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1 出会い

 


 仕事から疲れて帰ったら自宅の給湯器が壊れてお湯が出ない。それが今の秋台実咲(あきだいみさき)の状況であった。


 疲労。それも肉体労働による全身への蓄積。仕事なので当然精神的疲労も一日でかなり溜まっている。動いて汗もかいた。これが夏なら冷たい水のシャワーだけでもなんとかなったが――とはいえやはり湯船に浸かって癒やされたいという思いはあったが――まだ季節は春。四月になったばかり。今日は途中まで雨も降っていて、風もあってと肌寒い。駅から歩いてきたこの間にも体は芯まで冷え切っていた。だから当然温かいお風呂を楽しみに帰ってきたのだ。食事よりもまずは風呂。温かいお湯で温まりたいと。



 それが、これ。この仕打。お湯が出ない。うんともすんともお湯が出ない。水が温まらない。給湯器の表示は温度を正しく示していない。デジタル表示が数字ではなくバラバラの記号を示している。


 何故今。何故今日。実咲はがっくりと肩を落とす。もはや怒る気力すら湧いてこない。そもそも彼女は性格上「機械に対して怒る」などという無駄なことはしない。怒るのすら面倒くさい。煩わされるというのが面倒くさい。元来かなりの面倒くさがりであった。


 そんな彼女でも、その時の冷えと風呂への欲求は出不精を覆すだけのものであった。風呂だ。とにかく風呂に入りたい。風呂に入らず今日を終えられない。幸い帰ってきてすぐだ。着替えもしてない。まだ再び外に出る気力はある。


 実咲は最後の気力を振り絞ってスマートフォンを操作し最寄りの銭湯を探す。そうして見つけ出す。徒歩五分程の近所に銭湯がある。その情報を見て思い出す。そういえば、近所を歩いている時に見たような気がする。あの煙突。見かけた時は「煙突?」くらいにしか思わなかったけど、あれはそうか、銭湯の煙突だったのかもしれない。


 何はともあれ、と実咲はすぐに情報収集を始める。が、店は昔ながらの個人経営大衆銭湯といった具合で、ネット上にはあまり詳しい情報はなかった。それでもレビューなどを参考にシャンプー等の必需品を確認する。そうしてそのまますぐに荷物をまとめ外に出た。



 夜の東京の住宅街。駅や繁華街から離れてるので音はさほど多くない。日はとうに沈んでいる。風は先程に比べ弱まっているが、それでも強い。実咲一度部屋に戻りより温かい冬用コートを羽織り直して外に出ると、スマートフォンのマップを頼りに歩き出した。



 歩きながら実咲は周囲を見る。銭湯は駅から反対方向にあり、普段めったに行かない場所だ。今の場所に引っ越して約二年だが、普段職場と家を行き来するだけの生活なのでこの街にもあまり詳しくない。家を出て駅へ向かい、電車に乗って職場へ。仕事が終われば電車に乗ってまた帰ってくる。その繰り返し。休日も日頃の疲れで寝ていることが多く、元来面倒くさがりの出不精なので外に出ることも多くはない。出たとしても前もって決めていた場所、調べていた場所へというのがほとんどであり、街を散策、冒険などということも滅多にない。第一そんなに歩いていては疲れる。毎日散々一日中働いて疲れているというのに。



 ともかくとして、周辺は近所であれども実咲にとっては見慣れぬ景色であった。住宅街。ちょっとした商店街を通る。あるのは知ってたし見かけたことはあるけど、買い物も基本駅と家の間のスーパーなどを利用するためほとんど使わない。こっち側ってこんな感じだったか、などと思いながら歩く。


 そうしていると目的の銭湯に辿り着く。こんな近くにあって本当に助かった、と実咲は心から安堵のため息をつく。こういう時はほんとスマホって便利だよな、と思いつつ、周囲を見回す。


 銭湯の外観は、それなりに立派で昔ながらの銭湯といった出で立ちであった。年季が入った姿であり、スーパー銭湯などとは程遠い。出入りする客を見て確認し、恐る恐る中に入る。


