表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔王の守人  作者: 木賊苅
1部
5/33

2-2


 午前の授業も終わり昼休み。煌は何やら上機嫌に廊下を歩いていた。勿論その斜め後ろには、誓人であるルシアもいる。



「何をそんなに楽しそうにしている?」



 ルシアが不思議そうに――しかし無表情――に首を傾げて問いかける。



「あぁ。近いうちに、年に一回行われるこの学園主催のバトルトーナメントがあるんだ」



 彼の問いかけに珍しく嬉々として答える煌。

 あまり人ごみが好きではない煌が、この学園で唯一と言っていいほど楽しみにしているイベントが、このバトルトーナメントなるものだ。中等部、高等部に分かれたトーナメント式になっており、当たった相手との戦闘に勝っていけばいい。そして最後まで勝ち残り、最終試合で勝利した者がその年の優勝者になる。毎年出場している煌は、今までの試合において優勝してきた。高等部は他の学校と生徒の入れ替わりがよく起こるので、今まで戦ったことのない者とも当たるかもしれない。それが楽しみで仕方がなかった。

 ルールは至ってシンプルだが、不正を行った場合はそれ相応の罰が与えられる。一昔前には殺人未遂などもあったらしいが、ここ数十年そこまでのことは起きていない。あって八百長ぐらいだ。今の理事長に変わってからは、生徒のみに許されていた観戦が一般人にも開放され、ちょっとしたお祭り状態である。

 現在彼女たちが向かっているのは、国内でも指折りの蔵書数を誇る図書館だ。ほとんど本を読まない煌には無縁な場所なのだが、トーナメントの受け付けは毎年その最奥でやっている。本棚に囲まれ死角だらけなあの場所はあまり好きではないのだが、残念ながら本人が受付をしなければ出場できないのだ。



「楽しみだなぁ」



 しかし今は図書館に足を踏み入れる不快さよりも、試合が出来る楽しみの方が大きい。今にも鼻唄を歌いだしそうな様子で歩く煌を、ルシアは何処か機嫌が良さそうに見ている。



 そんな二人を、脇を通り過ぎる生徒たちがちらちらと横目に視線を投げていく。中でも女子の目が大半を占めていた。

 今の煌は、白銀の髪を窓から差し込む光に反射にキラキラと輝かせていた。蒼い瞳は深く澄んだ海を連想させる。対して寄り添うように歩くルシアは闇のような漆黒の髪に、血をそのまま固めたような紅い瞳。

 真逆とも言える色彩をその身に持つ二人。そして二人とも――煌は女なのだが――顔の造りはとても良い。ミーハーな女子が陰で盛り上がっていることを、煌だけが知らない。

 一方当の本人たちはこの嵐のような視線をさして気にした様子はなく、まるで何事もないかのように歩みを進めた。気付いていないわけではない。しかし二人とも、理由は違えど注目を浴びることには慣れているのだ。そして二人とも、周りからどう見られているのかなど気にする性格ではなかった。



 目的の図書室にやっと辿り着いた煌は、渋るルシアを入口の前で容赦なく引き剥がし、単身中に足を踏み入れた。

 図書室は各クラス分けされた教室と同じく、魔族天族が足を踏み入れる事が出来ない場所の一つだ。いや、入るには入れるのだが、非常に面倒な手続きをしなければ相当な量の魔力の消費が必要となる。弱い者なら結界に触れた瞬間に消滅してしまったりするので、進んで入ろうとする者は少ない。今朝のルシアのように、顔色一つ変えることなく踏み入ることが出来る者はそうそういないのだ。

 適当に受付を終え、さっさとこの場を立ち去ろうと踵を返した煌は、とある本棚の前を通りかかる。

 と、その時。



「ゃ、やめてください………………!」



 煌の耳に、何やら争うような声が聞こえてきた。

 野次馬根性を発揮した煌は、相手側に気付かれぬよう気配を消して本棚に近付くと、そろそろと顔を覗かせた。

 そこには一人の女子と二人の男子がいた。まぁ、そこまでは問題ない。男女で仲の良い友人は何処にでもいる。問題なのは、亜麻色の髪の少女がうっすらと目に涙を浮かべ、枯葉色の髪の男子に壁際へと追いやられているということだ。誰がどう見ても、仲が良いようには見えない。

 煌は思わず額に手を当て、静かに息を吐いた。もしかしてこれはあれだろうか。自分は結構ヤバい現場を目の当たりにしているのだろうか。

 彼女が天井を仰いでいる間にも、声は聞こえてくる。



「助けを呼んでも誰も来ないぜ?いっつもお前を護ってくれている魔族の野郎もな」



 うわぁ~、何つーお決まりの台詞。つーか言ってて恥ずかしくないのかコイツ?


