表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アンダルシアの木洩れ日  作者: 高橋龍(ロン)
3/3

嘉蔵不帰還のなぞを解く

「排他的経済水域」

   

  

 中間テストが終わった日曜日の朝。寝坊していると海彦は志乃に起こされた。

「お父さんが待っている。起きて。顔を洗って。歯を磨いて」

 海彦は、逆立った寝癖を直そうと、湯タオルを頭に載せ、海太郎の書斎をノックした。

「まあ座れ」

 海太郎は椅子を回転させ海彦と向き合った。

「明日から海へ出る。予定では二〇日。今度も北だ。根室海峡でロシアによる漁船拿捕が

起きた。北海道の海は広い。それで応援。日本人相手と訳が違う。外国船は漁船であって

も銃火器で武装している。北からの風と潮も厄介だ。それでも必ず無事に戻る」

「根室海峡って知床半島の東側…」

「そうだ。国後島との間。拿捕海域は幅二〇キロの海峡から北へ一〇キロの海域。此処は

スケソウダラの水揚げが多い。シャチのお見合い場所でも在る」

「海に落ちたら助からないね」 

「一分も海に浸かっていたら蘇生は無理だ。流氷はまだ処々に残っている。今は三度くら

いかな。しかし流氷は恵みをもたらす。世界でも類まれな漁場。オジロワシやゴマフアザ

ラシ。イルカ、シャチ、ザトウクジラも集まる」

「父さんの仕事は大自然相手でもあるんだ。海は大自然そのもの」

「問題が発生しなければ幸せな仕事だと何時も思う。拿捕されると身柄を拘束される。船

も取り上げられる。返してもらうのに幾らの金が必要か知らないだろう」

「ロシアに拿捕されると保釈金でカタがつく。金額は分からない。拿捕されても保釈金を

払えば無罪放免みたいだ。日本の法律と違う。裁判がない。何か変だ」

「ここは微妙な海域なんだ。北方領土返還は日本の国是と言っても良い。ロシアは応じな                                    

い。拿捕は返さないとのメッセージでもあるんだ。ひと昔前は保釈金を充て込んだ拿捕と

思える事例が多かった。ロシアの経済が立ち直ると拿捕の件数は減った。船の大きさにも

よるが一千万円が最低の水準。拿捕される者にとっては死活問題になる」

「となるとハッキリした違反でなくても拿捕される。船に積んである魚はどうなるの」

「ロシアが証拠品として押収する」                          

「往復ビンタにゲンコツだ。だから父さんが行くんだ。でも拿捕の現実を俺に教えたくて


                                    107

叩き起こしたんじゃないよね」

「そりゃそうだ。俺は海彦に歴史を学べと言った。学ばなければならぬ歴史とは拿捕件数

の年度別推移では無い。拿捕する側、される側の実情が歴史だ。それを伝えたかった」

「な~だ。父さん。俺を見くびり過ぎ。歴史には表と裏、光と影、の両面が潜んでいる。

勝者の歴史が古代から近代までの教科書。敗者にも歴史がある。支倉常長は表。嘉蔵が裏。

スペインとの通商は政宗の野心。これが光。家康の魂胆は影。通商が実現しなかった結果                                    

に勝者もなければ敗者もない。政宗の野心は頓挫。家康の魂胆も泡となり国を閉ざした」

「それだけ分かっていれば充分だ。私は言わなくて良いことを言ってしまったようだ。伝                               

えたかったもうひとつは歴史を学ぶとは平和を築く人間になる…ことだと」

「分かった。マリアの政治家に繋がるね」

「これからが本題だ。昨日ハポンの会から正式な招待状が届いた」      

 海太郎は封書を海彦に渡した。開けると招待状が日本語で印字されていた。それと有効

期限が半年間のイベリア航空の往復チケット。マドリットとセビリアの往復も。                             


— 瀧上海太郎さま


 前略。過日コリア・デル・リオのハポンの会は臨時総会を開催しました。そこで正式決

定したのは瀧上海太郎氏長男海彦君の招待です。勝手ながら来西は海彦君の夏休みが良い

かと思っております。宿泊先はトーレス・ロドリゲス・ハポン宅になります。

 年末年始には孫娘のマリアが大変お世話になりました。                                   

 その御礼が遅れてしまいました。失礼をお詫び致します。

 私どもは末永い交流を貴家並びに仙台の日西友好協会、そして日本の方々と続けたいと

念願しております。平和の架け橋を世界中に示したいと考えています。

 我が街のハポンを名乗るスペイン人は六百人ほどです。百世帯と少し。スペイン全土で

は八百人は下らないと推測しております。その大半の方々がハポンの会に所属し、僅かで

すか会費を納めています。それを資金としての招待です。

 御子息海彦君が我々の四百年を埋めてくれると。そして我々の新しい歴史が始まると胸

が膨らみます。御予定が決まり次第、連絡をお待ちしております。かしこ。 

                 

                       コリア・デル・リオ ハポンの会

                     会長 トーレス・ロドリゲス・ハポン —


「立派な招待状だね。父さん。これはマリアが書いた文章だよ」

「本当か。本当だったらエライことだ。日本人でもこうはなかなか書けない。正式文書に

ありがちな常套慣用句が排除されている。海彦。どうしてマリアが書いたと分かるんだ」

「何か所かあるんだ。先ず書体。『HG丸ゴシックMーPRO』。これは俺が気に入って

使っている。マリアもこれを気に入った。次に『前略』と『かしこ』。これは手紙を書く

時の巻頭句と結び。マリアから日本語で手紙を書く時の書き方を教えてと頼まれ教えた。

『来西』もそう。漢字ではスペインを西と書く。こう言うとマリアは眼を丸くした。たっ

た一文字でスペインを表わす漢字の表意『西』に驚いていた。スペイン人で『来西』を使

えるのはマリアくらいと思っている。日本人にもあまり居ない」                                   

「マリアには驚かされるばかりだ。挨拶も、政治家も、歌も。今度は招待状だ」

「父さん。俺も同じだよ。ぼやぼや、うかうか、していられないと尻を叩かれっぱなし。

俺は驚くのに慣れてしまった。あんな女子高生は日本には居ない」                                 

「居ないだろうな。それは私にも分かる。海彦。何時行くつもりだ」

「五日前にマリアからのメールで正式招待を知らされその時から考え始めた。八月一日か

ら一〇日はどう…。お盆に間に合う」

「では私はその予定と御礼を日本語で書く。お前がスペイン語に翻訳してくれ」

「えっ。俺がスペイン語で書くの。父さん。ズルイ」            

「ズルイか。親とは身勝手でもある。お前は近々スペインに行く。スペイン語の勉強にな

るだろう。マリアは立派な日本語で書いた。お前も負けられないはずだ」

 海太郎は本当にズルそうに海彦を見て哄笑。

「海彦。良かったな。マリアの家にホームステイできて」

 海太郎はこう言い残して書斎から出て行った。親父もズルするんだ。俺には初めてだ。

ズルと云うよりもこれは意地悪だ。親父は俺がスペイン語で書けないのを知っている。俺

が自分と同じ水準と知っている。二人とも百の単語を覚えるのが精一杯。それなのに命じ

た。何か変だ。父親が息子に意地悪する。それもパパ海太郎がだ。何かある。会話の勢い

で意地悪するほどパパ海太郎は単純ではない。何故だろう…。俺への物足りなさかも…。

 意地悪するには何かしらの理由がある。人に言わない。言えない根深さが必要だ。                                    

 海彦はふ~っと長く息を吐いた。明らかに何時もと違うパパ海太郎。ズルそうな顔を俺

に初めて見せた。それが可笑しかった。ひょっとしたらヤキモチ…。俺はマリアと仲良し                                    

になった。マリアとバンドを組み音楽をやりたいと言った。墓を守れに納得した。懊悩呻

吟して一曲創った。送ったカラオケにマリアが歌を入れた。それを聴いたみんなは顔色を

喪った。彩だけが得意気。俺は嬉しいよりホッとした。それは一刻。今はたったの一曲。

音楽の路に進むと云っても駆け出しただけ。路は長くて遠い。路上ライヴでも三曲は要る。

まだまだ孵化したばかりの稚魚の俺。まだまだの俺。焦ってもどうにもならない。プレッ

シャーの下でも一曲創った。とりあえず一曲できた。それをユニットとして鍛え上げなけ

ればならない。編曲を工夫する。時間は沢山ある。

 やはりパパ海太郎のヤキモチだ。俺が巣立とうとしている。親父はまだまだ子供と思っ

ていたんだ。俺には秘策がある。意地悪への対抗策がある。経緯をマリアに包み隠さず伝

え、スペイン語に翻訳してもらい、それを書き写す。マリアには親父の意地悪を一部始終

書こう。俺をもう直ぐの一人前と認めてくれたと添えて。


海彦の携帯が振動した。メールの着信。授業中はマナーモードに切り変え、左の胸の内

ポケットに入れている。それが震えていた。

 授業中に連絡してくる奴は居ない。そいつらも授業中。授業中と知ってメールするのは

余程の急な連絡。悦ばしい知らせなら急がなくともよい。ゆっくりと昼休みにでもメール

すればよい。何かしらの異常事態発生…⁉…。海彦に悪い知らせの嫌な予感が過った。

 教師を窺い見つからないようにメールを開いた。志乃からだった。

—お父さんが撃たれた。ヘリコプターで旭川に搬送中。キトク。今はこれしか分からない。

直ぐに家に戻って来て—

 海彦は二回読んだ。血の気が引いた。

 海彦は黙したまま相対性理論の時間のゆがみを熱く語っている物理の教師に向かった。

「どうしたんだ。海彦。何も言わず近づいて来て」

 海彦は志乃からのメールを指し示した。

「先生。俺。帰る。授業中にゴメンナサイ」

 海彦は小走りに校門を出た。遠くの右に一台のタクシーが見えた。そのタクシーに向け

て両手を大きく振った。タクシーが停まってくれた。

「一番町一丁目」                                    

 運転手は海彦のただならぬ気配を察してくれたのか、急ぎの運転に切り変えてくれた。

 親父が撃たれた。キトク。ヘリで旭川に搬送中。これだけが海彦を駆け巡っていた。                                

 海彦は志乃に『もう直ぐ到着。今はタクシーの中』と返信。咄嗟に橘南にもメール。

—親父が撃たれた。危篤。オホーツク海の現場からヘリコプターで旭川に搬送中。今は家

に戻る途中のタクシー。今日の夕食会は延期して。またメールする—

 家に着くと門の前に黒塗りのプレジデントが停まっていた。海上保安庁の制服二人が乗

っていた。海彦がタクシーから降りると、二人は揃って車から降り敬礼。海彦は直立不動。

深く正しいお辞儀で応えた。「ご苦労様です」。通用門をくぐった。

 玄関を開けると志乃が上がりがまちに両膝を載せて正座していた。

 黒のスーツ姿。その後ろに海之進と静が座って居た。

「海彦。これから迎えの車に私と乗ります。必要と思えるものはバックに詰めました。パ

ソコンとルーターも入れました。携帯の充電器も入っています。さあ行きましょう」

 海彦は着替えたかった。スリムのジーンズにマイケルジョーダンの白いトレーナー。何

時ものナイキのバスケットシューズ。余りにもラフ。そんな悠長な場合ではなかった。表

情が消えた志乃に気押されてしまった。

海彦はプレジデントに乗った。車に乗り込む寸前、海之進が「海太郎を頼むぞ」。背中

で海之進に応えた。静が縋るように手を振っている。

 助手席に座る制服は「報道官」と名乗った。

「これから塩釜の海保にお連れします。そこで待機しているヘリに乗ってもらい旭川に向

かいます。一時間一〇分で旭川医科大学付属病院のヘリポートに着きます」と言った後に

無線で「只今瀧上一等保安正の奥様志乃様と長男海彦君を車にお連れしました。庁舎到着

までおよそ十五分。どうぞ」。無線特有のザザァ~の雑音の向こうから「了解」。

                                

—『ゆうぎり』は根室海峡を北上。知床半島の先端を廻りオホーツク海に出た。レーダー

が不審船を捉えた。網走沖北北東七五キロ。此処は日本の排他的経済水域。不審船は動い

ていない。恐らく密漁。この海域は毛ガニの漁場。他にもヒラメや水蛸の好漁場。今は毛

ガニの漁期ではない。漁期ならば多くの漁船がレーダーに映る。一隻の場合の多くは密漁、

二隻ならば瀬取りの密輸。『ゆうぎり』は全速で接近。視認。『ゆうぎり』の接近に気づ

いた不審船は急ぎ網を巻き上げていた。底引き網。一五〇トン程度の中型漁船だった。船

長の双眼鏡にはその在り様が写っていた。不審船は国籍を隠していた。日本国籍の船では                                

無い。日本の漁船なら船体に船名を記している。この時点で不審船は国籍不明船に。『ゆ

うぎり』は英語・ロシア語・中国語・ハングル語で国籍を明らかにするよう警告。そして                                  

「網を捨て退去」をスピーカ-を通して命じた。国籍不明船は応じない。網を巻き上げて

いる。再度の警告と命令にも応じる気配がない。瀧上一等保安正は船長から放水の命を受

け部下二名を従えて船首の甲板に出た。放水開始。国籍不明船までの距離は約五〇M。強

烈な放水が網を巻き上げている三名に命中。放水の威力は屈強な男をも弾き飛ばす。三名

は甲板に伏せた。その時に船室の窓から発砲。連射。機関銃だった。瀧上一等保安正が二

人に伏せと怒鳴った。一瞬遅かった。放水ハンドルを握っていた者の側頭部を打ち抜き、

瀧上一等保安正の右胸を貫通。もう一人は伏せて銃弾から逃れた—

「これが事件の概要です」と報道官が海彦と志乃に言った。


 海彦はヘリコプターからの景色を見つめ聞いていた。仙台の市街地と田園。石巻の湊。

リアス式海岸。岩手山の上空に差しかかると下北半島が遠くに見えた。真下は津軽平野の

東。空は快晴。下界の出来事は嘘のよう。

 海彦は報道官の説明をひとつ残らず記憶した。

「何時かこんな時が来ると。お父さんが海上保安庁に任官した時から覚悟していました」

 志乃は海彦に語りかけるのではなく、微笑みを浮かべ、独り言のように言った。

 海彦は志乃の左手を握った。手は冷たくも志乃の微笑みは美しかった。

 津軽海峡が少しずつ南に動いていた。ヘリコプターは苫小牧から東南に延びる海岸に近

づく。海岸線を一台の車が東南に走っていた。快晴の穏やかな景色。静かだった。

 海彦は志乃の「こんな時」と「覚悟」を反芻した。親父も任官した時から命を賭して日

本の海を護ると腹を決めていたんだ。俺は何ひとつ知らずに育てられ生きてきたんだ。

 夕張山地の上空。頂上付近には雪が残っていた。

「間もなく旭川です」とパイロット。

 大雪山連邦の頂きが近づいて来た。まだまだ雪が深い。里は桜が散った北国の春。

 ヘリコプターは徐々に速度を落とし高度を下げ始めた。

 盆地の中の旭川。仙台と似ている佇まい。人々が暮らす市街地と田園。違いは海と碁盤

の目の広い道路。海彦は屋上に立ち手旗を振っているヘリポートへの誘導員を見た。

 親父が死んでも戦死ではない。殉死。戦い、撃たれた親父は死んでも殉死。戦死と殉死

では意味が違う。何故殉死なんだ。多くの場合、訓練中とか不慮の事故での死を意味する。                                   

警察官が暴漢に襲われ命を落とした時も殉死。PKOで南スーダンの戦闘地域に派兵され

た自衛官が撃たれ亡くなった時でも殉死。自衛隊では戦死は在り得ないのだ。                              

 親父は日本の排他的経済水域を守ろうとして戦った。親父は勇敢に戦う。腹を据えて、

覚悟を決めて、戦う。親父は怯まない。これだけが真実。

「日本人相手とは違う。相手は銃火器で武装している。必ず生きて帰る」

 親父は出航の前日に俺に言ったのに。

…死ぬな。親父…

 排他的経済水域は日本の領海内では無い。けれど日本の一部だ。そこに外国の漁船が勝

手に侵入して密漁。その現場を発見したら『ゆうぎり』は黙っていない。その先頭に立っ

て親父は戦った。そして外国人に撃たれた。部下の一人は即死。万がイチ、親父が死んだ

時、親父の死が、殉死と、呼ばれ、扱われるなら、親父は、死んでも、死にきれない。

 親父は、日本の国益を、守ろうとして、戦った、紛れもない、戦死なのだ。

 ヘリコプターは『旭川医科大学付属病院』屋上のヘリポートに着陸。出迎えた一人の制

服が海彦と志乃を屋内に導いた。報道官も降りた。三人が降りたのを確認するとヘリコプ

ターは離陸。上昇開始。飛び去った。その途中で二回、機体を左右に振った。翼が無くと

も翼を振った。海彦はそれを見届けた。ヘリコプターも親父の生還を祈っている。

 

