にないし、意欲があって就活をしているわけでもなかった。別に働ければ、お金を貰えれば、そしてついでに楽であれば、それでいいのだ。


 そんな時にバイト先から受けたのが「バイトから社員になってみないか」というオファーであった。勤務先の社員も、そのほとんどがそうしたバイト上がりの社員であった。会社からしても一から教育する必要がなく、ある程度人間性も分かっていて勤務態度にも問題がないので安牌である、という思惑があるわけだ。


 実咲は、これ幸いとその申し出に飛びついた。


 元来面倒くさがり。また一から仕事を覚え、人間関係を構築するなど考えただけでも面倒くさくて仕方ない。書店はきついし客もうざいしなにより給料が安かったが、それでもこの先に待つ数多の面倒臭さよりもはるかにマシであった。職場もうざいお局などもいるにはいたが、社員は基本的に真っ当で好感が持てる人ばかりであったことも大きい。なにより書店には基本的に「飲み会」というものがない。半日店を開け、社員にも早番遅番といるのだから退勤時間が異なるわけである。そうであれば集まって鬱陶しい飲み会などをする機会も少ない。おまけにほとんど年中無休。休みだってシフトによって異なるのでかぶることもない。それは実咲にとっても非常にありがたかった。


 そうして大学卒業後も都内の書店で働き続けた実咲であったが、その業務内容はバイトの時代と比べ物にならないほど激務であったことはいうまでもない。しかし今更何かを変えるなど面倒くさく、他にやりたいこともなく、そのままこの歳まで仕事を続けてきたというのが彼女の大学卒業後の数年であった。そうして約二年前に初めての異動を経験して今の職場に移り、それに合わせて引っ越しもしたわけであった。



     *



 仕事を終え電車に乗った実咲はふと思い出しスマートフォンを取り出す。そうしてLINEの真新しい美樹という名前とアイコンを見る。連絡は来ていない。さて、どうするか……


 昨日は給湯器のショックや微量の酒もあって、流れの中で連絡先を交換したし明日も一緒に、などと話してしまった。別にそれはいいのだが、そういう話を真に受けて連絡してもいいものなのだろうか。相手はまだハタチの花の大学生で、自分はアラサーの社会人。あまりにも立場が異なりすぎている。とはいえ、自分も相手も毎日に必要な入浴として銭湯に行くだけ。別にそれ以上の特別などない。一緒にどこかに遊びに行こうというわけでもないのだ。なら別に、深く考える必要もないのではないだろうか。


 実咲は考え、ひとまず「今帰りの電車。銭湯行くなら7時~10時までの間だろうけどどうする?」などと書いてメッセージを送る。「どうする?」などと相手に投げてるあたりが卑怯だな、などと自分でも思うが、不安はあるので仕方ない。とはいえ自分の方が圧倒的に年上でしかも社会人なのだから相手に任せずリードするような部分があってもいいのではないか、などとも考えるが、そうやって悩むのも実行するのもひたすらに面倒くさい。自分は行く。相手も来る。じゃあ一緒に入る。それだけでいいじゃないか、などと思っていると、すぐに返信がきた。


「お仕事お疲れ様! 私はいつでもいいから実咲さんに合わせるよ! 一日働いて疲れてるだろうしお腹も空いてるだろうから好きな方優先でどうぞ!」


 などとかなり親しげな文章である。自分から「敬語じゃなくていい」と言ったとはいえ、一日でこの距離感なのはほんと若さというか、あの子の人間性もあるんだろうな、などと思いふっと笑う実咲であった。



     *



 家に着く。ふと給湯器のパネルが目に入る。昼に大家に電話をするのを忘れていた――否、意図的に後回しにしていた。別に今でなくてもいいか、急ぎではないし。幸い季節的にもお湯が出なくてもさほど問題はない。とりあえず風呂の問題は解決した。銭湯の広い浴槽に足を伸ばして浸かった結果今日は普段より疲労が取れていた気がする。一度あれを味わってしまっては、家の狭い風呂に入ろうという気は失せてくる、というわけであった。