 思わず吹き出しそうになるのを必死に耐えた。幸いなことに向こう側は隠れている煌に気付いていないようだが、魔物が闊歩しているこの世の中、それはそれでどうなのだろう。



「や、放して………………!」



 小さく上がった悲鳴に煌が慌てて視線を戻すと、ちょうど枯葉色の髪の男子が女子の腕を掴んでいるところだった。これは流石にヤバい、と感じ本棚の陰から出る。



「女一人に寄って集って何やってんだ?」



 すると、三人は本当に自分たち以外に近くにいないと思っていたようで、彼女の登場に驚いたように動きを止めた。女子からの縋るような眼差しに、軽く肩を竦める。



「邪魔すんじゃねぇよ!」

「お前は………?」



 今まで一言も喋らなかった褐色髪の男子が声を荒げるもう一人を制し、煌をまっすぐ見つめてきた。自分を知らない者がいたのか、と内心驚いているのを隠し、煌はうっすらと笑みを返す。まぁ、交換生か何かだろう。新しい学年が始まってまだひと月、そこまで噂に詳しくなくても不思議じゃない。



「さぁ?ま、言わなくてもどうせすぐわかるさ。これでも有名人らしいんでね。それより、嫌がる女に言い寄るなんて、下衆のすることだと思うんだけど?」



 ちらり、と未だ女子の腕を掴んでいる枯葉色の髪の男子へと視線をやる。すると彼は顔を赤く染め、憤怒の形相を煌に向けてきた。



「馬鹿にしやがって!」

「お?やんのか?」

「馬鹿、やめろ!」



 腰に提げていた剣を鞘から抜いて構えた男子に、片割れは鋭い声を出し、煌は嬉しげに目を細めた。

 トーナメント前にいざこざを起こすのは良くない。見つかれば出場権を失う。が、これも一種の人助けということで大丈夫だろう、多分。自分は剣を抜いていないし、正当防衛だ。それに、喧嘩の内容が学園側にバレたらまずいのは相手の方。告げ口することもない、筈。



「ま、丸腰の人に剣を向けるなんて!」



 卑怯です、と女子が小さいながらもっともな抗議の声を上げる。

 確かに、今の煌は武器になるような物を一切手にしていない。腰に剣は提げているので完全な丸腰ではないが、普通、圧倒的に不利な状況である。


 そう、普通は。


 しかし、煌は余裕そうな態度を崩そうとはしない。それが更に相手の怒りを煽った。



「有名人だからって、調子に乗るな!」



 どうやら彼の方は煌のことを知っていたようだ。

 正面に構えた剣を一歩踏み出しながら突き出し、煌に襲い掛かる。剣先は、まっすぐ彼女の顔を狙っていた。脅しのつもりなのだろう。後ろに下がったところで一気に畳み掛けてくるつもりか。

 煌はそれを軽く首を傾げるだけで避け、逆に大きく前に踏み出した。耳元で風を切るような音がしたかと思うと、頬にちりっとした微かな痛みが襲う。これで正当防衛は成り立った。先に手を出したのは向こうで、やり返されても文句も言えまい。

 信じられない物を見るような顔が目に入った。それを気にも留めず、己の顔の横にある腕を肘で勢い良く打ち上げる。



「調子乗ってんのは、そっちだろ?」



 勝てると思ったのか、顔への攻撃を避けられたぐらいで動揺する奴が。

 痛みと煌からの囁きで一瞬怯んだうちに相手の手から剣を奪い取ると、そのまま柄の部分で彼の頭を思い切り殴りつけた。遠慮も躊躇もない。崩れ落ちた方にはもう視線もやらず、唖然と事の成り行きを見ていた残りの男子に剣先を向ける。