 集中治療室から医師が出て来た。海彦と志乃は名乗り集中治療室に入った。

 海太郎は眠っていた。酸素マスクを装着。点滴が二本。輸血が一本。輸血の管は止まっ

ていた。意識が無い海太郎。全身麻酔で眠っている様子に似ていた。苦しそうな表情では

無い。かと云って何時もの海太郎では無い。まったく表情が無いのだ。

 死相が現れている。海彦にはそう写った。ベットの横に置かれた心電図が海太郎の心音

の波形を刻んでいた。これだけが海太郎生存の証し。心電図の波形が横に真直ぐに延びた

時が死。海太郎を見つめた。ただただ見つめた。

「今夜が峠です。手は尽くしました。生還を祈りましょう。状態を説明します」

 医師は心電図の前に立ち海彦と志乃に正対した。

「搬入された時は正直ダメかも知れないと思いました。直ぐに何とかなるかもと思い直し

ました。いや。何とかなるのではない。何とかしなければ。絶対助けなくてはと。ひとつ

は銃弾の貫通。ふたつ目は止血の正確さと素早さ。それとヘリの中での輸血。この三つが

今の命を繋いでいます。さすが海上保安庁です。人間は血液を三〇%程度を流出すると命                                    

の危険に晒されます。瀧上海太郎氏は弾丸に肺の静脈を傷つけられ大量の血液を喪ったの

です。私は静脈を繋ぎ合わせました。危険な手術でした。成功しました。繋ぎ合わさなけ                                    

れば何時までも出血が続く。助かる命も助からない。救護班は出血の量を見定めての輸血。

瀧上海太郎氏は流失した血液と闘っています。生命力に期待しましょう」

 医師の説明の最中に志乃は海彦の手を握った。指先が温かかった。

「夫の手を握っても良いでしょうか」                 

「かまいません。それが一番の良薬になります。御主人の通常時の血圧が分かりますか」

 志乃は白い毛布カバーの横から両手を忍ばせ海太郎の右手を握った。

「はい。一三〇から一四〇の間です。低い方は八〇から九〇です」

「現在は一一〇と六五前後です。脈拍はほぼ五〇で安定しています。意識を喪ったのは銃

弾が貫通した時の衝撃の強さと大量輸血による貧血。問題は遅発性の副作用。輸血から二

十四時間後に現れます。発熱が心配なのです。発熱は合併症を引き起こします。黄疸は免

れません。発熱が肝臓に悪影響を及ぼさないか注視しなければなりません」

 海彦は海太郎に語りかけた。

「親父。決して海で死ぬな。生き恥を晒して生きろ」

 海彦はこの世から親父が居なくなると一度も考えたことがなかった。想いもしなかった。

 俺も腹を括らなければ…。覚悟しなければ…。親父が生還できなかった時には俺がみん

なを護ってゆかなければ…。親父がやってきたように…。


 海彦と志乃は集中治療室を出た。

 屋上から屋内に招き入れてくれた制服が椅子から立ち上がった。

「自分は久保新治と申します。階級は三等保安士です。タキさんは、いや瀧上保安正殿は

自分をかばって銃弾を浴びたのです。自分は放水の補佐に就いていました。放水量の調節

が主な任務です。もう一人はハンドルを握っていました。ハンドルから「命中」が聞こえ

た時に銃の連射音が鳴りました。その瞬間に「伏せろ」と瀧上保安正殿が叫び我々に覆い

被さりました。しかし一瞬遅かった。一発がハンドルの頭を撃ち抜き、もう一発は瀧上保

安正殿を直撃。瀧上保安正殿に当たった弾は自分に当たっていた弾なのです。タキさんは

タキさんは御自分の身体を盾にして自分を守ってくれました。申し訳ありません」

…親父らしい…

 海彦は頭を垂れた久保新治の落涙に身体が震え出した。                                  

 海彦は両の拳を握り締めた。久保新治の落涙が伝播してきた。

「久保新治さん。自分を責めてはいけません。無事で生きていることに感謝しましょう。                                    

夫の生還を祈っていて下さい」

 志乃は久保新治に手を差し伸べ彼の両手を包んだ。

海彦は志乃の優しさと強さを改めて知った。

…母さんは強い…

 海彦の震えが止まった。

「はい。申し訳ありません。自分はタキさんに目をかけられ何時も励まされてきました。

即死した宮田安夫も同じです。宮田と私は同期でした。無念です」

 海彦は久保新治が自分よりも少し上の二〇歳を越えたばかりの少年の面影を残している

ことに初めて気づいた。初対面の時は制帽に邪魔されて顔つきが分からなかった。やはり

親父らしい。俺と変わらぬ少年たちに俺と変わらぬ叱咤と激励。そして庇った。


海彦と志乃は予約されたタクシーで保安庁が用意したホテルに向かった。

 久保新治が同乗した。                          

「自分はお二人の側に居るよう命じられています。何でも申し付け下さい」

 報道官は病院に残った。これから市役所のロビーで共同記者会見とのこと。

 ホテルの一室は最上階のスイートルームだった。

「海彦。マリアに知らせてはいけません。お父さんが生還するまで伏せておきましょう」

 海彦は志乃が言った「伏せておきましょう」の意味が分かった。

 亡くなったら直ぐに知らせなくてはならない。母さんは生還を信じている。マリアが撃

たれたを知ると仙台に飛んで来る。今はそれを避けるべきだ。

 海彦はテレビをつけた。どの局も同じニュースを流してた。

『本日の早朝五時一〇分頃、網走沖北北東七五キロのオホーツク海における我国の排他的

経済水域で海上保安庁巡視艦『ゆうぎり』が国籍不明船から銃撃を受け二名が被弾。一名

が即死。一名は重体。亡くなった方は宮田安夫三等保安士(二十一歳)。政府は情報を収

集すると伴に十一時から緊急閣議を開催し今後の対応を協議しています』

 ヘリコプターから『ゆうぎり』の今と事件現場の海を映し出していた。

 海彦はテレビを消した。日本中が大騒ぎだ。報道官が伝えてくれた事件の概要と異なる

のは『本日の五時一〇分頃』と『緊急の閣議』だった。

                                    

 海彦には気になっているひとつが在った。『ゆうぎり』は国籍不明船をどうしたのだろ

う。機関砲を発射して沈めたのだろうか。沈め、乗組員を海から引き上げ、拘束したのだ                                    

ろうか。拘束したのであれば国籍は直ちに判明する。親父を撃った奴も特定できる。

 これを志乃に告げた。

「沈めていないと思います。報道官は銃撃を受けてからをひと言も喋らなかっった。報道

官とは海上保安庁の公式見解以外は決して語りません。それが任務なのです。『ゆうぎり

』は出航時に任務を与えられています。通常ならばその任務遂行に向けて船長が判断して

艦を動かし乗組員はそれぞれの持ち場に就きます。今回は想定内であったとしても異常事

態の発生。艦長は司令部に事実を伝え指示を仰ぎます。その指示には撃沈は含まれていな

いはず。人命救助が最優先。お父さんの命を助けるのが先。後は政治の問題との判断。艦

長は国籍不明船の国籍を明かす証拠を多数掴んでいるに違いありません」

 母さんの言う通りなら何て弱虫なんだ。政治の問題とは何だ。船を沈めて乗組員を拘束

してからが政治の問題なのでは無いのか。排他的経済水域は日本の領海では無い。この海

域への侵犯は国内法が適用されない。それで政治の問題になるのは筋が通る。今回は侵犯

だけでは無い。銃撃され一人が即死。親父は重体。助からないかも知れない。先ずは攻撃

を仕掛けてきた国籍不明船を沈めるのが常道では無いのか。殺られたら反撃するのが船乗

りのコモンセンス。『ゆうぎり』には機関砲も固定式の大口径機関銃も装備されている。

なのに反撃しないのは船乗りの普遍的常識を捻じ曲げている。反撃しないと舐められる。

機関砲も機関銃も張り子の虎なのか。海上保安庁も専守防衛は認められている。この時を

逃して専守防衛は成立しない。相手は日本が弱虫と舐めているから機関銃を撃ったんだ。

例え弾が命中して命を奪ったとして『ゆうぎり』は反撃してこないと…‼…『ゆうぎり』

は必ず人命を優先する。その間に逃げる。弱虫がならず者の逃亡を許したんだ。                                

 海彦は激して志乃に主張した。

「海彦の言いたいことは分かる。私もそう思います。しかし今は司令部と艦長の判断に従

う他ありません。海保の方針は不審船・国籍不明船の追い払い。沈めてからの拘束は方針

ではないのです。海彦。お父さんを撃った者を恨んではなりません。恨みは復讐に繋がる。

復讐に憑りつかれると心が歪む。心が歪んだ者は醜い。これもコモンセンスです」

「分かった。考えてみる。母さんは何でもお見透しなんだ」

「お腹を痛めて生んだ息子だもの。何を考えているかぐらい分かります」

 彩からメール。                                    

「お父さんはどう…。こっちは何かと大変。マスコミが詰めかけて来た。全社が門の外で

待機している。外に出ようものなら一斉に囲まれマイクを突き付けられる。今回の事件を                               

どう思いますかとか、お父さんが心配ですねとか、お父さんの部下の一人が亡くなりまし

た。どう思いますかとか、奥様と息子さんは今どちらにとか、馬鹿みたいな質問ばかり」

 海彦は『出血多量。意識を喪っている。かなりヤバイ。今夜が峠』と返信した。

 その時ノックの音が聞こえた。久保新治だった。

「失礼します。仙台の御自宅はマスコミ各社に囲まれています」

 海彦は「今姉からのメールで知りました」。

「病院名は発表しましたがマスコミはこのホテルでの滞在を知りません。それでお願いが

あります。病院に行くとマスコミはお二人に接近して質問を浴びせます。何かしらのコメ

ントを引き出そうとします。『夫。父の生還を信じ祈っています。宮田安夫さんの死を悼

んでいます』。これ以外を喋らないで下さい。これは私への司令部の命令なのです。それ

とお出かけになる時はひと言声を掛けて下さい。自分は『二〇二』に居ります」

「分かりました。仙台にも伝えましょう。くれぐれも海上保安庁は弱虫だとは言いません

のでご安心下さい。国籍不明船を沈め乗組員を拘束しなかった是非にも触れません」

 志乃は毅然と久保新治に言った。

 母さんは俺を代弁してくれた。これが母さんなんだ。親父が惚れた一面を見てしまった。

母さんは親父には他の人に無い気迫が在った。それに魅かれたと言っていた。母さんの気

迫も並ではない。久保新治は俺たちの監視役でも在るんだ。要注意。


 携帯が『Hero』を奏でた。マリアからのメールは『Hero』。

—Yahoo Japanに『ゆうぎり』が銃撃を受けたと載っていた。死亡した一人の

名前が発表されていた。もう一人は重体と。海太郎お父さんは無事ですか…?…—

 マリアはYahoo Japanを開くのが日課。社会現象や政治に無関心な日本人よ

りも日本を知っている。知ろうとしている。それを忘れていた。

 海彦はマリアからのメールを志乃に知らせた。

「伏せておくのは此処まで。今は地球の何処に居ても日本が分かるんだね」

 海彦は海太郎の今に至るまでの過程と現況をパソコンに打ち込み、マリアの携帯に、長

くなるので、パソコンに送った、と返信。三〇分後に『Hero』が鳴った。                    

—不安適中。情況は分かった。わたしは何も出来ない。日本時間の明け方が生死を分ける。                                    

祈ります。海彦。詳しい報告をありがとう。オホーツク海と旭川を調べています—

—これから母さんが病院に行く。俺はホテルで母さんからの連絡と指示を受け、彩と爺ち                                    

ゃん婆ちゃんへ伝達。そしてマリアへ報告。親戚や与一さんも『ゆうぎり』への銃撃を知

ったはず。その対応を彩に一本化。これが母さんの方針。それから何時でも病院に行ける

よう待機。俺も何も出来ないから祈っている。親父は必ず生還する。死ぬもんか…‼…—


 志乃は黒のスーツから紺に赤のストライプが入った『Kaepa』上下に着替えていた。

海彦のお下がりのジャージィ。中三の時に志乃が買ってくれた。直ぐに着られなくなった。

「一年で一〇センチ以上も伸びると思わなかった。私が着ます」

 海彦はその時を覚えていた。残念そうでもあり、嬉しそうな母さんだった。

「これを着て居たらお父さんは海彦も傍らに居ると思うでしょう」

 そうか。母さん。それで持って来たんだ。

「母さん。もう十二時間も身体を動かさないでジッとしている。俺の血液に血栓が溜まっ

てきている感じがする。母さんも同じなはず。身体を動かそう。俺の言う通りにして」

 海彦は椅子とテーブルをよけ両手を後頭部に添えてスクワット。

「まず一〇回。これを三セット」

「分かった。エコノミー対策だね。ホテルや病院の中を徘徊できないし外は寒い」

 志乃は海彦は向き合ってスクワット開始。

「母さん。背筋をピンと伸ばして。そうそう。次はストレッチだよ」

 海彦は腰を床につけ両足を揃えて伸ばしている志乃の背中を押した。

「母さん。固い。全然前に倒れない」

「本当に固い。昔は膝に額が付いたのに」

 海彦は開脚した志乃の背中を押しつつマリアからのパソコンメールを伝えた。


—わたし。ジィッとしていられない。直ぐ仙台に行こうと思った。マドリッドからの直行

便に空席が在った。それを父さんに言った。「マリアが行っても邪魔になるだけ。今は大

人しく吉報を待とう」。その通りだと思った。やはり祈るしか出来ない。こんなもどかし

い体験は初めて。海彦も同じだと想っている。わたし。朝まで眠れない—

 

 俺ももどかしい。朝まで眠れるはずがない。みんな眠れない。まんじりともせず、ただ                                    

祈り、起きている。親父の意識が戻るの待ち詫びている。

「海彦。お陰で身体が軽くなった。行って来る」

「母さんから連絡来るまで此処から動かない。ラーメン食べたいけれど我慢する」

「明日の昼食は旭川ラーメンにしましょう」                                 

 志乃は平静を取り戻していた。緊張がなかった。家に居る時と同じだった。

 母さんは必ず生還すると信じている。疑っていない。その余裕。      

 俺と云えば始終ドキドキ。落ち着かない。恐らくマリアも橘南も同じ。

 親父は「今回はマリアはお客さんだ。次からは家族だ。マリアの部屋を造っておく」と

言った。その時にマリアと俺は不思議な関係と自覚した。「次からは家族だ」は親父の想

い入れ。親戚でも無いのに親戚以上を親父は言いたかったんだ。決して切れない縁をマリ

アに伝えたかったんだ。俺にとっては家族以上の、かけがえの無い存在。

 俺がマリアに想いを寄せるのは自然の流れ。理だ。でもやはり不思議な関係。

 マリアと喧嘩して仲たがいしても、マリアに好かれなくとも、縁は切れない。俺たちは

見知らぬ男と女が出逢い、互いに魅かれ、付き合い始め、心を通わせるのとは訳が違う。

出逢ったその時から付き合っているようなものだ。俺たちに好きとか嫌いとかは不要なの

かも知れない。知れないけれど俺から好きだの感情は消えない。消えないとマリアから好

かれたいと思ってしまう。そう思うと自分が自分らしくなくなってしまう。可笑しなこと

を言ってしまう。「マリアに相応しくない。釣り合いが取れない」。俺とマリアの縁は運

命。だったら見知らぬ男と女の恋愛は俺たちに参考にならない。それ以上の熱くて強い絆

で俺はマリアと繋がりたい。それには嘉蔵への尊敬が絶対条件になる。しかし尊敬してい

ない、尊敬できない者を、尊敬しているかのように振る舞うのは嘘つきだ。


 橘南からのメールが携帯に届いていた。着信は二〇時二十五分。気づかなかった。


—ワタシのメールが迷惑にならないよう控えていました。お父さんの命が途切れないよう

祈っています。海彦の今の気持ちが分かります。テレビでは『オホーツク海銃撃事件発生。

排他的経済水域で死亡一名。重体一名』が繰り返し放映されています。お父さんの名前も

発表されています。海彦は眠れない夜。これからはマスコミに追われ囲まれます。ワタシ

もいち時そうでした。幼いながらも理不尽を感じました。フレーフレー海彦…‼…—


 海彦は息苦しくなった。

 橘南の両親は祈る暇の無いまま、祈りが届かないまま、津波の中に消えた。未だ遺体は

発見されていない。住居跡からは数々の遺品。これがホンの僅かな救い。今俺は祈ってい

る。俺は親父が生還しなくとも遺体を引き取れる。探す必要がない。南は今も両親を探し

ている。アテがないまま心で探している。だから南は両親の墓を建てようとしない。

 海彦は橘南に返信。                                   


—親父は明け方が勝負の分かれ目だ。病院には母さんが居る。俺は呼ばれるのを待ってい

る。いよいよだ。そろそろだ。南。祈っていてくれ。敗けるもんか‥‼…— 


朝陽が昇った。

 ホテルの最上階の部屋が橙色に染まった。大雪山連邦の残雪も橙色に輝いている。

 海彦の携帯にメールの着信音。志乃からだった。


—そろそろ二四時間。正念場。来て下さい—


 海彦は『二〇二』に電話を入れホテルの玄関を出た。何時もなら客待ちのタウシーが並

んでいる。一台も停まって居ない。通りに出ても車の往来が無かった。街が眠っていた。

 海彦は走った。朝陽に照らされた『旭川医大付属病院』の屋上の看板が遠くに見えた。

ホテルのボーイに頼んで迎えのタウシーを呼ぶこともできた。その間の待機が嫌だった。

待機している時間に飽きていた。病院までは二キロと少し。走ったら一〇分もかからない。

『旭川医大付属病院』の敷地内に入るとマスコミに取り囲まれた。

 海彦の顔の前には数本のマイク。

「息子さんですね。今回の事件をどう思われますか…」

「瀧上一等保安生はどのように撃たれたのですか…」

「銃撃してきた船の国籍をご存知ですか…」

 これらが彩が言った馬鹿みたいな質問なんだ。海彦はマイクを掻き分けて病院に入ろう

としたが止めて立ち止まった。マスコミには知る権利が在る。これも民主主義の根幹のひ

とつだ。しかし誰一人親父の安否を気にかけていない。祈ってもいない。今が峠の只中に

居て親父は命を繋ごうとしているのだ。腹立たしい。                                   

「僕は長男の海彦と言います。親父の命は今が山場。質問の主旨は理解していますが今は

それらに答える時では無いでしょう。皆さん。先ずは親父の生還を祈って下さい」

 海彦はマイクを遠ざけて病院に入った。久保新治が待ち構えていた。

「連絡を頂いてから車で先回りしました。同乗と思いました。しかし海彦さんは疾走中。

足が速いですね。先ほどのぶら下がりへの対応に感謝します。とても立派でした」

 志乃は長椅子の上で前屈。

 二階の集中治療室に灯りが付いていた。病室の慌ただしさが物音で伝わってきた。

「母さん。そろそろだね」

「海彦。汗かいて…。走って来たんだ」

「うん。母さん。柔軟していたんだ」                       

「私もジーッとしていられなくて」

 廊下の壁時計が六時二〇分を示していた。昨夜の医師が出て来た。髪の毛がボサグチャ

に乱れている。白衣の前もはだけていた。

「遅発性の副作用の心配はありません。発熱していません。今は三十七度。血圧も徐々に

戻っています。御主人は強い。直に意識も戻ります」。

 看護師が叫んだ。「先生。意識が戻りそうです」。医師が踵を返した。海彦はヤキモキ

しながらも両手を組んで祈った。祈りもこれが最後だ。

…親父。頑張れ。もう少しだ…

 それから一五分。医師から告げられた。

「六時三十三分。瀧上海太郎氏の意識が戻りました。まだ瞳孔が開き混濁状態ですがもう

大丈夫です。お呼びしますのでもう暫くお待ち下さい」

 親父が生還した。向こう側に行かなかった。

 穏やかな表情だった。酸素マスクが外され、鼻孔には二本の管が挿入されていた。

「鼻がムズムズしてかなわん」

 これが親父の第一声だった。海彦は脱力。親父らしい。これなら本当に大丈夫だ。

「心配かけてスマン」

「親父。俺は何も出来なかった。生還を祈るだけだった。ゴメン」

「私には皆の祈りが届いていた。夢を見ていた。嘉蔵も蔵之介も現れた。家族も、みんな、

出て来てくれた。マリアも居た。小っちゃい頃に海彦と岩手山に登った夢だった。なが~

いシアワセな夢だった。みんなが私を見守っている。それが分かった時に眼が覚めた」

 海彦はしゃくり上げた。緊張が解けると涙が止まらない。止められない。

「親父。戻って来てくれてありがとう」

「海彦。人前で涙を見せるな。海では死ねんからな」




                   「備え」


                                  

