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アンダルシアの木洩れ日  作者: 高橋龍(ロン)
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恐ろしい女たち

瀧上家の正月は門にやって来る。与一が腕によりをかけて作った見事な門松一対を大晦

日に届けてる。袴の筵には二本の荒縄が巻かれている。杉の葉と南天が根締め。南天の赤

が眼を惹く。その中央から三本の真竹のそぎが立つ。そぎは注連縄で結ばれ松と梅の枝に

囲まれている。そぎは年神さまの拠り処。梅の枝はまだ蕾んでいない。

 年神さまを迎える準備が整った。餅への与一の礼であった。

 瀧上家では元旦に花を生けない。香の会の邪魔になる。香の会が終わると、静と志乃が、

正月をひと花器ずつ生ける。玄関と座敷を彩る。                                                                          


 海太郎が太鼓を、静かに、みたび、打った。これが始まりの合図。続いて海彦の龍笛。

大地の音に乗って龍が天空に昇り降りてまた昇る。

 海之進と海太郎、海彦は鳥帽子の神官。静と志乃は髪を後ろに纏めた女官装束。

 座敷の壁には神棚が祀られていた。神棚には二本の蠟燭が灯されている。

 謡の海之進と海太郎は神棚に向かって左。鳴りものは右。 

 彩に続いてマリアが榊を奉げて進み出る。秀麗な巫女の立ち姿。そして可憐。

 マリアの腰が据わっている。彩とマリアが神棚に正対して座った。

 篳篥に持ち代えた海彦が気を震わすと、天から差し込む光、志乃の笙が鳴った。

 巫女が榊を前方に差し出しゆっくりと立ち上がる。謡が始まった。


…あけの雲わけ うらうらと 豊栄のぼる 朝日子あさひこを 

 神の御蔭と おろがめば その日 その日の 尊しや…                                   


 巫女は、右手に持った榊を上にかざし、向かい合い、幾度も大きく円を描く。

 太陽への感謝。謡の節目で、騒めく里の杓子拍子が打たれると、静の箏が人の心音を爪

弾く。篳篥が箏の後を追った。小さな形状に反して人の声の篳篥には音量がある。

 太鼓が、みたび、打たれた。  


…土に こほれし 草の実の 芽生えて 伸びて 麗しく

 春秋はるあき飾る 花見れば 神の恵みの 尊しや…                               


 大地への感謝。彩とマリアは榊を下から上へ。これを繰り返す。草花が成長してゆく様                                   

を表す。大地は太陽と水から命をもらい、稲を育み、恵みを実らせる。

「絶えない蘇りが永遠の命」と巫女は神さまに感謝する。

 謡と悠久なる響きに導かれ舞う乙女の姿は美しい。彩とマリアが神棚に榊を奉納。

 彩の舞は歳ごとに優美。今年は冴えもある。マリアを導く緊張感が冴えを誘った。

 海彦はマリアの舞だけを見つめて、龍笛を吹き、篳篥を響かせた。                                     

 昨夜の練習だけでマリアが八百万の神さまに仕える巫女になり切れるのか不安だった。

ゆっくりとした謡の流れに乗れるのか心配だった。杞憂だった。巫女になっている。なり

切っている。鳴りものと謡と振りの意味を理解している。たった一日の稽古で『豊栄』を

ここまで舞えるものなのか。母さんの的を得た指導だけでこうはゆかない。

 海彦はマリアから底知れぬ力を感じ取った。マリアは末恐ろしい乙女なのかも…。

 すべてを終えると謡と鳴りものは神棚に深々と頭を垂れる。巫女が向き合い座して礼。

最後に舞を奉納して仕舞う。静と志乃が心待ちにしていた『豊栄』。今までは彩一人の舞。

いささか寂しく、もの足りなかった。それが今年は彩とマリア。

 瀧上家は晴れやか。マリアが最も晴れやか。

 海彦は静と志乃から頼まれ固定カメラに『豊栄』を収録した。

「海彦。舞っている時に神さまから日本人の心もちを授かった。清らかな心もち」

「俺もそうさ。神楽の後は清廉になる」

「滝上家では代々お正月に『豊栄』を詠い、奏で、舞っていたの。嘉蔵の頃から…」

「文書には書かれていないんだ。でも嘉蔵が使っていた香道具が今に残っているくらいだ

から『豊栄』はお正月の定番。当たり前過ぎて記録に残す必要はなかったと思う」


 紋付袴の三人は荘厳。振袖の二人は華やか。留袖の二人は艶やか。

 七人が揃って大崎八幡宮の表参道を歩く姿は人眼を惹いた。

 参拝を済ませた、すれ違う者の多くが、マリアに眼を止めた。並んで歩く者たちの中に

は、わざわざ、前に出て、マリアを見つめた。

「みんなマリアを見る。私には眼もくれない」。彩だけが独り悲しそう。

 海太郎は得意満面の絶好調。そして感無量。

 マリアの来訪が決まってから、この時を待ち望んでいた。今年の初詣は一人増える。マ

リアの振袖姿を想い描いていた。今日は我家の晴れの日。嘉蔵が帰りたくても戻らなかっ

た望郷を、誰も成し得なかった嘉蔵の念を、マリアが遂げた。嘉蔵に見せてやりたい。                                                                           

 マリアの振袖は娘の時に着ていた志乃の宝だった。


 初詣の後は海之進の茶会。

 マリアは始まる前に静から作法を教わった。

 マリアは緊張して聞いている。

「難しく考えなくても良いから。間違ったとしてもご愛敬」 

 茶会の最後は海太郎の新年の挨拶。                                 

「大地震があった。津波も押し寄せてきた。沢山の人が亡くなった。今も故郷に戻れない

人たちも大勢いる。それなのに我家だけでなく与一の処も他の親戚も無事だった。私は嘉

蔵が護ってくれたと思っている。あの地震で境内の墓はほとんどが倒れていた。しかし父

さんと私が守ってきた墓はひとつも倒れなかった。墓を守ってきて良かったと思ったのは

倒れなかった四つの墓石の前に立った時が初めてだった。それから六年。私はマリアに嘉

蔵の面影を見た。それは代々の瀧上家の誰もが待ち望み、見たくとも、見られなかった積

年の悲願。それを私は見た。こんな晴れがましい正月はない。私はここでマリアによくぞ

来てくれたと礼を言いたい。私はみんなが健康であれば望むものはない。健やかに日々を

過ごすならそれぞれが夢と目標に向かって進む。力を合わせて進む。それを応援するのが

私の務め。それが私の夢と目標なのだ。今年も元気に。みんな宜しく」

 海之進が「海太郎の話しは何時も何処か硬い。まぁ…それも致し方あるまい。家長とし

て決める処は決めなければならぬ。マリアの挨拶を二回聞いた。海太郎はその影響を受け

て皆に感銘してもらおうと実力以上の企てだな」。

「父さんの言う通り。ちょっと気張り過ぎた。マリア。足が痺れていないか」

「多分大丈夫だと…。感覚がないみたい」

 彩が「マリア。立ち上がってごらん」

 立ち上がろうとしたマリアはコケる寸前に彩にしがみついた。                                     

「あれ。どうしたんだろう。わたし。なんか恥ずかしい」

「マリア。足を前に伸ばして膝をさすると治る」

 志乃がマリアの両膝をさすった。

「気にしなくていいのよ。みんな一度や二度経験しているから」と静。

 彩、海彦、マリアにお年玉が渡された。

 祖父母、両親からの他に今年は伊達市と当別町と酒田市から海之進が預かっていた。

                                     

 マリアはお年玉の意味が分からず受け取りを躊躇った。

 海彦がマリアを諭した。

「俺たちはまだまだ子供。これは親たちの気持ちだから喜んで頂いて『ありがとう』と言

うのが日本の慣わし。玉は『ギョク』とも言う。古代では最も位の高い人の意味。年の初

めの『タマ』には親たちの今年も健やかに育つようにとの願いが込められている」

 海太郎は正座を崩さず襟を正した。

「マリアの夢とか目標を聞かせてくれないか」

「私は政治家になりたい。世界中の人々が安心して平和に暮らせる社会を築きたい」

 マリアは両膝をさするのを止めて凛として言った。

 海彦以外の表情が一転した。政治家が飛び出すとは夢にも思わなかった一転だった。

 海彦はマリアの性質を知っていた。真実への探求心。マリアなら言い出し兼ねない。マ

リアは得体の知れない何かを持っている。普通の女の娘とは違う何かを持っている。

 海太郎は驚きを落ち着かせようと海之進に茶点てを頼んだ。

「マリアは挨拶が上手だ。演説でも聴衆を魅了する素質充分だ。『世界中の人々が安心し

て暮らせる平和な社会を築きたい』はとても良い。私の考えを伝えておく」

 海太郎は海之進から差し出された抹茶を手前を忘れて一気に飲んだ。

「世界中の政治家は人々が安心して暮らせる平和を志して政治に取り組んでいる。民主主

 義も志を遂げる方法のひとつだ。問題が多々あっても独裁よりも良い。社会主義国家の

誕生も安心して暮らせる平和の実験だった。しかし失敗した。独裁はダメだと世界中に証

明してしまった。民主主義の弱点は多数決原理。これが時としてポピュリズムを招く。理

念を押しのけ目先の利益が優先されてしまう。選挙で当選しなければ政治家は成り立たな

いからだ。これからの政治制度は民主主義の弱点の克服が求められている」

 海之進が「政治学の講義のようだ。相変わらずだな。しかし内容は秀逸だ。マリアは政

治家になって何を実現したいんだ」。

「原発を停めたい。止めたい。原発に反対するのは誰にでもできる。原発を無くするのは

政治家にしかできない。スペインにも原発が七基あります。日本に来て調べたら日本はち

ょうどスペインの六倍。稼働していない原発も多い。世界中の原発をゼロにしたい」

「私はマリアが政治家を目標にしていると聞いてただただ驚いている。スペインではどう

なのか分からないけれど日本人は政治家を尊敬していない。権力を掌中にして利権の獲得                                     

を目指す人たちと思っている。権力とはひとつではない。第二の権力もある。だから尊敬

されない。マリアなら尊敬される政治家になれるかも知れない」と志乃。 

 珍しく静が口を開いた。                                     

「マリアは必ず戦争に反対する。スペインでも日本でも反対する。日本の憲法は平和憲法

と呼ばれている。敗戦後七〇年以上経って日本は一度も戦争を起こしていないし巻き込ま

れていない。それはアメリカに護られてきたからです。平和憲法を守れと叫ぶ人たちはそ

れを認識しているのかと私は疑問を持っている。平和憲法を確かな力に変えるには日米安

全保障条約の更新を止めるべき。止める度量と止めてから平和憲法を確かな力に変える挑

戦が日本の政治家には無い。アメリカの庇護下で平和憲法を唱えていては世界中から笑れ

る。日本人は尊敬されない。戦争を知っている私はこれが一番の不満」

 海太郎は静の発言が終わるのを待ちかねていた。

「政治家には政敵の政治生命を絶つパワーが要る。これが権力闘争。勝たなければ自らの

理念を現実化できない。政治家のマリアには権力闘争を勝ち抜く覚悟が求められる」

 マリアはひとりひとりの発言を噛みしめていた。

 海之進が「自分の国は自分が守る。これが大原則だとワシは考えている。平和憲法を守

れだけでは日本を守れない。ではどうするのか。ワシは何時もこれを考えている。日米安

全保障条約が無くならない限り沖縄の基地問題は解決しない。アメリカの核の傘から飛び                                     

出した日本は国をどう守るのか。ワシに言わせるなら海賊に襲われた時にどうするのかだ。

海賊には非武装中立からの話し合いは何の意味を持たない。どうぞ襲って下さいと言って

いるのと同じだ。専守防衛の方がまだマシじゃ」と力を込めた。

「権力闘争に勝ち抜く覚悟はわたしの今にありません。みなさんがわたしに語ってくれた

ひとつひとつはスペインの課題でもあります。みなさんの今日の考えを忘れません。政治

家は自分一人ではなれない。多くの人たちの支持と応援が必要です。わたしはどうしたら

なれるのか。マリアの政治家への途を考えています」

 マリアは静かに自らの決意を確かめるように言うと海彦が続いた。

「原発は政治家のインチキによって建てられた。そのツケを今払わせられている。福島原

発では建設時に貞観地震を知っていても知らないフリ。問い詰められると防潮堤で津波を

喰いとめられる。インチキの最たるものは電力製造価格。最も安い電気が謳い文句だった。

その価格には廃炉と高レベル核廃棄物処理費用が含まれていない。それでも未だに最も安

い電力がまかり通っている。政府から支払われた福島の人たちへの賠償と補償金も入って                                    

いない。除染費用も入っていない。俺はマリアから政治家と聞いて驚かなかった。マリア

に秘めたる力を感じていたんだ。マリアにひとつだけお願いがある。日本の女性政治家は

みんな妖怪オバサン。政治家になったマリアが歳を重ねても妖怪にだけはならないで」

 海太郎が「彩。何か言うことはないのか」。

「海彦は今年十八歳。選挙権を持ち元服する。被選挙権は二五と三〇歳のまま。海彦がマ

リアに触発されて立候補すると言い出したら我家は今のような討論を重ねて結局は海彦を

応援すると思う。それも全力応援。私は応援できるか分からない」            

  