「で、アンタもやる?」



 首を傾げて問われ、褐色髪の男子は息を呑んだ。勢い良く横に頭を振る。

 そう、と煌はあっさり剣を下ろし、完全に伸びている男子の腰の鞘に仕舞った。



「思い切り殴ったし、後で医務室連れてった方がいいかもな」



 この言葉に男子はハッと我に返り、慌てた様子で気絶している彼に駆け寄った。俯せに倒れているのを引っくり返すと、小さく呻く。どうやら気を失っていたのは一瞬のことらしい。が、すぐに立ち上がることは無理そうだ。

 ため息を吐いた男子は肩に腕を回して呻き声を上げる体を支えるように立ち上がると、煌と女子生徒を振り返る。そして、深々と頭を下げた。



「………友人が迷惑をかけてしまって、すまなかった」

「相手が怯えてんのに気付いてて止めなかったアンタにも責任はあると思うけどな」



 謝罪を煌に一刀両断され、びくりと肩が震える。そうだな、と小さな声で呟いたことから、自覚はあるのだろう。

 じゃあ、と踵を返しかけたところで、動きを止める。怪訝そうに眉を上げる煌とびくりと体を震わせた女子生徒に一瞬言い淀むと、軽く視線を逸らす。



「………格好からして、この学園の生徒だということはわかる。有名だと言っていたが、俺は今年編入したばかりで噂事情には疎くて…………あんた、何者だ?」



 こいつは学年の中でもそれなりに強いんだが、と自身が抱える友人にちらりと視線を投げる。

 煌は男子が身に着けるマントへと目をはしらせた。裾には高等部を表す色のラインが二本、描かれている。高等部二年である印だ。



「柊煌。見ての通り、高等部一年。よろしく、先輩?」



 マントの裾を見せながら煌が返した瞬間、男子の顔色がざっと悪くなる。不審に眉を顰めて見返すが、もう目を合わせようとはしない。



「アンタが噂の、魔王の守人、か……………」



 どうりで、と呟いた彼にどういう意味か問おうと口を開くが、煌が声を発するよりも早く、再度頭を下げた男子は肩を組んだもう一人を連れて本棚の向こうへと消えた。

 大声を上げて呼び止めてもよかったが、場所的にそれは控えた方がいいだろう。追いかけてもいいがそれよりも、と煌は振り返り、腰が抜けたのか棚に背を預けて座り込んでいる女子へと手を差し出した。



「アンタも災難だな。立てるか?」



 意識していつもより柔らかい声を出すと、少女は差し出された手に一瞬戸惑う素振りを見せたが、少し頬を赤く染めてそろそろとその手を重ねてくる。煌はぎゅっと握り返し、軽く引いて立たせてやった。

 立ち上がってスカートの裾の埃を払ったり、背の中ほどまである亜麻色の癖のないまっすぐな髪を指で梳かしている女子をじっと見る。今のところ、目に見える外傷はなし。少し掴まれていた辺りが赤くなっている程度か。それぐらいなら少しすれば痕も残らず消えるだろう。

 女の子に傷跡が残るのはな~、と呟いた煌は、女子が自分を見てきていることに気付き意識を戻す。



「あのっ、助けてくれてありがとうございました!柊さん、噂されてるよりも優しいんですね」



 勢い良く頭を下げて礼を言った少女は、顔を上げるとにっこり笑ってそう言った。ラインの色と本数からして同学年だろう。



「煌でいいよ。敬語もいらない。同い年だしな。それより、その噂ってどんなの?」



 少女に苦笑を返すと、煌は問い掛ける。先程男子が呟いた、【魔王の守人】というのも気になる。

 すると、少女は驚いたのか、目を丸くした。



「煌……君?のことだよ。今朝から凄い噂だよ?あの【死神王】と誓約を交わした問題児って……………ぁ、ごめん!」

「ん?いや気にしてねぇし。つか、朝のか。だから【魔王の守人】ね」



 慌てて口を押えた少女にひらひらと手を振る。問題児だの何だのは言われ慣れていて今更気にする単語でもない。にしても、たった数時間で随分と噂が広がったものだ。【魔王の守人】とはよく言ったものである。いや、ある意味そのままなネーミングなのだが。

 納得した様子で頷いていた煌は、不意にくつくつと小さく笑い出す。そんな彼女を、少女は不思議そうに見返す。



「くくっ………や、悪い。煌君、ね。こう見えてオレ、女なんだけど」

「ぇ、ぇえっ!?女の子!?」



 目の端に浮かんだ涙を指で拭いながら告げた煌に、少女はこれ以上ない程に目を見開き、唖然とした表情で彼女の全身に目をはしらせている。どうやら彼女が噂とやらは、煌の性別までは含んでいないらしい。何度見ても男にしか見えないらしく、困惑の色を浮かべる。男の子の制服着てるのに、と呟いているのは思わず思考が漏れたということだろうか。