 一週間後に海太郎は仙台の病院に移った。この時も海保のヘリコプターでの移送。      

  海彦は意識が戻った翌日に仙台に戻った。

「お父さんはもう大丈夫。海彦。学校に行って下さい。まだ色々と心配があるけれど命の

問題にはならない。海彦が傍に居てくれて心強かった。ありがとう」                                 

 海太郎の回復は進まなかった。遅々とした状態が続いていた。銃創の傷は癒えたが肺の

四分の一を喪っていた。その機能の低下がもたらすこれからの影響は計り知れなかった。

深刻な黄疸症状。海太郎の顔は黄ばんだまま。黄疸から肝硬変。そして肝臓癌への病の進

捗を案じた。肝臓が癌を宿した時には余命は長くない。その可能性を仙台の医師は否定し

なかった。志乃はそうなったらその時と覚悟した。

 日曜日の今日は彩が付き添い。

 海彦が朝食を終えると「話しがあります。時間を空けて下さい」と志乃。

「分かった。母さん。少し恐い顔している」

「そうかい。海彦は直ぐに気づくんだね。話しとは我家の備え。彩には成人式の時に伝え

ました。海彦も成人式と考えていたけれど早めました」

「気合を入れて聞く。我家がどうなっているのか気にはなっていたんだ」

 志乃は書類の束を食卓の上に置いた。

「先ずは説明するから聞いて」



―瀧上家の母屋が建つ土地は現在六八〇坪。敗戦後間もなく四分の一の一七一坪を分筆し

て四棟の借家を建てた。四棟とも爺ちゃんが勤める会社の社宅借り上げ。住宅事情が悪か

った時代だった。その後社宅を建て替えても会社の借り上げのまま。アパートは大小合わ

せて七棟。五〇世帯が入居できる。他に株券四種類とアメリカ一〇年債。それと預貯金。

負債は銀行からの借入金。これは七棟目の建築時のもの。爺ちゃんは定年を過ぎても一〇

年もの間、船に乗っていた。後進の指導だった。その後は非常勤の相談役に就いた。それ

は今も変わらない。爺ちゃんは報酬の半分を自社株購入に充てた。それは今も続く。長年

勤めた会社への恩義だった。この二千五百株の銘柄は東証二部に上場されている。残りの

三種類はトヨタ七百株と三菱重工五百株。それと与一さんが設立した『YOSAKU C

ORPORATION』の株。アメリカ一〇年債一〇万ドルは婆ちゃんの発案。名儀人も

婆ちゃん。これらが瀧上家の資産財産の全て―

                