 二日は香の会。瀧上家の香道は志野流。鎌倉時代の武家に支持され広まった。公家貴族

の御家流と違い作法が緩い。香道具も質素。煌びやかさが無い。志乃が嫁いできた時に静

はたいそう喜んだ。志野流と重なったからであった。煌びやかに非ずとも、香道具はすべ                                     

て嘉蔵愛用の品々だった。瀧上家の正月の組香のお題は『日本三景』と決まっている。

 松島の一景が嬉しかったのである。それが正月らしく思え、目出度かった。

 組香は効き酒と似ている。香元の静が三種類の香木を和紙で包み、香包ごと焚き、「こ

れは松島。次が天の橋立。おしまいは厳島」と順に手渡す。和紙で包むのは香木を隠すた

めである。みんなは神妙な面持ちで、ひとつずつ、香りを聞き「けっこうなお手前でした」。

 これが聞香の所作である。聞香炉の持ち方、聞き方も茶道に通じている。

 静はこの日も松島は羅国。この日の天の橋立は沈香。白檀を厳島として焚いた。羅国へ

の拘りは『武士の如し』を意味していたからである。試しを終えると静は本香を焚き、三

つを試しとは異なる順で香炉を差し出す。それぞれは聞香を終えると膝の前に置いた和紙

に毛筆で答えを書く。見えたとしても隣りの答えを見てはいけない。

 すべての聞香を終えると静から正解が発表される。

 これが組香の遊び。

 座敷に海之進からの順で座り海彦の隣がマリア。彩が「みんなの作法を見て真似すれば

大丈夫。海彦のはアテにならないから私のをよく見て覚えて」。

 正月以外の組香でも松島は羅国。それで松島は全員が何時も正解。これは静の配慮でも

あった。それ以外の二景の答えは別れた。静は毎回違う香木を焚いた。

「海彦。香りを聞くとはとても上品な日本語だね。わたし。ぜんぶ×だった」

「初めてだもの。茶会の作法と似ているだろう」

「似ている。お茶はたしなむ。香は聞く。これが作法の違いと思った。間違っている」                                     

「正解だよ。この遊びは香りを聞き古くからの日本三景を一度は訪れたいと想いを馳せる。

中には行った人も出てくる。その人から名勝と道中のお話し聞くのが楽しみになる」

「それも茶会と似ている。日本人は落ち着いた雰囲気の下でのお話しが好きだね」

「俺もそう思う。普段は出来ないお話しをこう云う場を借りて楽しむんだ」

「スペイン人はお喋りが大好き。でもお話しとお喋りは大きく違う」

「話す人は話術が試される。聞く方も聞く姿勢が問われる。昔の人は遊びながら言葉を鍛

えてきたんだ。それは和歌と合い通ずる」

「日本語の伝統はこうして受け継がれてきたんだ。本当に奥行きが深いね。香を聞くは日

本のアロマテラピーだと思っていた」

「マリア。それでも構わないんだ。香の起源は三千年前のメソポタミアだから」


 香の会の後は百人一首。読み手は静。行司は海之進。

 海彦は海太郎と互角。二人は彩に敵わなかった。それもそのはず。彩は大学のカルタ部

に所属して大会にも出る。それでも時々、彩は志乃に打ち負かされる。

 海彦はその時が愉快だった。母さんは何時、練習しているのだろう。恐るべしは母さん。

札の一枚も取れなかったらマリアは退屈する。海彦はひとつだけをマリアに教えた。

『天津風 雲の通い路 吹き閉じよ 乙女の姿 しばし留めん』

「『天津風』と読まれたら「ハイ」と言って『乙女』の札を取る。並べる時に『乙女』の

札を自分の膝の前に置く」。海彦はその作戦を皆に伝え同意を得た。

 百人一首では彩が僅差で志乃に勝利。彩は賞品の回転寿司券一万円をゲット。

『乙女の姿』の札を取ったマリアは喜びを顕わに海彦に礼を言った。

「海彦は優しい。札を取らせてくれた。歌の意味も教えてくれた。わたし。短歌の創り方

を知った。日本人は五と七の奇数を大切にしている。五と七の組み合わせは言葉のリズム

が良い。千百年以上も前に創られたと聞いて驚いてしまった。この『乙女の姿』には今も

変わらない日本人の情感が詠われている。わたし。どんどん日本が好きになっている。好

きになれないのは『嘉蔵を尊敬できない』と言い放つ海彦の姿勢」

「…」

 海彦はマリアに応えられなかった。


 百人一首の後に海彦は志乃に「パソコンをマリアにプレゼントしたい」と同意を求めた。                                    

「初売りの時に俺の子供貯金とお年玉でプレゼントしたい」

「かまわないけれど買いたいものがあったんじゃないの」

「免許を取ると決めていたけれど先に延ばす。マリアの家の一台は兄貴が独占しているん

だ。パソコンがあればメールできる。スペイン仕様の設定は俺がやる」

「あら熱心ね。海彦。マリアを好きになったんでしょう」

 海彦は紅くなった。それを自覚すると、更に紅さが増し、俯いてしまった。

「母さん。イジワルしないで」

海彦は初売りでパソコンを購入。初売り価格は二〇%オフだった。これは狙い通り。

 初売りの買い物を終えるとマリアが「スケートリンクに行ってみたい」。海彦の袖を掴

んだ。海彦はパソコンの梱包を彩に預けた。

「マリアと『アイスリンク』に行って来る」

彩はマリアの買い物袋も受け取った。

「仲良く行ってらっしゃい。手をつないで滑るのはダメ。危ないから」

『長町』からは地下鉄南北線。『八乙女』で下車。そこからバスで五分。歩いても一五分

と少しで着く。海彦とマリアは歩いた。

「マリア。スケートは初めてなんだろう」

「セビリアにリンクが在って時々滑っている。まだクルクルと上手く回れないしジャンプ

も一回転半。早いステップの時は必ず転ぶ」

「マリアはフイギュアが好きなんだ」

「好きだけれど羽生結弦のようには滑れない。『アイスリンク』は結弦の練習場。震災で

使えなくなった時には結弦は毎日、横浜まで行って練習していた。大変だったと思う」

「詳しいね」

「結弦はわたしの憧れなんだ。結弦は手足が長く身体がしなやか。結弦は甘いマスクのイ

ケメン。そしてシャイ。演技の時には表情が変わる。結弦の恐いほどの集中が素敵」

 マリアは恋人のように「結弦」と呼ぶ。海彦は六回もの「ゆずる」が面白くなかった。

 今は俺と一緒だ。少しは気を遣っても良いんじゃないのか。羽生結弦は確かに凄い。オ                              

リンピックで必ず金を取る。彼のお陰で『アイスリンク』は倒産を免れた。羽生結弦に憧

れた子供たちが大勢通うようになった。リンクへのスポンサーも現れた。俺は羽生結弦の

足元にも及ばない。でも今は俺と一緒だ。スペインの人たちは遠慮しないのかも知れない。

 海彦は無口になった。                                     

 マリアは海彦の異変に気づいた。

「気を悪くしたんでしょう。ごめんさない。機嫌直して。何回も『ゆずる』と言ったから。

わたし。出発する前から海彦が『ゆずる』みたいな男の子だったら…。『ゆずる』のよう

な男子だったら…と願っていたの。海彦は髪型も雰囲気も『ゆずる』に似ている」

 マリアは海彦の左腕に両手を添えて寄り添った。もう一度「機嫌直して。お願い」と言

って密着した。海彦は密着したマリアの香りにうろたえてしまった。

 沈香よりも良い。芳しいマリアの甘い香り。そして清雅。これがマリアの匂いなんだ。

忘れてはいけない。忘れられない。なんだって。俺が羽生結弦に似ているって。まさか。

 海彦は狼狽。そしてマリアの密着に顔が火照った。自分でもそれが分かった。

 頑張って無口を続けよう。動揺と紅くなった顔をマリアに見られたらカッコ悪い。

 マリアは海彦に甘え、密着を強めた。

 海彦は高鳴った鼓動がマリアに感知されるのではと気が気でなかった。それでも先ほど

までの不機嫌はマリアの密着と香りと『ゆずる似』に消されてしまっていた。

海彦は『アイスリンク』でマリアとプリクラを撮った。これには大満足。        

  

 三日は剣道の初稽古。

 海之進は八段。技の切れは面と抜き胴にあった。もっとも五段を越えると段位と実力は

合致しない。六段からは名誉を表わす。年齢と剣道歴が増すにつれ段位が上がるのが剣道

界の伝統。しかし往年の剣の冴えの記憶なくして昇段の推薦を受けられない。

 海之進は海太郎にも海彦にも面を打てと指導した。

「面を打てたならば何処でも打てる。面が最も難しいのだ」

 海彦は初段。中三の時の昇段試験に合格。

 高校に入ると海彦は海之進の期待に反して道場に通わなくなった。

 海彦は面を打つのは良しとして打たれるのが嫌になった。高校生の打突は激しく、重く、

強かった。面を決められると眼球に火花が走った。痛いよりも一瞬気が遠くなった。

 これを繰り返していたら頭がやられる。パァーになってしまう。

 そう思い始めた海彦は身近な剣道の猛者を思い浮かべた。みんな野獣のように思えた。

 爺ちゃんは歳を取った今でさえ野生が残っている。爺ちゃんはさて置いて剣道の猛者に

頭の良さそうな奴は居ない。東北大の剣道部はめっちゃ弱い。仙台は武道が盛んな街だ。

強豪校も多い。東北大と強い高校がガチで勝負したら高校生が勝つ。強豪校の連中は面で                                    

頭がやられて脳味噌は肉団子。東北学院大の剣道部は無茶苦茶強い。この差は何だ。ガキ

の頃からの打たれた面の本数で進路が決まったんだ。

 それでも海彦は正月の初稽古だけは海太郎の伴として参加した。

 初稽古は清々しい。気合いを発すると気が引き締まる。初稽古は基本動作が主で乱取り

の時間が少ない。面を打たれなくて済む。基本動作が終わると乱取り。

 海彦は誰彼かまわず気で押し、攻めに攻めた。攻めていれば面を食わない。それでも面

に拘る相手には小手で応戦した。そして最後は海之進の見事な抜き胴で沈没。

 マリアは彩から武具と胴着を借りた。

 彩は出かける前に「足が冷たくなって痺れるから」とホッカイロ一袋をマリアに。                                     

 道場に入るとマリアはやる気満々。

 マリアは面手拭いの折り方を彩から教わっていた。頭には折り手拭い。正座の姿勢も背

筋が伸びている。最初は見取り稽古との海之進の教えを守っていた。

 基本動作を終えた海之進が稽古をつけに来た。

「マリア。竹刀は左小指で持つんだ。薬指と右手は添えるだけ。それでスナップが効く」

 折り手拭いのマリアを海彦は遠くから見た。その瞬間、強烈な面を食らった。

 海之進はマリアに打ち込みと足の捌きを教えた。

「エイ。エイ。エイ」。マリアの声が道場に響いた。

 海之進は、マリアに面をつけるようにと命じ、自分も面をつけた。

「マリア。気合いを出してワシの面を二〇回打つんだ」

「エイ。エイ」

 マリアは懸命に海之進の面を打った。海之進の竹刀に弾かれ面まで届かない。二〇回目

で海之進は面を打たせた。その時にはマリアからぎこちなさが消えていた。

 海彦はマリアと対峙した。

 海彦は面の中のマリアの眼を見据えた。気合いとは殺気と海之進から伝授されていた。

 マリアも海彦を見据えていた。しかしマリアの気合いには殺気がない。

 マリアは海之進の「打て」との気合いで「エイ」と面を打った

 海彦は面を打たせた。

初稽古が終わった。

 マリアは胴着を整え、座して、海之進に「ありがとうございました」。海彦にも。

「海彦。大丈夫。あたま。わたし。思い切り面を打った」                                     

「マリアの剣はまだへなちょこ」

 海彦は精一杯、男を見せた。

「海彦はやっぱりサムライ。お爺さんもサムライ。わたし。嘉蔵に少し近づいたかも」           


 四日は軽音楽部の「音出し」。

 メンバーが冬休みに入ってから創った曲を持ち寄ってのお披露目。

 昨夜、海彦は部長に「創れなかった」と携帯で伝え、マリアの参加の同意を得た。

 軽音楽部の練習場は音楽教室。此処は防音の造り。緩やかな傾斜の階段教室。小さなス

テージにはグランドピアノが置かれ、アンプ・スピーカー・ミキサー・マイク・ドラムが

常設されている。普段は施錠され、鍵は部長に託されていた。エアコンは無かった。代わ

りに煙突付きの大きな灯油ストーブが在った。仙台の冬の備え。それが焚かれていた。

 部員は二十五名。女子は十五名。女子のほとんどがボーカル。全員が合唱部にも所属し

ていた。女子で楽器を扱えるのは八名。キーボードとドラム以外のパーカッション。

 部の決まりは無い。週二日の練習日に集まり、思い切り音を出して唄う。それが部の結

束の要だった。もうひとつ要はオリジナル志向。コピーはオリジナルへのトレーニング。

 海彦は曲を書き上げると此処で聴いてもらった。新曲が発表される時には全員集合する。

評価は厳しい。それぞれが「〇」「×」「△」の札を持ち、曲が終わると掲げる。

「〇」は自分も唄いたい。

「×」は唄いたくない。

「△」は今は唄わないけれど何時か思い出して唄うかも。

「〇」を挙げたメンバーでユニットを作りアレンジ。練習中に「あ~でもない。こうでも

ない」が飛び交う。時として作者の意向が捻じ曲げられそうになる。こうなるとケンカ。

部長が仲裁するのが何時もの治め方。所詮は多勢に無勢。作者は不承不承、女子に従って

しまう。ここでの女子力は圧倒的だった。

 男子の不満は「曲を創らない。楽器も弾けない女子が結束して文句を言い、自分の曲を

思いのままに変えてしまう」だった。それでも部の結束が保たれていたのは軽音楽部のス

ター性だった。学校祭では大活躍。他にも地域のイヴェントに引っ張りだこ。

 学校からの禁止事項は路上ライヴ。それと練習は十八時まで。

 メンバーは音楽教室を部室と呼んでいた。

 海彦の創った曲は芳しいものではなかった。良くて「△」。悪ければ「×」。女子から                                     

「歌詞が抽象的だからグッと来ない」。

 それで新曲の「〇」のアレンジを引き受けていた。これは好評だった。

 海彦は部室の扉を開けた。メンバー全員が着席していた。一斉に視線が扉に集中。海彦

に続いてマリアが入ると歓迎の拍手。部長がマリアをステージの中央に導いた。

 マリアはコートを海彦に預けてステージに立った。

「マリアはいま海彦の家にホームステイしている。きょう会ったばかりなのに、あした帰

国してしまう。学校に行ってみたいと言うのがマリアのたっての頼み。それで我が軽音楽

部に来てもらった。みんな文句あるか~」

「な~い」                                     

 部長はマリアにマイクを渡した。                                

「私はマリア・ロドリゲス・ハポンです」。全員がハポンに反応。力強く手を叩く。

「私の本当の名前はとても長い。『マリア・トーレス・ホセ・ロドリゲス、デ・ラ・リオ、

パトリシア、ハポン』。スペインでは生まれた子供にお爺さんやお婆さん、それとこれか

ら子供が育つ地域の名前を付けます。それで長くなります。私の家族や親戚の名前の最後

にはハポンが付けられています。マリアはお父さんが付けてくれました。十三歳まで私の

お尻には、みんなと同じ蒙古斑が付いていました。ハポンは私の矜りです」

 ここでは大拍手。

「いいぞ。マリア・トーレス・ホセ・ロドリゲス、デ・ラ・リオ、パトリシア、ハポン」

「こんなに歓迎してもらえるなんて。ありがとう。とても嬉しい。スペインには桜の樹が

ありませんでした。三年前に日本から移植され去年の春に咲きました。私が小さい頃から

遊んでいた公園に咲きました。今年の春にも咲きます。美しく可憐な花。散ってゆく花び

らがとても儚い。『いきものがかり』の『SAKURA』を唄います」

 マリアは静かに深く呼吸してマイクをピアノの上に置いた。



 海彦は「ひらひら」で鳥肌が立った。マリアの伸びる高音には透明感があった。力があ                                     

った。聴く者を釘付けにしてしまう。「さくら舞い散る」の「散る」で海彦は座って居ら

れなくなった。マリアのアカペラを黙って聴いている自分に我慢できなくなった。「あ~

ぁ」の今なら「電車」に間に合う。隣の男子からギターを借りてステージに駆け上がった。

 マリアは海彦を待っていた。



 なんなんだ。マリアの歌は。ノンバイヴレーションなのにハートフル。声量もある。リ                                     

ズム感も良い。音程も確か。高音が突き抜けてゆく。唄う姿が美しい。日本語のアクセン

トもシッカリしている。メリハリも効いている。上手いだけでは、みんなを黙らせられな

い。上手いだけではない何かがマリアにある。なんなんだ。唄いたい。唄っているのが嬉

しくて楽しくて。唄っている私は幸せ。それが伝わって来る。マリアは唄いたかったんだ。

仙台で思い切り唄いたかったんだ。自分の悦びをみんなに伝えたかったんだ。みんなを呑

み込んでしまうマリアの歌。キラキラしている。凄い。凄すぎる。

 ホイットニーヒューストンに負けていないぞ。

 海彦はマリアを邪魔しないようコードを刻んだ。それでも音が強く鳴った。刻みながら

うっとりと聴いていた。そしてマリアが遊んでいた公園に咲く「SAKURA」を想った。



 終わった。

部長がステージに上がって拍手を制するとピアノを弾き始めた。

 『YELL』のイントロだった。みんなが立ち上がった。

 海彦はマリアを残して皆の中に入った。



 マリアは「サヨナラは」から一緒に唄っていた。

 海彦は、マリアの眸から、涙がひと筋、流れて、落ちてゆくのを、見つめていた。              


 

