パナケア
時計塔の街、クリプトンは普段の静けさを取り戻していた。喧騒を乗り越えて疲弊した街の住人達は道端で力なく眠っている。
「うう……うぅ……」
呻く者、嘆く者、傍観する者。人それぞれではあるが、街には哀しさで満ち満ちている。
「俺たちが、俺たちが何をしたって言うんだ……!」
一人の小さな叫びが静かな街の路地に響き渡る。
「そうだ、信徒達は魔女を探していた! あの時計塔の憎き魔女を!」
そして次第に叫びは何重にも重なっていき大きなものへと変貌していく。
「あの魔女がこの街に災いを招き入れたに違いない! 俺の家が潰れちまった!」
「私の可愛い坊やは何処? あああああああ!!」
「何もかも魔女のせいだ! 魔女を吊るせ!」
怒りの矛先を探していた。
わかりやすければ誰でも良かったのかもしれない。共有しやすければ誰でも良かったのだ。
伝播していく怒りと悲しみに人々は奮い立とうとした時だった。
シャン。
鈴の音が聞こえてきたのだ。
シャラン。
「あ……」
誰かが息を呑んだ。
怒りに囚われていた街の住人達の曇った瞳を晴らしていくかのように、その輝きは目の前を通り過ぎたからだ。
シャランシャラン。
「あゝ、神よ」
鈴の音が立ち止まった。
「私は神ではありませんよ」
そう言うと、彼女は手を地面と平行にゆっくりと動かす。
何をしたわけではない。手を動かしただけなのに。
奇跡は起こった。
「苦しかったでしょう。辛かったのでしょう。不幸というものは唐突にやってきては我々を苦しめて消えていきます。ですが、それと同じように救いも存在します。善い行いはそれを引き寄せるのです」
怪我をしていた者の傷は塞がり、親しい人を亡くした者はその幻影を見て涙を流した。
「皆様は今、善き行いをしたのです。人を許し、水に流すことは善きこと。救いは訪れました」
彼女の声に疑問を持つ者はいなかった。それは季節が訪れて次第に去っていくように当たり前のことだと錯覚するように。
既に怒りは別の感情へと昇華して天へと昇っていくようだった。これを神の御技と言わずして何と言うのか。
「あゝ、やはり神はいらっしゃった」
「ですから私は神では……」
「いいえ、女神様。我々は救われたのです。あなたの存在によって井戸の底より冷たい絶望からすくい上げられたのです」
「……あらあら」
困ったような表情で頬に手を当てる女性は、そのまま名乗らずに聖堂へと歩を進め始める。
「もう行かれてしまうのですね」
返事は無かった。
見送るしかないとその場の全員が考えた。それが最善であると考えたのだ。
・・・・・
「それで、その善事派の教祖様が何の用ですの? そもそも善事派って何を言ってるのかさっぱりですわね」
クレアの問いかけは刺々しい。疑念が晴れていないからだ。
パナケアは微笑む。
「善事派というのは……いえ、その説明は必要ないでしょうね。あなたの家族も早急に治療しなければなりませんのでこちらへ運んでいただけますか?」
「あ……いや、それは結構ですわ。彼らは機械人形、つまり人の身ではありませんので私が直しますわ」
「そうでしたか。変わった格好をされていましたが機械人形様だとは思いませんでした」
クレアはモヤモヤとしたものが晴れずにいた。疑念だけではなくこのマイペースに話を進めてくるパナケアと名乗った女との会話にやりにくさを感じる。
コナタの片腕までは再生できないようだが、傷は殆ど消えてなくなり、暫くすれば目を覚ますだろう。驚愕のパナケアの治癒速度に、クレアは動揺を隠せない。
「何の用があるのか……と申されましたね。実はこの聖堂に用があったのですが、この有様では当初の目的は果たせませぬでしょうね」
「やはりあなたはこの教会の関係者なのね」
「まぁ、関係者といえば関係者かと。ですが私はこの教会に属してはいませんよ」
「属していようがいなかろうが関係ないですの。この教会の行ってきた非道の数々。それを知って尚、協力をするのであれば貴女も同罪ですわ!」
パナケアは「あらあら」と頬に手を当てた。
「私が協力……ですか。それは勘違いをされてます」
クレアはマーズに魔力を送りながら眉間にしわを寄せる。
ではこの場に何の為に訪れたというのか。
「私はここの司教を説得に来ました。もっとわかりやすく言えばこの教会を潰しに参りました」
「っ!?」
「そうですね。先ほど私は善事派と名乗りましたが、この教会の司祭と司教は別の派閥に属しております。私たちは協力関係でありながら競合関係でもあります」
「…………」
「そして私は善き行いと信じて彼らのやってきたことを見逃してきました。しかし、先の争いのように司教は己が欲の為にその力を振るったのです。他人を巻き込んでまで彼の成し得たかった願いがあるのでしょうが、善き行いとは言い難い。だから私が終わらせようとここへ来ました」
パナケアは治療が終わると微笑みながらすくりと立ち上がる。シャランと鈴が鳴る。
「だから私はクレア様とコナタ様に感謝しなければなりません。仲間の暴走を止めていただきありがとうございます」
パナケアは頭を下げた。これは彼方の世界での作法だったはず。
「まさか貴女も……プレイヤー……」
ふと声に漏れてしまった。
ハッとしてクレアはパナケアの顔を見た時だった。
「ふふふ」
パナケアが不気味に笑っていた。今までの微笑みとはまったく別の、反対といっても差し支えのない笑みであった。
「プレイヤー……ふふふ。私はプレイヤーではありませんよ。ただ、プレイヤーは生かしては帰せないですけど……」
クレアはパナケアの足元で寝ているコナタに視線が動きそうになる。
冷や汗が背中を通る。
(急に雰囲気が変わりましたの……? もし、コナタがプレイヤーだと知ったら……?)
マーズがクレアの裾を引っ張ってくる。
(私はどうしたら……)