 海彦は志乃が開き示した『瀧上家財産資産一覧表』を眺めた。


 母屋の土地だけでも一億円以上。今まで母屋の土地価格など考えてもみなかった。海彦

は一億円を想像できなかった。アパートを何棟か所有しているとは知っていた。その全貌

を初めて知った。社宅とアパートの資産価値も一億円を越えていた。

 意外にも我家は金持ちの部類なんだ。

 海彦は登記書と権利書を捲った。母屋は共有持分。社宅とアパートも同じだった。母屋

に自分の名前を見た。社宅やアパートにも自分の名前が載っていた。

「母さん。我家の財産資産の全体が分かったけれど少し説明して。財産と資産の違い」

「資産は財産の中に含まれる。借金も財産。資産とは投資できるお金。借金は投資できな

い。貯金も有価証券も不動産も担保になる。担保価値を満たし事業が収益を生み出すと銀

行が判断した時にはお金を借りられる。定額定期貯金だと八割。有価証券と不動産なら評

価額の六割まで借りられる。八割は無理」

「そうか。我家の財産とはひとつだけある借金以外は資産になると言う訳か。資産化でき

ない財産は意味がないとハッキリ分かった」

「資産化できない財産にお金を使わない。特に不動産には注意。これが家訓」

「借家もアパートも取得日が記されている。それらを辿ってゆくと敗戦後の我家の歴史が

分かるんだ。有価証券の名儀は一人。それらは我家と言うより個人の財産と思うけれど一                                   

覧表に載せてあるのは資産の資金で取得したからなんだ。爺ちゃんの株券は違うな…」

「与一さんも墓参りで言っていた。私は知らないけれど敗戦直後は本当に大変だったみた

い。母屋を維持できなくなるピンチの時もあったと聞いている。母屋の固定資産税だけで

も二百万円を越える。海彦の曽祖父の海翔は手広く海運業を営んでいた。一隻の船も無く

なり廃業に追い込まれた。膨大な借金が残っていた。幸運はGHQによる通貨切り上げ。

百倍に。一億円の借金が百万円になった。これで再起の途が拓けた。我家は救われた」

「仙台も空襲で焼かれた。東京ほどで無くても相当の被害を受けた。写真で見た。長町あ

たりは一面焼け野原。港には船が一隻も浮かんでいない。艀だけがポツン。戦後の復興を

射程に置いて与一さんの家は不動産業を始めたんだ」

「与一さんは三代目の社長さん。海翔と与一さんのお爺さん与兵衛が始めた。その元とな

ったのが母屋の土地。これを担保にして銀行からお金を借り、安値になった焼けた土地を

買いアパートを建てた。これは時流と合致。復興とは住むところから始まる」

「与兵衛さんは海に出なかったんだ。船が無いと出るに出られないからか…」                                

「爺ちゃんは与一のお父さんの与次を応援した。仙台の剣道仲間は古くからの間柄。土地

持ち家持ちの分限者が多い。爺ちゃんはネットワークを作り与次が大いに活用した」

「我家のアパートの取得はこの時から始まるんだ。六年から八年でひと棟ずつ増えている

のはどうしてなんだろう。きっと訳があるんだ」

「アパート経営は順調であれば一〇年で元が取れる。五年で担保価値が生まれる」

「…と言うことは順調だったんだ」

「与兵衛さんと与次さんの目利きに助けられてきた」

「社宅とアパートの登記書には親戚の名前が勢揃いしている。俺たち家族の他に海老蔵。

海大。八重叔母さんも載っているのはどうして。彩と俺の名前も在った」                                   

「主に税金対策。贈与税にも気をつけているのよ。対策方法はおいおい説明するから」

「母さん。ひょっとして宅地建物の資格を持っている…」

「必要が生じて試験を受けた。私は法学部だったから苦労しなかった」

「母さん。偉い」

「海彦に褒められちゃったね。でも本当に難しくなった。司法試験だと一日八時間三年間

が必須。宅地建物は一日四時間一ケ月の勉強で済んだ」

「必要とは何なの」

「私が嫁いで来た時のアパートは四棟。それを婆ちゃんが一人で全部を管理していた。私                                   

もお手伝いした。海彦をおんぶして家賃の滞納者に取り立てに行ったり。清掃を含めた物

件の様々な管理に携わった。必要はその時。入居時の説明とか退去時の立会とか夜逃げし

た後処理とか。結構な仕事量だった。五棟目の時に与次さんが管理会社への委託を薦めて

くれた。でも年間の管理費用が百九〇万円。それがもったいなくて頑張った」

「そうっかぁ。やっぱ母さんは偉い。俺は何も知らずに大きくなった」

「子供は知らなくていいの。何時か知る。それでいいの。今は与一さんが管理会社を設立

したのですべてを任せている。株主特約と親戚のよしみで年間たったの百万円」

「敗戦直後からの積み重ねが今の我家の備えなんだ」

「大雑把だけど不動産収入は年間二千四百万円前後。四社の株券の配当は二百万円前後。

アメリカの国債の利払いは含み益。売却するまで利益が出ない」

「父さんの給料の倍以上だ」

「海彦。不動産収入とは売り上げ。そこから保険や委託管理費、建屋の保全費用と借入金

の返済。これらの経費を差し引き、建て替えの準備金を積み立てる。そして固定資産税や                                

所得税。最後が名儀人への報酬。我家の手取りは三割ほど」

「株の配当を入れると年間九二〇万円の備えかぁ。母さん。偉い」

「海彦。これはお前の備えだよ」

 志乃は海彦名儀の郵貯定額預金通帳を差し出した。

 六歳から毎年五〇万円が積み立てられている。総額で六百万円。

「これは使ってはいけないお金。海彦が人生の勝負処と判断した時以外はダメ」

「分かった。彩も同じなんだ」

「同じ。我家は商売として不動産業を始めたのではないのです。母屋と墓を守るため」

 海彦はまじまじと志乃を見た。それは尊敬の眼差しだった。先を見据えた敗戦後からの

親達の努力。それを数値で知った。俺はもう子供では無いんだ。海翔と与兵衛、海之進と

与次、海太郎と与一は嘉蔵と与助、蔵之介と与作に敗けてはいない。二人が力を合わせた

時には何でも出来る。困難が押し寄せても跳ね返せる。そして時代時代の母屋と墓を守っ

てきた先代達の想いも込められている。墓を守るとは家督を継ぐを意味している。

 海彦は初めてそれを自覚した。

「みんな偉くて立派だ」

「これで私の話しはひと区切り」と志乃は席を立った。

 志乃は台所でお茶を入れている。                                    

「お父さんはもう船に乗らない。私はもう船には乗らないと思っています」

「えっ。どうして…」

「船に乗るには頑健な身体が必要。病気持ちや怪我の後遺症で苦しんでいる人は乗れませ

ん。他の乗組員に迷惑をかけてしまいます。お父さんは必ず健康を回復します。でもお父

さんは回復しても船には乗らない。部下を一人亡くした。その責任です。そう遠くないう

ちに海上保安庁を辞めると思います。お父さんはそう云う人です」

「母さん。父さんと話したの…」

「今はお父さんの回復が最優先です。このようなことを話し合っていません」

「でも母さんは父さんの心が分かるんだ」

「それが長年連れ添ってきた夫婦と言うものです」

「…」

「今日海彦に備えを伝えたのはお父さんが辞めても我家は直ぐには困らない。お父さんは

五十一歳。まだまだ働き盛り。どんな仕事に就こうとするのかまでは分かりません。その                                  

時はその時。海彦が今彼是と考え悩むのは当然です。音楽への路を諦めてはいけません。

お前が一人前になるまで、私が、みんなを、護ります。これだけは忘れないで」

「…。分かった」

「もうひとつ伝えなければなりません。爺ちゃんの武勇と日本の弱虫です。爺ちゃんは八

〇歳を過ぎた今も会社の相談役です。それは海賊を追い払い船を護ったからなのです。爺

ちゃんはもののふ。その功績で爺ちゃんは生涯の相談役に就いた。会社も立派」 


 志乃が海之進の武勇を語り始めた。


―海賊が襲う手口は昔も今も変わっていない。村上水軍の戦法と同じ。標的の足の遅い大

型船に、足の速い舟を密着させ、鍵爪ロープを垣立に掛け、縄梯子を登って船を制圧する。

海賊は銃で武装している。縄梯子が一ケ所や二ケ所なら船上から応戦できる。大型船の左

右の五・六ケ所となると、その内ひとつは上られてしまう。自衛隊の艦と海上保安庁の船

艇は、銃火器で武装されているが、民間の船にはそれが無い。乗組員も銃を携えていない。

せいぜい放水。接舷されたら放水は役に立たない。海賊にとっては格好のターゲット。特

に日本の貨物船は狙われる。海賊とはならず者。銃で脅して乗組員の金品を奪うだけでは

ない。積荷を売り払う。時には船ごと処分するのが生業。人を殺すにも躊躇いがない。                                    

 爺ちゃんは三万トンのコンテナ船に乗っていた。機関長として任務に就いていた。マラ

ッカ海峡に差しかかると、どの船も速度を落とす。此処はインドや中東に向かう最短ルー

ト。世界中の船が海峡を通る。ノロノロと狭い航路を進む。左舷に現れた舟が照明でモー

ルス信号を送って来た。停まれ。停まれ。停まれ。機関室で低速でのエンジン音を確かめ

ていた爺ちゃんに息せき切った伝令が来た。

『機関長。海賊です。舟に大きな船外機が付けられています』

『何隻だ』                                    

『三隻。人数はおよそ一五名』

 爺ちゃんはロッカーからを仙台政宗を取り出し甲板に走った。

 この刀は九代目海運から代々受け継いだ優れもの。

牆壁しょうへきに鍵爪ワイヤーを掛け、縄梯子を吊り下げて登って来る。俺は此処

を守る。残りの二ヶ所はワイヤーが掛かったらカッターで切り落とせ。上られてしまった

らおしまいだ。決して歯向かうな。絶対に手出しするな』

 甲板員はワイヤーカッターを担ぎ左右に散った。

 爺ちゃんの目前に海賊の一人が現れた。海賊は銃を背負って縄梯子を登る。海賊が銃を                                   

構える間もなく爺ちゃんは刀を左下から右上に払った。居合い。爺ちゃんの剣は峰打ちで

あった。まともに刀を受けた海賊は叫び声と伴に海に落ちた。それを見仰げていた仲間は

一人一人、登るのを諦め、降りて行った。他の二ケ所のワイヤーも切断できた。

 ワイヤーカッターの装備は爺ちゃんの海賊対策の発案だった。直径二センチまで切れる

電動式。一台二〇万円。船長の裁断で強力な五台を揃え、出航してから訓練を重ねた。

 爺ちゃんも蔵之介の教えを守り船長を志願しなかった―


「これがお父さんから語り聞かせれた全部です」

「親父は部下を庇った。爺ちゃんは船を護ったんだ」

「私はしみじみ想う。滝上家の男たちは血が熱い。海彦もその血を受け継いでいる」

「そうかなぁ」

「なに言っているの。腹立てて海保を弱虫と言ったじゃない。ボートは海に落ちた仲間を

見捨てて逃げた。峰打ちでも相当のダメージを負っている。このままでは溺れ死ぬ。爺ち

ゃんは海賊を助けた。海賊はモザンピーク国籍と名乗った。モザンピーク大使館に問い合

わせると確かに国籍が在った。ここからは外務省の出番。海賊の正体を究明しないまま厄                                    

介者扱いにして日本の費用で海賊をモザンピークにさっさと送還してしまった。まるで助

けたのは余計と云った在り様だった。それだけではない。爺ちゃんは日本に戻ってから警

察の取り調べを受けた。銃刀法違反。仙台政宗は登録済み。しかしその持ち出しと使用が

取り調べの対象。爺ちゃんは略式起訴され罰金一〇万円。爺ちゃんは黙して語らず。一〇

万円を支払った。怒ったのが会社。船を護った者が罰せられ、船を襲った海賊は無罪放免

の扱い。会社は爺ちゃんに感謝して爺ちゃんを護った。これが日本の弱虫の実態。追い払

うのが大方針。追い払って面倒を封じ込める。舐められる。海彦の言う通り」

 だから爺ちゃんは正月の茶会の席上、マリアの前で「海賊には非武装中立からの話し合

いは何の意味を持たない。どうぞ襲って下さいと言っているのと同じだ。専守防衛の方が

まだマシじゃ」と言ったんだ。これが爺ちゃんなんだ。今も残る爺ちゃんの強烈な野生と

矜持は此処にすべてが凝縮されている。


 一〇日後に海保から三千万円余の見舞金と名簿が届いた。名簿の表紙には『見舞金』と

筆で書かれ、捲ると海上保安庁長官名が最初に大きく書かれていた。次に本庁の各部署。

そして第一管区から第十三管区までが列記され、海保大学校の名も在った。海保職員は約                                   

一三四〇〇人。一人千円を拠出したら一三四〇万円余になる。階級が上の人たちは一万円

以上の多く出す。海彦は組織の力を初めて知った。

海彦は下校の途中で病院に寄るのが日課になった。三日に一度は橘南と病院の待合室で

おち合った。橘南は待合室で海彦の戻りを待った。海彦は五分でも海太郎の顔と姿を見る

と決めた。毎日見ていると回復の具合がはっきりとは分からない。それでも悪化していな

いのは分かる。仙台に移送されてから早二週間。点滴は外されていた。食事の量も増え、

肝臓に良い食材をふんだんに使ったメニューが中心。食欲もある。ただ同じような献立に

食傷気味と言うまでになった。それを聞いた静が重箱弁当を作った。今は病院食は朝食程

度。あとは静が賄っている。歩けるようになった。一〇キロ減の体重も半分が戻った。眼

の輝きも元に戻った。七階の個室で暇を持て余して居る。それでも退院の目途がたたない。

「親父。退屈だろう」

「そりゃそうだ。テレビも新聞も飽きた。お前がプリントしてくれたマリアのお見舞いメ

ールを繰り返し読んだ。それも暗記してしまった」

「そう思って漫画の単行本を持ってきた」

「気が利くな」                                    

「『MASTERキートン』全一八巻。今日は五冊。面白かったら残りは明日」

 海太郎は第一巻を手に取りページを捲った。

「おっ。この作者は『YAWARA』ちゃんだな。お前に相談したいことがある」

「なに」

「来年の夏に参議院選挙がある。私はそれに出ようと考え始めた。立候補を考えている。

地方区が良いのか比例区が良いのか模索中。今の処は腹を括った決心までには至っていな

いが準備期間は一年と少し。素人目にも短い。海彦の意見を聞かせて欲しい」

「親父。退屈しているなんて嘘じゃないか。俺の意見はひとつ。親父がやろうとしている

ことに協力や応援が必要なら協力を惜しまない。全力で応援するだけだ」

「オマエ。全然驚いていないな。拍子抜けだ。『えっ・ナニ・それ』と思っていた」

「俺が音楽の路で父さんを驚かせたから父さんは俺に驚いて欲しかったんだ。俺。ケッコ

ウ驚いている。かなりの衝撃力。父さんが撃たれてから生還を祈った。祈りが通じた。少

し前に母さんから『お父さんはもう船には乗らない』と言われた。我家の備えを教えられ

た。この時からなんだ。親父はこれからどうするんだろうと思い考え始めた」

「そうか。母さんがそんなことを言ったんだ」                                                                      

「親父。母さんに立候補を言ったの…」

「お前が初めてだ」

「そうかぁ。俺はまだ意見を言っていない。感想を言っただけ。俺には大した意見が無い

から感想が先に出た。ただ父さんの気持ちだけは分かっている。このまま退き下がれない。

部下の宮田安夫君を死なせ、久保新治君を身体を張って庇い、自分が撃たれ、死線を彷徨

った。オホーツク海銃撃事件は何ひとつ解決していない。俺は未解決のまま時間を積み重

ねてゆくと思っている。それが政府の方針。間違っていない自信がある。日本の弱虫は変

わっていない。父さんがこのままで良いと思うはずがない。間違っている…」

「図星だ」

「父さん。マリアの政治家への途の先取りだね」

「それはまだ早い。当選しないと政治家にはなれない。私はお前に歴史を学ぶとは平和を

築く人間になることだと偉そうに言った。私にもその時が来たように思う」

「父さんは彩に『思い切り生きろ』と言った。それを知った俺は『思い切り生きよう』と

決めた。父さんは『自分も思い切り生きてきた』と彩から聞いた。その時に思ったんだ。

父さんは思い切り生きてきたんだろうかと。墓と母屋と俺たちを護ってくれている。それ                                   

らが父さんの思い切りなんだろうかと…」

「墓と母屋と家族を護るのも私の思い切りなんだ。しかしこれからは次の思い切りの段階

に入ったのかも知れないな…」

「父さんの決心に誰も反対しないと思う。みんなが全力で応援するに決まっている。彩も

留学を止めて応援すると言い出す。彩は言い出したら聞かない」

「それは駄目だ。海彦もそうだ。私がどうあろうとも音楽の路を止めてはいけない。彩が

留学を取り止めると言い出したらお前からも説得してくれ。海彦は分かり易いが彩は難し

い処が在る。私の手に負えない強い何かを持っている」

「ちぇ。俺って単純バカみたいだ。その時が来たらやってみる。でもさ。女同士。母さん

で駄目なら難しいなぁ。婆ちゃんも居るかぁ…。婆ちゃんは時どき力を発揮する」

「その時はその時だな。ところで曲創りは進んでいるのか。俺のせいで止まっているんだ

ろう。マリアとは遠く離れていて練習もままならない。音楽の路への不安はないのか」

「あるさ。マリアと練習ができないのが不安ではないんだ。俺の曲創りなんだ。メジャー

デビューが目標なら不安は小さい。デビューして売れなければ意味がない。マリアは歌を

政治家への礎と考えている。売れなければ礎にならない。マリアの歌は必ず認められる。                                

ルックスも良いし喋りが抜群。売れる要素を一杯持っている。問題は俺の曲」

「そうか。マリアのことだから政治家になる途を考えていると思っていた。そうか。歌で

有名になるのがステップなんだ。俺には考えられないステップだ。『Sea You Again』

は良かった。聴き惚れた。それでも不安なのか」

「一曲ではダメ。せめて一〇曲。ライヴには飛び切りの一〇曲が必要」

「まぁ。焦るな」

「俺。けっこう焦っているんだ。音楽の路を確立するには評価されなければならない。試

験に合格するのとは訳が違う。資格試験では無いから。それで考えた。不安を払拭する手                               

立てを考えた。それで少し気持ちが楽になった」

「何を考えたんだ」

「三年間。無我夢中でやってみる。三年経ったら何が足りて何が足りないのかを考える。

三年やって全然ダメなら諦める。諦めたくないから頑張る。曲は年に二曲。マリアと俺の

を一曲ずつ。いっぺんに一〇曲は無理だ。俺とマリアの持ち時間は長い。でも三年が最初

の目途。ダラダラやっていては時間とエネルギーの無駄遣い。みんなに迷惑をかける」

「マリアと話し合ったのか」                                                                                       

「三年間はマリアとの合意。マリアの悩みは政治家として立つ場所。スペインなのか日本

なのかを決められないでいる。俺はてっきりスペインで政治活動すると思っていた」

「マリアはそんな風に考えているんだ。今からグローバルを体現している。考えているス

タンスが常人とは別次元だ。今は見守るしかないなぁ…」

「父さん。世に出るには今まで誰も言ったことが無い。誰も書いたことが無い。誰も見た

ことが無い。誰も聴いたことが無い。これが必要だと気づいたんだ。これが新鮮と斬新。

父さんの『日本の弱虫の仇討ち』は誰も言ったことが無い。それも命を賭しての主張だ。

政治家たちが避けてきた主張。俺は父さんに才能を感じた。俺は足元にも及ばない」

「なに言っているんだ。『日本の弱虫への仇討ち』は海彦のコピーじゃないか」

「俺は解説しただけ。俺は何も創り出していない」

「…。海彦。次は金の話しだ。我家の備えのうち一億円は使える。私は一億円を使おうと

考えている。足りなければ借金する」

「父さん。三千万の見舞金も使える金では…」

「そうだな。それを入れると一億三千万円になるな。これなら借金しなくて済みそうだ。

以前、伊達から国政選挙に打って出ると一億以上の金が要ると聞いていた」                                 

「父さんたちが苦労して蓄えた備えだ。親戚と与一さんに相談する他ない」

「そうだな。順番を間違えないように踏まないとな」

「金は俺には無理。父さんの決心は分かった。父さんも不屈の男なんだ。血は争えない。

俺。嬉しいけれど先ずは身体を元に戻さないと…」

「海彦と話しているうちに気力が漲ってきた。直ぐにでも退院できる。もはやベットに横

たわっている時ではなくなった。退院したら色々頼む。やることが山積している」

「まかせて。父さん。輝いている。こんなに格好良い父さんは初めてだ」

「よせやい。照れるじゃないか」

 ベットに座って居た海太郎は蒲団の中に身体を潜り込ませ顔を隠した。


 一時間が経っていた。

 海彦がエレベーターを降りると橘南が駆け寄って来た。

「お父さんの容態に何かあったの…。なかなか降りて来ないから…」

「異常ありだった。でも心配なしだ。親父の奴。来年の参議院選挙に打って出ると言い出

した。それへの意見を求められて遅くなった」                                    

「…。なんか凄い展開。身体も回復していないのにそんなことを言うんだ」

「あぁ。今日は親父に凄味を感じた」

「緊張感あるね。仇討ちに出陣すると息子に意見を求めるお父さん。それに意見を言う息

子。ワタシ。海彦が何を言ったか分かるような気がする。全面支持。応援」

「南。仇討ちって…」

「決まっているじゃない。日本の弱虫への仇討ち。海彦とイッパイ話しているからそのく

らい分かります。ワタシ。きっと役に立つと思う。一〇月には選挙権を持つ。良いなぁ…。

父と息子が討論して父のこれからを決める。ワタシもお父さんと討論したかった」

 海彦は橘南の左手をギュッと握り病院を出た。


「今日はハンバーグ定食。買い物は完了。三〇〇グラムハンバーグ。コンソメとポテサラ

の作り方も教えるね。キャベツの千切りはもう大丈夫。海彦のエプロン買っちゃった」 

 橘南は調理の時には必ず海彦に段取りと作り方を示すようになった。そして調理の基本

を伝えた。料理に合わせた食材の切り方。余った食材の保存方法。出汁の取り方。肉と魚

の焼き方。野菜の炒め方と煮方。味噌汁と一夜漬けの作り方。特に力を込めたのが炒飯。

「余ったご飯の有効活用には炒飯が一番」                                

 橘南は食器と鍋の洗い方も伝授。

「ワタシ。まだお魚を捌けない。母は教えてくれる約束だった」

「…」

「包丁を持ったことがない海彦が独り暮らしをするようになったら困るでしょう。お母さ

んみたいだけれど我慢して。ワタシ。海彦の傍に何時も居られないかも知れない。その時

の準備。海彦に何かをもたらすとしたらお料理だけだから…」

 海彦はハンバーグの練りを教わった。練り過ぎても、足りなくても駄目。丁度良い按配

は手の平で綺麗に丸まるのがコツ。弾力が弱く丸まるにならないのは練り過ぎ。

「独り暮らしするようになって料理するようになってから、生きていると実感した。生か

されているのではなくて、ワタシ、生きていると思えるようになった」

 海彦は橘南にスペイン行きを告げた。

「八月一日から一〇日間スペインに行く。コリア・デル・リオ市のハポンの会に招待され

ているんだ。親父がダメだったら諦める他ないと思っていた」

「嘉蔵の墓参りだよね。一〇日間はマリアと一緒だね。聞くとやっぱり複雑。でも海彦。

ワタシに気を遣わなくてもイイんだから。インターハイの地区予選は二週間後の七月三日

から。県予選は一〇日から。全国大会は二十三日から静岡。被らなくて良かった」

「南の応援に行くと約束したろう。どうして嘉蔵のことを知っているんだ」

「小六の卒業文集。先生が手紙で載せないかと言ってくれた。ワタシのを覚えてる」

「覚えているよ。『ワタシの将来の目標。博物館の学芸員。たったひと欠片の化石や土器、

石器から大昔が分かる。ワタシはそれに想いを馳せるのが好き』」

「海彦。覚えていてくれたんだ」

「当然だろう。南は考古学者になりたいのか…」

「まだハッキリと決めていないんだ。ティラノサウルスや空飛ぶ恐竜にも興味があるんだ。

今は『むかわ竜』にはまっている。海彦は嘉蔵を書いていた」

―俺は嘉蔵の十六代目。嘉蔵は偉大だけれどイスパニアから帰って来なかった。だから尊

敬できない。家族を見捨てたんだ。俺は残された蔵之介の不屈を尊敬している―

「ワタシはびっくりしてしまった。四百年前はワタシには遠い。でも海彦は昨日のように

四百年前を書いていた。ワタシの知らない海彦だった」

「小学校の卒業文集にそんなこと書いていたんだ。忘れていた」                                   

「海彦のことだから今も嘉蔵を尊敬できないと思っているんでしょう」

「嘉蔵に関する発見が俺には必要だ。ところで南は両親の墓を建てないのか…」

「うん。お盆に間に合うように両親の墓を建てようと考えている。今年は七回忌。もう遺

骨を見つけられない。このまま放っておけないもの。供養されない両親は気の毒。遺品は

沢山ある。でもワタシ。お墓の建て方を知らないんだ。海彦は知っている…」

 俺も墓の建て方を知らない。家族には相談できない。「どうしたんだ」と聞かれる。説

明すると彩が知ってしまう。どんなことがあっても彩に知られてはいけない。

 海彦は悩んだ挙句、訳を話して与一に相談すると決めた。与一は親切で口が堅い。

 海彦は橘南に与一を告げた。南は応諾。海彦は直ぐに与一に電話した。

「与一さん。説明は行った時にゆっくり。家族には内緒にして。恥ずかしいから」

 海彦は橘南と一緒に相談に行く日取りを決めた。


                                

                                           

            「故里吾出瑠里緒日誌」

  

 

 一週間後に海太郎が退院した。まだ治癒に至っていない。しかし海太郎は医師を説き伏

せ強引に退院した。選挙に向け初動が全てを握る。出遅れ分を取り戻す必要があった。

 伊達慎一は海太郎の求めに応じ見舞いに来てくれた。

 海太郎は次の参議院選挙に打って出ると決めた経緯を伝えた。

 伊達慎一は「先ず比例区から出るのか地方区から出るのかを決めなければ進まない。瀧

上家は仙台の歴史を背負って生きてきた。俺は地方区で出るべきと思う。今や瀧上海太郎

は時の人でもある。充分勝算を見込める。それとコピーが良い。『日本の弱虫への仇討ち

』。コピーに破壊力がある。日本の平和は弱虫になることで維持継続されていると有権者

は感じている。何処かでそれで良いのかと…。お前は身体を張り病に犯されながらも今も

生きている。何も言わずとも有権者に瀧上海太郎のイメージが強く伝わる」と応えた。

 海太郎は伊達慎一に選挙対策本部長就任を求めた。

「お前の頼みなら断れないな。まあ急くな。お前は選挙の素人。俺はプロではないが国政                                   

選挙の度に係わってきた。経験値はそれなりにある。政権党から公認を得るのが当選の早

道。仙台は保守が強い土地柄。それでも選挙となれば与野党の力が拮抗する。当選するに

は多くの団体からの支持と応援を得るのが必勝パターン。それから個人に訴えを広げる。

出遅れは多くの団体からの支持を得にくい。既に他の立候補予定者からの要請を受けてい

る。宮城県の定員は一名だ。政権党から二名が立候補するとなれば野党が喜ぶだけだ。三

日くれ。情勢を分析する。選挙とは団体の看板の力ではない。個人の力の結集なのだ」

 三日が過ぎた。海太郎に伊達慎一から電話が入った。

「何とかなりそうだ。今から行っても良いか…」

 海太郎は医師に情況と身体の状態を伝え退院を強く求めた。

 医師は「そう云う情況なら致し方ありません。症状の悪化は命に係わります。胆に銘じ

てもらえますか。それ無くして退院させられません。暫くの間は週二回の診察を約束して

下さい。それと食事療法を怠ってはなりません。奥さんの言うことを守ってくれますね」

と念を押し、退院指示書に署名捺印。書類を看護師に渡した。                                   

「瀧上海太郎さん。最後になりますが、兎に角、身体あっての選挙。応援しています」

 海太郎は、病院服のまま、踵を打ち付け、姿勢を正し、医師に敬礼で応えた。


 海太郎は玄関に入る時に病院から連れ添った志乃に言った。

「やっと家に戻って来られた。五〇日ぶりだ」

「お帰りなさい。与一さん。八重さん。海老蔵さんもみえています」

 海太郎が座敷に入ると彩がクラッカーを飛ばした。それを合図に全員が一勢にクラッカ

ーの紐を曳いた。海彦も力を込めて紐を曳いた。

「お帰り。お父さん。もう駄目かと思った。でも戻って来てくれた。良かった」

 彩は海太郎に抱きついた。

「彩をダッコした最後は小四の運動会だった。かけっこで一位になった。お弁当の時間に

なって彩が父母席に戻って来た時以来だ。大きくなった。大人になったなぁ…」

 祝宴は静と彩で準備した。静は彩に気合を入れた。

「今日は持っている力をすべて注ぎ込む。彩。よ~く見ているんだよ」

 静は真カレイの煮つけの段取り。

「煮つけは沸騰してから魚を入れる。臭みが消える。しょっぱくならないようにがコツ。

真カレイの背中には十字の切れ目を入れる。私はミョウガを使うけれど生姜でも良い。そ                                    

れと煮こごりも大切。カレイからのゼラチンで固まる。ご飯に合う。海太郎の大好物」

 海之進が乾杯の音頭を取った。

「よく戻って来た。ワシの息子は易々と死にはせん。そう思っていたが駄目かも知れない

と。彩と同じだった。今日の目出度さは他にもある。海太郎は人生の勝負に出ると腹を決

めた。我家は政治と一線を隔してきた。それが護りの家風だった。海太郎がそれを打ち破

ろうと決めた。今夜はふたつの祝宴。そして作戦会議じゃ。皆の者。心してかかれ」

「おぉ。乾杯」

 与一が力強く発声。

 宴が始まった。 

 何と云う在り様だ。誰一人と親父の立候補に異論を唱えない。退院を祝うよりも立候補

に喝采。まるで当選したかのような盛り上がり。渋い顔はひとつも無い。

 海彦は違和と云うより不思議だった。

 何故だ。何故こんなに盛り上がれるのか。大人たちが何故こんなに嬉しそうなのか。初                                    

めて見た。これが親父の力なんだ。一族をまとめ護ってきた力なんだ。墓と母屋を守るに

はこうした力が無くてはならないんだ。それはどんな力なんだ。…人望…人徳…⁉…。親

父は用意された椅子に座り終始ニコニコ。それだけだ。何も言わない。嬉しそうだ。そん

な親父を見ていると俺も嬉しくなってしまう。人望も人徳も得難く、得ようとすると得ら

れない、かけがいのない人の心の集積なのかも知れない。俺には皆無の人望と人徳。

 宴は退院祝いから選挙対策会議に移った。その時に伊達慎一が現れた。

「私は海太郎君と高校の同期です。その縁で選挙対策本部長を引き受けました。引き受け

たからには当選させなければなりません。私の作戦は次の参議院選挙比例区に立候補。初

めは地方区を考えていましたが政権党の現職が立候補を表明しています。この壁を突破す

るのは無理と判断しました。他にも対立候補の野党に漁夫の利をさらわれない配慮も必要

です。それで非拘束名簿方式の政権党の比例区で挑む。これを実現するには段階を踏まな

ければなりませんが今夜はそれらを抜きにしてして海太郎君の退院を祝いたい」

 海太郎が立ち上がった。                                 

「みんな。ありがとう。心配かけた。選挙は伊達に任せた。私は挨拶と演説を磨く。マリ

アのような挨拶が目標だ。海彦にコーチをお願いする。若い者に耳を傾けてもらえるよう

な挨拶と演説でなければ誰も聴いてくれない。若い者が私の話しに共感してくれたらその

若者は必ず投票に行く。ここが当選の鍵だと考えている。海彦。宜しく頼む」

「海太郎の挨拶の中で今夜のが最も良かった。気負いが無かった。だから堅苦しくなかっ

た。海彦がコーチならばマリアも絡んでくる。こりゃ楽しみだ」と海之進。                                  

 静も志乃も頷いていた。

 彩が「戦さが始まったら私はお父さんの傍に居る。お父さんの身体を守る」。

 親父が言った「退院したら色々頼む」のひとつが挨拶と演説のコーチだった。親父は挨

拶と演説に眼を付けた。人の心にキックを入れられるような話しでなければ人の心を動か

せない。それを親父はやろうとしている。実に良い着眼。親父。やるな。

 海彦は挨拶と演説のコーチングを考え始めた。

 短く、分かり易い言葉で訴える。これが基本だ。聴衆の心をワシ掴みにするには誰かを

批判しては駄目だ。歌と似ている。いや同じだ。唄うように話せたら結果はついてくる。

大丈夫だ。親父は喰らい付いてくるに決まっている。練習を重ねたなら大丈夫。

…よっしゃ~…

 海彦は目立たぬように右の拳を握った。                                   

 宴もたけなわの時に海彦は席を外し部屋に戻った。マリアからメールが届いている予感

があった。届いていなくとも親父の退院と参議院選挙への出馬を知らせなければならない。 

 予感適中。マリアから長文のメールが届いていた。


—昨日。市長さんに呼ばれて庁舎に行きました。わたしが仙台に行ったのを知り「見ても

らいたい品がある」と電話で言われました。行くと庁舎の地下室に案内され、向かった先

は資料室。「ここに慶長使節団が村に残した品々を保管している」と市長さん。

「ここに四百年前が眠っている。それと村に残った八名の方々の遺品も在る」

 資料室には滝上家の蔵に在った数々が置かれ積まれていた。

 甲冑・長持ち・長刀・脇差し・大皿・茶碗・箸・鍬・鋤・太鼓・煙管。などなど。

 わたしの家には嘉蔵の遺品が無い。不思議に思って爺ちゃんに尋ねたことがある。

「家で保管していると何時しかバラバラになったり分からなくなったり無くなったりする。

ハポンの会で話し合い二〇年前に市役所にすべて寄贈した」

 それで嘉蔵は爺ちゃんの記憶の中に閉じ込められてしまったけれど、わたしは、小さい

頃から爺ちゃんに嘉蔵を何度も語り聞かされてきました。

「これらの遺品の展示を考えている。私は慶長使節団記念館を建てたいと思い続けてきた。

しかし予算を組めなかった。マリアが仙台に行った。ハポンの会では嘉蔵の十六代目を招

待しようとしている。これは好機到来。市の予算を節約して基金を作り、寄付を集めたな

ら一億円くらいは何とかなる。嘉蔵の田圃を広げて収益を基金に組み入れる。これも基金

を増やす方法のひとつ。立派な建物は必要ないが充実した内容の展示を考えている。この                                   

ままでは寄贈してもらったハポンの会に申し訳ない。マリア。協力してもらえないか…」

「はい。協力します」

「そう言ってもらえると思っていた」

 市長さんは満面の笑み。

 市長さんが長持ちのひとつを開けた。中には伊達男の面目躍如たる衣装が丁寧にたたま

れ保管されていた。その上に和紙に包まれた品が大切そうに置かれていた。

「これは巻き物。全部で五巻。衣装の中に仕舞われていて最近まで気づかなかった」

市長さんが包みを開いた。開くと同時に資料室の管理者が透明なナイロン手袋を市長さ

んに。わたしにも同じ手袋。市長さんから巻き物をひとつ渡された。

『故里吾出瑠里緒日誌』

                                   

「これは嘉蔵が書き残した巻き物です」

「マリアはひと眼で分かるんだ」

「はい。分かりました。これは嘉蔵の『Coria Del Rio Journal』」

「そうか。来てもらって良かった」

 市長さんは巻き物の帯紐を解き、用意された長机の上に置き開いた。

 海彦が家系図を開いた時と同じ手順。巻き物の長さは二Mほど。

 初めて見る文字が並んでいた。クネクネして全く読めない。慣れ親しんだ活字の日本語

とは別物の文字。表紙の漢字はクネクネしていなかったので読めた。巻き物の処々は読め                                

た。数は僅か。読めたのは巻き物の始まりに書かれていた『嘉蔵』と幾つかの平仮名。そ

れと漢用数字だけ。これだけでは意味をまったく掴めない。意味が分からなくとも直感。

この巻き物は嘉蔵不帰還の謎を解く。海彦が嘉蔵を尊敬できるようになる。

「この巻き物をデジカメで撮って良いですか。それを瀧上家に送って読み下してもらう」

「私たちはマリア以上に読めない。お手上げだった。これも記念館を建てられなかった理

由のひとつ。マリア。宜しくお願いしたい。これからもお願いしたい」と市長さん。

「はい。十六代目は海彦。お爺さんは海之進と言います。お爺さんならクネクネも読み下

せます。滝上家の人たちは、みんな、嘉蔵がコリア・デル・リオでどう生きたかを知りま

せん。嘉蔵不帰還の謎を胸の奥にしまい、嘉蔵長男蔵之介の頑張りを、不屈を、語り継い

でいます。嘉蔵が仙台に残した数々の文書よりも蔵之介の『嘉蔵始末記』を諳んじていま

す。わたしにも読み聞かせてくれました。この巻き物は嘉蔵の存在証明になります」

 …と言う訳で一日かけてデジカメで巻き物の文を撮り終えました。

 全部で七二枚。最後の『五』と書かれた巻き物は図面でした。水車小屋の設計図と堀の

測量図と思われます。七二枚を一度、パソコンに取り込んでからUSBメモリーに保存し

ました。兄から「添付メールでは送れない。容量が大き過ぎる。送ったら海彦のパソコン

が壊れるかも」と言われ指示通りに。USBメモリーを郵送しました。

 わたしも爺ちゃんも父さんも興奮しています。家族も同じです。嘉蔵が突然現れました。

 市長さんとの約束は、わたしと市長さんが、OKするまで、秘密。ハポンの会に知れる

とお祭り騒ぎになってしまいます。

 海彦。巻き物の写真二枚を添付するので宜しくお願いします—

 