 銭湯を夕食の後にするか前にするか。それは悩ましいところであった。普段であれば料理、食事が先で後から風呂に入る。しかし銭湯の場合はあまり遅くに外を出歩きたくない――というより相手を出歩かせるのも悪い。しかし連絡すると「私は全然何時でもいいよー」と返ってくる。まあそうだろう。そうと決まれば。



 実咲は超高速で夕飯の支度を始める。米は冷凍。おかずはタッパーに作り置きがある。汁物は昨日の残りが冷蔵庫に。元来怠惰な彼女は料理も「いかに回数を減らすか。洗い物を減らすか。工程を減らすか」をもとに行っている。料理は得意だし、嫌いではない。それに付随する諸々が面倒くさいだけだ。何故作って食べるだけでこんなにも物と作業が後から出てくる。


 ともかくとして米は基本無洗米を大量に炊いて冷凍。おかずも冷凍と休日に作り置き。そこになんでもぶちこむ万能汁物を作って二日かけて食べる。そして空いた期間は外食や弁当といった具合であった。


 食事を終えると洗い物は後回しに、早速銭湯へ向かう支度をする。一応外出もセーフなジャージにパーカー。外すのを忘れていたピアスも外す。勤務中はもちろん外していたが、行きと帰りには着けている。それは染めた髪色(明るすぎない茶髪)同様、不審者・痴漢対策の一つであった。自分の、そして女性たちの経験上、髪は染めている方が、明るいほうが舐められない。痴漢にもあいにくい。ピアスもそうした効果を高める。店のルール上髪色は明るすぎずピアスも禁止ではあったが、それでも茶髪は黒髪に比べれば効果があると思う。


 夜道を、しかもこんな格好で、銭湯の往復という住所が近いことを示しながら歩く以上、防犯も絶対である。催涙スプレー、防犯ブザー。ただ歩くだけでも命がけであった。



 昨日より遅い時間帯であるからか、道をゆく人や車の数は少ない。道順も一直線ではなくなるべく大通り、人通りの多いところを通るようにする。そうして「あっちは大丈夫だろうか。毎日来てるみたいなことは言ってたけど、そんな離れてないなら迎えにでも行ったほうが良かったかもしれない。というか家知らないけど」などと考えていると、銭湯に着く。


 LINEを見ると着いたという連絡はない。別に先に入っててもいいのだが、丁度タバコも吸いたいしと外の喫煙所でタバコに火をつけ「着いた。タバコ吸ってる」とメッセージを送る。そうして二、三煙を吐いていると、並木美樹(なみきみき)が姿を表した。