 内装も映画やドラマで見るようないかにもな昔ながらの銭湯であった。いわゆる「番台」のようなカウンターが真ん中に鎮座している。ほとんどレトロといっていい様相の内装。そこに不釣り合いな薄型テレビに、程々に新しいマッサージチェア。そして銭湯お決まり牛乳瓶の入った冷蔵庫。こういうのってほんとに未だにあるんだなあ、と思いつつ、実咲はいそいそと番台へ向かう。


「すいません、初めて来たんですけど、」


「あらいらっしゃい。ありがとね来てくれて」


「はい。それでなんですけど、こちらで料金払ってこっちが入り口、でいいんでしょうか」


「そうそう。大人一人五百円ね」


「はい」


「五百円丁度ね。シャンプーとかは持ってきた?」


「はい、一応」


「なら大丈夫ね。一応うちでも置いてるけど若い女の子が使うようなものじゃないからねえ。キレイな髪保つにはちゃんと高いシャンプー使わないとだものね」


 と番台のおばさんは笑って返す。実咲もそれに笑って答えるが「私のは痒くならないやつだけどな……」などと思っていた。


「最近は若い女の子自体珍しいからねえ。来てくれて嬉しいわあ」


「ははは……実は帰ったら給湯器が壊れてお湯が出なくなってまして……」


「あら! そりゃ大変! じゃあいっぱい温まってってもらわないとね! これおまけ! 三百円にしとくわ」


 とおばさんは二百円を返してくる。


「え? いえ、そんな悪いですよ」


「いーの。うちはそういうふうにやってるからね。こんな寒い日に給湯器壊れてお風呂入れないなんてかわいそうじゃない。あなた大学生?」


「いえ、一応社会人です」


「そう。うちには回数券っていうのもあるからね。そっちの方がお得だから。給湯器壊れたんじゃしばらくはうち使うかもしれないじゃない? 特別に五枚から売ってあげるから帰りに私に声かけなさい」


「それはほんと、すごく助かります。ありがとうございます」


「いーのいーの。もうほとんど利益度外視だからねえ。こんな時代に銭湯なんかやってちゃ。ほとんど人助けみたいなものよ」


 そう言うおばさんの笑顔に見送られ、実咲は脱衣所に入るのであった。



 女湯の脱衣所にはそれなりに人の姿があった。今日の天気や寒さのせいもあるのだろう。番台のおばさんの言う通り、自分と同じくらいの「若者」の姿は少ない。銭湯なんかあんま行かないから人前で脱ぐの緊張するよなー、などと思いつつ、実咲は服を脱ぎ洗顔料とタオルを持って洗い場へと向かった。


 入った瞬間、銭湯特有のムワッとした温かい蒸気が襲ってきた。その感覚に懐かしさを覚えつつ、実咲は髪と体を洗う。それから見よう見まねで自分のシャンプーなどを棚に置き――「これ普通に盗まれないか? みんなここ置いてるけど」などと思いつつ――湯船に向かった。


 銭湯の湯船は、壁際に広いものが二つ置かれていた。なんら特別な様子はない。炭酸ガスだのジェットだの薬湯などということはなく、普通のお湯。しかし銭湯なので寝そべられるほど広い。そしてやはり、壁には年季の入った富士山が描かれていた。


 実咲は湯船に浸かり思い切り足を伸ばす。足を伸ばして風呂に入ったのなんていつ以来だろう、と目を閉じ深く息をつく。


 それはもう、至福の一時だった。



     *



 すっかり長風呂を満喫した実咲は脱衣所を出る。そうして番台のおばさんに声をかけ、回数券を購入した。そこへ、


「おばちゃん牛乳一本もらうね」


 と一人の女性が百円玉をカウンターの上に置いた。見ると、黒髪の若い女性である。実咲はすぐに「さっきの」と思う。中で見かけた、唯一の若い女性。裸を凝視するわけにもいかず、湯気もあったのではっきり見えなかったが「若い女の人もいるんだな」と思って見ていたが、やはり若い女性であった。自分より下なのは確実だろう。おそらく大学生程度。長めの黒い髪。覗いた耳にはピアスの穴が見える。とはいえそれは実咲も同じだったのだが。