 翌日。海彦はマリアからのメールと写真をプリントして海之進に見せた。                                   

「爺ちゃん。凄いことになりそう。嘉蔵が現れたんだ。メモリーチップが届いたらプリン

トするから読み下して欲しい。俺には読めない。お願いします」

 海之進はマリアからのメールを読み終えると二枚の写真を凝視。

 一枚は第一巻の『故里吾出瑠里緒日誌』。二枚目は五巻を並べた巻き物の全貌。

「やはり。マリアは嘉蔵が送り届けた使い人なんだな。マリアが来てから、予測もしなか

った、予測できなかったことが次々と起こる。今度は嘉蔵の『故里吾出瑠里緒日誌』をワ

シらに送って寄こす。海彦。ワシが四百年を埋めてみせよう」

 海彦に海之進の全身に漲った力が波動となり響いた。こんな爺ちゃん初めてだ。剣道の

時の集中と気合いとはまったく違う。婆ちゃんの『うえるかむ まりあ』の時と同じだ。                             

 海彦は、奮い立つ律動を、鎮めつつ、覚悟を決めて、出陣する、もののふの姿を見た。                                  

 爺ちゃんは、嘉蔵と向き合い、時空を超えて、一対一で、対話する覚悟を決めたんだ。 

 嘉蔵との真剣勝負を俺に告げたんだ。

 爺ちゃんは「分からぬことを詮索するのは無駄じゃ」と何度も俺に言った。それは爺ち

ゃんが、分からぬことを考え、想い続けてきたからなんだ。爺ちゃんは、俺の何倍も、何

十倍も、何百倍も、考え、想い続けてきたんだ。父さんも同じだ。

 マリアは俺たちの歴史と未来を変える救い人。嘉蔵に託された使い人。遠いイスパニア

からの祈り人。マリアが嘉蔵の使い人ならば俺は蔵之介の使い人。俺とマリアの出逢いは

嘉蔵と蔵之介の再会。『故里吾出瑠里緒日誌』が発見されたのは再会への祝福。

 蔵之介と与作が共に抱いた夢。「何時かイスパニアを訪れ嘉蔵と与助に本当を尋ねる」。

この時がやってきたのだ。蔵之介と与作の夢を爺ちゃんと父さんと俺で実現できる。                                  

…よっしゃ~…

 海彦はマリアからのメールと巻き物の写真を複写して家族全員に配布した。

 その日の夕食は静かだった。みんな想いを巡らせている。俺がマリアに初めて書いた手

紙を読んだ時と同じだった。嘉蔵の惜別の詠をマリアに書いた時と同じだった。

 メモリーチップが届いた。

 パソコンに落とし込むと海彦は七〇枚の写真をプリントするのを諦めた。写真はカラー

で量が多い。プリンターが熱を帯びて発火。壊れる恐れもあった。壊れなくとも時間がか

かる。何回もインクが空になる。写真の文字は小さく細かい。これでは爺ちゃんが苦労す

る。読み取れない処も出てくるかも知れない。そうなればプリントする意味がなくなる。

 海彦は家電量販店に走り、画面の大きいタブレットを買った。                                    

 これに写真を移し換える。そうすれば指で開くように画面をなぞれば文字を拡大できる。

問題は爺ちゃんが使いこなせるかどうかだった。まず無理。爺ちゃんが操作に慣れるまで

マンツーマンで俺が教え込む。今はこれしか方法がない。

 海彦はこの方針を海之進に伝えた。

「難しいもんだな。ワシが慣れ、独りで操作できるまで、海彦が傍に居るなら心強い」                              

 海彦は写真を取り込んだタブレットを持ち海之進の部屋に入った。

 海之進は待ちかねていた。                                  

「いよいよ決戦の時だ」

 机の上にはB4の分厚い原稿用紙と海之進愛用の太字のモンブランが置かれていた。

 海之進は二日目でタブレットの操作をマスターした。

 海彦は海之進の全力を間近で見ていた。

 静と海太郎と志乃と彩は、邪魔しないよう、見守り、応援を続けた

「これで嘉蔵との決戦を終えた」と海之進が、翻訳文を認めた原稿用紙を示すと、彩が

「爺ちゃん。立派。ご苦労さま」と、近寄り海之進の肩を揉んだ。

 海之進は眼球を赤く染め、涙目の目尻には、目ヤニが滲み出ていた。

 海之進は三日を待たずして『故里吾出瑠里緒日誌』全五巻の翻訳を終えた。

 静が冷蔵庫からのタオルを海之進の両眼に当てた。

「お爺さんのカッコ良い姿を久しぶりで見た。惚れ直したかも…」

「父さん。お疲れさま。ありがとう。我家の宝がひとつ増えた」と海太郎。

 志乃が「三日間。まともに食事を取っていないし晩酌も…。用意してあります」。

「皆に心配かけたようだ。ワシは充実していた。タブレットも使いこなせるようになった。

海彦の指導が良かったからだ。便利なモノじゃった。海彦。この翻訳文をパソコンに打ち

込んで印刷して欲しい。皆に一冊ずつ配布してくれないか。ワシの口から嘉蔵を読み聞か

せるより、皆が独り一人、嘉蔵に向き合うのが大事じゃ。それと与一にも送って欲しい」

 海彦はパソコンに打ち込む前に翻訳文を終わりまで読んだ。                                  

 海彦は嘉蔵の足取りを追った。嘉蔵の動きを追った。心の動きを懸命に追った。

 追っても追っても嘉蔵は不帰還を語らない。マリアが気づいた侠気以上を語っていない。

不帰還の謎を解かなければ俺は嘉蔵に優しくできない。これからも「偉大であっても尊敬

できない」と言い放ちマリアを困らせてしまう。海彦は嘉蔵の核心の周りを廻っているだ

けだった。それでも、曖昧でも、気に懸かる記述が在った。


 海之進の翻訳文は四百字詰めの原稿用紙三十一枚。(一)から(四)までが二十九枚。

(五)は設計図と測量図の解説が二枚。万年筆の文字が大きく原稿用紙の枡目からはみ出

している。楷書を崩している漢字が散見。それでも海彦には読み取れた。爺ちゃんは俺を

気遣って読めるように楷書で書いてくれた。何時もの爺ちゃんの筆跡と違った。

 海彦は字体からも海之進の並々ならぬ気迫を感得した。                                    

『故里吾出瑠里緒日誌』は慶長二十三年八月三〇日から慶長二十六年一〇月一九日までの

日誌だった。年号が違う。おまけに旧暦。慶長は一九年で終わり天和に改号。嘉蔵が知る

はずもない。爺ちゃんは嘉蔵の不知を察して西暦と新暦に改めていた。西暦と新暦では一

一八年一〇月十一日から一六二一年十二月一日まで。三年余の嘉蔵が日誌の中に居た。                                     


 (一)は支倉常長が国王フィリペ三世に通商を断られるまでの経緯であった。

 海彦は『支倉常長の無念に至る経緯』と副題を書き添えた。

 ここでの嘉蔵はアカプルコで現れた盗人の首を一刀のもとで刎ねた。メキシコでは切り

捨て御免の法慣習がない。異邦人による殺人。問題にならぬはずがない。イスパニアのメ

キシコ総督は嘉蔵に藁人形への試し切りを求めた。求めに応じた嘉蔵の切り口の鮮やかさ

に総督は舌を巻いた。西欧の剣はサーベル。サーベルは骨を叩き砕く刀。日本刀の焼きを

繰り返した刃金の鋭さがない。おまけに嘉蔵は剣の達人。そして使節団の警護隊長。

 それを知った総督は民意の低さを支倉と嘉蔵に詫びメキシコ湾までの護衛を約束した。 


(二)の副題は『嘉蔵と与助。病に倒れる』。

 メキシコシティでの総督への表敬訪問を終えた一行百三〇人はメキシコ湾に出た。そこ

からイスパニア軍船への乗船を許されセビリアに向かった。ここで百人がアカプルコでの

留守番を申し出て乗船しなかった。大儀は『サンファンバティスタ号』の護衛と維持管理

であった。大西洋を渡りジブラルタル海峡の西北に位置するグアダルキビール川河口から

遡ると二十二里でセビリアに着く。紀元前から栄えた水路と河の港町であった。

 支倉が本陣を設営したのはセビリアから南へ四里のコリア・デル・リオ。

 嘉蔵と与助は此処で病に倒れた。「熱病」。今で云う熱中症。それも重度の症状だった。

 嘉蔵と与助を村人たちは手厚く看護介護した。

                                    

(三)は『村人の暮らし』と記した。

 支倉は従者十四人を引き連れマドリッドに旅立った。支倉の目的はフィリペ三世に政宗

の親書を手渡し通商の約束を取り付ける他にない。

 嘉蔵は病による同行不能を恥じた。警護隊長の任務を全うできぬ無念を述べている。

 病から回復するにつれ嘉蔵は村人の営みと暮らしを観察。穏やかで、おおらかで、屈託

がなく、親切、人懐っこく、朗らか。この開放的な人柄と人情に助けられたと。

 与助も同時期に「熱病」を患い、ほぼ時を同じくして回復。

 仙台には在り此処に無いのが田圃。稲は陸穂であった。当たり前のように二毛作が営ま

れている。それを支えていたのがイスパニアの太陽。グアダルキビール川の肥沃な扇状地。

 年が明けるとサハラ砂漠からシロッコと呼ばれている熱風が吹く。これが春の到来。

 嘉蔵は水を引くなら、通すなら、此処で旨い米を作れると確信。グアダルキビール川の

河岸を歩き水の取り入れ口となる場所の選定と水を流し込む方法を模索し始める。

 与助に構想を打ち明けると「村人に食料の施しを受け続ける訳にはゆかぬ。そろそろ我                                   

らで作らなければならぬ頃合い。留守番は十五人も居る。我らでやりましょう」。

 以降、嘉蔵は本格的な測量と水車小屋建設地の選定に入った。

 流れが緩い大河グアダルキビール川からの水の取り入れ方は「樋」であった。


 (四)を『米作りと村長との問答』に。

 嘉蔵は村長に構想を伝えた。村長は興味を示した。そして「我らも手伝いたい」。嘉蔵

は丁重に断った。「先ずは我ら十五人で頑張りたい。力及ばずの時はお願いする。人力で

は無理な工事故に牛を借りたい」。村長は快諾。牡牛三頭を拠出してくれた。

 こうして堀の掘削工事が始まった。

 始まると村人が入れ代わり、立ち替わり、女も子供も差し入れを持って応援に。応援は

差し入れだけでは無かった。鍬や鋤を持ち嘉蔵の指示を待っていた。

 三ケ月で五〇〇Mの堀の全容が整った。水車が汲み上げる水を高さ二Mに設置した樋に

流すと水は勢いよく堀に流れた。水車小屋には脱穀装置。与助が苦労して作った。

 堀が整うと次は田圃の造成。これは手慣れている。七反を一ケ月で。

 

 工事の過程で嘉蔵は村長に四つを問いかけた。

「村人の年貢は如何ほどでござろうか」                                    

「領主に収穫物の一割。主に小麦。教会には年一ケ月の使役。年貢は村長による申告。使

役の季節ごとの人の割り振りも村長。実感の割合で言うならば年貢は二割程度。村長が全

てを執り仕切るなら誰からも文句が出ない。領主からも教会から村人からも」                                  

 嘉蔵は年貢の低さに衝撃を受けた。

「村長は世襲制か否か」

「村長は村人が選ぶ」

 信じられなかった嘉蔵。信じずとも村長は村人が選んでいた。

「戦さは有るのか」

「レコンキスタに勝利してからの百二〇年の間、戦さはない。今の戦さはポルトガルとの

海での戦さ。それも遠い地球の反対側での戦さ。心配もある。我が無敵艦隊をイギリスが

狙っている。しかしこれも遠い海での攻防。我々には戦さへの使役や拠出が無い。我々も

少なからず植民地からの富の恩恵を受けている」

 年貢が少ないばかりではない。此処では戦さへの足軽動員がなかった。嘉蔵は驚きを隠

せず、そして世界を知った。日本に在っては国内の天下が最大であった。村長から地球儀

で示されると日本は東アジアの端っこに在った。そして嘉蔵は覇権の意味を知った。

「我らが村に残ることは可能か。可能とすれば如何なる手続きを要するのか」

「村人が認めたなら私も認める。村には自治権がある」

 自治権が分からなかった嘉蔵。仙台の村落共同体には此の地のような自治権はない。嘉

蔵は自治権を北上の山奥に残る隠国こもりくに置き換えた。それで合点がいった。

 いよいよ田植え。そして順調に育った。二月中旬の田植え。稲刈りは六月の初め。稲刈

りの後、嘉蔵は収穫したすべての米を村に寄進すると村長に。収穫祭が始まった。与助は、                                  

酒を酌み交わしつつ、肥料の作り方と、連作障害防止を、村人に熱く語った。


 ここで嘉蔵は『故里吾出瑠里緒日誌第四巻』を終えている。 

 海彦が気に懸かったのはふたつ。

                                    