 くるくると百面相の如く表情を変える少女に、とうとう耐え切れなくなった煌はぶはっと吹き出し、肩を震わせ笑い出した。



「ひ、ひどい!そんな笑わなくても……………!」

「ゎ、悪い………ふ、くくっ……………煌君でいいよ。別に気にしねぇからさ。それより、アンタ名前は?」



 ぷくっと頬を膨らませ抗議する少女に、未だ完全には収まってはいない笑いを噛み締めながら問い掛ける煌。

 しばらくは恨めし気に煌を睨んでいた少女はがっくりと肩を落とすと、気を取り直すように頭を振って手を差し出す。



「私は莉央。周防莉央(すおうりお)。よろしくね、煌君」

「ん、よろしく」



 滲んだ涙を拭い、煌は笑顔と共に差し出された手を握り返した。

 莉央は今年からこの学園に通うことになったらしく、図書室に対天魔族結界が張られていることを知らなかったらしい。抜剣した枯葉色した髪の上級生からは数日前から言い寄られていたらしく、図書室で調べ物をしていたわずかな時間の間に死角へと追い込まれてしまったようだ。

 桐ケ谷魔道学園は複数の私立の魔道学校と提携し、勢力を均等にする為に互いの学生を交換する制度を実施している。初等部から卒業するまでを同じ学校で過ごすことの出来る学生は、半分にも満たない。故に完全寮生活が義務付けられている。初等部の間は身分関係なく、四~五人の大部屋で共同生活をするのだ。誓人を見つけることが多くなる中等部からは一人部屋になるが、成績によって部屋のランクも変わってくる。煌は実技に関しては万年トップなので、今まで誓約を交わした相手がいなくても、そこそこ大きな部屋があてがわれていた。決して、理事の身内贔屓ではない

 二人が言葉を交わしながら図書室を出た、その時。



「莉央っ、大丈夫やったか!?」



 紅茶色の髪をした長身の青年が、莉央に抱き着かんばかりの勢いで駆け寄ってくる。その背には、彼の背丈とあまり変わらない丈の大剣。剥き出しの浅黒い肌と明るい赤い瞳からして魔族のようだが、彼女の知り合いか何かだろうか。



「カーク!」



 彼の姿を目にした瞬間飛び出した莉央に、思わず身構えていた煌は警戒の体勢を解いた。突進するように勢い良く青年に抱き着いた彼女が目に入る。



「そろそろ莉央出てくるか思て待っとったら例のストーカー野郎が出てきたさかい、莉央に何かあったらどないしよかと………………」

「大丈夫、煌君が助けてくれたから」



 抱き着いてきた莉央をぎゅぅっと力強く抱き返す魔族の青年、カーク。彼はその言葉を聞くや否や、心底安心した様子で大きく肺の中の空気を吐き出した。

 一方、その様子を何処か唖然と見守る煌。目の前で繰り広げられるカップルか何かのようなやりとりに、これが一般的な誓約関係じゃないよな?という恐ろしい考えを、脳内で全力で否定した。同性で誓約を交わす者だっているのだ、目の前のが特別仲が良いだけで違うだろう。だってこれレベルの触れ合いを求められても自分には不可能だ。よって特殊例とする。むしろそうであれ。



「あんたが莉央を助けてくれたんやて?ほんまおおきに!」

「へ?あぁ、うん」



 にかっと歯を見せて笑うカークに、はっと思考の渦から帰還した煌はぎこちない笑みを浮かべて曖昧な相槌を返す。あまり礼を言われ慣れてないからか、居心地が悪い。

 と、最近お馴染みの気配と姿が煌の斜め後ろへと現れる。言うまでもなくルシアである。何処に行っていたのか、煌の気配が図書室から出てきたのを感じ戻ってきたようだ。



「終わったのか?」

「とりあえずな」



 首だけで振り返りながら見下ろしてくる顔を見上げ頷く。間近に立たれると、頭一つ分高い彼と視線を合わせるには首の負担が凄まじい。

 感情を表さないルシアの眉間に、うっすらと皴が寄る。眼光も若干鋭くなり、何事かと首を傾げた煌は、思い出したように自身の頬を手で拭った。乾きかけた血が付く。図書室内でのやり取りの際についた傷だろう。



