53 監視者スピカ(スピカ視点)
ドアをノックする音の後、室内から「どうぞ」と入室の声がする。
部屋の主はアイゼル。そして部屋の中に入ったのはラインハルト。
「ラインハルト、どうしたのですか?」
部屋の中には2人だけ。
他には誰もいない。
「実はアイゼル様に尋ねたいことがあるのですが」
「私に答えられることならば答えましょう」
貴族としてはアイゼルの方が上位にある。やや高慢……とまではいかないものの、それでも明らかに上位者の風格を持って答える。
あれでもクライネル王国では一番の魔法使いだから、一応の権威を持っているのだろう。
……もっとも、"権威"と言う言葉がどれほどつまらない物か、私はよく知っている。
私の生みの親である"あの人"とくれば、恐ろしく長い年月を生きているというのに……。
まあいいでしょう。どのみちご主人様の性格が、昔からふざけているのは変わらない事実ですから。
人間であれば、ここで口からため息でも出しただろう。
でも、私は人ではない。
それどころか、生物と呼んでいい存在ですらない。
ただ生みの親である、シリウス・アークトゥルスという人間の魂に同居することで存在している存在。
霧や霞のような幻。そんなものにすら劣る、まるで体のない幽霊のような存在でしかない。
それでも私にはご主人様の魔力を用いることで、周囲で起こっている様々な情報を所得することが出来る。
今、アイゼルとラインハルトの2人を観察しているのも、私からすれば造作もないことだ。
さて、私と言う存在が聞き耳を立てていることを知らない、2人の話は続いていく。
部屋に入った後、ラインハルトは沈黙したまま、しばし突っ立っていた。
思い悩んでいることは誰が見ても明らか。そんな深刻な表情をしている。
そのことは、目の前にいるアイゼルも気付いていた。
「……そこまで深刻な様子からすると、レオン様の事ですね」
「……はい」
ラインハルトが同意した後、室内には再び沈黙が下りる。
「僕が倒れる前に、レオン様が全身黒い姿をして立っている姿を見ました。あれはどう見ても……」
だが、それ以上ラインハルトが言葉を続けるより早く、アイゼルが手で制した。
「私はそんなもの見ていません。きっとラインハルトの勘違いでしょう」
「アイゼル様?」
「あなたはあの時、魔物の攻撃を受け続けてフラフラになっていました。その鎧のおかげで無事だったものの、あなたは現実と幻の区別がつかないほどの状態になっていたのでしょう」
「……」
「私は、何も見てはいません」
アイゼルは語気をやや強くして言った。
だが、その表情には決意があり、これ以上ラインハルトが何を尋ねようと、決して答えない意思を見て取れる。
「……本当に、何もなかったのですね?」
「ええ、そうです」
――だって、私はレオン様のことを愛しているのだから。
最後にアイゼルが小さな言葉をつぶやいたが、それはラインハルトの耳には聞こえなかったようだ。
その後、ラインハルトは一礼してアイゼルの部屋を後にした。
「レオン様は、私たちにとって必要な方なのです。そのことを忘れないように」
ラインハルトが部屋を出て行く直前、アイゼルはそう言い残した。
(ラインハルトはレオンの正体に大体気づいているようですね。アイゼルの方は……まあ、女と言うのは複雑な生き物ですから)
私は体を持たぬ存在ですが、それでも性別的には女性に分類できる存在です。
アイゼルはレオンの正体が何であったとしても、それを口外するつもりがないのでしょう。
まったく、単なる肉体だけの関係かと思っていましたが、レオンという男はとんでもない女たらしですね。
――ふうっ。
口はないけど、私は思わずため息をこぼしてしまいました。
