インティウム平原
目が醒めると、そこはベッドの上ではなかった。
ベッドから落ちただけであるなら笑い話の一つにでもなるだろうが、これは洒落になっていない。
「どうして勝手にログインしてる?」
ここは仮想空間内のゲームの世界。
正確には『新世界の箱庭』に登場する初心者の狩り場として有名な草原地帯。
「ここは、……インティウム平原」
ラテン語で『始まり』という意味を持つインティウム平原は、レベルが低いモンスターが大量にポップする。現に、鹿の姿に似た『シエルボウス』や人型の化け物『メディオクリス』等がそこら中に散らばっている。
マップが広大なために澄み渡る蒼い一面が、清々しい冒険への一歩を演出してくれる。
(こっちのアカウントはコナタ。……カナタは?)
視線を落として自身が着ている服を確認するとYシャツではない。
何重にも織り込まれた刺繍が派手過ぎない美しいローブをまとっている。これはコナタのゲーム内の一張羅である。
脳内のマニピュレートに指示を出してゲーム上のメニュー画面を開く。
カナタは現在ログアウトしているようだった。今はシステム上の確認をしたのだが、そもそもコナタは気付いていた。
二つのアカウントがログインしている時、脳内では二つの意識がリンクしているため、カナタのアカウントもログインしていたとするならば気付かないはずがない。
「……何か変、寝惚けてログインするなんてことはあり得ない。そんな事が現実にあったら」
システム上の大欠陥となり、全プレイヤーは安全確保のためゲーム内から強制退場させられる筈だ。
まずは状況を確認しなければならない。
金紅のメンバーがいればこの状況がわかるまではいかなくとも整理できるかもしれない。カナタのアカウントがログインしているかを確認した際に金紅のメンバーも何人かログインしていたのを先程見ている。
コナタが駆け出そうとしたその時だった。
インティウム平原の全体にアラート音が鳴り響く。
『ゲームシステムに重大なエラーが検出されました。直ちにプレイヤーはログアウトをし、誠に勝手ながら再度ログインをしないようお願い致します。繰り返します――――』
周りにプレイヤーは少なかったが、ちらほらと遠目に確認できる。
皆、焦ったようにログアウトをしていく中、こちらに駆け寄ってくる人物がいた。
「おーい、コナタ!」
「……エギルさん」
筋肉が盛り上がっている外見に、不釣り合いな大きな杖を右手に握り締めている。
エギルはローブの端をゆらゆらと揺らしながら、のっしのっしと走ってくる。彼はアークウィザードという職業である金紅のメンバーだ。
エギルは黒い皮膚のせいで余計に際立つ白い歯を見せながら笑っている。
「今の運営のやつ、聞いたよな? せっかくログインしたばかりだってのにツイてないぜ。そう思うだろ?」
「……そう」
「相変わらず淡白な奴だな、お前は。それにしても、変だよな緊急メンテなんて。今までこんな事なかったくらい完璧だったのによ。まぁ、他のメンバーもログアウトしちまったみたいだし俺たちも急ごうぜ!」
「……うん」
何か引っかかる所がある此方であったが、エギルに急かされログアウトをする事にした。
目が醒めるといつもの天井が見える。
咀嚼しきれない不明な点は多いが、ちゃんとログアウト出来たようだった。
「さっきの夢? でも……そういうわけじゃなさそう」
運営から二つのメールが届いていた。メールはマニピュレートが自動送受信してくれるため、何処でもいつでも確認する事ができる。
だが、肝心のメールの内容に此方は首を傾げる。
一つ目のメールは、「緊急メンテナンスと不具合のお詫び」という件名のプレイヤー全員に宛てたもの。
二つ目のメールは、文字化けした件名のものであった。
「何これ、ウイルス?」
しかし、コナタは自分の考えを改める。
完全機密性のマニピュレートは、従来のウイルスはたまた未来のウイルスすらも効かないとされている。それを可能とする仕組みがあるようなのだが機密事項のため、そんなものが存在する事実すら知っている人間は世界に数えるくらいしかいないのだろう。
では、この文字化けしたメールは何なのか。
「どういうこと? たかがゲームの運営がこんなことするの?」