帰りのバスでマリアは不機嫌だった。海彦が何を言ってもツッケンドン。

 これは手を付けられない。サンファン館の時と同じだった。

「どうしたんだ。俺たちが何か失礼したのか」

 マリアは海彦を無視。バスの進む先を虚ろに見つめている。

 バス停を三つ過ぎた時にマリアが口を開いた。

「海彦はモテるんだ。わたしはモテたことないから。知らない」

 海彦は答えようのない、こんな時は黙っているのが、最良と彩から学んでいた。

「パーマをかけたソバージュの娘。目がパッチリとして、ホリが深い、オリエンタルな美

人。少し大人びている娘が居た。知っているでしょう」

「あぁ。佐々木薫子だ。彼女がどうした」

「佐々木薫子はわたしに敵意を持っている。みんなが拍手してくれても彼女は拍手するふ

り。ズーッとわたしを睨みつけていた」                                     

「そうだったのか。それは失礼千万だ」

「なに言っているの。海彦。バッカじゃないの。失礼とかの問題ではない。薫子は鋭い眼

線で海彦は私のモノと言っていた。海彦は薫子と付き合っているの…」

「そうだったんだ。俺は付き合っていない。それは薫子のイジワルだ。マリアの美人は日

本には居ない。喋りも素敵で、歌が凄くて、男子全員を虜にしてしまったからなんだ」

「そうなの。付き合っていないの」

「付き合っていない」

「でも海彦は女の子にモテる。きっとモテている。私はモテたことない」

「マリアは男のことを知らない。飛び切りの美人に男子は近寄り難いんだ。俺だってマリ

アがホームステイしていなければ同じさ」

「そうなの。でも何か変。私は美人と言われたことがない。自分で思ったこともない」

「そう思うのはマリアの勝手。俺はマリアを美人だと思っている。マリアは俺にいっぱい

モテている。それだけは分かって欲しいな」

「…」

 マリアは海彦の一撃で元に戻った。バスを降りると夕方だった。小雪が舞い降りてきた。                                                                   

 マリアは空を見仰げ雪を顔で受けた。「これが雪。冷たい」。

 海彦はマリアの左手を握った。マリアが強く握り返してきた。

 それを遠くから彩に見られていた。            


 マリアが帰国する朝がきた。十一時二〇分の成田発でマドッリットに飛び立つ。それに

は七時二〇分発の『はやぶさ』に乗らなければならない。

 曇り空から何時、雪が降り出してもおかしくない朝だった。

 瀧上家の全員が玄関に出て門の前に並んだ。吐く息が白い。

「皆さんに良くして頂き感謝しています。どれほど感謝しても足りません。マリアはこの

一〇日間とても幸せでした。四百年前と変わらないお正月をありがとうございました。今

度は嘉蔵の墓参りに来て下さい。私たち家族は皆さんを待っています」

 マリアも瀧上家の全員も涙目。

 海太郎が「今回はマリアはお客さん。次からはもうお客さんではない。私たちの家族だ。

スペインは遠い。でも一日で行き来できる。何時でも自分の家と思って来て欲しい。今度

はマリアの部屋を造っておく。嘉蔵の墓参りに行きたいなぁ…。行こう。父さん」。                                     

「私が達者なうちに必ず行く。静と一緒に行くとマリアのお父さんに伝えて欲しい」と海

之進。「その時にはマリアの世話になる」と海太郎がマリアの肩に手を添えた。

 静はハンカチを目元に当てて頷くばかり。言葉にならない。

 彩が「マリアは私の妹よ」。

 志乃は「私の振袖を送る。マリアに着付けを教えに行くからね」。

「私は此処でサヨナラします。此処でお別れしないと帰れなくなってしまう」

 マリアは深々と頭を下げてから迎えのタクシーに乗り込んだ。タクシーが交差点を右に

曲がるまで、マリアは振り向き、車中から手を振り続けていた。

 マリアの訴える眼線が海彦に届いた。

「俺。やっぱ見送ってくる」。海彦が走り出した。それは全力疾走だった。

 これでマリアと逢えなくなる。今度、何時逢えるか分からない。これが最後かも知れな

い。本当にこれが最後なのかも知れない。それが過るとスピードが上がった。

 タクシーに追いかなければ…。海彦は交差点を右に曲がった。タクシーが見えない。信

号の青が続いていた。何時もは渋滞気味の道路。日曜日の今朝は車が少ない。けれど見喪

っても向かう先は駅。呼吸が乱れ苦しくなってきた。心臓の音がこめかみを打つ。両手の

先が痺れてきた。酸欠。ストライドが狭くなりピッチも落ちている。

 バッシューは重い。どうして俺はジョギングシューズを履いていないんだ。こんな時は

呼吸を整え、両腕を大きく強く振らなければ…。このままでは追いつくどころか駅まで持

たない。海彦は四〇〇Mから一五〇〇Mの走りに切り替えた。

 タクシーとの距離が掴めない。どんどん離されているようだ。今日に限って何てスムー

スな車の流れなんだ。なのに赤信号に阻まれてしまった。ちくしょう。家から駅までは約

三キロ。今日のタクシーは五分もかからない。この調子だと俺は一五分。

 マリアに別れを告げなければ…。道路と違って駅は混雑していた。『はやぶさ』は一番

ホーム。海彦は二〇〇円をポケットから取り出し入場券を買い階段の人を掻き分けホーム

に出た。マリアの座席が分からない。

 七両編成の『はやぶさ』。一号車から順に探す他ない。発見できなかったら又も間抜け

でアホだ。今生の別れかも知れないのにモタモタしている。何やっているんだ。マリアに

逢えなかったら悔やんでも悔やみきれない。海彦が四号車まで来た時に発車のアナンス。

 マリアの席はホーム側とは限らない。反対も有り得る。それで確認に手間取る。

 五号車まで来た。海彦の額から汗が滴り落ちた。                                     

 マリアが見つけてくれた。窓越しに手を振っている。海彦は走り寄った。

 海彦にはマリアが笑っているのか、涙ぐんでいるのか、分からなかった。

 マリアの顔はグチャグチャだった。初めて見たマリアのグチャグチャ。

 マリアが語りかけている。聞こえない。

 マリアは唇の動きで伝えようとしている。

 マリアは泣いていた。

 海彦は堪えた。『はやぶさ二号』が動き出した。

「海彦。ありがとう。サヨナラは私の約束。Sea you again」





               

       

                 「たまゆら」


              

マリアが帰国してから一〇日が過ぎた。

海彦はひとつだけを待っていた。メールが送られてくるのを待っていた。

 マリアから送られてこないと俺は何もできない。俺はメルアドを知らない。メルアドの

取得はスペインに戻ってから。日本での設定は無理だった。いまマリアに手紙を書いても

意味がない。届くには早くて三日。遅ければ四日。その間にメールが送られてくるかも知

れない。そうなったら俺は間抜けだ。帰国してから既に一〇日。学校が始まってしまった。

始まると朝の八時から夕方の五時過ぎまでパソコンを開けない。

海彦は一本のメールを待ち焦がれた。待ち続けているとやきもきしてきた。こんな気分

は初めてだった。マリアが家に戻ってから三日、ないしは四日で届くと云うのが海彦の予

測。それが外れた。外れると不安に駆られた。

 何があったのだろう。俺の設定に問題があった…。いや、そんなはずはない。しっかり

とマニュアルを読み込んでスペイン仕立てに組み立てた。マリアはパソコンでのメール作

成と送信ができないのかも知れない。メルアドの取得で躓いているのかも。そう云えば機


                                     66    

械が苦手と言っていた。パソコンの扱いが要領を得なく不備を発生させていたなら兄貴に

相談すれば大概は解決する。メルアドや文章の作成、送信は難しくない。こんなところで

苦しむマリアではない。何があったんだろう。もう俺を忘れてしまったのだろうか。マリ

アとの二人の時間は俺にとってかけがいのない大切になった。マリアは違うのかも知れな

い。俺との時間は仙台での想い出のひとコマに過ぎない。過去完了のひとつなのかも…。

 海彦は思いたくない一点に纏わりつかれてしまった。

 認めたくないけれど忘れてしまったのならメールが未だに届かない訳を納得できる。で

もそんなに簡単に忘れられるのだろうか。俺はマリアを忘れない。俺はマリアと濃密な時

間を過ごした。正月を一緒に過ごした。俺は駅まで見送った。

出発間際の『はやぶさ』からマリアは俺に語りかけた。聞こえなかったけれど唇の動き

で俺に伝えた。マリアは涙ぐんでいた。

「海彦。ありがとう。サヨナラは私の約束。Sea you again」

 マリアは忘れてはいない。駅での最後の約束を。

メールが来ないのは何かしらの理由が起きた。そう思うしかない。

海彦は答えのでない堂々巡りを繰り返して終日ボーッとしていた。

 それを彩に見とがめられた。

「海彦。どうしたの。この二、三日、何か変よ。ぼんやりしていて、大飯ぐらいの海彦が

一膳しか食べない。あっ分かった。恋煩い。それもそうとう重症。マリアが居なくなって

脱力。そうよね。手を繋いで歩く女の娘が居なくなったから。分かる。分かる」

 家族揃っての夕食の時だった。

「私の見立ては間違っていなかった」

 志乃が海太郎を見て微笑んだ。

「海彦。スペインに飛んで行きたいんだろう。まあ今は我慢だ」と海太郎。

 彩が「お父さん。海彦をスペインに行かせたらダメ」。

「どうしてだ。手を繋ぐくらい良いじゃないか。私は母さんと何時も手を繋いでいた。ラ

ヴLOVEだった。母さんの手は華奢だったけれど強く握り返してくれていた」

「あら。ずいぶんね。御馳走さま」

「仲が良かったからお前たちが此処に在る」と海太郎。

「お母さん。お父さんのどんな処が良かったの」

「父さんは洒落者ではなかった。どちらかと言うと武骨な海の男。父さんには気迫があっ

た。男伊達だった。他の男には感じなかった気迫に私は魅かれた」

 海彦はたわいのない家族の団欒が遠くに聞こえた。

 彩が意気込み、きっぱりと言った。

「海彦をスペインに行かせたらダメ。帰って来ないかも知れないし、戻って来た時には赤

ちゃんをダッコしているかも知れない」

「だったらそれも良いじゃないか」と海之進が眼を細めた。

「とても飛躍したお話し。そうなるとダッコしている赤ちゃんはひ孫になるね」

 静はその時を想い浮かべている言い方だった。

「婆ちゃんまでそんな呑気なこと言って。私の警告はすっかり無視されてしまった」

 海彦には虚ろに聞こえた。

 俺はみんなにもて弄ばれている。俺はまな板の上の鯉状態。俺はスペインに行きたいと

思っていない。マリアからのメールを待っているいるだけなんだ。

「ごちそうさま」。海彦はようやくその場から逃れた。

 