「こんばんはー」


「どーもどーも」


「それ一本目?」


「うん。今来たとこ」


「じゃあ私も一本いっとこうかな」


 と美樹は横に並ぶとタバコに火をつける。


「夕飯もう食べた?」


「食べたよ。実咲さんも?」


「うん。いやさ、考えたらそんな遅くに外出歩かせるのも悪いかなって」


「そこはお互い様だよね。実咲さんはだいたいいつも何時頃帰り?」


「今日と同じくらい。着くのは早くて6時半、遅くて8時過ぎとかかな」


「あんまり夕飯遅いと大変だもんね。でも安全第一だし。次は早い時間、ご飯前の方がいっか。私もバイト次第だけど」


「そうだね。そっちはちゃんと防犯なんか持ってんの?」


「スタンガン。学校の先輩にもらった」


「ガチじゃん」


「ガチだね。でも私もずっとここ通ってるけど今までそういうことはなかったからね。怪しそうなのはあったけど」


「へー……まあ気をつけないとな。じゃあ風呂入りますか」


「そうだね。さすがに夜は寒いし」


 二人はそう言い、タバコの火を消すと銭湯の中に入るのであった。



     *



「あー……やっぱ足伸ばせるのはいいよねー」


 と湯船に浸かりながら実咲が言う。


「私は毎日ここだからそのありがたみもなくなっちゃったな」


「あーそっか。でもやっぱさ、今日はいつもにくらべてかなり疲れ抜けてた気がするね」


「よかったね」


「ほんと。これって温泉?」


「らしいよ。昔掘り当てたの引いてるって。週に一回薬湯っていうのもあるよ」


「それは楽しみだなー。今日は授業?」


「もあったけどほとんど課題やってた」


「へー。今三年?」


「二年だね」


「二年か。あ、でももうハタチなんだよね。誕生日めっちゃ早いな」


「あー、ううん。私一年浪人してるからさ。誕生日は9月」


「じゃあ二年でもうハタチでも普通か。言えたらでいいけど美大ってどこ?」


「東京芸大」


「え、やばくない? 多分一番すごいとこでしょ?」


「というわけでもないと思うけど、国立だからね。そういう意味では門は狭いかな。うちも国立以外は厳しかったからさ。一年だけ浪人許してもらって、なんとか受かったよね」


「そっか。それはほんとおめでとうだな。美大もやっぱり何々科とか専攻あるの?」


「うん。私は一応日本画」


「へー。詳しくわかんないけどすごそうだね」


「ていっても私もみんなも色んな絵書くけどね。絶対昔ながらの日本画ってわけでもないし。授業も色々やってるから」


「そういうもんか。美術は全然詳しくないけどたまーに美術館とかは行くかな。それこそ上野の」


「ほんと?」


「休みの時になんもすることないなーって。あそこなら美術館も博物館もあるし公園でぶらぶら時間つぶせるしね。目的なく行ってもなんかしらあるからさ」


「そっか。確かにそういうのはいいかもね。じゃあ今度休みの時美術館行かない? 博物館でもいいけど」


「上野の?」


「じゃなくてもどこでもいいし」


「そうだね、いいよ。私は基本日曜は休みだから。あと他平日休みの時もあるけど」


「わかった。書店って言ってたよね? お店なのに日曜休みなんだ」


「私担当が雑誌だからさ。雑誌って日曜日入荷ないのよ。だから担当の仕事ほとんどないしいてもしゃあないって。というより平日休みのほうが困るって話だけど」


「へー。でも日曜なら私もほとんど大丈夫だから丁度いいね。書店って大きいとこ? 美術の専門書とかはあるかな」


「あー、担当じゃないし階違うから詳しくはないけどあるにはあるよ。美大の人間から見てどれくらい充実してるかはわからないけどさ。当然専門店に比べれば全然だし」


「へー。でも階が違うってことは結構広いお店なんだね。今度行ってみたいから場所教えてくれる?」


「まあ普通の本屋だけどね。後でLINE送るわ」


 実咲はそう言い、天上を見上げて一つ息をつく。


「――あのさ、美樹はさ、いつもそういう感じなの?」


「そういう感じって?」


「いやさ、初対面の相手に、しかもこんな銭湯で偶然会っただけのような人間にさ、すごい親しげっていうか、人懐っこいというか……まあ関係を、深めようとする感じ」


「んー、わからないけどそういう方が面白いしね。色々好奇心持って世界を広げてったほうが楽しいし。この銭湯だってその一つだけど、そこで出会う人とかものだって面白いから、なるべくちゃんと知りたいなあってのは思うかな」


「そっか……」


「でも実咲さんはちょっと別だよ」


「え?」


「私だってそんな誰とでも仲良くなりたいとか思うわけじゃないし、そうやって行動するわけじゃないから」


「あ、そう」


「うん。そりゃ銭湯でも若い女の人は珍しくてなんか嬉しかったってのもあって声かけたけどさ、でもやっぱり実咲さんがビールくれた時この人と仲良くなりたいなあって思って」


「――餌付けじゃん」


「違う違う! 別に物に釣られたとかじゃなくてさ、すごいいい人だなーって。単純にこの人ともっとおしゃべりしたいなーって思っただけだから」


「へえ。そんな事言われたの初めてな気がするわ」


「そう?」


「うん。まあでも、私も誰彼構わずビール分けるなんてのは多分ないからなあ」


「お、じゃあ私も別だ」


「はは、だね。まあ、なんか一緒に飲みたくなる何かが美樹にはあったからさ」


「奢ってもらって生きられるから得だねえ」


「やっぱ餌付けじゃん」


「大丈夫、今度は私がビール奢るから」


「はは、じゃあよろしく。ま、今日はいいから今度休みにどっか行ったときにでもね」


 実咲はそう言い、隣の美樹に笑いかけるのであった。




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