 嘉蔵と村長の四つの問答の後に突如現れたのが「空」のひと文字。

 文脈を辿ると村人の「穏やかで、おおらかで、屈託がなく、親切、人懐っこく、朗らか

」から続いている。「空」は村人の在り様を表していると理解したが、海彦は、肝心の「

空」を、掴めなかった。「空」とは何だ。調べても調べても嘉蔵の心根に届かない。仏教                                    

の「すべての事物はみな因縁によってできた仮の姿…」は分かり難い。「空」とは何も無

いのだ。身分の縛りがない社会。制約のない状態。こう捉えるとスッキリする。 

 村長は仙台に戻るのも残るのも嘉蔵の「リベルタ」と言った。

 嘉蔵は「リベルタ」を「里部瑠多」と書き記していた。

 嘉蔵は「「自由」が分からなかったのだ。

 嘉蔵には「自由」の概念が住み着いていなかったのだ。

「自由」は嘉蔵の想像力を超えていたのだ。

 嘉蔵には「自由」を根底に据えた思考回路がなかったのだ。         

 致し方なし。もののふには「自由」が存在しない。それで「空」を充てたのだ。

 結果として嘉蔵はコリア・デル・リオに残った。残る「自由」を選択した。それは残っ

た謎を解明する仮説のひとつとして成立する。しかし帰る「自由」も在った。それを選ば

なかった嘉蔵には「自由」以外の強い動機が在ったのでは…。そうでなければ帰る「自由

」を捨てる説明としては弱い。動機を考えるなら残るより帰る方が強いはず。帰ろうする

ならば帰れる。故郷と家族を捨て残るに至るには嘉蔵が獲得した「自由」だけでは物足り

ない。生まれて初めて実感した「空」だけでは残れない。


 海彦はあと少し、もう少しで、嘉蔵の本当に辿り着けそうで、着けない、もどかしさの

下で立ち止まった。今はまだ謎の解明は無理。堂々巡りの繰り返しになる。

 海彦は気に懸かったもうひとつと向き合った。

 嘉蔵が「熱病」に倒れ、老婆に看護介護された時の情景だった。


—村の人たちは倒れたワシを風通しの良い日陰の室内に寝かせてくれた。水と塩、果実を

与えてくれた。果実は至る処に実をつけている。粥を作ってくれた。『緒里葡樹実』を絞

った油で炒めた魚介を少しずつ。肉を食べられるようになるとワシは回復した。

 起き上がろうとすると老婆に止められた。

「無理してはいけない。芯の力を喪ったのはお前さまの気が何時も張りつめていたからじ

ゃ。気を緩めなければ病は再発する」                                     

やはり年の功。何でもお見通しじゃ。ワシは言われるまま身体を横たえた。

「与助は何処に」と尋ねると「お前さまが倒れると同時に与助も倒れた。仲が良い。別棟

で休ませている。心配は要らない。熱病は誰でも一度は患う」                                    

 何と云う体たらく。本懐を遂げる前に、二人揃って、討ち死にとは情けない。

 ワシは寝床から、簾から差し込む木洩れ日を、眺めた。

 そよ風にゆらゆら揺れている木洩れ日。

 何と云う明るさ。何と云う輝き。何と云う美しさ。

 この光がすべての根源のように思えた。

 ワシは眺めつつ何時しか眠った。

 眼が覚めると老婆が傍に居た。

「よう眠っていた。熱病は眠って直せなのじゃ。赤子のような深い眠りじゃった」—


 この情景から確かなことは分からない。。分からなくとも、海彦は気に懸かり、嘉蔵の

心象を想った。嘉蔵が見た光を俺も見なければ嘉蔵の心象を理解できない。

 見るには行かなければ…。

 マリアは「来ないと分からない」と言った。

 行こう。

 嘉蔵の処へ行こう。                               

 解明はその時までお預けにする。

 先ずは全部を打ち込んでマリアに送る。


—海彦。ありがとう。こんなに早く翻訳文が届くとは思いも寄りませんでした。お爺さん

に「ありがとう」と「感謝」を伝えて下さい。わたしの感想を記す前に、ひとつ、お知ら

せがあります。コピーして市長さんに見せると「お爺さんの翻訳文をスペイン語に直して

くれないだろうか。スペイン語の『Journal』が在るなら皆が読める。街中が四百

年前に戻り繋がれる。ハポンの方々もより確かに嘉蔵を想い起す」。わたしは即座に「O

K」しました。これにはお爺さんの同意が必要と考えています。ダメとは言われないと思

うけれど海之進お爺さんへの礼儀は欠かせません。お願いします。

 爺ちゃんからの語り聞かせに登場して『日誌』には書かれていない処を記します。

 支倉がカトリックに改宗した後にローマ法皇と謁見した。これを知らせる文が嘉蔵に届

き村長に伝えられました。この時から支倉常長への畏敬が強まり不動になった。カトリッ

ク教徒であっても、一人の信者が、法皇に謁見できるとは、誰も考えない。考えられない

ことなのです。法皇とはカトリック教徒にとって絶対の権威。フィリペ三世も法皇との面                                   

会時には膝まづく。日本人たちは法皇も関心を寄せる特別な存在。それが村人の反応。                                  

 嘉蔵は支倉が帰国してから一年後にカトリックの洗礼を受けた。その時から嘉蔵は正式

な村人に。村の人たちはそれを喜び祝った。その後に嘉蔵はアナスタシアを妻にめとり一                                    

男二女を授かった。アナスタシアもわたしの先祖。一男二女もわたしに繋がる祖先。嘉蔵

は長生きした。最後は家族と村の人たちに見守られ天上人に。 

 嘉蔵のお陰で村は豊かになった。今もその名残りが在る。保育園・幼稚園・小中学校は

無料。待機児童は居ない。市民の市営施設利用はすべて無料。バスもプールも公民館も。

十五歳未満と七〇歳以上の市民の病気怪我の治療費も無料。これらの主な財源は『ヨシゾ

ウホリ』によって拓かれ耕された田圃の実り。

 伊達男たちは真面目。勤勉。そして紳士。その姿は村の人たちの手本となり今に続く。

それがハポンの人たちの矜り。伊達男たちは酒を好んだ。ワインよりも自分たちで造った

『どぶろく』をこよなく愛した。『どぶろく』もスペイン語。

 嘉蔵は五年に一度の村長選挙に推挙されたが固辞。

「ワシはハポンじゃ。異人のワシたちを、皆の衆は、大切に、敬ってくれ、仲良くしてく

れた。ワシは日本を引き摺って生きておる。村長はイスパニアの歴史と伝統と暮らしが自

らの中心に在る者が適任。求めがあればワシは村長を何時でも応援する」

 わたしの裡で嘉蔵が立体的なってゆきます。海彦から読み聞かされた蔵之介。蔵之介が

与作と海に出る決意を固めた頃、嘉蔵は堀を延ばし田圃を広げていた。新しい家族ができ                    

た。嘉蔵は望郷を捨てた。捨てたとしても嘉蔵は仙台の家族を忘れたりはしない。忘れる                             

ことはなかった。わたしはそう確信している。人間は大切な過去を忘れられない。男伊達

は口にも素振りにも出さず、忘れたふりしているだけ。蔵之介は何時しかイスパニアに行

こうと与作と夢を膨らませていた。嘉蔵と蔵之介は違っているようで違っていない。わた

し。嘉蔵は蔵之介を待っていた…と想っています。蔵之介との再会が叶わなかった時に向

けて嘉蔵は『日誌』を書き残したのでは…。「ワシはこうして生きていた」と。

『日誌』に書かれていて爺ちゃんの語り聞かせに登場しなかった処も在ります。

 それは嘉蔵と村長との問答に描かれています。

 年貢の低さに驚いた嘉蔵。驚きは年貢だけではなかった。戦さへの足軽動員がない。な

ければ農民が戦さ場で命を落とさない。

 村人が選ぶ村長。

「自治権」は何とか理解した嘉蔵。「自由」を理解するまで時間を要した嘉蔵。「自由」                                  

を「空」に置き換えて理解を試みる。「里部瑠多」と書いた時には「自由」を実感し理解

したと想っています。日本語に「自由」がなかった時代の営み。「自由」が日本語に登場

したのは明治時代。江戸時代に国語辞典が在ったならば「し」を探しても「自由」の文字

が無い。わたしは「隠国」を知りました。海彦。わたしを連れて行って。北上の山奥と熊

野の森の中に。「隠国」には必ず古代の日本の姿が残っている。                                  

 脇道に外れてしまいました。わたしも謎に挑んでいます。謎の解明は海彦と同じ位置に

立てます。謎に少し接近できました。接近しても解くまでには至っていない。もう少しな

のか、まだまだ先なのか…。私の謎の解明は嘉蔵と蔵之介を接木することなのです—                                

                                           

 やはりマリアは嘉蔵を語り聞かされていた。俺の知らない嘉蔵を胸に秘めていた。突き

詰めて考えなくても分かる当たり前のこと。それなのに一度も嘉蔵を確かめようとしなか

った俺。マリアはどのような心もちで俺と接していたのだろうか。切なく、寂しく、哀し

かったはず。それなのにマリアは俺を強く批判しなかった。恐らく残された者への心遣い。

マリアならそうだ。心根の優しいマリアなら黙して何も言わない。なのに俺は嘉蔵を尊敬

するマリアを核心を素通りしていた。これは間抜けを通り越したタワケだ。

 俺はともかくマリアは嘉蔵の血をしっかりと受け継いでいる。疑問や課題への追及力が

すざまじい。マリアなら易々と爺ちゃんの『日誌』の文をスペイン語に翻訳してしまう。

 嘉蔵と蔵之介を接木するとは考えてもみなかった。                                

 謎の解明に向かうマリアの動機は接木。

 俺と云えば、嘉蔵不帰還は、単に仙台を捨てた。家族を捨てた。いくら侠気の男伊達と

雖も、仙台を捨てたことに変わりない。俺は、嘉蔵の人間性の欠落を、解き明かし、証明

しようとしていた。マリアは違う。嘉蔵が残らなかったら自分は存在していない。ここか

ら始まっている。だから嘉蔵への感謝と愛が在る。感謝と愛の下で挑戦している。俺が、

『嘉蔵始末記』を読み聞かせた内容と、『日誌』とを重ね合わせて、想いを膨らませ、二

人の接木に到達している。二人を接木するとは、親子の揺るぎない絆を、確信しているか

らだ。そうでなければ嘉蔵は蔵之介を待っていたとは書けない。蔵之介はイスパニアに行

く夢を持っていた。それを知ったマリアは嘉蔵も待っていたと…。

 俺には嘉蔵への愛がない。在るのは偉大な先祖だけ。俺には蔵之介への感謝と不屈への

敬愛が在る。そこで俺は凝り固まっている。マリアは、凝り固まっている俺を批判せずに、

優しく問いかけているのだ。事実は雄弁だ。嘉蔵が居なかったら蔵之介も居ない。爺ちゃ                                   

んや父さんも俺も居ない。マリアも居ない。ここは考えなければ…。


           

 

                  「墓参り」



橘南はインターハイの地区予選でも県大会でも精彩を欠いた。

 地区予選では団体二位。個人は三位。何とか県大会の出場を決めたものの、このままで

は全国大会はおぼつかない。全国に出られるのは団体一位。個人は二位まで。

 海彦は応援しようにも応援のしようが無かった。

 弓道の大会は静寂に包まれている。試技に入る前には応援の和太鼓が打たれる。それに

続いて同じチームの部員たちの声援。短い。野球なら「かっせかっせ南」で終了。観客の

応援が無い。応援団が居ない。観客もごく僅か。選手たちの父母がちらほら。それからは

咳払いのひとつも躊躇う張り詰めた空気。ジィッと見つめ念じる他ない。

 試合後のインターバルでも橘南はチームメイトと一緒。

 時どき橘南は海彦を探すように会場を見渡していた。

 海彦は…俺はここだ…と手を振った。橘南が気づいた。南は胸の前で小さく手を振り応

えた。遠目からでも南の笑顔は弾けていた。その姿を下級生に見られ、冷やかされている。

 全国大会出場は叶わなかった。

 二高の選手たちは、みんな、精神を統一して、無心に、矢を放っていた。

 海彦にはそう思えた。それでも一高に勝てなかった。二高は団体二位。南は個人三位。

 橘南のインターハイが終わった。南は長い和弓を持ちリュック。部員と学校に向かって

いる。今日は俺との時間は無理だ。海彦はひと声掛けたかったけれど諦めた。

 翌日。海彦は橘南とJR仙台駅二Fで一〇時に待ち合わせた。

「海彦。応援。ありがとう。でも敗けちゃった」

「一高は強かった。新人戦では三位だったのに急速に力をつけたんだ」                                    

「そうだね。でも私たちの何時もの力を発揮できたら勝てたんだ。副キャプテンとしては

みんなに申し訳なくて。ワタシとキャプテンが高得点を出して相手にプレシャーを掛けて

逃げ切るのが必勝パターン。特にワタシの点が上がらなかった。それが敗因なんだ」

「そう云えば地区予選も調子は良くなかった」

「原因はハッキリしているんだ。的に見立てた海彦の顔がボヤけるんだ。矢を射る寸前に

ボヤけてしまう。ワタシ。動揺して集中力を欠いてしまった。団体の決勝戦では海彦から

マリアの顔に切り替えた。やっぱり駄目だった。急ごしらえは駄目の見本」

 橘南は肩を落として長い溜息。

「なんかさ。マリアの顔を射抜くのが申し訳なくてさ。マリアもきっと海彦と逢いたいと

想っている。海彦と仲良くしたい希望が叶ったから海彦の顔がボヤけたんだ。きっとそう。

そう思うと嬉しいやら悲しいやら。一緒に静岡に行けなくてゴメンナサイ」

「口惜しいのは南だ。俺は南だけを見つめていた。心の中で叫んでいた。頑張れ南。ここ

を決めろ南。そう応援できただけで良かった。でも弓道の応援は肩が凝る」

「じゃ。ワタシ。海彦の肩を揉んであげる」

 橘南は海彦の後ろに回り肩を揉み始めた。

「九月には国体がある。そこでリベンジする。無事にスペインから戻って来てね」

 海彦は気づいた。俺のスペイン行きが橘南の心を乱したんだ。でも俺は行かなければな

らない。嘉蔵が見た心象を自分にも焼き付けたい。

「マリアに逢いたい」とは橘南には言えない。今は「バンド」も言ってはいけない。

「海彦。ワタシを立ち食い蕎麦屋さんに連れて行って」

「俺も入ったことなし。南。それで此処で待ち合わせたんだ」

「そう。今日は普段できなかったことをやって気分を変えたい。付き合ってくれる」

「それで南の気分が変わるなら」

 橘南は迷いながらも自販機でかき揚げ蕎麦を選んだ。海彦もかき揚げ蕎麦を注文。

「立ち食い蕎麦屋さんには独りでは入れない。美味しい。かき揚げも心を込めて揚げてい

る。出汁も良い。決められた時間を寝かせている。お蕎麦も値段の割には頑張っている」

 海彦にとっての最上級の蕎麦は爺ちゃん。それでも旨かった。はまりそう。

「もうふたつお願いがあるの。牛タン屋さんに連れて行って。家族と行った牛タン屋さん

に行ってみたいんだ。海彦の家から近い。ワタシ。七年もの間牛タンを食べていない。父

さんも母さんも此の店が好きだった。馴染み客。父さんは気が合ったのか獲った魚を届け                                    

ていた。それも極上の真鯛とかヒラメとか。届ける時の父さんは愉快そうだった。『牛タ

ン屋に魚だ。でもアイツは旨く作るに決まっている。それが楽しみだ』と言って届けた夕

方には家族三人で出かけた。ワタシはお腹一杯に牛タン定食を食べた。突き出しのお刺身

は父さんの魚。他にも小さな炙りと煮つけ。父さんはお酒を飲んで上機嫌。母さんも同じ。

『お父さんの獲ったお魚は美味しい。活け絞めだから』」

「聞いているとヨダレが出てきた。行こう。俺には魚は無いが食い気は山盛りだ」

「海彦。ワタシのもうひとつのお願いを聞いて」

「あぁ。忘れていた。ごめん。ナニ」

「牛タン屋さんから一五分くらいの『カフェ モーツァルト』に行きたい」

「名前は聞いたことがある。スィーツが美味しいって噂。行こう。南」

「海彦。全然分かっていない。女子高生は気軽に外食できないんだって…」

「えっ。そんなんだ。そうだよね」


今日は橘南の両親の納骨の日。海彦と橘南は牛タン定食をお腹一杯に食べて寺に向かっ

た。『カフェ モーツアルト』は日を改める。時間が無かった。

墓は与一の尽力で建った。

 橘南はお盆にお参りする寺を覚えていた。その寺の檀家総代と与一は顔見知りだった。

これで準備が滞ることなく進んだ。総代が住職に話しを通し、与一に連れられた橘南は住

職から両親の戒名と位牌を授かった。ふたつの位牌には南の名が印されていた。

 墓の前面には『橘家之墓』。裏面には『海明院未来南永劫信士』『日和南院慈愛聡明大

姉』。二人の没年月日。橘南は『橘家代々之墓』を拒んだ。

「このお墓には父さんと母さん以外誰も入らない。ワタシも入らない」

 与一は馴染みの墓石屋に橘南と同行して墓石を決め、住職からは墓の場所を選定しても

らった。こうして墓が建ち、納骨の日取りが決まった。

 海彦は与一から墓の建て方を学んだ。

 戒名とはキリスト教の洗礼名と似ている。

 生まれた時に名づけるのか、亡くなってからの違い。

 造作と設置を含めた墓石の価格と墓の土地の賃料。そして両親の戒名料を知った。合わ

せて百八〇万円余。これは破格の価格らしい。橘南は支払いを済ませ、晴れて寺の檀家に

なった。すべてを終えると橘南は与一に導かれ『萩の月』を持って総代に御礼。                                    

 海彦はこれも欠かしてはならない儀礼と与一に教えられた。

「私は役に立てて嬉しい。マルガリータの時にはマリアと海彦に世話になった。マリアは

良い娘子だが南もなかなかだ。良い娘さんだ。両親を喪っても胸を張って独りで生きてい

る。生きようとしている。礼儀も心得ている。きっと両親に厳しくしつけられたんだな。

七回忌に合わせて墓を建てようとする女子高生は日本中探しても何処にも居ないぞ。海彦

が好きになったのが分かる。奥目が可愛いじゃないか。姿勢が良い。生き様を現している。

でも困ったな。海彦。どちらかに決めなければならない時が必ず来る」

「…」

 海彦は橘南から相談を受けていた。

「与一さんにお礼したいんだけれど…。どうしたらイイのかなぁ…」

「与一さんは礼など要らないとキッパリ断る。南。与一さんにお礼の手紙を書いたら。与

一さんは間違いなく喜んでくれる。与一さんの家とは嘉蔵の頃からのつき合いなんだ」

「えっ。四百年前からのお付き合いなの」

「与一さんは嘉蔵の従者だった与助の十五代目。蔵之介の代の与作は苗字帯刀を許され瀧

上を名乗った。与一さんの家は我家と苦楽を共にしてきた絆で結ばれている。与助もイス

パニアから戻って来なかった。少し前に『与助の子孫』と言う女性が現れたんだ。九月に

与一さんは、マルガリータに会いに、与助の墓参りに、スペインに行く」

 納骨の儀式が始まった。総代と与一。橘南と海彦。そして住職。

 住職の読経が境内に響いた。

 橘南は和紙に包んだ二枚の写真を海彦に見せた。

 赤ん坊の南を、父が、母が、抱き上げている。

 その二枚の写真を海彦は与一に見せた。与一は総代に。総代は住職に。

橘南は、父と母を一枚ずつ、和紙に包み直し、ふたつの壺に入れた。                                  

 総代と与一が壺を墓に納めた。蝉の声が読経のように鳴り響いていた。

「みなさん。ありがとうございます。これでお盆にお参りできます。父と母を供養できま

す。父も母も無念を抱きしめ海に沈み天に召されました。その無念を晴らせるのはワタシ

しか居りません。みなさんの御厚情に甘え過ぎかも知れませんがワタシの行く末を見守っ

て頂きたいと思っております。橘南を今後とも宜しくお願いします」

 橘南に涙は無かった。

 海彦は…橘南の七年間がこの瞬間に繋がった…と思った。                                   

 住職は眼に手を当てている。

 与一も総代も下を向いたまま。

 海彦は…これで橘南への同情が終わった…と思った。

 南の挨拶を親父に聞かせたかった。マリアの挨拶は凄技。南も敗けていない。

 その夜。与一から海彦の携帯に電話が入った。

「橘南を親父さんのコーチに就けたらどうだろう。私は納骨の時の挨拶に感動した」

「与一さん。俺もそう考えていたんだ。でもさ。マリアとの折り合い考えないと…」

「なに言っているんだ。そんなこと言っている場合じゃないだろう。時間は限られている

んだ。親父さんの挨拶と演説が女子高生に支持されるかどうかの瀬戸際なんだぞ。海彦が

グズグズしているなら私が親父さんに助言する。海彦。つき合っているとは言わないから。

海彦に頼まれて橘家の墓の建立と納骨を手伝ったとしか言わないから心配するな」

「俺。橘南とつき合ってはいない」

「なに言っているんだ。二人は仲むつまじいじゃないか。海彦。マリアとつき合っている

のか。安心しろ。マリアなら橘南を分かってくれる。必ず受け入れてくれる」

 海彦は与一に押し切られた。


 