海彦が立ち去っても彩の演説は続いた。

「海彦は一六代目。私は嫁に行く。その違いを子供の頃から感じていた。それが小っちゃ

い頃から面白くなかった。それで反発した」

「そうか。私の不徳だな。彩。八重と話したことがあるか」と海太郎。

「ない」

 志乃が「今は何を言っても彩は納得しない。いちど八重叔母さんと話してごらん」。

「私は彩が嫁に行ってもズーッと家に居ても婿を取ると言い出したしても、その時はその

時と考えている。彩が望むようにすれば良い。どんな時にも彩を応援するのは私の務めだ。

親がこうあって欲しいと望むと彩の足枷になる。私はそれを望んでいない」と海太郎。

 彩は嗚咽。しゃくり上げながらも頑張る。

「お父さん。どうして早く言ってくれなかったの。私は嫁に行く人生を望まれていると思

っていた。だから時々海彦が羨ましかった。それで逆らったりした」                                     

「悪かったね」と志乃。                                  

 海太郎は沈鬱な表情。

「そんな風に思っていたんだ。私は悲しいけれど彩のせいではない」

「お父さん。お母さん。謝らなくても良いよ。私が勝手に思っていただけなんだから。私

の家と家族は私の自慢。でも私には重たかった。みんな嘉蔵に縛られている」

 志乃が語りかけた。

「マリアが来てくれて彩が言う嘉蔵の呪縛が解かれると私は想っている」

「彩は彩の人生だ。思い切り生きろ。それが私の唯一の望みだ。私もそう生きてきた」

 海太郎が諭すように言った。

 彩から落涙が止まっていた。

「私。LONDONに留学してイイ。学内の留学試験に合格したんだ。あとはカンタベリ

ー大学の審査結果待ち。一年コースで申し込んだ。でも延長もできる」

 彩の表情は一転した。希望に満ちた瞳の輝きを海太郎に向けた。

 静が「留学先に私が遊びに行けるならお父さんを説得する。私も娘時代からLONDO

Nに行きたかった。それで英語を一生懸命に勉強した。でも叶わなかった。日本は貧しか

った。まだ敗戦が残っていた。一ポンドが一〇〇八円の時代だった。行ってみたいだけで

行ける時代でなかった。そうしている間にお爺さんと出会ってしまった。当時は不謹慎と

言われたデキちゃった結婚でお父さんは生まれたのよ」。

「婆ちゃんも爺ちゃんもヤルね」

 海之進が「私も遊びに行けるなら私は父さんを折伏する。彩が英文科に進んだ時には静

の望みは何時か叶うと思っていた。静は進駐軍の通訳で英語を鍛えたんだ」。

「今年は忙しくなるな。スペインにもLONDONにも行かなくては。私は夢を見ている

ようだ。それもこれもマリアが伊達に手紙を書いて始まった」と開太郎。


 部屋に戻ってパソコンを立ち上げるとメールを受信していた。待ちに待ったマリアから

のメール。一〇日目にやっと届いたメール。海彦は開くのが恐くなった。俺にとって嫌な

ことが書かれているのでは…。先ずは仙台における数々への礼。そしてメール送信が遅れ

た詫び。問題はその次だ。それを読むために待っていたのではない。しかし、しかしだ。

開かないと先に進まない。今の俺に必要なのはマリアからのメールを開く勇気だ。例え俺

が読みたくない内容でも読まなければならない。

海彦は「よっしゃ~」と両拳を振り下ろし腹に力を入れて開いた。

—海彦へ。メールが遅れてしまいました。わたしには分かります。海彦がわたしからのメ

ールを待ちわびていたと。わたしはわたしで感謝と揺れ動く気持ちを整理できなかった。

海彦に何を伝えて良いのか。何から伝えて良いのか。これらが分からなくて悶々としてい

ました。こんな気持ちになったのは初めてです。海彦に今度いつ逢えるのか分からない。

幾ら逢いたくても次の逢瀬までの時間が長いのかも知れない。一年。三年。五年…。でも

何時か必ず逢える。必ず逢える。これがわたしの精一杯の気持ちの整理。わたしがやっと

辿り着いたのは駅でサヨナラした時の言葉。覚えていますか。忘れないで下さい。わたし

は海彦から読み聞かせられた『嘉蔵始末記』を思い出して考えていました。蔵之介の不屈

と向き合っていました。それで精一杯の限界を越してしまいました— 

 海彦は外れた予測に感謝した。嬉しくて蘇った。自分を取り戻した。


—俺は待っていた。待ち焦がれていた。だから嬉しくてマリアのメールを読んでからプリ

クラのマリアにチュッした。音信が途絶えると辛いと分かった。離れているから。俺はマ

リアに辛い想いをさせない。待っている間に気づいたことがある。マリアの政治家への途。

マリアは歌手になって有名になって、それを政治家への礎にと考えているのでは…と。ど

う。間違っているかなぁ…—


 今は午前〇時。マリアは前日の昼の四時。返信は明日の朝かなと思ったところにメール

の着信音。海彦は、今度は、何の躊躇いもなく開いた。


—わたしもプリクラの海彦にチュッした。海彦は男らしい。自分を隠さない。自分を押し

殺すのがサムライと思っていた。我慢しないサムライの方がわたしに合っている。我慢は

心に良くない。ストレスが溜まる。我慢されるとわたしも困る。何を考えているか分から

ないもの。政治家への途は海彦が言った通り。でも誰にも言わなかった。呆れられ笑われ

てしまうから。ずっつと胸の奥に仕舞い込んでいた。海彦にも言うつもりはなかった。わ

たし。蔵之介との対話を続けています。イスパニアに向かう蔵之介の夢を…—


…俺って頑固なのかも…

 マリアは蔵之介の夢を考えていた。俺はコリア・デル・リオに残った嘉蔵を何も考えて

こなかった。「分からぬことを詮索するのは無駄じゃ」が俺を支配している。俺の未熟を

見越して爺ちゃんは「無駄じゃ」と言ったのだ。自分を見喪うほど「謎」に憑りつかれて

しまうのを諌めたのだ。「無駄じゃ」は爺ちゃんの体験からなのだ。

 俺はマリアに嘉蔵を何ひとつ尋ねていない。ロドリゲス家にも代々伝えられた嘉蔵が在

るはずなのに何ひとつ知ろうとしなかった。マリアは不思議にも不満を俺に向けて来なか

った。ただ「ガッカリ」としか言わなかった。それに気づかなかった俺は頑迷だ。

 俺はイスパニアで生きた嘉蔵をまったく知らない。これからはマリアに尋ねる。今まで

マリアに一度も聞かなかったのは自分のことで一杯いっぱい。マリアの嘉蔵への尊敬に気

持ちが向かなかった。俺は俺のことで凝り固まってしまっていた。そんな俺をマリアは批

判しなかった。マリアからのメールが遅れたのは俺が嘉蔵に冷たく向き合っていたからだ。                                                                                            

 自業自得だ。猛省するなら間に合う。マリアの気持ちに沿って考えたなら間に合う。や

っぱりそうか。マリアは何の術もなく政治家になりたいと考えていたのではなかった。

 元旦のあの時に言っていた。「マリアの政治家の途を考えています」。

 俺がマリアに感じていた得体の知れない何かの続きはこれだったんだ。

 海彦は武者ぶるい。こうなったら進む路はひとつしかない。

 俺も責任重大だ。これは勝負なんだ。

 海彦には、責任重大が、心地よく響いた。身体の奥底から力が漲って来た。

 心が踊った。ついでに身体も踊った。

「よっしゃ~」


—バンドを組まないか。二人で。マリアの歌は必ず有名になる。曲は二人で創ろう。歌詞

が大切だ。俺が創ったのをマリアが直す。マリアが書いたのを俺が考える。歌詞が決まる

とメロディは付いて来てくれる。パソコンに音を送る。離れていてもバンドはできる。発

表する機会は必ず来る。それまで何曲か創ってユニットとしての力を蓄えよう。どう…—

 マリアからの返信は五分もかからなかった。

—やる。どんな曲を創るのか。わたしのイメージを次のメールに書く。まとめるのに少し

時間が要る。明日中には送れると思う。頑張る。待っていて海彦…♡…—

 マリアも俺とのユニットを意識していたんだ。

 マリアは『SAKURA』の時に俺をステージで待っていた。それは錯覚ではなかった。

 マリアが曲創りのイメージを伝えてくるなら俺も伝えなければダメだ。

「今を歌っていない」

「もっとパンチの効いた曲を創れないの」

「歌詞が抽象的だからグッと来ない」

「これが海彦のもの想いなんだね。可愛い」

海彦は辛辣な評価を思い起こした。これが俺の現実。救いはマリアの「可愛い」だけだ。

自分のことを書いたらダメだ。自分のことを書いていたから、だだのもの想いになって

いた。だから抽象的と言われる。俺のもの想いは聴く者に面白くないんだ。興味も湧かな                                 

いんだ。面白くもなく興味も湧かない曲は唄いたくならない。パンチも効かない。                                   

 他人を創り出さなくてはダメなんだ。創り出す他人とは男か女か。何歳か。何処に住ん

でいるのか。日本人かスペイン人か。目の前の課題は何なんだ。俺と同世代ならば先ずは

受験だ。その先には長い人生が待ち構えている。そいつはどんな仕事に就こうとするのか。

どんな人生を拓いてゆくのか。どんな女の娘に恋するのか。その恋の結末は…。そいつの

夢とか目標は何だ。そんな先のことよりも受験がある。失敗するかも知れない。不安だか

ら勉強する。勉強しても、しても、失敗するかも知れない。俺たちは不安が積み重なると

焦る。そうしている間に恋に落ちたりする。不安と焦りを抱えながらの恋。                                   

 他人をどのように創り出すのかが問題だ。創り出せなければ、そいつに、俺の情感を投

影できない。設定が大事だ。設定できなければ他人をそこに置けない。                                     

 海彦は此処まで考えると、小説とはこう云う風に創られているのでは、と思い始めた。

 そうだ。小説を書くやり方で曲を創るのが良いのでは…。

 海彦はこの方法以外に、これから彼是と考えても、浮かんでこないと思えた。

 とにかくやってみよう。

 小説を書くには主人公が要る。曲もそうだ。俺たちは悩み、不安を増大させ、焦りに苛

立つ。それでもけっこう楽しく生きている。恋が上手くゆくとは限らない。恋も失敗する

かも知れない。だからと云って恋心を抑えられない。

 俺は俺たちの背中を押して一歩を踏み出す勇気をテーマにしたい。失敗しても良いじゃ

ないか。失敗は経験。失敗しても前を向いて進んでゆくなら何時か取り返せる。石橋を叩

いても渡ろうとしない安全な奴より失敗を繰り返してもメゲない奴が俺は好きだ。

 俺とマリアは、失敗を恐れては、進んでゆけないんだ。「コピーライトの才能がある」

とマリアは俺を褒めてくれた。それを信じて短編小説のスケッチを書いてみよう。主人公

が勇気をもって成長してゆく姿が大切だ。やるからにはメジャーデビュー。デビューする

だけではダメなんだ。売れないと意味がない。売れないとマリアが有名にならない。


 学校から帰るとメールが届いていた。

—わたしは女の娘が曲に入り込んでしまう歌を唄いたい。女の娘が入り込むと男の子に広                                    

がる。女の娘は自分の青春の持ち時間が短いと知っている。男の子よりも遥かに短いと知

っている。その短い時間の中で自分の今と未来を決めなければならないともがく。もがき

ら不安や焦りが生まれてしまう。わたしは何者なの。何をやりたいの。わたしは何ができ

るの。きっと何とかなる。何もできないかも知れない。こんな想いを女の娘はみんな持っ

ている。もがきながら恋に落ちる。もの想いはとても大切。自分が自分であるための道標

だから。でもその中に沈み込まない歌。どうにもならない自分の今を超えたい。パンドラ

の箱を開けられるのは特別な人だけではない。みんな開けられる。開けるには勇気が必要。

勇気は恋によってももたらされる。その勇気を育む曲をわたしは唄いたい—


 海彦は意気込みをメールに打ち込んで送った。

—曲のコンセプトが決まったと思う。勇気。マリアも女の眼で勇気を中心に据えていた。                                   

今の混沌を大切にして成長してゆくひとつひとつを曲に書く。勇気をもって大人になって

ゆく。失敗もある。恋をして大人になってゆく。忘れてはいけない大切を胸に刻み込んで

大人になる。問題は具体的な言葉だ。それには主人公が佇む具体的な情景が必要だ。俺は

短編小説をスケッチしてから曲を書く。先ずは創らなければ始まらない—


 直ぐにマリアから返信が届いた。

—海彦の詩の作り方は分かった。わたしはまだ想いだけが先行して創り方まで決められな

い。色々と試してみる。きっとわたしなりの創り方が見つかる。わたしはキーワードをベ

ースに考えると思う。けっこう沢山ある。「もの想い」「短い持ち時間」「失敗」「不安

」「焦り」「もがき」「迷い」「恋」「混沌」「私は何者」「何をやりたいの」「何がで

きるの」「どうにもできない今の私」「今を超えていく私」「忘れてはいけない大切」。

追及するほどに言葉は増えてゆく。ひとつひとつの言葉に自分を置いてみる—


 マリアのやり方も分かる。ひとつの鍵になる言葉からイメージを膨らませてゆく。この

方法は具体的な言葉を生み出し、練り上げるのに適しているかも知れない。きっとマリア

はこのやり方で詩を書く。どんな詩が送られてくるのか楽しみだ。俺とマリアは男と女。

それぞれが別の方法で詩を書く。その方が良いに決まっている。テーマは『勇気』。

 それにしてもマリアの日本語の上達は凄過ぎる。仙台に来てから日々凄さを増した。マ

リアがスペイン人だと時々忘れてしまう。これもマリアの底知れぬ秘めたる力のひとつだ。                                     

マリアも詩を書こうとしている。だったらやまと言葉を知ってもらわなければ足りない。

平仮名のひとつひとつ、ひと文字ひと文字に意味を持っているやまと言葉はマリアの日本

語力を深め、高め、強める。やまと言葉を知ったマリアの日本語は俺を超えてゆくかも知

れない。俺は日本人。超えられたくないから日本語を鍛える。鍛えてマリアに伝える。

「よっしゃ~」


—マリアへ。今朝『やまと言葉辞典』を送った。少し『やまと言葉』を説明するね。漢字

に音読みと訓読みのふたつが在るのをマリアは知っている。その訓読みが『やまと言葉』。

漢字が中国から入ってくる前に日本人が話していた言葉が『やまと言葉』なんだ。漢字が

入ってくると同時に読み方も入ってきた。それは中国語。日本人には外国語。漢字を初め

て眼にした日本人に「林」を(りん)と発音しても日本人には何のことやらさっぱり分か

からない。意味が伝わらない。「林」を(はやし)と『やまと言葉』で説明されると直ぐ

に理解できた。発音では意味が分からない漢字(音読み)を説明するのが訓読みだった。

ひとつひとつの漢字を訓読みで理解すると日本人は漢字の便利さに気づいた。漢字とは表

意文字。文字を読み取るだけで発声しなくとも意味が伝わる。そして漢字は多様な熟語を

兼ね備えていた。二文字・三文字・四文字の熟語は多くの話し言葉を必要としない。例え

ば苦悩・不機嫌・喜怒哀楽。それらは人の心を表現するのに適していた。日本人は『やま

と言葉』を漢字にアテはめ同時に音読みも残した。ひと言で云うならイイトコ取り。先人

のイイトコ取りのお陰で『やまと言葉』の響きの奥ゆかしさと美しさ、漢字の音読みの便

利さを併せ持った今の日本語が成立したんだ。先人の発明によって豊かな言葉を日本人は

獲得した。それとね。平仮名のひと文字ひと文字に意味を持っているのが『やまと言葉』。

それを別便でメールするね。長くなるので。きっとマリアは平仮名に驚くと思う—                              


 四日後にマリアから辞典が届いたとのメール。                                   

—ありがとう。さっそく『たまゆら』を調べました。秋保温泉に泊まった時『たまゆらの

湯』が在りました。平仮名で『たまゆら』と書かれていました。漢字は何処を探しても記

されていませんでした。この時に私は平仮名にも意味があるのかも知れないと思い始めま

した。日本語の意味は漢字で示されている。そう思っていたからです。彩に聞いても分か

らなかった。とても不思議に思いました。日本人が使う平仮名の意味が分からないとは…。

どうしてなんだろう。海彦なら知っている。教えてくれる。何時か質問しようと。それが                                     

辞典で解決しました。『たまゆら』とは玉と玉がぶつかり合って鳴る微かな音。ついでで                                     

すが『湯』とはお風呂の意味と知りました。私は庭の石ころで試してみました。手の中で

はこすれる音。これは違う。石を糸で結んでぶつけてみた。音が出た。耳を澄まさなけれ

ば聴き取れない微かな音。そんな音まで日本人は言葉にした。感心するやら、驚くやら。

お年玉を思い出しました。玉とは『古代では最も高い身分の人』と海彦が言いました。調

べました。中国の皇帝が座る椅子を玉座。日本では位の高い人が玉を身につけている。こ

の玉とはただの石ではない。翡翠を削り、磨き上げ、穴を開け、糸を通した尊い飾り。ペ

ンダントとかブレスレット。尊い飾り石が触れ合う音が『たまゆら』。何と優雅な音なの

でしょう。辞典で『たまゆら』の漢字も知りました。『玉響』。玉は「たま」でOK。響

は「ひびく・おと」です。訓読みで「ゆら」とは読まないのです。私は不可解の絶頂。悩

みました。ひょっとして日本人は「ゆら」に響をアテたのではないでしょうか。「ゆら」

は微かに鳴る音。響に微かに鳴る音との意味はありませんでした。それでも他にアテる漢

字が見つからなかった。それで玉のおととした。逆に『やまと言葉』を説明するの

に漢字を用いたのではないか。そう思いました。海彦。間違っていますか…。わたしは玉

たまおとより、『たまゆら』が好きです。海彦からの辞典でますます平仮名の意味

を知りたくなりました。よろしくお願いします。再びありがとう—


これがマリアなんだ。納得するまで追及するのがマリアなんだ。男伊達の時もそうだっ

た。マリアは見逃してしまうような僅かな違いを見逃さない。喰いついてくる。調べる。

分かった、これだ、と思うまで探究を止めない。本当に俺もうかうかしていられない。日

本語を勉強してまだ六年足らずのマリアに教えられた。『たまゆら』の意味は知っていた。

けれど玉響とは知らなかった。『やまと言葉辞典』で『たまゆら』を確認していなかった。                               

 海彦はアマゾンで再購入した辞典を開き「玉響」を読んだ。

 マリアが書いた通りの記述。ここまでは何も問題はない。俺の守備範囲だ。単に玉響(

たまゆら)を知らなかっただけだ。マリアは「平仮名を説明するのに漢字をアテた」と推

測した。それを俺に確かめている。今は直ぐに間違いがない、正しいと返答ができない。

 玉響だと玉の響きとしか伝わらない。単なる玉の音でしかない。これでは奥ゆかしさが

消えてしまう。玉とは翡翠を意味するから、翡翠と翡翠がぶつかって、発する微かな音と

理解してもらいたいとの願いが玉響に込められているように思える。『ゆら』を表わす漢

字が無いのは、耳を澄まして聴く、微かな音を聴くとの文化が中国人にないからだ。                                     

 日本人は『たまゆら』を支持している。『玉響』は支持されていない。支持されている

のなら俺もこの熟語を知っていた筈だ。日本人は『玉響』から優美を感得しない。それが

日本人の感性。『玉響』はビリヤードの球がぶつかる音だ。翡翠と翡翠の微かな音とは別

もの。『玉響』を(ギョクキョウ)(ギョクおと)(たまおと)(たまひびき)と読むと

語呂が悪すぎる。言葉の美しさが壊滅。やはりマリアの推測が正しい。『やまと言葉』を

説明するのに漢字をアテたのだ。アテる必要が生じたのは帰化人への説明。


—『たまゆら』とは身分が高い、例えば天皇とか大臣とかの人の動きにつれ、身につけた

翡翠がゆらゆらと重なり触れ合る音。『たまゆら』の『ゆら』は『たま』がゆらゆら揺れ

る情景。そして『たま』が触れ合う微かな音を表わした。『ゆら』が言葉の奥ゆかしさ、

優美を表わしていると俺は思っている。漢字が入って来た時に平仮名を持っていなかった

日本人は随分と苦労した。暫くの間、漢字を発音記号のように平仮名にアテた。今の日本

人はその文を読めない。俺も同じ。その苦労が平仮名を生み出した。俺は『ゆら』に『響

』をアテたとは今の今まで考えもしなかった。日本語の歴史を知らなかったも同然。マリ

アに日本語を教えられた。恥ずかしい。それとね。コリア・デル・リオに暮らした嘉蔵を

俺は知らない。ひとつもマリアに尋ねていない。これも恥ずかしい—                                      

 海彦は「あ」から「ん」までの五十一文字の平仮名から「た」「ま」「ゆ」「ら」を除

いて意味を書いた。最後に『たまゆら』を添えた。

—『た』…高くあらわれ、多く満ち広がる。

 『ま』…真理。時間。空間

 『ゆ』…ゆっくりとした動き。

 『ら』…活動。活発

平仮名のひとつひとつの意味から『たまゆら』を直訳できない。無理に直訳してはいけ

ない。想像力を駆使して、この四文字の結合から、古の日本人は同じ情景を想った。『玉

響』にはないイメージを共有した。それが『やまと言葉』。日本人は言葉から発せられる

韻の美しさ、奥ゆかしさを大切にしてきた。それが『たまゆら』にも込められている—

                                    