そして脳裏に思い浮かべるのは、レオンとアイゼルが夜な夜なベットの中で抱きしめ合っていた情事の光景。
レオンの魔族としての身体能力もあって、まるで飛び跳ねるハツカネズミのように2人は交わっていた。
≪エロビデオを見ているわけではないですが、あれは見ている私も少し興奮してしまうような凄さが……≫
(スピカ~)
ゴホン。
≪どうしました、ご主人様?≫
(あのね、僕は幼気な子供だから、そんな子供の頭の中で2人がまるで盛りの付いた獣のように、ベットで飛び跳ねまくっていた光景を思い浮かべないでよ~)
≪子供とおっしゃいますが、ご主人様はかなりいい歳……≫
(ええっ~、僕子供だからわかんない~)
結局、ご主人様はごねて私の意見を黙殺してしまった。
……まあ、いいでしょう。
こういう性格の人ですから。
≪とはいえご主人様、アイゼルとラインハルトの2人がレオンの正体を疑っている件は、本当に放置してよろしいのですか?≫
(別にいいよ~。気づかれたらさっさと転移魔法でこの国からオサラバするだけだから)
≪分かりました。ですが、ご主人様はこの国で暮らすのを結構楽しまれてますよね?≫
(楽しいよ。でもさ、僕が本来いる場所はここじゃないからね)
≪そうですね。そうだ、今の言葉をお兄様の前で言われたらいいんじゃないですか?きっとお喜びになりますよ≫
私は至極当然のことを言った。
だがあのマイペース能天気、脳内お花畑が取り柄のご主人様が、一瞬凍り付いて固まった。
(な、なに言ってるのスピカさんや。そんな言葉を口にしようものなら、僕がお仕事に縛りつけられてしまうじゃない!僕、ただの子供よ。そんな僕が24時間お仕事する羽目になったらどうするの?あの兄さんのことだ、きっと僕を生かさず殺さずで、ブラック労働環境において、農奴のごとくこき使うに違いない。イ、イヤダー。僕は子供なのに、こんな歳で過労死なんてしたくないよ~)
≪はいはい、勝手に言っててください≫
ご主人様がアホなことを言いだしたので、それ以上は放っておくことにした。
ただ、ご主人様はこんなふざけた会話をしつつ、ダモダス砦の医療室に運び込まれている負傷兵の治療をしている。
偵察中に出会ったゴブリンの剣に腹を切り付けられて、内臓が腹から飛び出している兵士を相手にした手術だ。
飛び出した内臓を腹の中に戻し、傷口を縫合していくのは当然のこととして、
「回復が早くなるようにポーションも使うね。あとは輸血もできればいいんだけどな~」
「ユケツ、とは何ですか?」
「輸血っていうのはね……」
そこで現代医療の輸血について、簡単に説明していくご主人様。
ちなみにご主人様に質問したのは、この砦に配属されている軍医だ。
ご主人様はふざけた性格をしていても、薬に関しては右に出るものがいない知識を持ち、さらに貪欲な探求欲を持っている。
そしてその延長として、医療に関して恐ろしく精通している人物でもある。
ただし、この人は怪我人相手に新薬の"人体実験"もするので、まっとうな医者には程遠い点だけは注意する必要があるけど。
バカと天才は紙一重なんて言うけど、ご主人様の場合は、"天才とバカは一心同体"としか言いようがない性格だ。
(スピカ、僕のことをそんな風に思っていたのね……)
≪私のことは気になさらず、治療の続きをどうぞ≫
(ムウー)
納得いかない声を上げつつも、ご主人様は目の前にいる負傷兵の縫合手術を続けていった。
その途中、手術用に作られた造血効果のあるポーションも使っていたけど、あれってこの前「成分を少しいじると効果がどう変わるかな~」と、ご主人様が言っていた。
つまり通常の造血効果ポーションでなく、試験薬といっていいポーションだ。
また1人、人体実験の犠牲者が出てしまいましたね。