 海彦はセビリア空港に降り立った。

 手荷物検査を終えて到着ロビーに出た。

 ロドリゲス家が揃って出迎え。他にも出迎えの人が数名。『ハポンの会』の旗が三本。

 マリアが手を振って駆け寄って来た。

 海彦に抱きついた。マリアは眸に涙を一杯に溜めていた。こんなに爆発しているマリア

は初めてだ。二度目のマリアのぐちゃぐちゃ。

 海彦はマリアを抱き返せなかった。左手にはギターケース。右手はキャリーバック。そ

うだ。これは映画のワンシーンでもおかしくない。七ケ月ぶりの再会なのだから。荷物を

下に置くなら映画のように抱き留められる。

「海彦。ようこそ。スペインへ。逢いたかった」

「俺もさ。Sea you again」

 家族が見ている。『ハポンの会』の数名も見つめている。ここで怯んではいけない。マ

リアに失礼だ。マリアも家族も『ハポンの会』の人たちも俺を男伊達と想っている。                                     

 海彦はぎゅーっとマリアを抱きしめた。マリアの身体は柔らかかった。甘い匂い。汗も

香しかった。やはり沈香よりも良い。翡翠のイヤリングが似合っていた。

「仙台と比べたら熱いでしょう」

「マドリッドに着いた時に光が違うと思った。セビリアは熱く乾いている」

 マリアは家族ひとり一人を紹介。

「遠いところ我が家にようこそ」「スペインを楽しんで下さい」「マリアから仙台でのお

話しを聞いています」「コリア・デル・リオは穏やかでのどかな街です」

 マリアが通訳。

「僕を招待してくれて嬉しい。そして光栄です。今の僕は幸せです」

 海彦は飛行機の中で練習したスペイン語で言い、家族の一人一人と握手した。

『ハポンの会』の出迎え人はお爺さんが紹介。

「私はマルガリータです。初めまして」

 海彦に緊張が走った。

「与助は嘉蔵と共に残った。昔も今も我が家は与助の代々と命運を同じくしています」                                   

 マルガリータが海彦の両手を握りしめた。

「与一さんは九月に来ます。楽しみなのですが少し恐い。それを言葉にできません」

「僕も同じでした。マリアが来ると知った時にそうでした。でも直ぐに時間が解決してく                                   

れます。会えて良かったと心の奥が呟いてくれます」

 マリアが海彦を家族と『ハポンの会』から少し離れて立っている中年男性に導いた。

「コリア・デル・リオの市長さん」

「あっ。はい。初めまして。仙台から来た瀧上海彦です。嘉蔵の十六代目になります」

「セルバンテスです。嘉蔵の『故里吾出瑠里緒日誌』の日本語訳をありがとう。マリアの

スペイン語訳は完璧でした。嘉蔵が鮮明になりました。私は胸のつかえが下りました。『

嘉蔵記念財団』を創ります。今夜の君の歓迎セレモニーで発表します。私の夢はスペイン

と日本に橋を架ける。平和の架け橋です。私には君が嘉蔵に見えます。四百年を経て嘉蔵

が再来したと。我が街によく来てくれました。いろいろな処で嘉蔵に会えるはずです」

 市長は海彦の肩を叩き「街並みは変わりましたが変わっていない処も数多く在ります」。

 市長まで出迎えに来るとは大変なことになりそう。照れたり、モジモジしていたら恥だ。

恥は俺だけの問題ではない。男伊達を汚してはならないんだ。

「皆さんの歓迎に感謝しています。セビリアに着いた時、仙台駅に降り立ったマリアの気                                    

持ちが分かったように思いました。わくわく。どきどき。これから僕に何が待ち構えてい

るのだろうと。僕たち家族はマリアが来てくれて四百年が繋がりました。僕が皆さんの四

百年を繋げられたら来たかいがあります。そして嬉しい。今日の今、皆さんとお会いでき

たのはこれからの始めの一歩です。宜しくお願いします」

 海彦は深々と頭を下げた。万感の想いはお辞儀に込められていた。

 海彦の想いはスペインの人たちに通じた。拍手が起こった。通訳を終えたマリアも強く

手を叩いていた。「海彦。けっこう立派」。


『ハポンの会』の歓迎会は市役所のセレモニーホールで催された。参加者は百名余り。

 壇上の後ろには紅白の垂幕が飾られている。スペインでは何処か不釣り合い。海彦は仙

台近郊の祭りの会場を思い出した。不釣り合いでも歓迎の熱を感じ取った。

『ハポンの会』の会長さんはマリアのお爺さん。

 会長さんが開会の挨拶と海彦を招いた喜びを壇上で語っていた。

「爺ちゃんの話しは長いのが難点」とマリアが眉を顰めた。

 市長は『嘉蔵記念財団』設立を発表した。市長は感慨無量の様子。それから『嘉蔵メモ

リアルミュージアム』の創設を出席者に約束した。

「私は資料室で嘉蔵の『故里吾出瑠里緒日誌』を発見した。その文面をマリアは読めなか

った。四百年前の日本の文字は難しい。それで海彦にお願いした。海彦も読めなかった。

お爺さんの海之進が今の日本語に訳してくれた。それをマリアがスペイン語に訳した。訳

文を複写して五冊用意しました。明日から図書館で嘉蔵を閲覧できます」

 会場がどよめき、拍手が広がり、鳴り止まなくなった。

 海彦は司会から壇上に促された。マリアも後ろについた。                                                              

「僕は瀧上海彦。嘉蔵から数えて十六代目になります。空港での出迎えと今夜の歓迎会。

あ~ぁ。僕は念願のコリア・デル・リオに来たんだ。嘉蔵が生きて散った此の地に来たん

だ。皆さんのお力で来ることが出来ました。ありがとうございます。仙台を発つ前に四百

年前と今を映してきました。これから流したいと思います。先ずは動画を御覧下さい」

 通訳を終えるとマリアが兄と妹に指示した。

 妹がスクリーンを下ろし、照明を消すと、ユーチューブにアップした動画が流れた。

 動画の最初は威風堂々としたサン・ファン・バティスタ号の全貌。その後は船内のひと

つひとつをくまなく。それから伊達男に成り切った支倉常長の肖像画。再びサン・ファン                                   

・バティスタ号に戻る。いったん引いて牡鹿半島の佇まい。牡蠣の養殖筏。船から魚を下

ろしている捻じり鉢巻きの漁師たち。作業を終えて牡蠣を食べている。みんな笑顔。丘の

上からのサンファン館。仙台の繁華街。ビル街を歩く人々。ショッピングモールの屋上か

青葉山公園を眺め下ろす。支倉常長と伊達政宗のブロンズをアップ。桜と紅葉と舞い落ち

る雪。突然『七夕祭り』に。飾られた梵天が立ち並ぶ。仙台の躍動の後は広瀬川。広がる

田圃には穂先が垂れている。次は瀧上家の蔵と塀。蔵の『嘉』と龍の鏝絵。そしてお正月。

門松と初詣と神楽『豊栄』。初詣では全員がアップ。最後は嘉蔵と与助の墓参り。

 マリアは処々で動画を止め丁寧に解説。

 初詣のマリアの振袖姿と『豊栄』の巫女では会場がどよめき拍手が起こった。 

「Hermoso Maria」「Bonito」「Maria Bravo」のマリアコール。

「支倉常長は主君伊達政宗の天下獲りの野心に従い此の地に来ました。支倉も嘉蔵も与助

も政宗の家来。わたしは嘉蔵が遠い異国に残ってくれたことに感謝しています。残ってく

れなければわたしは生を受けていません。わたしたちは今日のこの日を迎えられません。

わたしは仙台を訪れ、海彦の家に泊まり、残されてしまった嘉蔵の家族の奮闘を知りまし

た。それから四百年。海彦が来ました。今日は本当にお目出度い」

マリアが締めくくった。会場は静寂のまま。

 海彦がマリアに言った。

「マリアの話しが凄過ぎてみんなシーンとしている」

「大丈夫。みんな感動しているだけ。もう少ししたら爆発するのがスペイン人」

 その通りだった。海彦コールが起こった。拍子が鳴り止まない。海彦は壇上に上がり「

ありがとうございます」を連呼。何度も深々とお辞儀をした。

 会食が始まった。

 スペインの数々の御馳走は市と『ハポンの会』が費用を出し合ったとのこと。

 海彦とマリアは食べられなかった。次から次へと挨拶に来る人たちへの対応に追われた。

 二人は立ち上がって挨拶を受け丁寧に返答した。                                     

 妹がB5のチラシを配り始めた。

 チラシの中央には妹が書いたマリアと海彦の似顔絵。


     First Live in Coria Del Rio Ceremony Hall   

                 嘉蔵の孫たち

.     

.     Umihiko Takinoue / Maria Rodriguez Japón

                                                        

              ①『故郷はふたつ』 

               ②『Sea you again』             


 会場のざわつきが大きくなった。海彦とマリアは壇上に上がった。

「『嘉蔵の孫たち』です。二曲唄います。まだオリジナルは二曲しか持っていません。こ

れからの歌は日本語です。チラシの裏にスペイン語で歌詞を書きました。最初はわたしが

歌詞を書いた『故郷はふたつ』。次に海彦が創った『Sea you again』。こんなに沢山の

ハポンの方々に聴いてもらえるのはとても嬉しい。わたしたちの初舞台です」

 海彦はマリアの喋りの間に準備を終えた。

 マリアが「私たちの初舞台です」を言い終える寸前に篳篥を響かせた。篳篥の八小節。

そしてエイトビートの四小節はギター。それから一拍、置いてマリアが入ってくる。


…  D♭  E♭ Fm  Cm

  悠久の声がする 風のささやき

 A♭  E♭    Fm  Cm

  川のせせらぎ    雲の通い 路                                                                

 A♭   E♭  D♭  Cm

海のさざな み 杜の  音

  D♭      E♭ A♭  E♭  Cm A♭  Fm 

  今朝きょうも陽が昇る  街が騒めく   人の営  み  …                                                                   


 マリアの舞台での生歌は久しぶりだ。みんな固まって聴いている。日本でもスペインで

もみんな固まる。イントロに篳篥を用いたのは正解だった。日本の古代の音色にみんな惹

きつけられる。マリアの喋りには何時も感心させられる。既にプロ根性が備わっている。

 曲が終わると固まっていた緊張が解け爆発に変わる。大きな拍手が待っている。これは

快感だ。俺たちは一歩を踏み出したんだ。                                                                  

 照明が消され二人はライトアップ。海彦は間奏では龍笛を吹いた。 

                                    

 コリア・デル・リオ市役所には漢字で書かれた観光案内所が在った。常駐者は居ない。

カウンターには街のパンフレットが置かれていた。無料。開くと絵地図。そこには『YO

SHIZOHORI』が載っていた。他には支倉常長の立像写真や桜の樹。水田風景と水車も。

 市役所を出てメインストリートのサンファン通りを北に歩くと一〇〇Mほどで坂道の下

に着く。急な坂ではないが階段で上る。小さな丘と云った風情。階段の途中の右手が本陣

跡だった。平らは三百坪ほど。此処に支倉常長はベースキャンプを置いた。嘉蔵も此処で

時を過ごした。杭には『本陣跡』と漢字が書かれていた。

 海彦は跡地をぐるりと一周した。マリアも後に付いた。

 海彦は暮らしの痕跡を探した。何も無かった。

 此処からはグアダルキビール川の蛇行が樹々の隙間から見えるだけだった。

「海彦。ヨシゾウホリに行きましょう。ここから二キロ先」

 白の『RAKUTEN』の野球帽を被っていても頭のてっぺんが熱い。帽子の鍔の先に

は光が満ち輝いていた。眩しい。スペインは何処に行っても眩しい。毎日が眩しい。

 マリアは麦藁帽子。白の長袖のシャツと赤の短パン。胸には『羽生結弦』がプリントさ

れていた。緑のスニーカー。肩からは水筒。腰にはポシェット。リーフを抱えていた。 

 水車小屋が小さく見えた。海彦が走った。マリアも後を追った。小屋ではなかった。石

造りの堂々とした建屋。それに接している四Mを越える水車。樋は設置されていない。                                                                                                       

「今は使われていないの。モニュメントとして残している。水はポンプで堀に」

 海彦は水車の入口に立った。

『Build by YOSUKE since 1616』とプレートが建屋の戸に打たれていた。

 与助も名を遺した。水車と堀は嘉蔵と与助の合作。

 海彦は二人の名が遺っているのが嬉しかった。                                                                                               

 少し走っただけなのに全身から汗が吹き出し額からの流れが止まらない。

「海彦。急に走ってはダメ。みんな熱い昼中は日陰で大人しくしている。活動するのは朝

と夕方。シェスタはスペインに合っている習慣なの」

 海彦は堀に沿って歩いた。水は流れていない。澱んだ水が陽を浴び光を放っていた。

 堀は今でも使われている。それが分かったのは土手が固められ、何時でも田圃に水が流

れるように堰が設けられていた。

「堀の長さは五キロもある。堀に沿って田圃が七〇反。年々増え続けている。今も昔も街

の共有財産。市が所有。ハポンの会が管理運営している。それがコリア・デル・リオに恵                                    

みをもたらしている。多い時には六百俵も採れる。小麦も野菜も沢山。六百俵は何石…」

「二四〇石。嘉蔵の時代なら大人二四〇人が一年間、暮らしてゆける」                                      

 地面から僅かに突き出たT字の標識が在った。

『YOSHIZOHORI since1616』

 水車のプレートもそうだった。大仰にせずとも分かる人には分かるように記録を残して

いる。スペインの人たちは随分と粋だ。

「毎年二月中旬は田植え。街の一大イヴェント。お祭り。テレビも取材に来る。ハポンの

人たちが勢揃いする。私の家族も楽しみにしている」

 マリアがポシェットから写真を取り出した。

「これが今年の田植えの写真」

 捻じり鉢巻き。水色の法被と股引き、田圃に立ってピース。

「汗を拭くと泥が顔に付いてしまって大笑い」

 二枚目には鼻先と額に泥。苗を手に嬉しそうなマリア。

「鉢巻きと法被と股引きは仙台で買った。背中には『七夕祭』」

 海彦はマリアの得意そうな笑顔が愉快だった。

「ひとつだけ残念があるんだ」

「…」

「田植えと稲刈りの歌を誰も知らない。爺ちゃんは唄うと知っている。でも歌を知らない。

歌があるともっと盛り上がる。海彦は知っている…」

「唄おうか」

「海彦は唄えるんだ。スゴ~イ。唄って。唄って」

「では。田植え歌」

 海彦は出だしの「ハァ~」を木遣りで声を張り上げた。マリアは眼を丸くした。

                                  

  ―ハア~ 田植えだ 田植えだ 今年も田植えじゃ

 ハア~ ヨイヤサッ ハア~ ヨイヤショ

 子供が植える 大人も植える

女が植える 男も植える

 サァ~サ ヨイヤショ

 田植えは晴れやか 青い空 田んぼは広い

 みんな揃って早苗さなえを植える

 ハア~ ヨイヤサッ


 投げ込み誰じゃ 今年も爺だ 寒いうちから早苗を育てた

囃子は誰じゃ 今年も婆と男の子 婆は田んぼの守り神

踊りは誰じゃ 今年は孫の娘っ子

 ピ~ヒャラ ピ~ヒャラ ドンドンド~ン

 今年しゃ豊年万作だ 今年も豊年万作じゃ

 サァ~サ ヨイヤショ

 早苗が育ち 秋にゃ 小金の穂が実る

 米は宝だ 宝の草を 植えりゃ 黄金の花が咲く


 サァ~サ ヨイヤサッ サァーサ ヨイヤサァ―


 マリアは海彦の唄う姿をジィッと見つめていた。記憶に残そうとしている。掛け声の「                                

サァ~サ ヨイヤショッ」「サァ~サ ヨイヤサッ」を小声で口ずさんだ。

「海彦。上手だね。これが田植え歌なんだ。楽しそう。最初のハァ~で気合が入る」

「マリアに誉められちゃった。それでは稲刈り歌」                                  

 海彦は手拍子を打ちマリアに促した。

「サァ~サ ヨイヨイ ヨイヤサッ」を三回。

 海彦はマリアの手拍子に調子を合わせ唄い出した。


  ―わたしゃ 十八 番茶も出花                              

   笑いころげた夏祭り 今年も秋がやって来た

   着物の裾をたくし上げ

   あ~ぁ 嬉し 恥ずかし

   田んぼに入るとヒバリが鳴いた

   今日は稲刈り 藁まみれ 家族揃って 藁まみれ

   サァ~サ ヨイヨイ ヨイヤサッ

   ドウシタ ドウシタ ソレデドウシタ

                                    

   わたしゃ 十八 番茶も出花

   正月明けには 嫁にゆく

   サァ~サ ヨイヨイ ヨイヤサッ

   ドウシタ ドウシタ ソレデドウシタ―


 マリアは掛け声が気に入ったようだ。

 海彦が唄い終わっても「サァ~サ ヨイヨイ ヨイヤサッ」と手拍子を繰り返している。

「やっぱり歌が在るのと無いのでは大違い。田植えと稲刈りが楽しくなる。私。覚える」

「そう言ってもらえると創った甲斐がある」

「えっ。海彦のオリジナルなの…」

「うん。古くからの田植え歌も稲刈り歌も今イチなんだ。わたし。覚えるとマリアに言っ

てもらえない。昔の仙台を想い起こしてもらえるよう今、聴いても分かるように創った」

「海彦。仙台で創ったの…」

「飛行機が退屈で創った。必ずマリアからリクエストされると思ってさ」

「そうなんだ。飛行機の中かぁ。凄いね。ありがとう。質問ありです」

「どうぞ」

「『番茶も出花』って…。それと『正月明けには嫁にゆく』の後にも続いてゆくみたい」

「『番茶も出花』は家に戻ってから実験。説明だけではちょっと無理。歌は続くんだ。唄

っている人たちが即興でどんどん続けるんだ。変わらないのは掛け声だけ」

「続けて良いんだ。仕事歌だからその時その時で唄いたい言葉が変わってくるよね。それ                                    

にしても『十八で嫁にゆくんだ』。スペインでも昔は早婚だった」                                                                 

「同じだね」

「海彦。爺ちゃんに唄って聴かせて。私。覚えてみんなに教える。来年の二月にはみんな                                     

で唄う。海彦のオリジナルを基にしてスペイン風田植え音頭を唄うんだ」

 こう言うとマリアの表情が曇った。

「でも。わたし。来年の田植え。できないかも知れない」

マリアが一通の手紙を差し出した。日付は七月二十五日。

                                    