 一週間後にマリアから返信が届いた。海彦はこの七日の間、マリアは辞典を調べるので

はなく読んでいると思った。「あ」から順に読んでいる。マリアならそうする。何をして                             

いるのか分かればメールが届かなくても不安にならない。焦りもしない。


—海彦へ。メールを何度も読み返しました。ありがとう。私は日本語の入口に立ちました。

私は変わりました。今までの日本語の勉強は日本に行くための準備。これからは日本語で

詩を書こうと思いました。今まではスペイン語で書いてから日本語に訳そうと考えていま

した。辞典を通読すると知らない言葉ばかり。それでも俄然、やる気がでたのは平仮名の

意味を知ってからです。平仮名は五十一文字五十一音。ヤ行の「イ」と「エ」が除かれる

ので四十九文字と四十九音。その組み合わせが『やまと言葉』。この数に私は救われまし

た。辞典に出ている単語の数だと途方に暮れていたのです。四十九だと何とかなりそう。

元を質せば四十九。分からない単語の平仮名をひとつひとつ解析してゆくなら意味が分か

る。海彦が書いてくれたように想像力を駆使して。それでもハッキリしない時には辞典が

在る。海彦が居る。そう思うと気持ちが軽くなりました—


 やはりマリアは辞典を読んでいた。きっと蛍光ペンを使って読んだに違いない。気にな

る単語、気に入った単語に蛍光ペンで印をつけノートに書き止めている。海彦は自分の推

測に満足した。適中した自分に酔っていた。追伸メールを予測していなかった。

—わたしには心配がひとつある。佐々木薫子に注意して。彼女は性悪女の眼をしている。

同じクラスに佐々木薫子と似た眼をしている女の娘が居る。名前はイザベル。彼女は人の

ものを獲るのが好きみたい。クラスの娘が付き合っていた他の高校の男子を誘惑して獲っ

てしまった。獲るのが目的だったから獲った後はその男子をポイと捨ててしまった。海彦。

油断したらダメ。佐々木薫子は突然現れて来てにじり寄ってくる。それを繰り返す—


 カトリックの女子高校は敬虔が校風。日本ではそうだ。スペインは違うのかも。イザベ

ルの乱れ方は日本の女子高校生と変わらない。佐々木薫子が、俺を誘惑して、自分のもの

にして、それから俺をポイ捨てする。海彦にはどうにも現実的には思えなかった。

 佐々木薫子には付き合っている奴が居る。一学年上の陸上部の男。これは周知の事実。

先ずはそれを伝えなくては…。それを知ればマリアは安心できる。

—マリアへ。佐々木薫子には付き合っている男が居る。だからマリアは心配しないで欲し

い。イザベルのことは分からないけれど佐々木薫子はイザベルではないから— 

 十五分後にメールが返ってきた。                                     

—海彦は甘い。女の娘を知らなさ過ぎる。普通の女の娘なら付き合っている男子が居たら

他の男子を誘惑しない。性悪女は稀にしか居ない。稀な性悪女は付き合っている男子が居                             

ても関係ない。自分の望みを遂げるまで追及する。その結果、付き合っている男子と別れ

ても構わないと考える。そこが恐ろしい処。わたしの学校ではイザベルがチャンピオンだ

けれど似たような女子が二、三人居る。みんな大人びていて男子の眼を惹く美人揃い。み

んな自分の女に自信を持っている。佐々木薫子は恐ろしい女。警戒を怠らないように—


 女の娘とは男と別の部類に入る生きものなのかも知れない。そのチャンピオンが佐々木

薫子。そうマリアが言っている。男子は付き合っている女の娘が居たら他の女子を誘惑し                                   

たりはしない。それをマリアは甘いと言い切った。これはかなりヤバイのかも。佐々木薫

子は同じ一七歳なのに大人の色香を漂わせている。スタイル良し。顔良しの美人。それで                                                                      

迫られたら男子はみんなイチコロ。俺もマリアが居なかったらイチコロに殺られる。                                  

海彦が決めた方針は、佐々木薫子の半径一〇M以内に入らない、近づかないだった。そ

うしている間に三学期が終わり春休みに入る。休みの間は曲創り。曲創りを部長に伝える

なら部活も休める。佐々木薫子と対面しなくとも済む。

 俺は佐々木薫子への警戒よりも曲を創らなければならない。それでも警戒を怠ってはい

けない。警戒を続けていると自分のペースが狂ってしまう。どうにも曲に集中できない。

 海彦は何時も周囲の様子を窺っていた。佐々木薫子が居るのか、居ないのかを注視して

いた。こそこそ逃げ回っている臆病者状態だった。

 海彦は方針通り部活を休んだ。佐々木薫子は隣のクラス。授業で顔を合わせない。気を

つけているのは登下校と昼休み。マリアの言う通りならこの時間帯が最も危険。

 海彦はイジメに合い、怯えているような自分が情けなかった。

 ようやく三学期が終わった。これで佐々木薫子から解放されると、肩の力が抜け、家に

向かった。これで曲に集中できる。門の左側の通用口の戸を開けようとした時に「お帰り

」。女の声がした。振り返ると佐々木薫子が立っていた。

「部活に出て来ないし身体の具合が悪いのかと心配になって来てしまった。迷惑…」

「俺は元気だ。部長に少しのあいだ休むと言ってある。ここで待っていたの…」

「うん。待たないと新学期が始まるまで海彦に逢えないから」

 海彦はマリアの予言の『突然』を思い起こした。『突然』の後は『にじり寄る』も。ど

のようににじり寄ってくるのか。好奇心も。

「ねえ。お茶しない。一時間も立っていたから冷えちゃった」

「だったら俺の部屋に来いよ。友達に風邪ひかす訳にはゆかない」

「家に上がるのは止す。だって恥ずかしいもの。私が帰った後に海彦は『あの娘は一時間

も門の前で待っていた』と家族に言うから」

「そんなことは言わない。でも分かった。『長町』にでも行こうか」

「うん」                                     

 佐々木薫子は寒そうに肩をすぼめ、手袋に息を吹きかけていた。                                  

 海彦には佐々木薫子がいじらしく映った。                                 

 俺は約束もしていない女の娘を一時間も待てない。外は寒い。風が強い。

 佐々木薫子が両手でココアを抱え微笑んだ。

「ワタシ。三学期が始まった時に海彦に告白しようと思っていたんだ」

 佐々木薫子は海彦の表情を読み取ろうと上眼つかい。                                    

「えっ。ナニ。それ」

 海彦はココアで舌を火傷した。熱かった。慌てて水を含んだ。ジンジンする舌先の痛み

で『にじり寄り』を一瞬忘れた。                               

 佐々木薫子は海彦の動揺を面白そうに見つめている。

「陸上部とは別れた。冬休みに入ってから直ぐに」

「どうして。似合いのカップルと俺もみんなも思っていた」

「彼は受験。大学の陸上部から推薦を得られなかった。それでガックリしちゃってさ。陸

上をやめると言い出したんだ。なんかつまんなくなった」

「そうなんだ。男はこうやって捨てられるんだ」

 海彦は皮肉を込めた。

「弱虫は嫌いなの。頭の中がハムストリングな彼が陸上やめたら気持ち悪い」

「気持ち悪いのか。そう言うもんなんだ」

「海彦はマリアと付き合っているの…」

「付き合っている。でもマリアが仙台に住んでいて仲良くしているのとは違う。遠距離に

しても遠すぎる。家族ぐるみでもあるんだ。それで少し複雑」

「海彦はマリアを好きなの…」

「好きだよ。逢いたくても逢えないから複雑。逢いたいと思わないようにしてる」

 佐々木薫子は海彦とマリアの関係に探りを入れ、想い描いていた通りの情況に、切り出

すのは今とばかりに言った。それも自然に、さりげなく、想いが伝わるように言った。

「それは辛いね。ワタシには逢いたい時に逢えるよ。これがワタシの告白」                                    

 海彦は上眼つかいの女には注意しろとの鉄則を知らなかった。無理もない。

「ワタシのこと嫌い」

「嫌いじゃない。今は曲を創りたいんだ。集中したいんだ」

「ワタシ。打ち込んでいる人が好き。秋の学校祭で海彦は篳篥とロックのコラボをやった。

あの時にグッときてしまった。それから好きになった」

「上手くゆくか心配だったけれどバンドと和楽器の相性が良さが分かった」

 佐々木薫子は頓珍漢な海彦の応えを無視した。攻め処を知ってた。

「マリアとやったの」

 海彦は狼狽した。落ち着きを喪った。何と答えて良いのか、何も浮かばない。

 佐々木薫子は上眼つかいのまま。                                 

「やってないのね。ワタシとやっていいのよ。今日は驚かせてゴメンね。待っている」                                 

 佐々木薫子はココアの代金をテーブルに置いて立ち上った。テーブルには携帯の番号が

書かれたメモが置かれていた。海彦は顔を上げ、佐々木薫子の後姿を追った。店から出よ

うとした佐々木薫子が振り返った。眼線が合った。

 佐々木薫子の怪しい眼線を浴びた海彦は固まってしまった。

「ワタシ。待っている」と佐々木薫子は呟いた。海彦にはその呟きが聞こえた。                                 

 佐々木薫子の姿が見えなくなると海彦はメモを携帯に登録した。

海彦は動揺を隠しきれないまま帰りの道を歩いた。歩みは蛇行。

 これが佐々木薫子の本性なんだ。マリアが居なかったら、マリアの警告がなかったら、

俺は明日にでも連絡してしまう。本当にイチコロの俺。しかしマリアが居なかったら佐々

木薫子は俺を待ったりしない。告白もしない。「ワタシとやっていいのよ」とも言わない。

俺はモテた訳ではないんだ。他人のものを欲しがる彼女の標的になっただけなんだ。                                     

 恐ろしい。だいたい「ワタシとやっていいのよ」と誘惑するJKが存在するなんて夢に

すら登場しない。きっとイザベルも佐々木薫子のような女の娘なんだ。

 部屋に戻っても海彦の興奮は鎮まらない。曲創りへの集中は何処かに飛んで行った。繰

り返し湧き上がってくるのが「ワタシとやっていいのよ。待っている」。これを振り払え

ずにベットに転がったり、部屋の中をうろついていた。

 もし俺が佐々木薫子とやってしまったらどうなるんだろう。そう想った瞬間に俺はただ

の助平男かとの疑念が湧いた。いやいや、やるとは言っていない。やった先の想定だ。

 佐々木薫子は俺を意のままに篭絡した先を考えているに違いない。俺が最も恐れるのは                                     

マリアに知れること。ならば何らかの方法でマリアの居所を調べている。日西友好協会の

事務局にマリアに手紙を書きたいと申し出ると住所を教えてくれる。きっとそうだ。既に

マリアに手紙を書く準備を整えている。何て女なんだ。

 迂闊だろうが、でき心だろうが、助平心だろうが、やったら必ずマリアが知る。知った

らマリアは俺を軽蔑する。今までのように仲良くできなくなる。バンドもできなくなる。

そればかりか絶縁もある。それを見届けた佐々木薫子は俺を捨てる。俺の前から姿を消す。

 ここは俺の絶体絶命のピンチ。

 佐々木薫子から「やってもいいのよ」と言われたら男なら誰もがやりたくなる。それは

間違いない。俺もやってみたいと思う。それを彼女は知っている。自分の最大の武器と知

っているから言葉に出して誘惑する。これはポイ捨てに向けた、かどわかしだ。

 俺はまだ女とやっていない。何時か、何処かで、誰かと、自然に結ばれると想っている。

 佐々木薫子とは自然ではない。自然でないのは彼女の動機が不純だからだ。

 俺は佐々木薫子の欲望の餌食にはならない。

 海彦は佐々木薫子の携帯番号登録を削除した。設定を登録者以外非通知に変えた。

 

 一週間後。海彦にショートメールが届いた。

 「イクジナシ 薫子」。




               「翡翠のイヤリング」


 

 ―ゆらゆらと落ちてくる雪を 顔で受け止め 

 「これが雪。冷たい」とはしゃいだ君は 僕の手を握り 明朝の別れを惜しんでいた

  サヨナラは私の約束 Sea you again

手袋越しの柔らかな温もりは 僕に勇気を与えてくれた

  格好つけたって 強がったって 惨めになるだけ                                 

  いろんな自分が居る そのひとつひとつが今の僕


春が来くると 今はそれぞれの路


  天空の彼方に君が居る 同じ月を見ている 同じ星を見ている  

失敗してもかまわない

サヨナラは私の約束 Sea you again

  逃げ出すのは嫌なんだ

  僕は走る 夢を追いかける

  息が上がっても走る 苦しくなって両手が痺れ 冷たくなっても走る

遠い向こうの風を確かめるまで

サヨナラは私の約束 Sea you again―

                                   

マリアが「〇」と言うのだろうか。「〇」でなければ価値がない。失敗があっても次に

繋がるなら少しは意味がある。それが「△」。「×」なら顔を洗っての出直し。

 海彦はマリアの評価を考え、想った。

 マリアは「女の娘が入り込んでしまう歌を唄いたい」と言った。この詩は男の詩だ。き

っとマリアは「〇」の札を挙げない。

 短編小説をスケッチした。その時に俺を主人公に据えてしまった。これが大きな間違い。

俺を描いては駄目だと『遠くへ連れてって』で教訓化したつもりでも自分のモノになって

いなかった。同じ失敗を繰り返してしまった。『走り』過ぎだ。こんなに『走って』は女

の娘は入り込んでくれない。女の娘を主人公に据えたらどうなるだろう…。 

 次の日にマリアからメールが送られてきた。

—『サヨナラは私の約束。Sea you again』が詩になっていた。とても嬉しい。海彦がど

んなメロディをつけるのか、今から楽しみ。『失敗してもかまわない』『逃げ出すのは嫌

なんだ』『僕は走る』『夢を追いかける』は『勇気』が導き出した言葉。わたしは勇気の

下でも揺れ動く心を唄いたい—

 やはり「〇」ではなかった。女の娘が入り込むとは揺れる心なんだ。何度、読み返して

も心が揺れ動いていない。『手袋越しの柔らかな温もり』から与えられた『勇気』が一直

線に展開している。これは俺の単純な心理。自分のことを書いてはいけない。主人公に自                                     

分の情感を投影できればそれで充分。そう言い聞かせても、自分を書いてはいけないと決

めても自分が克ってしまっている。短編小説のスケッチは何だったんだ。俺はアホだ。

 勇気をもらっても心が揺れるのが女の娘。『逃げ出すのは嫌なんだ』からが大切なんだ。

『俺は走る』から『遠い向こうの風を確かめるまで』を切り取った。切り取った後に入れ

るフレーズを考え続けていた。どうにも上手くゆかない。上手くゆかないなら始めから書

き直すのが遠回りのようでも近道。そう想った。しかし全部を切り取るのは勿体ない。残

すフレーズを探した。切り取った以外はすべて残したくなった。結局は振り出し。こうな

ったら「勇気」を削除して考えてみる他ない。「勇気」を使わないで「勇気」を背景にし

た物語を創ってみよう。「勇気」を使ったから一直線の流れになってしまったのだ。


 外出から戻るとマリアからメールが届いていた。


—おととい。「私はヨスケの子孫」と言う方に会いました。彼女の名前はマルガリ—タ。

三五歳くらいの人です。隣町に住んでいます。わたしは与助の墓参りを伝えました。マル

ガリ—タは感激の面持ち。「ヨスケはヨシゾウとは別の共同墓地に埋葬されている」と彼

女は言います。与一さんから遡ること一五代。蔵で海彦が教えてくれなかったらマルガリ

—タに与助を伝えられなかった。「マリア。ありがとう。与一さんに手紙を書く。でもス

ペイン語でしか書けない。どうしよう」と彼女。「大丈夫。わたしが日本語に翻訳します

」。それで与一さんの住所を教えて下さい。お願いします—

 海彦は直ぐに与一さんの住所をマリアに送った。送ってから与一さんに電話した。

 マルガリータを伝えると「やった」と言って大興奮。それから直ぐに「困った」と言っ

た。「日本語でしかマリアに手紙を書けない。それではマリアに面倒をかけてしまう。そ

れで良いのだろうか」。「大丈夫。マリアは相当の処まで日本語を読めるし書ける」。

—与一さんの住所をマルガリ—タに知らせました。ありがとう。きのうハポンの会に呼ば

れました。仙台の報告会でした。わたしは仙台に行く時、家族に他には言わないでとお願

いしました。街の人に知れると大騒ぎになります。毎日が送別会。知らないハポンの方々

も家に訪ねてくる。餞別を持って。餞別を頂くとお土産をドッサリ買わなくてはならない。

別便で送るほどのお土産を。それを避けたかった。それでひっそりと旅立ちました。実は

妹が学校で友達に「お姉ちゃんが日本に行った。ヨシゾウの墓参りに行った」と言ってし

まった。それを先生が知った。それからが大騒ぎ。嬉しいけれど大変—

                             