「……………その傷、誰がつけた」



 怒気の篭った声で問うルシア。

 思わず煌は目を瞬かせる。あの、普段何を考えているのかわからないルシアにしては、珍しいこともあるものだ。いったい何に怒っているのだろう。



「さっきちょっとな。報復は済ませたしこんぐらいの傷、どうってことない」



 放っときゃ勝手に治るだろ、と掌に付着した血を舐める。鉄に似たような味が舌の上に広がった。ほぼ毎日新しい傷をこさえる煌にしてみれば、かすり傷程度は怪我の内にも入らない。

 物言いたげに煌の顔を見つめていたルシアは、背後からその体を囲うように手を伸ばし、彼女の顎を支えるように指を添えた。きょとんとした顔で振り払いもしないのをいいことに、上半身を屈める。

 何事かと動かずにいる煌のこめかみを、さらりと夜を切り取ったかのような前髪が撫でた。どんどん近付いてくる血のように真っ赤な双眸を、何処か現実味のない心地で見つめていた煌だったが、



「ひ、ぃ!?」



 ぬるり、と頬を襲ったぬめった感触に、上がった悲鳴をかみ殺す。



「な、ななな……………なぁ!?」



 傷のある方の頬を手で押さえ、言葉にならぬ声を発する煌。何だか頬が濡れている。

 真っ白になった思考で、自分の身に何が起こったのかを必死に考える。

 今、頬を襲ったぬるぬるしたのは何だ。

 ――――濡れているし、動物に顔面舐められた時に似ていることからおそらく舌だ。

 誰の舌だ。

 ――――顔を近づけてきていたことから、おそらくきっと多分ルシアの。

 つまり何だ。今、ルシアに頬を舐めらr



「ぁああああぁああああああっ!!」



 現状を把握した煌は、瞬時に強化魔術を練り上げ、目にも止まらぬ速さで背後へと蹴りを繰り出す。しかしルシアは体重を感じさせない身のこなしで後ろへ飛び退き、軽々と彼女の攻撃を躱した。

 着地し、顔を上げたルシアはまたも顔を顰める。



「色気のない声を上げるな」

「オレにそんなモンを求めるな!…………て、」



 突っ込みどころもそこじゃねェだろうがぁ!!

 やり場のない怒りをぶつけるように、大きな石を敷き詰めて出来ている校舎の床を、どかどかと力任せに踏みつけ蹴りまくる煌。丈夫で硬い筈の床は、まだ煌が魔術を解いていなかったせいか、放射線状に大きなひびが入っていた。修理にいくらかかるのだろう。脳裏に半泣きでそろばんを弾く理事の姿が浮かんだが、そんなものを気にしている余裕はない。だって舐められたのだ。動物ではなく、人型の男に!



「いきなり何しやがんだこのセクハラ魔王!」

「前もって言えばいいのか?」

「良くねーよ!」



 首を傾げたルシアにがおうと吠える。流石に疲れてきた。



「何をしたのかと言うなら、お前の傷を舐め「あぁあああ!」何だ」

「黙れそれ以上言うな!!!」



 何わかりきったことを、という声色で口を開いたルシアの言葉を遮るように煌が叫ぶ。

 ルシアはますます訳が分からない。彼はただ、煌の傷が早く塞がるようにと傷口を舐めただけだ。魔族の体液には、わずかながら治癒を早める作用がある。それなのに、煌は顔を赤くして拒絶する。何か怒らせるようなことをしただろうか。あまり変わらぬ表情の下で、ルシアは不思議そうに煌を見る。

 その時。



「おぉ、ルシアやん。ひっさしぶりやなぁ!」



 突如響いたカークの明るい声に、煌とルシアは揃って彼を見た。満面の笑みを浮かべたカークと、困惑顔の莉央が目に入る。しゃがみこんだ莉央の手はひび割れた石造りの床に添えられているが、もしや修復でもしようとしていたのだろうか。学園の建物は魔術の効果を打ち消す術が施されているので、おそらく意味はないが。

 煌はそこで自分たち以外にもこの場にいることをようやく思い出した。一瞬でも忘れていたことに愕然とする。しかしルシアに至っては気付いていても無視していたらしい。つまらなさそうに頷き返している。