幸い今回は毒薬の実験ではないので、問題ないでしょうが。
私もご主人様に慣らされているので、多少の事で驚くことはなかった。
この件に関してはもういいでしょう。
私は次に知覚する範囲をダモダス砦の外へ向ける。
ここから最前線にあるディートハルト砦までは10キロ以上。そのさらに向こうに、クライネル王国軍と対峙している、魔族の軍勢の野営地がある。
魔族の軍勢を率いているのは、魔族の王である鬼王ガイガノス配下の魔将軍クロノス。
頭に一本角が生えた、"鬼"という言葉が、そのまま形になった魔族。
軍を率いる将軍で、その全身からは赤黒いオーラを迸らせている。"魔将軍"と言う名にふさわしく、そのたたずまいは堂々としている。
そのほかにも副将格として、2人の魔将軍。
同じ魔将軍と言っても、3人の中では、クロノスの存在感が圧倒的に強大だった。
この魔将軍クロノスが率いる軍勢の元には、小子鬼や豚人間などといった、下級の魔族が万を超えて存在する。
と言っても、これらの下級魔族たちは所詮は単なる数合わにすぎず、その上にはさらに強力な力を持つ魔族たちがいる。
……のだけれど、私は"豚人間"の姿を見ていて、少しだけ憐れみと言うか、憐憫を感じてしまった。そして仄かに混じる、親近感。
……ご主人様はどうして30過ぎると、あんな姿になってしまうのでしょうね。
前世で30過ぎたあたりからブクブクと太り始めたご主人様を、彷彿させる姿をしてるのだ。
とはいえ、私はすぐにその思いを振り払う。
人間でいうと、頭を振って忘れる……といったところでしょう。
小子鬼や豚人間以外にも、上位の個体として鬼や巨大一目鬼などの姿がある。
巨大一目鬼に関しては頭はそこまでよくないものの、体長が5メートル以上あり、その巨体自体が戦場では恐ろしい武器となる。ただ歩くだけで人間を踏み潰すことができるのだから。
それに砦を囲む城壁でさえ、巨大一目鬼の巨体の前では、必ずしも敵の進軍を阻む壁として機能すると言えない。
サイクロプスに小型の魔物を背負わせ、そこから城壁上に魔物を運ぶことが可能だ。
そして鬼に関しては、体長は2から3メートル。巨大一目鬼と比べれば小型だが、戦闘能力では巨大一目鬼を上回る存在になる。
手にする刀や薙刀を振るい、その一閃で鉄の鎧さえ簡単に切り裂いてしまう怪力と技量を持つ。しかも鈍足な巨大一目鬼と違い、人以上の俊敏な動きをする鬼。
これを相手にするには、人間では集団で戦いを挑まない限り、1対1では確実に敗北するだろう。
さすがに鬼王と名乗る魔王配下の軍勢だけあって、鬼の系統に属する魔族たちが多い。
数の上では、弱小の小子鬼や豚人間が軍勢のほぼすべてを占めているものの、強力な魔物も決して侮っていい数でない。
それに影騎士と呼ばれる魔物の姿も、少数ながら確認できる。
影騎士は、黒い影の姿をした騎士で、剣や槍を持って戦う魔族。
物理的な攻撃が一切通用せず、火や光、聖属性魔法でなければ倒すことが出来ない相手だ。
魔法でないと戦えない相手と言うのも、これまた厄介な存在だろう。
そうやって、魔族の軍勢を一つ一つ確認していた私だけど、
(スピカー、あんまり敵の詳しいことまで知らなくていいって。特に相手の名前まで知っちゃうと、あとで精神衛生上よろしくないでしょ)
ご主人様が口を尖らせて言ってくる。
≪手術の方はいいのですか?≫
(これぐらい余裕~。それよりさ、消しちゃう相手の事なんて、知る必要ないでしょう)
≪ご主人様、まさか魔族相手に本当に戦うつもりですか?≫
(そのつもりだよ~)
膨大な魔族の軍勢相手に、ご主人様は気負うことなく答えた。
ああ、気の毒な人たちですね。
ご主人様の言葉を聞いて、私は敵対する魔族たちの運命を哀れに思った。