—マリアがひっそりと旅立ったと云うのは分かる。仙台でも似たようなものだ。友好協会

では『Welcome Party』以外にも企画を立てていた。市民との交流とか、市

長への表敬訪問。仙台の美味しいもの巡り。それを伊達さんが「止めよう」と言った。「

今回は瀧上家でゆっくりと仙台の正月を体験させたい。それががマリアの望みだと思う。

これからもハポンの人達との交流は続くのだから」。伊達さんは立派だ—


—そうだったんだ。友好協会の行事が着いた日だけだったのが不思議だったんだ。わたし

を招いたのに海彦の家に任せっきり。それでわたしは仙台のお正月を楽しめたんだ。ハポ

ンの会では三〇人ほどが集まっていて質問攻め。みんなの関心事は「ヨシゾウの子孫はど

うしているのか。伊達政宗はどんなサムライなのか。大震災から立ち直ったのか」の三つ

でした。ひとつひとつを丁寧に答えられたと思います。これも海彦のお陰。一人の老人が

立ち上がって「マリアの御礼にヨシゾウの十六代目を招待しよう」と提案。すると「呼ぼ

う」「十六代目に会ってみたい」「ヨシゾウの子孫の名は海彦と言うのか。良い名だ。ど

んなサムライなんだろう」。会は一気に盛り上がりました。この調子だと近いうちに海彦

は招待されます。楽しみ。こんなに早く海彦と逢えるなんて—


 海彦はマリアが帰国してから何時スペインに行けるのだろうか、行くのかをボンヤリと

考え始めていた。必ず行くと決めていても具体的な予定にはならない。どんなに少なく見

積もっても往復の旅費だけで一〇万円以上。滞在費を含めると二〇万円を用意しなければ

ならない。マリアにパソコンを贈ったので子供貯金は一〇万円に足りない。

 親父や母さんに頼むのは気が引ける。二人とも行きたいのに我慢している。それなのに

俺だけ我儘できない。ハポンの会は絶好のチャンス。もし近日中に決まったとしたら夏休

みに行ける。海彦はマリアからのメールをプリントして志乃に見せた。

「思いがけないことが度々起こるね。思いがけないけれど海彦。良かったね。マリアも海

彦に逢いたがっている。これも良かった。海彦の片想いでなくて」

 海彦はマリアの誕生日プレゼントを買った。小さな翡翠ふたつのイヤリングひとつ。高

かったけれど迷いはなかった。その買い物を志乃に告げなかった。一万円を越える買い物

を告げなかったのは初めてだった。恥ずかしくて言えなかった。

 海彦はネットで翡翠を扱っている店を探した。仙台には無かった。東京には在った。銀                                     

座のデパートだった。大きさとか色とか造りを自分の眼で確かめたかった。東京まで行け

ない。そのデパートにはネット通販が在った。クーリングオフを確かめてから注文した。

三日でイヤリングが届いた。

海彦は耳たぶに付けた。歩くたびに、動くたびに、耳元からふたつの翡翠が重なる微か

な声が聴こえた。『たまゆら』はイヤリングからの声なんだ。ブレスレットやペンダント

では声が届かない。これでマリアは俺も聴いた『たまゆら』の声を聴ける。


 海太郎は『ゆうぎり』に乗っていた。一度海に出ると三週間は戻らない。長引くと一ケ

月以上も。今回は津軽海峡を横断して日本海に出ての巡視。密漁船及び不審船の監視。

 海太郎は「今回は長引かないと思うが日本海は油断できない。海彦は直に三年生になる。

早いものだ。あっと云う間に高三だ。戻ってきたら進路を相談したい。どうだ…」。 

「分かった」                                  

学校でも進路指導が待ち構えている。

 俺は進学すると決めているけれど将来、何を目標にして進学するのか、何ひとつ決まっ

ていない。親父は「ゆっくり考えれば良い」と言うに違いない。しかしそれに甘えていて

良いのだろうか。親父は俺に海に出て欲しいと思っている。蔵之介から瀧上家の男は海に

出ている。おかに上がったとしても海の仕事に就いている。

 進路を相談するにしても何を相談するのか。

…俺はどうしたら良いのだろう…と打ち明けるのは余りにも情けない。情けないを通り越

してただのお馬鹿。親父にも母さんにも失礼だ。

 海彦は今の今まで自分の進路を将来を何ひとつ考えてこなかった。考える時が、何かを

決めなければならぬ時が、とうとう来てしまった。

…俺はただ漫然と毎日を過ごして来たのではない…

 そう想いつつも具体的な目標を見据えていないと気づかされた。

 海に出るのは嫌いではない。船に乗るのも好きだ。船には航海に不必要なものはひとつ

もない。その合理性と機能性に眼を奪われた。カップラーメンは禁止。ゴミを増やさない

措置。幼い頃から海之進と海太郎に連れられて度々船に乗り見学した。子供の時は鉄の塊

が海に浮かぶのが不思議だった。甲板から降りて船内の奥に入るほどに機械油の臭いが漂

う。それが生き物の証しのように子供心にも思えた。

…船は生きている…                                    

 船に乗るとしたら父さんの東京海洋大学か爺ちゃんの神戸大学を受験するのが早道だ。                                    

 海彦には陸でのサラリーマンのイメージがなかった。お勤め人の家風が瀧上家になかっ

た。それでも船に乗るとの決断までには遠かった。

…今は船の時代ではない。空の時代だ…

 これが過る。かと云って空の仕事は想定外。

…やはり核心を外して考えるのは止そう…

 マリアの核心は政治家。そこへ向かう唄い人。

 進路を決めなければならぬ時に核心に眼を背けていては何時までも堂々巡り。何も決め

られない。俺は音楽をやりたい。先ずはマリアとのユニットに夢中になりたい。出来るか、

出来ないかよりも音楽の路に進みたい。これを主張しなければ一歩も前に進めない。今ま

で主張しなかったのは自信がなかったから。マリアとの出逢いは俺を変えてしまった。

 マリアの誕生日が近い。四月十五日。俺よりも五ケ月早く一八歳になる。それまで何と

かしなくては。親父に「音楽をやりたい」と言ったら頭ごなしに反対されない。それが親

父だ。でも何も言わない筈がない。

「どんな歌を創っているのか、唄っているのか、聴かせて欲しい」と言われる。その時に

「今、創っているところ」では親父は失望する。

 あと三日で親父は戻って来る。それから一〇日は休暇。その時までに一曲書き上げなけ                                      

ればダメだ。プレッシャーを受けても書き上げられなければ話しにならない。

 学校の進路指導は適当で構わない。親父にはお茶を濁せない。真剣勝負になる。

 勇気とは決める強さ。無理やり決めるのは勇気ではない。これは蛮勇。蛮勇とは無茶。

『手袋越しに伝わるぬくもり』から勇気をもらったとしても決められない。路を決めたと

しても誰にも言えない、言わない逡巡が湧き出してしまう。自信が無いから…。

 海彦はこれが揺れる心なんだと気づかされた。

 音楽をやると決めても、やってゆくには他の誰かに認められなければならない。他の誰

かとはメジャーの音楽事務所やレコード会社のプロデューサー。他にはライヴハウスのオ

ーナー。その前にマリアの歌が多くの誰かに共感され、共に唄ってもらえなくては。

 それが叶うのか。叶わないかも知れない。これも心の揺れ動き。

 俺はこうと決めたら一直線。迷わない。失敗を恐れない。心が揺れないタイプ。しかし

親父に音楽をやりたいと告げる。それを決めるまでは迷いに迷った。

 心の揺れ方は人によって違う。心が揺れない人は居ない。みんな迷う。それを表現すれ

                                     

ば詩になる。マリアに唄ってもらえる。俺にとっての勇気とは、自信がなくとも、揺れる

心を抱えながら、迷う心を見つめながら、音楽の路を突き進む志。

 その時が来た。家族が揃った。彩までが力んで座っている。海太郎が口を開いた。

「母さんからマリアのメールを見せてもらった。何とも目出度い。スペイン行きは別とし

て進路を決めなければならぬ時期だ。海彦の考えを聞かせて欲しい」

「俺は音楽をやりたい。音楽の路に進みたい」

「…。衝撃的だな。マリアの政治家に勝るとも劣らないほどの衝撃だ。海彦のことだから

我々の想像を超えた何かを言うと思っていた。それは当たった。音楽の路かぁ…。お前は

音大に進むとは考えていないんだろう」

「マリアとバンドを組む。マリアの歌は半端ではないんだ。マリアの歌を聴いてから、迷

いながらも、音楽の路が拓けたんだ。曲は俺が書く。マリアが唄いたくなる曲を創る」

 海彦は部室で唄ったマリアの『SAKURA』を伝えた。実際に聴いていない家族には

上手く伝わらない。けれども言わずにはいられなかった。

「私。分かる。マリアは歌が好き。日本で流行っている曲を聴かせてと言われてCDを何

曲か聴いてもらった。これが好きと言った曲は二回目で覚えて唄う。それがCDの歌手よ

り良かった。びっくり。鼻歌でも凄かった」

「それは楽しみじゃ」と海之進が身を乗り出した。

 静が「マリアは豊栄の時に和楽器に興味を示した。直ぐに自然の音を理解した。外国人

は和楽器の特性をなかなか理解できない。あの娘には音を楽しむ歌心がある」。

「私もそう思います。豊栄は和楽器の音色に自分を同化させないと手足を動かすだけの振

りになってしまう。それと振りの動作のひとつひとつの意味と謡を理解しないと舞えない。

マリアは三回も稽古すると文句の付け処が無くなった」と志乃。

「マリアは飛び切りの美人。スタイルも抜群。それを鼻にかけて気取ってもいない。私は

神さまはこんなにも不公平なんだと思った。文句のひとつも言いたくなった。マリアの歌

は必ず認められると思う。問題は海彦の曲。私はそれだけが心配。マリアの才能を我が弟

が潰してしまったら妹に申し開きができない」。彩は不安気に海彦を見つめた。

「海彦はどんな曲を創っているんだ」と海之進が身を乗り出したまま言った。

「分かった。これから唄う。タイトルは『Sea you again』。ギターを取って来る」


 …ゆらゆらと落ちてくる雪を                                     

  顔で受け止め「これが雪。冷たい」ってはしゃいだ君は

明朝あすの別れを惜しんでいた   

 『はやぶさ二号』の窓越しに「あなたに逢えて本当に良かった」

  繰り返した君は 息で曇るガラスに 震える指で 「サヨナラ」を書いた


  サヨナラは私の約束 Sea you again


動き出した列車を追いかけ 手を振るあなたは 

私の故郷ふるさとまで 明日あしたを超えて走り続けるのだろう

  何時か 必ず あなたに 逢えると想っていても 涙が止まらないのは

のどかな海辺の陽だまりに もう少し肩寄せていたかったから

  

  サヨナラは私の約束 Sea you again


天空の彼方に君が居る 同じ月を見ている 同じ星を見ている 同じ夢を見ている

君は翡翠のイヤリング たまゆらを聴いている 僕の声を聴いている

春になるとそれぞれの路

公園の 桜の木洩れ日は 優しいはずなのに

風に吹かれて 切なく 儚く 迷いばかりを映し出す

  

  サヨナラは私の約束 Sea you again


ゆらゆらと落ちてくる雪を

顔で受け止め 「これが雪。冷たい」ってはしゃいだ君は

未来あしたの空を見つめていた… 


 みんなが拍手した。彩も拍手。海彦の曲への初めての拍手だった。

「海彦。やるじゃない。今までの曲とは全然違う。これならマリアに『これ好き』と言っ

てもらえるかも。マリアが唄ったらみんな聴き惚れてしまう」

 志乃が「少年少女の揺れる心の歌だね。私は自分の少女時代を想い出してしまった」。                                    

「海彦は唄わないのか」と海之進。

「俺の歌は何処にでもある、まあまあ、の水準。マリアが唄ったらこの曲が輝く」

「サヨナラは私の約束。Sea you again」

 静が唄った。

「少し待って。カラオケのパートをパソコンで送ってマリアに歌を入れてもらうから。も

う楽譜は送った。マリアも『この曲を唄いたい』と言ってくれたんだ。父さん。マリアは

『女の娘が入ってしまう曲を唄いたい。女の娘に響くと男の子に伝わる』と言った。俺も

そう想った。でも俺は男。ここが難しかった」

「彩。どうやってデビューするの」と志乃。

「いきなりのメジャーデビューは無理。でも方法は沢山ある。テープを音楽事務所に送っ

たりライヴハウスのオーデションを受ける。テレビの歌コンに応募したり。私のお薦めは

路上ライヴ。私。マネージャーをやろうかな。売り込みが当面の私の活動。そうすれば二

人は音楽活動に集中できる。自分達だけで売り込むのは結構しんどい。私はマネージャー

に向いていると思う。打たれ強いし敏腕だし」

 海之進が「何時も何事にも批判的な彩がこう前向きに積極的に応援するのは初めてだ」。

 海彦にとっても彩の反応は意外だった。

 静が夢見るように天井に眼線を移して言った。

「テレビをつけたら海彦とマリアが出ている。楽しみだね。長生きするもんだね。そうな

ったら私は番組表をチェックして全部を録画する」

「婆ちゃんたら気が早いんだから」と彩が笑った。

「そうなるまでが大変。海彦には傑作を創ってもらってしまって置く。機を見て発表する。

まだ売れていない時こそマネージャーの手腕が重要。私は売り込み大作戦。本格的に私が

動けるのはカンタベリーから戻ってからになるけれど。HPを立ち上げないと。これは何

処に居てもできる。今日からHP作成の準備開始。ブログとツイッターも同時に。こうし

ている間にもイメージがどんどん膨らんでくる。HPからは音を出す」

 沈黙していた海太郎が言った。

「海彦のやりたいことは分かった。彩が応援するなんて。私の気持ちを動かしてしまった。

私も応援する。若い時にやろうと思ったことが出来ないと心が歪む。私の言いたいことは

ふたつ。大学へ行って歴史を勉強しろ。ふたつ目は墓を守れ」 

 海彦には「墓を守れ」が厳粛に聞こえた。

                                      

 海太郎に大きく頷いた。

                 

—家族の進路相談で俺は音楽の路に進みたいと言った。『Sea You Again』を唄った。

反対されると思った。でも親父は認めてくれた。これで後戻りできなくなった。前に進む

だけ。いよいよこれからが真剣勝負になる。メジャーデビューできたとしても売れるかど

うかは分からない。自信があるとはとても言えない。初めから自信がある奴など居ない。

だからと云って…やるしかない…では物足りない。今はそれをを考えている—

 翌日。マリアから返信。

—海彦。良かった。海太郎お父さんの応援は力になる。家族はわたしが歌の路に進みたい

と薄々感じている。妹が「お姉ちゃんは歌手になるんでしょう」と時々言う。わたしは「

なれたら良いね」と応えている。海彦。気楽にやりましょう。今から人生を賭けて歌の路

をまっしぐらに進むと考えたら苦しくなる。歌を楽しみましょう。わたし。楽しくないと

続かない。今日から三年間頑張りましょう。三年経ったら振り返りましょう。その時には

曲も増えている。今よりも未来がはっきりと見えているはず—




                 「橘南」



 新学期が始まった。海彦は高三の春を迎えた。

桜が咲いた。今年も青葉山公園の桜の蕾が開いた。カルロス・デ・メサ公園の桜より一

ケ月以上も遅い。マリアから「今年も桜が咲いた。桜が咲き、花びらが舞い降りて落ちて

ゆく様子を見つめていると日本人が花鳥風月を愛でているのが分かる」とメールが届いて

いた。「花鳥風月」と「愛でる」を何処で知ったのだろう。国語のトレーニングを放棄し

ている日本人なら一生使わない言葉。「愛でる」は辞典からだ。 

 授業が終わり久しぶりに部室に入ると海彦は佐々木薫子を探した。居なかった。肩の力                                     

が抜けた。俺は「イクジナシ」でも構わない。これからも「イクジナシ」で通す。そう力

んでいたのが抜けた。これでありのままの、普段通りの自分で居られる。

 隣のクラスの宮澤洋子が近寄って来た。表情がこわばっていた。

「海彦。薫子に何したの」                                                          

「えっ。何もしていないよ。ナニ…」                                

「嘘。薫子は春休中ズーッとふさぎ込んで見ていられなかった。わたしは小学校から一緒。                               

心配になって訳を聞いた」

 宮澤洋子は腰に両手を当てて海彦の前に仁王立ち。

「ホントだよ。俺は何もしていない」

「嘘ばっか。コクったけれど速攻で振られたと言っていた」

「俺は何もしていないから振ってもいない」

「分かった。薫子が傷ついた訳が分かった。コクった後に返事が無いのが一番残酷。海彦

ってそんな人間だったんだ。ケイベツ」

 宮澤洋子は嫌なものを見たと一瞥。海彦から離れた。

 海彦は女子から攻撃を受けたことが無かった。唖然とするばかり。

 佐々木薫子は自分が告白したら、誘惑したら、男は意のままになると確信している。だ

から傷ついた。ただそれだけ。身勝手も極まりない。肝心な誘惑を隠して友人に俺を軽蔑

させる。薫子の陰湿で、しつこい、執念めいた復讐。若年にして既に妖怪。 

 妖怪の行動原理とは己の欲望欲求の実現がすべて。海彦はそれを嫌と云うほど学習させ

られてしまった。少し休んでいる間に部室は居心地の良い処では無くなった。

「イクジナシ」で「ケイベツ」されてしまった俺は部室に出て来るべきではない。それが

良い。だいいち気分が悪くなる。海彦はリュックを背負い、ギターケースを持って部室を

出た。逃げ出すようでこれも不愉快。 

海彦が玄関のロッカーを開けた時だった。

「海彦。もう帰るの…」

 振り向くと弓道着姿の橘南だった。ポニーテール。弓道部の女子は、みんな、同じ髪型。

「話しできる…。時間ある…」

「構わないよ。どうしたの…」

「良かった。少し待っていてくれる。着替えてくる」

 海彦は橘南の突然の出現に戸惑った。また嫌なことを言われるのだろうか。そんなこと                                     

は無い。俺に声をかけた橘南は何処か嬉しそうだった。嬉しそうに俺に嫌なことを言い、

打ちのめそうとするなら南は悪魔だ。俺の知る限りでは南は悪魔では無い。小五では同じ

クラス。津波から逃れた屋上で俺は南と手を繋ぎ同じ毛布にくるまっていた。俺は繋いだ

手を放すと恐くて立っていられなかった。それは橘南も同じだった。

 橘南は両親と祖母を喪った。一人娘の南は母の実家に身を寄せることになった。

「南は引っ越すことになった。これからは会津若松の学校に通う。南の環境が変わる。知

らない土地での生活は何かと大変だ。みんなで南を応援しよう。手紙を書こう」

 これが担任の送別だった。女子の大半が泣いていた。

「ワタシは明日から会津若松で生きてゆきます。家族を喪ったのはワタシだけじゃない。

亡くなった多くの方々にも家族が在った。ワタシは敗けません。ここでくじけてしまった

ら母と父が悲しみます。また仙台に戻ってきた時には仲良くして下さい」

 海彦には橘南のお別れの挨拶が記憶に残っていた。

 俺は手紙を書かなかった。クラスの男子も女子も手紙を書いたのに俺は書かなかった。

書かなかった理由は覚えていない。中学に進むとみんな橘南へ手紙を書かなくなった。そ

れから五年。南は仙台に戻って来た。俺と同じ高校に通うようになった。

 そして今、俺は橘南から声をかけられた。

 海彦は玄関と校門を行ったり来たり。

「待たせてごめん」

 橘南は髪を後ろになびかせ走り寄って来た。

 長袖の白いブラウスに濃紺の毛糸のベスト。胸元には赤と白のⅤライン。ミディアムミ

ニのフレアスカートも濃紺。色を合わせたタイツと白いソックス。靴は黒のローファー。

制服が指定されていない高校女子の定番の出で立ち。似合っていた。弓道着姿とまったく

趣が違う爽やかな橘南。髪は同じだった。よく見ると髪を束ねるゴムバンが白から赤に。

 橘南は小五の時とは別人だった。南は引っ込み思案の泣き虫だった。それが変わった。

弓道着が似合う凛々しさ。それは瞳に現れていた。強い意志が瞳の奥に潜んでいる。

 俺の両親が津波に殺られてしまったら俺はこうして立っていられるのだろうか…。

 俺たちは先生の指示で屋上から三階の教室に移った。風が無くて温かかった。それでも

誰も毛布を離さない。自家発電が止まっていた。燃料切れ。男子と女子は別々に固まって

身を寄せていた。俺は毛布を橘南に渡した。南は…大丈夫‼…と眼で訴えた。

「俺は大丈夫だ」

                                     