—マリアが日本への留学を望んでいると彩から聞いた。海彦には内緒で家族と相談した。

内緒にしたのは知ると海彦が舞い上がってしまうのを恐れた。少し意地悪だったかも知れ                                    

ぬが彩の指摘を受け入れた。海彦にはマリアが決断してからでも遅くないと思った。

 スペインの新学期は九月。今年の九月にはマリアは高校三年生になる。年が明けると日

本は受験の季節を迎える。マリアの日本語は今直ぐにでも日本のすべての大学の留学試験

に合格する。それは私だけでなく家族の全員の見解。海彦も同じと思う。

 問題は御両親との合意。それで私は父上に手紙を書いた。

『マリアが日本への留学を望んだ時には私と家族は応援する』

 私は一〇月に嘉蔵の墓参りに行く予定だった。それが無理になった。私の身体は回復し

た。もう大丈夫。マリアにも心配をかけた。マリアの祈りは私に届いていた。ありがとう。

 与一はマルガリータに会いに、与助の墓参りに、九月にお邪魔する。その時には宜しく

頼む。爺ちゃんと婆ちゃんの予定も決まっていない。私が来年の参議院選挙に立候補する

と言ったからだ。私にも人生を賭けて勝負する時が来た。海彦から聞いていると思うがマ

リアに私の挨拶と演説のコーチを是非ともお願いしたい。

 マリアの留学を父上は応援してくれると思う。そうなると話が早い。父上と母君と相談

して準備を整えられる。その時を楽しみにしている。         瀧上海太郎 —


 海彦は海太郎が書いた意地悪を意地悪と思わなかった。手紙を読んだ時には一瞬、マリ

アは俺に打ち明けずに、何ゆえ彩なんだ、と思った。それは直ぐに消えた。

 胸の高鳴りが一瞬を掻き消した。親父もなかなかやる。俺より遥かに上だ。

 マリアが日本に留学したら何時も一緒だ。バンドの練習に苦労しない。でも、ちょっと

待て。来年は俺も受験だ。マリアの留学先と俺の進学先が同じとは限らない。仙台ではな

いかも知れない。東京かも知れない。別々の街に住むかも知れない。その前に俺は受験に

失敗するかも知れない。マリアも希望通りの大学に入れるとは限らない。いや、マリアな

ら希望校に必ず合格する。問題は俺だ。何処の大学を受験するかを決めていない。決まっ

ていない。国立一期なら浪人を覚悟しなければならない。親父は「浪人してもかまわない

から一期を目指して頑張れ」と言うに決まっている。

 マリアの留学先を聞いてから俺も決める。それが良い。しかし。しかしだ。それで俺は

受験先を決めて良いのだろうか。何かしら情けないような…。でもバンドは同じ街に、近

い処に暮らしていた方が良いに決まっている。

 近くて困るのが橘南。

 俺は橘南と付き合っているのだろうか。曖昧だ。付き合っている言えば付き合っている                                   

のような…。南が言う「親密な相思相愛」が付き合うだとしたら、付き合ってはいない。

けれども週二で逢っている。学校では付き合っていると認定されている。俺はそれにひと

つも反論していない。週イチで夕食も一緒に食べるようになった。一緒に食材をスーパー

に買いに行ったりしている。その時の南の浮き浮き感は可愛い。二回に一回は俺が支払う。

南の負担を少なくしたかった。初めのうちは拒んでいたが南は受け入れた。

 夕食は鍋が多い。

「鍋は簡単だから。出汁をシッカリ取ればだいたい美味しく作れる。それに栄養のバラン

スが良いし。海彦とひとつの鍋を突っつくなんて夢のよう」

 なんとなく橘南のペースで進んでいる。俺はそれが嫌でない。楽しんでいる。一緒に墓

を建てた。『喪われた七年』は埋まった。俺から『同情』が消えた。南は俺に健気だ。俺

との時間を過ごすのが嬉しく楽しいみたいだ。南はそれを隠さない。


 マリアが言った。

「わたし。行きたい学校は決まっているんだ。それを父さんに言っていないんだ」

「どの大学。どうして…」

「北海道大学。どうしては費用。わたし。ロドリゲス家の経済的余裕を知らない。兄は大

学を出ても失業中。それで爺ちゃんの田畑を手伝っている。きっと心の中では辛いと思っ

ているはず。それなのにわたしだけが喜び勇んで日本に留学するのは心苦しい」

「北大かぁ。北の大地に建つ良い学校だ。留学生も多い。北大に決めた理由は…」

「雪への憧れかな。それと北海道は日本のフロンテア。大地が広大。海太郎お父さんが撃

たれた時にオホーツク海と旭川を調べた。それは北海道を調べるのと同じだった。日本だ

けれど日本とは違うと思った。アイヌと呼ばれている先住民も居る」

「日本人の都道府県魅力度調査では一〇年連続で北海道は一位。この数字は凄い。日本人

は北海道に好印象を持っている。我が宮城県は十五位辺り。マリアの専攻は…」                                                                   

 マリアはこの時、迷いを振り払うように言った。                                                                                            

「日本語と政治学」

「そう言うと思った」

「海彦は何を学ぶの…」

「俺は世界の中の日本。それと日本とスペインの繋がり」

「それって歴史だよね」                                    

「歴史から何かを学び、掴める自分になりたい」

「バンドは大切だけれど勉強も大事だね」

「うん。お金のことは親父と父上が何とかする。解決してくれる。俺も瀧上家の懐具合を

知らなかった。父さんが撃たれた時に母さんから知らされた。嘉蔵の墓と母屋を守ってき

た何代も続く大人たちの努力を知った。その結果が備え。マリアの歓迎会に与一さんたち

や親戚が集まっただろう。俺は大人の力を知った。俺たちはまだ子供だ。親の脛かじりだ。

何時か大人になって子供に脛をかじられる。それが人生のひと駒と思うようになった。親

は子供を応援するに決まっている。マリアも俺もお金のことは親に任せる他ない」

 マリアは海彦を見つめ聞いていた。

「そうだよね。自分に出来ないことを案じても何もならない。相談して良かった。わたし。

日本へ行く。いっぱい勉強してたくさん唄う。海彦。宜しくね。浮気したらダメだよ」

「馬鹿言うなよ」

 そう言いつつも海彦に棘が刺さった。危うかった佐々木薫子を想い出した。そして橘南

との今を…。何時かマリアに南を告げなければならない。俺は南を切り捨てられない。け

れどこれ以上、南との関係を深められない。深まるとマリアに告げられなくなる。しかし

南から、にじり寄られたら、俺は抗しきれない。大丈夫だ。南は佐々木薫子とは違う。本

当に大丈夫なのだろうか…。え~い。その時はその時だ。今はそれしかない。

「海彦。海太郎お父さんから頼まれたコーチなんだけれど何をすれば良いの…」

「俺も親父からコーチを頼まれだ。親父は選挙運動は伊達さんに任せて自分は挨拶と演説

を磨くと言った。それで考えた。挨拶と演説するシチュエーションを示してもらい親父か

ら原稿を渡してもらう。それを俺とマリアで検討する。直しが必要と俺たちが思ったらそ

れを書いて親父に渡す。最終的な判断は親父」

「そうか。わたし独りでコーチするんじゃないんだ。だったら出来そう。海彦と一緒なら

頑張れそう。だってさ。面白そうじゃない。参議院はスペインでは上院にあたる。昔から

元老院と呼ばれてきた。議員数は下院と同じくらいの二八〇名と少し。セビリアには国会

議員が居るけれどわたしの街には今も今までも居ない。爺ちゃんと父さんは海太郎お父さ

んが参議院選挙に立候補すると知ってビックリ仰天だった。撃たれた時と同じくらいショ

ックを受けていた。わたし。応援する。海太郎お父さんを海彦と一緒に応援する」

「俺の目標は歌のような挨拶と演説なんだ」

「それって歌の歌詞…」                                    

「そうさ。歌詞のような挨拶と演説ならば、みんな、聞いてくれる。心に残してくれる。

親父は『若い人に聞いてもらえるような話しでなければ誰も耳を傾けてくれない。若い人

の心に残ったらその若者は選挙に行く。投票してくれる』と言った。俺もそう思った」

「だから私たちなんだ。責任重大だね」

「親父は必ず俺たちに喰いついてくる」

「海太郎お父さんも不屈の男なんだ。凄い。日本の弱虫を何とかしようと…」

 海彦は喉元まで出かかった言葉を慌てて呑み込み平静を装った。「喰いついてくる姿が

今から浮かんでくる。親父に才能ありだ。俺は橘南にもそう言った」を。

 大丈夫だった。呑み込んだのをマリアに気づかれていない。

「わたしも海彦から聞いたときにはたまげた。でもね。選挙は余裕。万がイチ落選しても

海太郎お父さんは生きている。死ぬような目にあわない。当選したら月に飛ぶ想い」

 マリアは当選した時を想い浮かべる様に『Fly me to the moon』を口ずさんだ。

 海彦も当選だけを想いマリアの後についた。

 唄い終えるとマリアが「飛んでけ。日本の弱虫。飛んで行け」と叫び右手を空に突き上

げた。海彦は両脇を固め拳を顔まで上げてマリアに「よっしゃ~」と両手を振り下ろした。


嘉蔵の墓はグアダルキビール川を見下ろす小高い丘に在った。堀も見えた。

 此処はふたつ在る共同墓地のひとつ。一面に芝生が敷き詰められ、等間隔に整然と十字

架が並ぶ。海彦はマリアに連れられ嘉蔵の前に立った。

 マリアは携えて来たリーフを墓に添えた。

「母と妹と三人で昨夜作った」

 リーフは大き過ぎず小さくも無く片手で持ち歩ける。緑葉と赤と白の生花の組み合わせ。

「オリーブの葉の緑は永遠の命。赤い薔薇は太陽の大きな愛。白は無垢。純粋を表わす。

献花は白百合と決まっているの。これがスペインの慣わし」 

 マリアが讃美歌を日本語で唄った。 


―静けき祈りの 時はいと楽し

 悩みある世より 我らを呼びいだし

 父のお前に すべての求めを

 たずさえいたりて つぶさに告げしむ (讃美歌三一〇番)―

                                         

 海彦は直立。嘉蔵に正対していた。

 海彦はマリアの讃美歌と墓標に頭を垂れた。

 マリアはJポップもR&Bも讃美歌も唄える。これなら演歌も唄ってしまいそうだ。  

 讃美歌が終わると二人は胸の前で十字を切った。

 海彦はマリアから渡された一輪の白百合を嘉蔵に。次いでマリアも一輪。

 十字架には名前が刻まれていた。

『YOSHIZO TAKINOUE/SAN JUAN YOSHIZO LIBERTAD(1568~1643)』

 嘉蔵は七五歳まで生きた。人生五〇年の時代に。そして此の地に名を残し、マリアから

も尊敬されている。マリアの尊敬は俺や家族にも向けられている。何と云う爺さん。

「嘉蔵の名前の下に印されている名は洗礼名なの…」

「そうよ」

「支倉と違って自然の成り行きによる嘉蔵の改宗。『サンファン嘉蔵リベルタ』。洗礼者

聖ヨハネと嘉蔵と自由が結びついている。良い名前だ」

「『LIBERTAD』が付けられた洗礼名はわたしの知る限り嘉蔵だけ。これもわたし

の矜り。嘉蔵は『自由』に導かれていた。『自由』は何よりも大切」

「嘉蔵爺さん。俺は海彦。仙台にも爺さんの墓が在る。代々の家長が守ってきた。今は父

さんの海太郎。俺も父さんの次に墓を守る。この街ではマリアが守る。嘉蔵爺さんは幸せ

で豊かな生涯を送ったと墓の前に立って分かった。これまでは分からなかった。誰も嘉蔵

爺さんが亡くなった年を知らない。俺が瀧上家の代々で知った初めて。ふたつ墓が在るの

は二人分の人生を送った証しのように俺には思える。そして自分をまっとうして天命を遂

げたと。嘉蔵爺さんはコリア・デル・リオで『自由』を手に入れたんだ」

 海彦はマリアの右手を握った。

「俺は二人分の人生を送れない。自分の路を切り拓くのに精一杯だ」

 マリアが強く握り返した。

「俺は蔵之介の方が偉いと思っていた。今に続く礎を築いたからだ。俺は嘉蔵爺さんを尊

敬できなかった。尊敬するには愛が要る。俺には残された者しか考えてこなかった。嘉蔵

爺さんへの愛がなかった。嘉蔵爺さんはマリアを俺に遣わせた。俺はマリアに一目惚れ。                                   

そのマリアは嘉蔵爺さんを尊敬していた。このままでは済まされない。今のままではマリ

アに呆れられ嫌われる。ちょっと口惜しいけれど俺は嘉蔵爺さんの手の内だ。マリアは嘉                                  

蔵爺さんの使い人。俺は蔵之介の使い人。もうどっちが偉いのかと言う問題ではなくなっ

てしまった。嘉蔵爺さんはハポンの人たちから愛され尊敬されている。そのお陰で俺は招

待され歓迎を受けている。嘉蔵爺さんは何処に在っても挑戦を止めない。力一杯挑戦する。

それは分かっている。嘉蔵爺さんも不屈の男伊達なんだ。挑戦が仙台とコリア・デル・リ

オに跨っただけ。蔵之介は精一杯生きた。海に出たのは残された者の挑戦。不屈故の挑戦。

鎖国令が発せられなかったら此の地で再会したに違いない。俺は嘉蔵爺さんと蔵之介の挑

戦の心意気と不屈を受け継いだ。もう怖いものなしだ」                                    

 マリアが涙声で海彦に「わたし。嘉蔵に話しかけられた。海彦を宜しくと。二人で仲良

く路を切り拓くようにと。そして何時しか進む路が分かれても支え合うようにと」。

「俺は嘉蔵爺さんが何ゆえ戻らなかったのかを確かめに来たんだ。家族の墓参りの予定は

未定なんだ。親父は海で撃たれた。俺は親父の死を覚悟した。親父は生死の分れ目から生

還してくれた。そして親父は来年の参議院選挙に立候補する。親父は嘉蔵爺さんと蔵之介

の血を受け継いだ挑戦者。不屈の男だ。与助の家は今は与一さんの代。嘉蔵爺さんと与助

が永遠の不在の間、俺たちと与一さんは代々力を合わせて生きてきたんだ。それも嘉蔵爺

さんに伝えたかった。来月には与一さんが来る。マルガリータに会いに来る。楽しみにし

て。これからマリアと与助の墓参りに行く」 

 海彦は空を見仰げた。

 真夏のスペインの巨大な太陽が照りつけている。この太陽を仰ぐ度に巨大とか強烈と形

容せ去るを得ない。仙台の太陽とは根本が違う。同じ太陽では無い。              

「海彦。少し日陰に入りましょう。このままでは熱中症になる」

 マリアはこんもりと茂ったオリーブの樹の下に設けられた休み処に海彦の手を引いた。

そこには白い木製のベンチが置かれていた。

 海彦は帽子を取って脳天を触った。熱い。どうりでさっきからクラクラするはず。

 海彦はベンチに身体を横たえマリアの膝枕。

 マリアは水筒の水でタオルを濡らし海彦の額に置いた。 

海彦は閉じていた瞼を開いた。

 密生したオリーブの枝と葉の隙間からの木洩れ日。風に吹かれ木洩れ日もゆらゆら。日

陰からの墓地の景色が眩しかった。何と云う明るさ。何と云う美しい光。何と云う輝き。

これが光なら仙台には光が無い。在るのは闇ばかり。

 嘉蔵はこの光に魅せられたのだ。                                    

 病に伏した嘉蔵は簾から差し込む木洩れ日に心を奪われたのだ。                                

 まさに「空」への誘い。

 同じゆらゆらが俺を包み込む。

 心地よい。

 身体の力が抜けてゆく。

 俺は嘉蔵が見た光を見ている。

 嘉蔵の心象とはアンダルシアの木洩れ日。

 これぞ「空」。「空」とは無。そして根源。

 嘉蔵が実感した「LIBERTAD」は根源から導かれたに違いない。

 仙台では体感できない光。仙台には「LIBERTAD」が無かった。仙台には閉ざさ

れた因縁からのイチモツが在った。嘉蔵は此の地で解き放たれたのだ。想いもせず、考え

もしなかった「空」が、普通ではない何かを、嘉蔵にもたらしたのだ。それがこの光。

 海彦はこの発見をマリアに告げるのを止めた。マリアはマリアで、普通ではない何かに、

何時か、必ず気づく。辿り着く。嘉蔵不帰還の謎はそれぞれが解き明かせば良いのだ。そ

れぞれの胸の裡で納得できれば良いのだ。

 海彦の傍らに嘉蔵が居た。

 初めて生身の嘉蔵が居た。

 これからは嘉蔵に優しくできる。

 

 海彦は眠りにおちた。

 すぐに眼が覚めた。やはり熱い。眠っていた時が長かったのか、短かったのか…。


「海彦。幸せそうな寝顔だった」

 マリアはタオルを換え海彦の後頭部と両の首筋に当てた。

「嘉蔵の夢を見た」

「どんな夢…」

「俺が見た木洩れ日を嘉蔵も見ていた」

 海彦は再びオリーブの枝葉から差し込む光を見た。

「そう。それで幸せそうだったんだ」

「美しい輝き」                                    

 マリアも枝葉からの光を仰いだ。                             

「わたしたちは永遠の光と呼んでいる」

「尊い光だ」

「あのね。市長さんから頼まれているんだ」

 海彦は身体を起こした。

「地下の資料室に保管されている品々の特定。名称とか用途を説明できないと展示できな

い。わたしには無理。海彦にお願いする他ないの」

「分かった。マリア。一緒にやろう」

「やる。やれば嘉蔵と蔵之介がもっと繋がる」

「デジカメでひとつひとつを撮ってナンバリング。順に丁寧に解説する。するとサムライ

たちの仙台での暮らしが見えてくる。市長さんは内容の充実したミュージアムを造りたい

と言った。テーマを曖昧にすると網羅的になってしまう。充実させるにはテーマからの展

示と解説に懸かっている。『伊達男たちに写ったコリア・デル・リオ』。どう…」                                   

「海彦。良い。良い。とても良い」

 海彦は『故里吾出瑠里緒日誌』と対峙した時の海之進を思い出した。

「ワシが四百年を埋めてみせよう」

 今度は俺が四百年を繋げてみせる。

 永遠の光に導かれた嘉蔵と与助と伊達男たちを今に蘇らせる。

 海彦はマリアに気づかれぬよう右の拳を握り小声で「よっしゃ~」と両脇を締めた。

 マリアは「よっしゃ~」に気づいていた。「よっしゃ~」は気合いが入った時の海彦の口癖。

「海彦。わたしも頑張る。頑張ってコリア・デル・リオに残った伊達男たちに写った心象を掴

まえる。掴まえたら嘉蔵と蔵之介が接木できる。仙台とコリア・デル・リオが一本の糸で結ば

れる。嘉蔵不帰還の謎を解くなら仙台に残されたみんなの辛さに苦しまなくなる」

「マリアはマリアなりに辛い想いを味わっていたんだ」

「仙台に行かなければ分からなかった」

「そうだな…。マリア。これから市役所に行こう。市長さんに会いたいんだ」

「ゆっくり行きましょう。海彦。与助の墓参りはどうするの…」

「帰るまでには必ず。マルガリータと一緒に行きたい。マリア。連絡を取って欲しい」

「分かった。海彦。ところで橘南とその後はどうしているの。わたしには分かる。つき合って

いるんでしょう…。わたしはどうなるの…。どうすれば良いの…」  

                                      

 海彦は答えられなかった。

…何だって。なぜマリアは俺が橘南とつき合っていると察したんだ。さっき言葉を呑み込んだ。それが原因。そんな筈が無い。マリアに気づかれていなかった。だとすれば佐々木薫子からの追伸をゴミ箱に直行せずして封を開いたのかも知れない。いや。マリアはそんなことしない。

自分がやらないと言ったことはやらない。それがマリアだ。佐々木薫子からの追伸を読まなとも最初の手紙だけで勘働きの鋭いマリアなら察してもおかしくない。そんなことはどうでも良い。その時が来てしまったのだ。今がその時なんだ…                                                                     

 海彦はマリアの不安そうな顔を正面から見据えた。

「橘南は三陸沖大地震の津波で両親と家族を亡くした。橘南は俺にはマリアが居ると知ってい

る。それでも俺に依り処を求めて来た。俺は断らなかった。橘南は両親の七回忌に向けて墓を

建てようと思った。それを相談された。俺も建て方を知らなかった。それで与一さんに相談し

た。家族に相談しなかったのは彩に知られたくなかったからだ。彩が知ると大騒ぎになる。与

一さんのお陰で墓が建った。これで橘南はお盆に墓参りができる。俺は手伝えて嬉しかったん

だ。与一さんに感謝している。マリアとは何も変わらない。俺は今までと同じようにマリアと

つき合っていく。頑張ってバンドをやる。不安そうな顔はマリアに似合わない」

 マリアは何も言わず海彦の瞳を見つめていた。不安な顔から心配気に変わっていた。

 海彦はその変化に気づいた。

「俺にはマリアに言えないやましいことは無い」

「分かった。分かったことにする。海彦はモテる。現にわたしにも橘南にもモテている。佐々

木薫子にもモテた。気づかないのが海彦の良い処なんだ。だからわたしの心配は消えない」

「えっ。ナニ。それって」

「海彦は人を想いやる気持ちが強い。それを知った女子は海彦に恋心を抱くようになる。わた

しがそうだった。『帰る』と言って走り出して離れたわたしを海彦は叱らなかった。怒らなか

った。ただただ困った顔で石巻駅に佇みわたしを待っていてくれた。わたしがお土産に買った

『支倉焼き』を美味しいと一緒に食べてくれた。その時にわたしは海彦を選んだ。海彦には大

切な人を想い涙を流してしまう優しさがある。大切な人への真っ直ぐな笑顔がある。海彦はわ

たしの為に必死で頑張ってくれる。そして遂に嘉蔵の謎を解き明かした」

「…」

「わたし。イッパイ。海彦を褒めた。照れくさかったでしょう」

「うん。穴が在れば入りたいくらいだ。俺はまだまだのガキだから」                                     

「海彦。そうでもないよ。今日の今さっき。今まで在った嘉蔵の壁が無くなった。海彦の発見

はアンダルシアの木洩れ日だよね。わたし。分かったんだ。ひとつ質問があります」

 何時ものマリアだった。それでも海彦には少し意地悪そうなマリアの表情が写った。

「わたしが男子に告白されて断らなかったら海彦はどうする」

「…。その時に全力で考える。今はそれしか言えない」

「そう。分かった。わたしと海彦は嘉蔵が導いてくれた切っても切れない間柄。わたしに告白

する男子が現れてもその彼とは止めようと思えば直ぐにでも止められる繋がり」

「俺もマリアにひとつ質問あり」

「なに」

「マリアは類稀な美人。そして気性の激しい天然。唄は飛び切り。喋りも凄い。男子の注目の

的。我校ではそうだ。スペインでもそうに違いない。マリアに告白した男子はどんな奴…」

「海彦。それはね。…ナ…イ…ショ…」

 マリアに何時もの笑顔が戻った。

 与一さんの言う通りかも知れない。

『マリアなら受け入れてくれる』

 それは切っても切れない間柄を根拠にしている。

 南が言った通り、南とは止めようと思えば止められる関係。

 けれども俺は南から離れられない。

 南は俺を離さない。                                     

 マリアに言えない、やましさに、見舞われるかも知れない。

 俺の子どもを沢山欲しいと言い放った南。

 南も親父のコーチを引き受けた。

 何れ遭遇するだろう。

 優柔不断な俺は決められない。

 今案じても何も決められない。

 なるようにしかならない。

 海彦には、なるようにしかならない、が黒い塊として残った。

 津波の色と同じ黒色だった。


                                   (了)                                    


                                      170

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