明らかに怪しいメールは、送信元のアドレスがゲーム『新世界の箱庭』の運営のものだった。
此方は、用心深くメールの大きさ等をマニピュレート内の自作ツールで調べてみる。しかし、通常のメールサイズと同様で数行の文字が書いてある程度のバイト数であることが判明しただけだった。
(……コレを読んでみるべきか。判断がつかない)
自身に問い掛けても意味は無い。結局、マニピュレートにメール閲覧の指示を出す。
開かれたメールには、数行の文章が書かれているのみだったが此方は目を見開く。
『選ばしものたちよ。新たな世界への入場許可証は発行済である。君たちの陣営の武運を祈る』
それだけだった。
(意味がわからない。このメールの意図がわからない)
こんなものを送ってくる運営が理解できない。特殊イベントにしても脈絡もなく、ひどく大雑把であり、運営にとって得が少ないばかりか非難されかねない暴挙である。
そもそも、プレイヤーに対して『物理的差別化』を促すかのようなことは断じてあってはいけないことだ。
だが困惑も束の間、脳内で鈴の音が鳴り、新たなメールが送られて来たことを知らせてくれる。
『わタ氏はシっテいル、アナ他の正たイを。あなタの片わレはすデにこチらがワ。そこニはイナい、カナタは、そこニはいなイ』
件名が空欄のメールを読んだ此方は、目を剥いた。
「……いい度胸。挑発というよりは脅迫に近いけど、そんな暴挙が許されると思っているの?」
勝手なことを言っている運営に怒ったのではない。
脅迫のために彼方を引き合いに出されたのが大層気に入らない。
しかしながら、冷静さを欠いたわけではない。そのため運営の思う壷にならない、寧ろ一泡吹かせてやれるよう頭を使う。
(ログインしたら戻ってこれないかもしれない。相手側の土俵に上がることで勝算は極めて低くなる)
どうするべきか考えた結果、先ずするべきは丸夫への相談であると結論に至る。
この間、約0.5秒である。
部屋を飛び出した此方は、勢いそのままに裸足で丸夫の部屋まで走る。冷たい廊下が足の裏に刺さるようだった。
丸夫の部屋の前に辿り着き、扉が開かないことに違和感を感じる。
「丸夫? ……開けて! 丸夫!」
扉を叩いて急かすが、一向に開かなかった。
嫌な予感がする。
――そして、その直感は当たった。
後方から気配を感じた此方は、全身が干上がる気持ちを生まれて初めて理解した。振り返るがもう遅い。
「がっ!?」
背後から頭部を強打され、此方は術なく昏倒した。
・・・・・
意識が朦朧とする中、コナタは目を開く。
「んむぅ、……痛い」
ここはどこだと首だけを動かして周囲を見渡すと数刻前と同じ平原の景色。
頭がこんがらがっているが、ここはゲームの中に戻ってきてしまったのだろう。
軋んでいるのかと勘違いするほどの頭痛に苦悶の表情を浮かべ、上半身を気怠げに起き上がらせる。
身体には特に異常はない。しかし、それが現状に至っては問題である。
人工的に加工された髪、脳内に埋め込まれているであろうマニピュレート、実験によって植え付けられた驚異的な身体能力。
其れ等は全て現実の世界の此方に有るものであって、ゲームの中でのコナタというキャラクターには無いものだ。
しかし、愉快なことに現実の容姿のままゲームの恰好をしている。
「これは……?」
現実との違和感を感じさせないくらいに見栄を張って、控えめに胸を盛っていたゲームアカウントと比べて今は平坦だった。つまり、今の胸の大きさは此方の現実の大きさであってこれが真実であることを突き付けられている。
平坦な草原が続くインティウム平原に暖かい風が吹く。
昏倒する前の何者かに殴られた記憶、不可能とされていた現実存在のゲーム内適応、現在の容姿、知らない間に身につけている装備、見覚えのある目の前の景色、そして送られてきた不可解なメール。
震える手で、こめかみを押さえながらマニピュレートに『ログアウト』の指示を出すが、案の定のこと拒否される。
蒼々と壮大に広がるインティウム平原を眺めながら、コナタは自身の置かれた状況を口にした。
「ゲームの中に閉じ込められた。……ついでに私の胸も消された」
コナタは感情をそのままポーズで表現するかのように両膝をついて崩れ落ちた。