 夕方になって俺には母さんが迎えに来た。クラスの一人一人の身内の者が迎えに来た。

みんな長靴がドロドロだった。顔も服も泥まみれだった。

 橘南には迎える者が一人も現れなかった。俺が帰った後の橘南はどうしていたのだろう。

俺が知っているのは、学校が再開した、その日の橘南のお別れの挨拶。

「海彦。薫子を振ったんだって…。クラスの女子はみんな知っている。洋子が一人の女子

に言った。その娘はお喋りであっと云う間に広がった。みんな退屈しているから、誰彼が

ふっついた、別れた話しに飛び付く。洋子の計算通り。それで海彦はケイベツされている。

でもそう想わない女子も居るんだ。それがワタシ」

「…」

「ワタシ。薫子が嫌いなんだ。自己チューの見本。口を開けば周囲の女子の悪口ばっか。

髪型がダサイとか男子の気を惹こうとする流し目がイヤラシイとか。私も被害に遭った」

「被害って…」

「両親を喪った同情を頼りにしている。哀れっぽさを売りにして両親の保険金で誰にも煩

わされずのうのうと一人暮らしを楽しんでいる。これ以上言わない。恥ずかしいし悲しく

なるから。これはお喋りな女子からの伝聞」

 海彦はバス停に向かって橘南と並んで歩いた。 

「ワタシ。小学校の屋上で海彦と手を繋いで一枚の毛布にくるまっていた。覚えている」

「忘れたくても忘れられない」

「家の方角は黒い引き波。瓦礫の山。家は引き波の中だった。恐ろしくて海彦の腕にしが

みついた。海彦はワタシの手を強く握り返してくれた。毛布が風に煽られて飛ばされそう

になった時、海彦は毛布とワタシを支えてくれた。海彦も震えていた。でも優しかった。

寒かったけれど温かかった。そんな海彦をワタシはケイベツできない。でけれど海彦は手

紙をくれなかった。どうしてなんだろうと何時も想っていた。どうして…」

 橘南は車道側を歩いている。

 海彦はギターケースを右手に持ち換え車道側に位置を変えた。

「ハッキリした理由は無いんだ。みんな手紙を書いたのに俺は書かなかった。覚えている                                   

のは南を応援する文章が思い浮かばなかった。みんな同じような文章を綴っている。それ

で南が元気になるのなら書く意味がある。でも南は俺たちの手紙で元気にはならない。会

津若松で暮らす南は俺たちからの手紙で津波を追体験するだけだと考えてしまった」

「そうなんだ。ワタシ。馬鹿みたい。海彦からの手紙だけを待っていた。海彦からの手紙                                    

はワタシに元気と勇気をもたらしてくれると思っていた。でも来なかった。海彦はもうワ

タシを忘れてしまったんだ。それが悲しかった」

 そうだったんだ。俺からの手紙を待っていたのにハッキリした理由も無く書かなかった

んだ。ガキの頃から馬鹿で間抜けな俺。南は哀しみを心の奥に溜め込んでいる。俺たちの

手紙では無く俺の手紙を待っていたんだ。南は知らない土地での新しい環境を俺に知らせ

たかった。俺と文通したかったんだ。文通ならば一方通行にならない。応援できる。当時

の俺は女子との文通は想定外だった。

「海彦がどの高校を受験するのか気になった。海彦に手紙を書いて教えてもらおうと考え

たんだ。でも勇気が無かった。それで恐らくこの高校と決めたんだ。だってさ仙台で大学

進学を決めている男子と女子は一高か二高を受験する。海彦は二高を受けると思った。同

じ青葉区で家から近い。それと一高は理系。海彦は小五の時から文系だった。どっちも偏

差値が高い。けれど海彦は受験に失敗しない。ワタシの推理が外れたら縁が無かったと諦

めようと…。ワタシ。婆ちゃん爺ちゃんを説得して仙台に来た。外れなくて良かった」

 俺の不作為が橘南の進路を決めてしまった。違う。文通していても南は必ず仙台の今の

高校に来る。結果は同じだ。南の推理の正確さ。それに基づいて祖父母を説得して仙台行

きと受験先を決めた南の決断力。外れたら縁が無かったと諦める心の強さに驚嘆。小五の

俺を分析して文系と断定した南の分析力。そして合格。恐ろしいほど凄い。

「よく説得できたね」

「かなり強引に我儘を通した」

「我儘を通すって…」

「良くしてくれているのが辛いって。これって立派な我儘でしょう。本当に辛かったのが

仙台と会津若松の違い。馴染めなかったんだ。言葉も文化も違う。歴史が違うから互いの

相違はしょうがない。ワタシからは海彦が居る仙台が離れられなかった」

「なさぬことはならぬ。什の掟かぁ」

「海彦。鋭い。さすが文系。ワタシは、為さねば成らぬ何ごとも、の方が合っている。会

津若松の人たちは今でも、なさぬことはならぬ、で凝り固まっている。小学校では毎朝の                              

ようにクラス全員で什の掟を唱和するんだ。目上の人と意見が対立した時の決め言葉がな

さぬことはならぬ。これで一件落着する。初めのうちは訳が分からなくポカ~ン。会津若

松では封建時代が今も続いている。これが会津若松人のIdentity。嫌だった」

「仙台も似ている処が在る。最も偉いのが政宗。他は許されない。この価値基準は絶対だ。                                    

仙台版なさぬことはならぬ。他所の土地から移り住んだ人には未来永劫、馴染まない」

「そうかもね。海彦とこうして話しているのは夢みたい。ワタシ。会津若松での暮らしは

思い出したくない。婆ちゃん爺ちゃんから叱られたことないんだ。叔母さんや伯父さんも

従妹たちも優しかった。それが苦しかった。普通にしてくれないんだ。何時も南は可哀そ

うが感じ取れてしまう。ゴメン。こんなことを話したのは海彦が初めて」

「全然嫌な話しじゃない。南がどのようにして会津若松で過ごしていたのか分かった」

「ワタシ。時々でいいから海彦とお喋りして、笑ったり、怒ったり、口惜しがったり、一

緒にご飯を食べたり、たまには涙を流したいんだ」

「それって付き合うってことだよね」

「そうかも知れない。でもさ。付き合うって相思相愛で親密って感じ。ワタシ。海彦とは

友達以上恋人未満が望みなの。だって海彦と相思相愛になってしまったら甘えてしまって

自分を保てなくなる。自分が自分で無くなるのが恐い」

「南。俺を良く言ってくれるのは嬉しい。でも買い被り過ぎ」

「そんなことない。これからワタシの部屋に来ない。お茶しよう。紅茶は得意なんだ」

 海彦は「ワタシの部屋に来ない」にドキッ。

「俺。女子の部屋に入ったことない」

「ワタシの部屋には誰も入ったことない。部屋を借りた時に爺ちゃんが保証人で付いて来

てくれた。その時が初めてで最後。海彦は小五の頃と変わっていない。力強いシャイ」

 海彦には橘南の誘いを断る理由が無かった。

「ワタシの部屋に来ない」に海彦の鼓動が早まった。

「部屋は明神横丁二丁目。通学はチャリか歩き。学校まで歩くと一五分」


 二人はバス停を通り過ぎた。

 宮澤洋子が二人の後ろ姿を見つめていた。そして隠れるように後をつけた。


橘南の部屋は七階建て鉄筋コンクリートの五階に在った。オートロック。震災後に建て                           

られたのが一目で分かる耐震設計。外壁に補強の柱がクロスしていた。

 南が「暗証番号が可笑しいんだ。(#)ゴクローサン(呼)」。

 海彦はエレベーターに乗った。

「部屋を決めたのは爺ちゃん。二と五階が空いていた。五階なら津波に殺られない」

                                      

部屋は綺麗に片付けられていた。今日俺が来たのは偶然。俺を予定して片付け、掃除し

たのとは訳が違う。俺の部屋と云えばグチャグチャ。母さんの掃除をアテにしている。

 一LDKの部屋は海彦のイメージと違った。キャラクターとか縫いぐるみとか花柄の調

度品が無い。通されたリヴィングは七畳ほどのフローリング。見る限り男の部屋か女の部

屋かが分からない。白い長方形の座卓の上にテレビ。その並びの棚にCDプレーヤーとチ

ューナーとアンプ。棚にはCDが小さな木製のブックエンドに納められていた。『Bos

e』のスピーカーが本棚の五段目に組み込まれている。Zライトが取り付けられた白い折

りたたみ机にはパソコン。その両側にも同じ机。合わせると三つ。机が広い。真似しよう。

机は『ニトリ』。机の左には二段と三段の収納プラスチックが重ねられ、その上にはプリ

ンターとスキャナー。固定されていない。これは危ない。震度四で倒れる。本棚もそうだ。

天井までの本棚。八枚の横板。ガスストーブが本棚の中央に据えられていた。これは素人

細工では無い。大工さんに頼んだのだろう。肘掛けが付いた五本足の回転椅子。折りたた

みの正方形の白い座卓が本棚に立てかけられていた。南はこの上で食事しているのだろう。

リヴィングと台所は別々。壁とドアで遮断されていた。これでリヴィングの独立が保たれ

ていた。台所には冷蔵庫が置かれ、スタンド式の掃除機が立てかけられていた。ガスレン

ジの上の天井には大きな排気口が。タイルの壁には大小の手鍋やフライパン。中華鍋が掛

けられていた。磨かれている。使い勝手が良さそう。整理整頓が上手だ。工夫している。

 独りで暮らすとは工夫しなければいけないんだ。でも洗濯機が見当たらなかった。

 海彦は南の暮らしぶりを垣間見た。

 健気に暮らしている在り様が海彦の鼓動を鎮めた。

 壁には弓道の賞状が二枚飾られていた。市の大会で一位。県大会では二位。何れも新人

戦。その時の写真が無い。写真が一枚も無い部屋だった。そして海彦の座る処が無かった。

「南。何処に座ったらイイ…」

「あっ。回転椅子に座って」

「でもこの椅子は南が座るんだろう」                                     

「そうだけどイイの。椅子はひとつしかないんだ。ワタシの場所は何とかする」

 海彦は言われるまま回転椅子に腰を下ろした。

 南は台所でエプロン。「殺風景な部屋でしょう」。

「縫いぐるみとかキャラクターが沢山あると思っていた」

「昔はそうだった。この部屋で暮らすようになってから必要なくなった。ワタシ。過去を                                    

捨てたんだ。捨てられなかったのは海彦だけ。オレンジペコを入れている。クッキーが在

るんだ。昨日焼いた。美味しいよ。一緒に食べてくれる」 

 海彦は「捨てられなかったのは海彦だけ」に二回目のドキッ。

 南はマリアを知らないのだろうか。そんなはずはない。

 橘南はオレンジペコとクッキーを閉じているパソコンの前に置いた。そして折りたたみ

の座卓を開き、その上に腰かけ、自分の紅茶とクッキーを横に置いた。

「何時か、海彦とこんな話しができるチャンスが巡って来ると想っていた。勇気を出して

海彦に想いを告げる時が必ず来るって。でもチャンスは訪れなかった。海彦は女子に人気

なんだ。楽器が上手いし、羽生結弦に似ていて背丈も同じくらい。優しさはワタシの折り

紙付き。ワタシ。海彦が誰とも付き合わないよう願掛けしてた。願掛けは大成功。薫子を

振った。それで海彦の評判が一気に下がった。今がチャンスと思ったの」

 海彦には急落した評判の一部始終が読み取れた。

 宮澤洋子なら「残酷」と言い「軽蔑」をふれまわる。

「ワタシ。入学してから海彦だけを見つめてきたんだ。小五の時はワタシと同じ位の身長。

それが随分と伸びた。今では二〇センチ以上も違う。おまけに髪も伸びた」

 海彦は三回目のドキッ。

「馴れ馴れしく話しかけると迷惑かも知れない。だから見つめるしかできなかった。スト

ーカーにならなかったのは理性。それとチャンスは必ず来ると信じていたから」

 南は嬉しそうに今までの想いを俺に伝えている。

 嫌な話しでなかったことに救われた。

 救われても、海彦は、南の想いに、どう応えて良いのか、分からなかった。

「紅茶のお代わりは…」

「うん。いらない」

「口に合わなかった」                                   

「美味しかった。南のよどみなく流れるような話しにボ~ッとしているだけ。俺は南にモ

テている。それに驚いてしまった。未熟者の俺がモテる筈ないと思っていたから。何か変

な感じなんだ。マダマダの俺は今を上手く説明できない」

「突然過ぎたかも。でもどんな時でもワタシの話しは突然になってしまう。時間が空き過

ぎている。七年もの時間が経ってしまった」

「俺。手紙を書いて南と文通すれば良かったんだ。そうしたら南に辛い想いをさせなかっ                                     

た。小五の時は思いつかなかった」

「海彦。女の娘を全然分かっていない。何時も想っていられる男子が居るのは楽しい。ケ

ッコウ幸せなんだ。今ごろ何しているのだろうとか、何を考えているんだろう…」

「そんなものなんだ」

「そんなものです。本当に海彦は女の娘と付き合ったことがないんだね」

 南は海彦をマジマジと見つめクスッと笑った。

「ワタシの話しは後少しで終わる。最後まで聞いてくれる」

「うん」

「三月十一日が近づいてくると辛くなる。誰かにすがりたくなるんだ。そんなことを毎年

繰り返している。これがワタシの定めと思っていても悟れない。時どき現実を受け入れら

れなくなる。寂しくなる。それが三月十一日。これで終わり。今日は七年分をいっぺんに

喋った。海彦。聞いてくれてありがとう。お願いはひとつ。重くならないで…」

「うん。分かった。重くならないよう、俺、考える。今日は橘南を考える」

「海彦。また遊びに来てくれる。今度はご飯を作る。ワタシ。料理も得意なんだ。婆ちゃ

んの手伝いで覚えた。仙台に来てからは独りのご飯だから二人で食べてみたい」

「それも考える。南。マリアを知っている…?…」

「もちろん。三学期が始まった時に男子は大騒ぎしていた。軽音楽部の男子からスマホで

撮ったマリアの写真を見せられた。飛び切りの美人。大騒ぎするのは当然かなって」

「そっか。マリアは唄と喋りで軽音楽部の男子を虜にしてしまったからなんだ」

「海彦にとってマリアは親戚のような人でしょう。親戚よりも身近かも知れない。海彦が

マリアに魅かれても魅かれなくても切っても切れない関係。ワタシとは切ろうと思えば直

ぐにでも切れる他人の関係。海彦がワタシと仲良くしてくれても仲良くしてくれなくても

マリアとの関係は続く。だからワタシ。遠くて近いマリアを気にしていないんだ」

 友達以上恋人未満。海彦はこれが分からなかった。友達と恋人の間とはどんな関係なん

だろう。今日の今から橘南と友達になれる。これは難しくない。そこに恋人未満が組み込

まれると漠然としてしまう。恋人ならハッキリして分かり易い。未満とは何だ。マリアが

来てから恐ろしい女が次々と現れる。先ずマリアがそうだ。そして佐々木薫子と橘南。マ

リアが恐ろしい女を道連れにして来たのだろうか。俺と違って三人ともボヤ~としていな

い。三人とも何かしらを見据えている。

 同情以外の感情は今の俺には無い。二人の時間を積み重ねたら同情以外の感情が芽生え                                     

るかも知れない。そうなったら恋心。俺にはマリアが居る。今の気持ちを率直に南に告げ

る他ない。曖昧にしていたら南に失礼だ。間抜けな俺を再現してはいけない。

「ワタシ。海彦の同情でも構わない。海彦の同情なら受け入れられる。同情は長く続かな

いから。三月十一日は小五の時の過去。更新されない。今日ワタシは海彦と一緒の時間を

持てた。これからは未来。これからを続けられるなら海彦の裡でワタシの記憶は更新され

る。同情はどんどん小さくなる。それがワタシの望みなんだ」

 先に言われてしまった。

…橘南は俺の同情を見越していたんだ。俺からの同情が消えない限り自分は恋人にはなれ

ないと知っているんだ。だから恋人未満なんだ。男と女がいきなり恋人同士にはなれない。

なるには、そうならしめるプロセスが必要だ。南はそれに賭けると言っているんだ。それ

と南は俺とマリアは恋人同士にはならない。なれないと見抜いているんだ。遠くて近い、

切ろうとしても切れない関係。俺とマリアは恋人同士になれないのだろうか…

 海彦はここで思考停止に陥った。いま先を考えても何も見えてこない。

…俺にはやるべきことがひとつある…

「南は重くならないでと言った。でも重い。それを言わない方が男らしいのかも知れない。

でも隠せない。気づいたことがあるんだ。南の部屋の地震対策。プリンターとスキャナー

が置かれている処と本棚の地震対策。此処は五階。揺れが大きくなる。今日は道具を持っ

ていない。準備して明日にも施す。そうしないと危険。心配だ」

「海彦。ありがとう。お願いします。良かった。コクって」

 橘南は晴れやかだった。海彦には南の晴れやかが眩しかった。


 翌日。海彦は昼休みに橘南の携帯にメール。

—きょう授業が終わったら材料を『ビバホーム』で買って南の部屋に行こうと思っている

けれど、どう…。工具はリュックに入っているんだ—

—ワタシ。部屋で待っています。きのう海彦は「今日は橘南を考える」と言った。ワタシ

の何を考えたのか。興味ありです—

 海彦は苦労せずに橘南の部屋の耐震施工を終えた。

 作業している間、南は海彦の段取りと工程を見つめていた。

「やり方は分かった。次からは独りで出来る。ありがとう。お礼にご飯と思ったけれど今

はまだフライング。機会を待ちます」                                    

「南を考えたんだけれど全然まとまらなかった」

「そっかぁ~。そうだよね。いきなりコクられて、その返事だものね」

 橘南は神妙な面持ちで言った。

 海彦は橘南と居る時間が心地良かった。三たびのドキッが在っても、それは俺への想い

だった。南は俺に悪しき刺激を投げかけてこない。

「わたし。帰る」とは間違っても言わない。

「帰らないと約束できない。海彦次第」とも言わない。

 緊張しなくても済む。身構えなくても良い。幼馴染みだからかも知れない。

 俺とマリアではマリアが主導権を握っている。

 橘南とでは俺が主導権を握っている。この違いは大きい。気が楽だ。ビクつかない。 

 