 それより、



「カーク、王様と知り合い?」



 立ち上がった莉央が隣に立つカークを驚いた顔で見上げている。



「お友達っちゅー奴や。なぁ、ルシア」

「貴様と友人になった覚えはない」



 笑顔で言うカークに、対する話を振られたルシアは無表情に吐き捨てる。しかしカークはそんなことまったく気にしていない様子で、あいかわらずやなぁ、と苦笑するのみ。

 煌は思わずルシアとカークの顔を見比べた。無表情で何を考えているのかさっぱりわからない魔王ルシアと、見た感じお調子者で考えがすぐに顔に出そうなカーク。正反対のタイプに思われるこの二人が、いったい何処でどんな理由で知り合ったのか、見当もつかない……………いや、一つだけあった。



「わいらは戦場で会ったんや」



 もちろんルシアが上司でわいは部下やったんやけど。

 カークが煌の考えを読み取ったかのように説明する。それは彼女の予想と一致した。

 煌は思わず頷いた。最近まで魔界は現魔王であるルシアと前権力者との間の争いが盛んだったという。

 に、しても、



「お前に親しい奴がいたなんて……………」



 世の中広いもんだな、とルシアを見ながらしみじみ呟く煌に、ルシアは眉をわずかに寄せて視線を送る。



「どういう意味だ、煌」

「言ったまんまの意味だけど魔王サマ?」



 普段滅多に呼ばない名前を付け加えたルシアに、煌は仕返しとばかりに笑顔で返す。

 煌とルシア、二人の間に不穏な空気が流れる。

 そんな二人の様子を、カークは内心にやにやしながら見ていた。あの、敵だけでなく味方にも容赦のない冷酷無慈悲だと恐れられ、何事にも表情を変えないと言われている魔界の王が、ただ一人の人間の娘に感情をあらわにしているとは。

 魔界で身近に仕えている者達でさえ、彼の表情を変えさせることはおろか、まともに会話が出来る者すらそういなかった。そんな者達よりはまだ距離が近いと自分で思っているカークでさえも、今のようなノリで話せるようになるまで十年かかった。それを、今目の前でルシアと睨み合っている少女はたった二週間で、いやこの様子だと出会った当初から成し遂げている。ルシアがここまで感情らしきものを表面に出しているところなど、自分ですら見たことがないというのに。そもそも睨み合いなど論外だ、心臓が止まる自信がある。

 これが、魔界を担う王がただ一人選んだ彼の守人。傍にいることを許し、共にあることを願う存在。


 ――――メロメロにもほどがあるやろ……………や、わいも人もこと言えんか。


 普段のガラス玉のようなルシアの瞳を思い浮かべ、苦笑する。



「どうしたの?カーク」



 目の前の光景に目を丸くしていた莉央は、突然笑い出したカークに視線を移して不思議そうに見上げる。

 ん?と反応を返したカークは彼女を見下ろし破顔した。



「あの二人、えらい仲えぇなぁ、と思ってな」



 くしゃりと頭を撫でられた莉央は彼の答えにぽかんとしたが、すぐに満面の笑みに変わる。



「うんっ、そうだね!」



 何だかんだ言っていてもあの二人は仲が良い、と嬉しそうに煌とルシアに視線を戻した。視線を前に戻すと、一時休戦としたのか睨み合うのをやめた煌とルシアが近付いてくる。



「いいか莉央、これからは一人の時は気をつけろよ。またいつあんなのに絡まれるかわかんねぇかんな。出来るだけそのカークとか言う誓人から離れるな」

「ぅ、うん。わかった」



 やけに真剣な顔で言われた莉央は、少々戸惑いながらもこくりと頷いた。それを辛抱強く待って確認した煌は、満足そうに頷く。それにカークが「莉央のことならわいに任しとき!命に代えても守るさかい!」と自信満々に胸を叩いたが、「あんま信用ならねぇな、ノリ軽すぎだし簡単に命に代えてもとか言うし」と一刀両断され、見事に撃沈した。

 無言で見守っていたルシアがぽつりと呟く。



「お前は下手な男よりも男気があるな」



 それに煌は腕を組み、褒め言葉だな、と不敵に笑う。

 莉央とカークの笑い声が廊下に響き渡った。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