 その若い女性と、目が合う。女性はニッコリと微笑み軽く会釈をして、牛乳瓶の冷蔵庫の方へと向かっていった。


「――あの、私も牛乳一本いいですか?」


「はいよ。百円ね。やっぱり銭湯来たら牛乳飲まないとだもんねえ」


 と番台のおばさんがニコニコ笑っていう。実咲は百円をカルトンに置き、自分も冷蔵庫の方へと向かった。その前では先程の女性が腕を組み牛乳たちを睨みつけている。


「――あの」


「あ! すいません邪魔して」


「いえ」


 と答えて実咲がケースの中を見ると、そこには三種類の牛乳瓶が並んでいた。普通の白い牛乳。カフェオレ。フルーツ牛乳。


 なるほど、これは悩む、と実咲も思わず腕を組んだ。


「悩みますよねー」


 と女性が親しげに声をかけてくる。そういうタイプか。いや、こういう場所だからかもしれない、などと実咲は思いつつ、


「ですね」


 と答える。


「ここ初めてですか?」


「はい」


「ですよね。私ほとんど毎日来てるけど見かけた覚えなかったんで。初めてなら尚更迷いますよねー」


 ほとんど毎日? と実咲は引っかかったがそこは流す。


「じゃあどれかおすすめとかあります?」


「おすすめか。難しいですね……やっぱりオーソドックスに普通の牛乳こそ至高って部分はありますよね。でも真新しい部分は全然ないですし。カフェオレなんかもそういう意味ではいつでも飲めますけどたまーに飲むとこれが格別なんですよねー。フルーツ牛乳なんかは物珍しいですからね。人によっては邪道ですけど」


「なるほど……」


 というか給湯器壊れてるからどうせ明日も来るし、だったら毎日買って全制覇すればいいだけか、と実咲は考える。


「どうせまた来るんで今日は普通のにします」


「あ、また来ます?」


 と女性は笑顔を向ける。


「いいですもんねーこの銭湯」


「ええ。まあそうですけどそれ以前にうち給湯器が壊れちゃって」


「ああ、それは大変ですね。じゃあ直るまでは銭湯生活ですね。私も普通のにしよっと」


 女性はそう言い自身も普通の白い牛乳を取り出す。そうしてフタを開け、腰に手を当て、ゴクゴクゴクと一気に飲み干すのであった。


「――プハーッ!」


「――すごくいい飲みっぷりですね」


「いやーやっぱり銭湯ではこれですよ。百倍おいしくなりますから! あなたも騙されたと思って是非!」


 実咲は彼女の真っ直ぐな瞳に促され、腰に手を当て牛乳をごく、ごくっと喉で流し込む。


「――ッハー……」


「いい飲みっぷりですね」


「そうですか……いやぁ、いいですねこれ」


「ですよね。やっぱ風呂上がりはこれに限りますよ」


 と満面の笑みで笑う女性。それを見て実咲は「若いなー。初対面の相手にこうやって笑えんのはすごいわなーほんと」などと思う。そうしてちらりと、隣の冷蔵ケースを見る。そこには、キンキンに冷えた缶ビールが鎮座していた。思わずごくりと喉が鳴る。


 ――今飲んだら死ぬほどうまいだろうな……そもそも夕飯の時飲むつもりだったし。だったら今飲んでもかまわないんじゃないか。銭湯、風呂上がり、キンキンに冷えたビール……牛乳も確かに最高だが、これ以上の至福などないのではないか。


「あ、ビールも飲みます?」


 とその視線に気づいた女性が言う。


「ああ、そうですね……なんかもうここまで来たら」


 実咲はそう言い、缶ビールを一つ取り出し番台まで持っていきお金を払う。そうして年季の入ったソファに腰を下ろし、プシュッ、と栓を開けた。そうして一気にゴクゴクと喉に流し込む。