 一週間後には二人が付き合っていると同学年の女子全員が知った。 


 マリアからメールが届いた。 

—こともあろうに佐々木薫子から手紙が昨日届いた。わたしが彼女を知らない前提で書か

れていた。頭が悪い。海彦は佐々木薫子のにじり寄りに屈しなかったんだ。頑張ったんだ。

それが面白くなくて口惜しくて橘南と云う女子をわたしに告げた。わたしと海彦の関係を

壊すのが目的。要するに海彦へのリベンジ。これから彼女から手紙が来ても無視。封を開

かずにゴミ箱行き。それはそれとして橘南ってどんな娘。海彦はつき合っているの…。わ

たしが思った通り海彦はやっぱりモテている。少しヤキモチ—

 まったく油断ができない。俺と橘南が並んで歩いているところを宮澤洋子か佐々木薫子、

そうでなければ別のお喋りな女子が見かけて騒いだんだ。佐々木薫子はマリアが言った通

り頭が悪い。根性がねじ曲がっているから頭が悪くなる。佐々木薫子が、俺ににじり寄っ   

た時に、彼是と考えたひとつ、マリアへの手紙は正しかった。俺が籠絡された時の手紙は

予測できる。誇らしげに、高らかに、自分と俺との関係を、これでもかとマリアに主張す

る。マリアが呆れ果てて、俺との絶縁を決めるまで、これでもかは続く。

 佐々木薫子の手紙は大した問題ではない。笑止と云う他ない。

 マリアは橘南を知った。

「付き合っているの…」と尋ねられた。

 返事を送らなければならない。それも直ぐに。嘘はつけない。                                   

 在りのままを伝えて分かってもらえるのだろうか。友達以上恋人未満を分かってもらう

のは無理。俺自身が分かっていない。南と俺はつき合っているのだろうか…。「つき合う

とは親密な相思相愛の関係」と南が言った。俺と南は親密であっても相思相愛ではない。

ひと言で云えば仲良し。幼馴染みの仲良し。それだけで言い表わせられるのだろうか。南

は俺への気持ちを伝えてきた。今のところ俺には南への恋愛感情はない。同情が大半を占

めている。しかしこれからは分からない。南は凛々しい。逆境が凛々しさを強めた。魅力

的ではないか…と問われたら、俺は魅力的と答えてしまう。

 俺が悩んでいるのはマリアに悪く想われたくないからだ。マリアに橘南を安心して欲し

いからだ。在りのままは安心してもらえない。だいたい俺自身が揺れ動いている。在りの

ままは揺れ動いている俺をマリアに伝えてしまう。

 それで良いはずがない。

 今夜中にマリアに返信しなければダメだ。遅れるとマリアに不信を持たれる。

それに南を傷つけるような文章は書けない。

 今は二十一時半。海彦は橘南の携帯にメールした。

—相談があるんだ。これから行ってもイイ…⁉…—

 直ぐに返信が届いた。

—OK。アップルティを準備して待っている。パイもあるよ—


 海彦はマリアからのメールをプリントして走った。南の部屋までは走って十五分。二十

二時前に着かなくては。過ぎると夜更けの怪しい時間になってしまう。それだけは避けな

くては…。俺と南は怪しい関係ではないんだ。南は俺の相談に応じてくれるのだろうか…。

 マリアに安心してもらう。南にも納得してもらえる文面を、どうしても思いつかない。

南への相談は窮余の一策。余りにも情けない。情けないけれど、此処は、正念場だ。格好

つけると後々困るに決まっている。窮地に陥るのは俺だ。恥はいち時。

 橘南は一F玄関で出迎えてくれた。

「海彦。どうしたの。なんか切羽詰まっているみたい」

「そうなんだ。生涯最大のピンチなんだ」

「生涯最大のピンチとは穏やかではないね。お茶の準備できているよ」

 海彦は差し出されたアップルティに手を付ける前にプリントを橘南に示した。

 それを読んだ橘南がすかさず言った。                                

「海彦ってバカ…⁉…」

 海彦は紅茶を吹き出しそうになった。

「バカなのかも知れないなぁ。マリアへの返信を南に相談しようとしているんだから…」

「だってさ。橘南とは小五の時からの幼馴染み。そう打ち込めば済むじゃない」

「それで良いのだろうかと考え始めた。南と俺は幼馴染み。これは間違っていない。しか

し今は幼馴染みのままなんだろうか。南は俺を三回もドキッとさせた。南は友達以上恋人

未満が望みと言った。それを聞いて俺は嬉しかったんだ。友達以上恋人未満に挑戦しよう

と想ってしまった。だけど俺には友達以上恋人未満のイメージがつかないのも事実。そん

な時にマリアからメールが来てしまった。今の俺と南はただの幼馴染みでは無い」

「海彦って正直の前にバカがつく」

「嘘も方便はイヤなんだ」

「海彦ってそうだよね。小っちゃい頃から嘘を嫌っていた。嫌だって言うのは分かる。こ

のままではワタシからのプレゼンは無理。質問してから考える」

「質問。どうぞ」

「こともあろうに佐々木薫子から手紙が来た。この意味が分からない。マリアは佐々木薫

子を知っているんだ…。佐々木薫子のにじり寄りってナニ…」

 海彦は順を追って話した。

 正月の軽音楽部の音出しでのマリアへの敵対。海彦は私のモノ。イザベル。マリアから

の警告。にじり寄り。三学期終業式の後の佐々木薫子の…誘惑…。最後に宮澤洋子からの

「残酷」と「軽蔑」。もし俺が佐々木薫子に殺られてしまったらマリアとの関係は継続し

ていない。それへが妖怪たる佐々木薫子の狙い。そして南からコクられていない…と。         

「そうだったんだ。これが海彦がケイベツされている真実なんだ。彼女は病んでいる。そ

の病巣が何か、分からないけれど確かに病んでいる。海彦なら薫子を救えるかも知れない

ね。マリアとの勝負の他に薫子は海彦に救って欲しかったのでは…。今ふっと想った」

「止せよ。今そんなこと言うのは…」

「ごめん。女の娘は何も無くして妖怪にはならない。なるにはそれなりの理由がある」

「俺が悩んでいるのはもうひとつ在る。マリアからのメールに佐々木薫子からの手紙が示

されていない。要約が在るだけ。これが問題だ。だいだいは分かる。しかしながら詳細が

分からない。南のことをどのように書いたのかはまったく分からない。恐らくアリアは幼

馴染みでは納得しない。きっと数々の疑問を持つ。海彦は真実を書いていないと…」                                    

「分かった。薫子がワタシを良く書くはずがない。いま少し考える」

「紅茶のお代わりは…」

「お願いします」

 二十四時を過ぎていた。怪しい時間に突入してしまった。

「マリアには小五からの幼馴染みの仲良しと書く。ワタシと海彦の今を書く必要はない。

ワタシとは付き合っていないと書くべき。だって付き合っていないもの。海彦はワタシを

どう書くのか悩み抜いた。それはワタシを傷つけまいと考えたから。優しすぎると馬鹿に

近づくんだね。とんでもない馬鹿にコクったのかも知れない。それを今夜感じてしまった。

ワタシ。海彦の子供なら産んでも良いと思っているんだ。だってさ。ワタシには家族が居

ない。やっぱ家族を持ちたい。海彦の子供をたくさん欲しい。これって超フライングだっ

て分かっているから気にしないで。でも言える時に言っておきたかったんだ」

 海彦は家に向かって走った。やはり相談して良かった。橘南にバカと言われても相談し

て良かった。小五からの幼馴染みの仲良し。付き合ってはいない。これを軸に据えられる

ならスッキリとした返信を書ける。震災で両親を喪った南の過去は伏せておく。書かなけ

ればならない内容だけれど今は伏せるのが最善だ。マリアに疑問を持たれないのが最重要。

今夜はドキッとさせられなかった。代わりにガア~ンが鳴った。走っている海彦にはマリ

アへの返信とガア~ンが交錯した。返信の文面がまとまってくると「海彦の子供をたくさ

ん欲しい」が海彦を支配した。友達以上で恋人未満の関係では在り得ない「海彦の子供を

たくさん欲しい」。強烈。橘南は先をイメージして見据える。見据えると突撃。イメージ

は限りなく膨らむのが常。それに怪しい時間に突入するからこんなことになる。怪しい時

間が南に言わせたんだ。俺が主導権を握っていると思ったのは錯覚だった。「友達以上恋

人未満」は橘南の究極のレトリック。もはや浮かれている場合では無い。


—俺は監視されているみたいだ。気味が悪い。注意しなければ…‼…—

 海彦はマリアへのメールの最後にこう書き添えた。

 次々と難問が浮かび上ってくる。東の空が茜色に染まっていた。

 俺はどうすれば良いのだ。マリアとは切っても切れない関係。南が言った通り橘南とは

直ぐにでも切れる関係だ。関係を遮断するのは常に俺の方だ。遮断して良いのか。マリア

から絶縁されてもマリアとの関係は切れない。嘉蔵が存在する限りは切っても切れない関

係。絶縁で困るのはバンドの維持。もし俺が南と付き合い、それがマリアに知れた時には                                   

絶縁も在り得る。でもちょっと待て。本当にそうなるのだろうか。俺とマリアは付き合っ

ているのだろうか。付き合っているような、いないような可笑しな情況だ。他人同士の男

と女の付き合いを前提にすれば付き合っていない。出逢った時から付き合いが始まったと

も云える。俺とマリアの約束はふたつ。「Sea You Again」とバンド。このふたつは限

りなく付き合っているに近づく。近づいても俺はマリアと付き合っている自覚がない。出

逢ってから自然の流れで今日まで来ている。付き合う覚悟が無いから自覚が無いのだ。マ

リアはどうなのだろう。マリアが俺を困らせたのは俺の覚悟を試したのだろうか。それと

も激したひと時の感情を爆発させただけなのだろうか。そうだとしても激するには激する

だけの感情の大本が在る。それに基づかなければ激さない。マリアも無自覚に俺との付き

合いを望んでいたからなのだろうか。そんなことは在り得ない。俺と違ってマリアはボヤ

~としていない。やはり俺の覚悟を試したのだ。「付き合う」との言葉を交さずともマリ

アは俺と付き合うのを望んでいる。そして付き合っていると思っている。他人同士の男と

女の付き合いとは違う付き合いを求めている。それにも覚悟が要る。俺とマリアはこれか

らどのように付き合ってゆくのだろう。付き合っていけるのだろうか。バンドなくして俺

とマリアの付き合いは継続しない。橘南の「友達以上恋人未満」は現況を見据えたプロポ

ーズ。この申し出に応じた時には付き合っているのと同じだ。だから俺は今考えさせられ

ている。南は俺に覚悟を求めている。今と先を見透さなければ覚悟できない。覚悟を無理

強いすることはできない。無理強いした覚悟は直ぐに破綻するに決まっている。そうなれ

ば俺はマリアにも橘南にも失礼な男になる。やはり今と先を見透さなければ覚悟できない。

マリアとの先を見透すとはバンド。これを抜きには考えられない。南との先は見えない。

見えないと覚悟できない。やはり南に今は覚悟できないと言う他ない。

 

 翌日、海彦は橘南が希望したイオン仙台店のフードコートで待ち合わせた。                               

 橘南は既に買い物を済ませていた。

「今日は安売りの火曜日なの。まとめ買い。主婦みたいでしょう」

 長葱の青緑色がはみ出していた黄色のエコバックを橘南は開いた。野菜や肉魚、一〇ケ

入りの卵パックや冷凍食品が入っていた。お菓子も少し。

「休憩しない」

「うん。俺。ミスドで何か買ってくる」

「一緒に行く」                                    

「そうだな」

「海彦。ちょっと変。心ここに非ずと言った感じ。何か買ってくるのは変。南。何にする

…と聞くのが普通。それから飲み物どうする…でしょう。どうしたの。何かあったの…」

「マリアにメールを送ってから南を考えた」。海彦は昨夜のガア~ンから考えた内容を南

に告げた。最後に「俺は今、覚悟できない」と言った。                                   

「海彦って本当にバカ…‼…。ワタシ。海彦に覚悟を求めてコクっていない。マリアの次

で構わないと言っただけ。海彦と時どき今日のように一緒に居たいだけ。切っても切れな

いマリアに敵わないと言っているのに。ワタシは奥目で美人でないし唄えない。海彦に何

かをもたらす女子でも無い。何処にでも居る普通の女子高生。ワタシが邪魔なら、荷物な

ら、重い荷物ならそう言って。ワタシ。海彦の前から消えるから」

 橘南は通路に立ち尽くし、瞳を見開いたまま、大粒の涙を流し、拭おうともしなかった。

「そんなこと言えないよ。俺たちは小五の時に離れ離れになったけれど幼馴染みだろう。

小五の時は仲良しだった南にそんなこと言えない。俺は喪った南との七年を埋めたい。先

のことはそれからだ。今夜のご飯はナニ。ご馳走して下さい」

 海彦は橘南の頬に両手を添えて親指で涙をぬぐった。

 橘南は海彦の首に飛びついた。

 号泣。

 海彦は波打っている橘南の背中を抱え上げた

 床に置かれたエコバックが崩れ、玉葱がひとつ転がり出た。

「牛シャブ」


 海彦は初めて和弓を引いた。弓の張りは思ったよりも強い。的を狙う左手と矢を持つ右

手が揺れる。落ち着かない。制止しない。おまけに六〇M先の直径一Mの的が点のようだ。

こんな在り様では間違いなく当らない。引いた弓を戻した。

橘南が手本を見せてくれた。背筋がピンと伸びている。南の凛々しさは背筋のピンでも                               

在った。久しぶりの弓道着姿だった。海彦は剣道の稽古着で道場に入った。南は矢を射る

までの基本動作を示してくれた。「弓構え・打ち起こし・引き分け・会・離れ」と順に発

声して矢を放った。矢は的の右上の隅を撃ち抜いた。

 姿勢の基本は剣道とは違った。重心を親指の付け根に置かない。身体がぶれないように

踵に置く。腰の構えが神楽の舞と似ていた。弓構えと打ち起こしでは息を吸い、引き分け                                    

では息を止め、会とは狙いを定める所作。止めた息をゆっくりと吐き出し身体の力を抜く。

狙いが定まると離れ。ここも剣道とは違った。剣道では息を吐き出さない。吐き出しても

相手に悟られてはいけない。吐き出した瞬間に打ち込まれる。弓道とは力を抜く武道なん

だ。これは難しい。的を射抜こうとすれば力が入る。力を入れなければ弓を引けない。

「やはり男子。初めての女子は弓をそんなに引けない。海彦はいっぱいに引いている。そ

れに六〇M先まで矢が届いた。姿勢が良くないと矢は飛ばない」

 五本を射ると海彦の左の二の腕内側がミミズ腫れ。射った瞬間に左手の力を緩められず

力を逃せなかった。するとつるは左手の二の腕内側を打ち付けた。

「力任せに射るからこうなるんだ。力をこめるより抜く方が難しい。呼吸が難しい」

「腰の構えが大切。呼吸は慣れ」と橘南が言った。

 確かにそうだ。剣道は動。弓道は静。剣道には相手が居る。弓道は的が相手。礼に始ま

り礼で終える。これは同じ。的は動かない。弓を引く自分はグラついている。これでは当

らない。弓道とは自分の心との向き合い。海彦は自分の心との向き合いを橘南に言った。

「そう思う。的に当てようとしても当らない。虚心坦懐。雑念を打ち払わないと的を射抜

けない。ワタシは自分の心を射抜こうと弓を引く」

 橘南は射った矢を拾いに的に向かった。矢取り道を歩いている。海彦は後に付いた。

「始めてから一年くらいは六〇Mも飛ばなかった。届くようになっても的に当たらなかっ

た。ある日。海彦の顔を的に見立てて弓を思い切り引いた。息を一杯に吸ってゆっくり吐

き出した。全部を吐き出したその瞬間に離れ。当った。コツを掴んだワタシはメキメキ上

達。以前は海彦ゴメンネと言って矢を拾った。今はありがとうなんだ」

 橘南のわだかまりの無い素直な心は何時も俺に向かってくる。俺に心を向けることで虚

心坦懐になれるのだ。不思議だ。橘南の健気には年季が入っている。海彦はそう思った。 

「今の目標はインターハイ全国優勝。団体でも個人でも。応援してね」

「あぁ。勿論だ。大会には応援に行く。フレーフレーMINAMI」

 

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