「――っはー……」


「最高ですよねやっぱり。風呂上がりの一杯」


 と先程の女性が隣に腰を下ろす。


「そうですね……そちらは飲まれないんですか?」


「牛乳買っちゃったんで。節約中ですから」


「そうですか。なんか一人で飲んじゃってすみません。――よかったらこれ飲みます?」


「いえいえ、大丈夫ですよ。悪いですし」


「いえ、こっちも一人で一本は少し多いんで。食事と一緒とかならいけますけど」


「そうですか? じゃあお言葉に甘えてちょっと頂いちゃおうかな」


「どうぞどうぞ。回し飲みですみません。あ、というかその前に一応ですけど、成人済みですよね」


「はい、大学生なんで。二十歳ジャストです!」


 彼女はそう言ってピースサインをして笑う。


「ですよね。けどもう年下になると見ただけじゃわからなくて」


「そちらだってまだまだ全然お若いじゃないですか。なんかそちらとか呼んじゃってあれですね。私美樹(みき)って言います」


 いきなり下の名前か、と実咲は思いつつ、


「ミキさんですか。――奇遇というか、私は実咲です」


「お、一文字違いですね! ちなみに字は」


「実るに咲くですね」


「へー。私は美しいに樹木の樹です。名字が並木(なみき)っていうんですけど、あんたは並の木なんかじゃないぞって母が美しい樹って字にしたらしいんですよね」


 と笑う美樹。初対面でそこまで出すか、実咲は思いつつも、やはりここでも妙な親近感を抱いた。


「なるほどですね。私の場合は逆で美しいって字を使うと名前でプレッシャー感じるんじゃないかって実るの方にしたそうですね、母が」


「ますます奇遇ですね。じゃあ正反対だ。あ、じゃあビール頂きます。あれでしたら保険証とかお見せしますけど」


「大丈夫ですよそこまでしなくて。信用してますんで」


「嬉しいなー。じゃあ一口」


 と美樹は一口分ビールを口に運ぶ。


「――ぷはーっ。やっぱ最初の一口はおいしいですよねー。ビールって高いからあんまり飲まないんですよね」


「大学生だとお金ないですもんね。私も学生の頃は自分でお酒買って飲むとかほとんどなかったです」


「じゃあ今はがぶがぶですか?」


「増えましたね。やっぱ仕事でストレスなんで」


「大変だなーやっぱ。一生卒業したくないですよほんと。そういうわけにもいかないですけど」


 美樹はそう言いビールを返す。


「あ。あと全然敬語とかじゃなくていいですよ。私のほうが年下なんですし。ですよね?」


「そうですね。こっちはもうアラサーなんで。じゃあまあ……美樹さんは結構飲める?」


「強いっては言われますね」


「じゃあせっかくだしもう一本飲もっか。こんな一本二人でちまちま飲み回しててもあれだし。お金は出すから」


「いいんですか?」


「うん。なんかもう今日はそんな気分だからさ。給湯器壊れた分取り戻さないとって」


「確かにそういうのはありますよね」


「うん。あとそっちも、敬語とかいいよ別に。年上っていったって別に先輩でもなんでもないんだからさ」


 実咲はそう言って微笑み、二本目のビールへと向かうのであった。



     *



 缶ビール二本を飲み干し、二人は外へ出る。


「あ、私ちょっと一服してくわ」


 と外に灰皿を見つけた実咲が言う。


「あ、実咲さんも吸う人なんだ。私も」


 と美樹は笑い、実咲と並んでポケットからタバコの箱を取り出す。


「ブラメンじゃん。私も一緒」


「ほんと? すごい気が合うね。ブラメンは目が覚めるから好きなんだ」


「一緒。タバコ吸うときなんか頭スカッとさせたいから強いメンソールのほうがいいんだよね」


「ほんと一緒です。気が合いますね」


「だね。こんなたまたま銭湯で会って。ハタチで酒もタバコもやってるなんて悪い子だねー」


「いやー。実は18からやってるんで悪い子です」


「はは。まあ私も酒は18からだからねー。そういうもんじゃん大学生って」


「だね。実咲さん結構吸う人?」


「いや――私書店勤めだからさ。休憩なんて昼しかなくて。だから必然吸えないよね」


「確かに。お客さん相手だとタバコの臭いするだけでクレームとかありそうだし」


「ほんと。だから昼吸った後は消臭剤よ。口臭がっつり。朝昼退勤後夜の四本が基本かな。そこまで量多くないから勤務中もそんな吸いたくならないからね。まあイラついてる時はめっちゃ吸いたいけど」


「ほんと大変そう。私バイト楽しいとこしかやってないからなー。けど今日はほんと寒いね」


「ね。外でタバコ吸うのも一苦労」


「だね。夜外で吸うのも好きだけどさ。実咲さんはこのへんに住んでるの?」


「うん。歩いてちょっと。給湯器壊れたって言ったじゃん。ほんとこんな近くに銭湯あって助かったよね」


「だね。私も近所。給湯器ってそんなすぐ直らないよね」


「あー、大家に電話してどうこうかな。こっちは基本昼間いないし、明日昼に連絡しないとか……休み考えると一週間くらいかかるのかな」


「じゃあしばらく銭湯通いだ。――じゃあさ、一緒来ない?」


「へ?」


「私も一人より二人のほうが楽しいし。来る時連絡してさ」


「――はは、美樹は若いねー」


「なんで?」


「いや、アラサーになるとそんな自分から進んで新しく人間関係築こうとか思わなくなるからね。仕事で忙しいし、人間関係なんて職場と客相手でいっぱいいっぱいだからさ」


「あー、じゃあやめといたほうがいいかな」


「あぁ、違う違う。それはこっちの話で。全然いいよ。むしろオッケー。シャンプーない時借りる相手いたほうがいいしさ。交換しよ、連絡先」


「ほんと? いやーグイグイいって迷惑かけたかなーって思って」


「いいよ。そりゃ確かにこんな歳にもなれば多少面食らうけどさ。――一応聞いとくけど宗教とかじゃないよね?」


「え?」


「壺売るとか」


「あー、そういうのは全然。うちバリバリ普通の仏教なんで。多分だけど。壺なんか売らないよ。絵は売るかもしれないけど」


「絵?」


「うん。私一応美大生だから」


「あー。そりゃまあ、いいね」


「うん。まあ絵売るってのは冗談だけど」


「こっちも買う金ないからね」


「書店員ってよく給料低いって聞くもんね。銭湯だけでも結構な出費だ」


「ほんと。給湯器の修理は大家持ちのはずだけどさ。それまで出さなきゃいけないなら破産だよ」


「……あの、大きな声では言えないけど私の方からおばちゃんに言ってあげよっか?」


「へ? 何を?」


「私前からここ通ってるしその厚意でバイトもしてるから、回数券とか普通より安くしてもらうとか」


「いや、それはさすがに悪いって。第一もう安くしてもらったし」


「あ、そうなんだ。ちなみにいくら?」


「三百。普通四百って書いてあったね。しかも10枚からのとこ5枚にしてもらった」


「さすがおばちゃん。――ちなみにですね、これは秘密ですけど私二百円なんですよ」


「安っ。半額以下じゃん」


「うん。学生割引とか家にお風呂ない割引とかでここまで下げてくれて」


「え、家に風呂ないの?」


「うん。私絵かくからさ、スペースと汚してもいいっていうのは絶対条件だったんだ。当然安いのも。結果として今住んでるとこになったけど代わりにお風呂がない。けどそういう学生は昔からいたからそういう人たちのための学生割引とかやってたんだって」


「へー。風呂がない生活かー……でも毎日入っても月6000って考えれば激安だな。6000プラスで風呂があるって考えれば」


「しかも大浴場だからね」


「絶対潰しちゃだめだなこの銭湯」


「ほんとだよー。今東京もどんどん銭湯潰れてるからね。燃料費上がって大変らしいよやっぱり」


「やだねー不況は――さて、んじゃ私は行くわ。明日も朝早いから」


「うん。帰りとかお風呂だいたいこの時間?」


「残業がなければね。普段は夕食後にお風呂だけど、そっちも連絡してよ。合わせるから」


「わかった。今日はありがとね。こんな急に会ったばかりで」


「いいよ。こっちもなんかそういうの初めてで面白かったから。そっちも学校がんばんなよ。美大って何するのか知らないけど」


「ははは。それよく言われる。実咲さんも仕事程々にね」


「はは、程々ね。そうだね。じゃ、寒いし暗いし気をつけてね」


 実咲はそう言い、軽く手を振って美樹と別れた。




 四月の夜の東京は、冷たい風が吹く。冬用のコートでも中が薄着なので少肌寒い。


 それでも、心の中はどこか温かい気持ちが満ちていた。



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