2-1
なかば無理矢理にルシアと誓約を交わしてから二週間後。煌は久しぶりに自身の所属する教室へと足を運んでいた。実戦の成績はトップである彼女が所属するのは、成績優秀者が集められている特Aクラス。今まで授業に出ず何をしていたのかというと、学校の裏にある山などに籠ってこっそり修行を行っていたのだ。言ってしまえばただのサボりである。
基本彼女は、体を動かす授業にしか出席しない。歴史などは論外で、時折魔術や魔導具に関する授業に気が向けば出席するレベルなので、当然筆記テストは毎回赤点だ。さらにその上、売られた喧嘩は倍、またはそれ以上で返したりするので結構な頻度で騒動を起こし、会ったことはなくとも全校生徒が名前と噂話を一つは知っている、という校内随一の問題児だ。それでも退学にならないのは、そもそも魔道学校に退学という制度がないということと、何より座学以外に関しては比較的上位の成績を保持している為である。決して理事の職権乱用ではない。
そんなある意味校内一の有名人である煌は、校内の廊下を眠そうに大きな欠伸をしながら歩いていた。周囲からの好奇な視線がぶすぶすと痛いほど体に突き刺さる。それは主に、足を踏み出すたびに揺れる髪や、眠たげに細められている瞳に注がれている。しまいにはこそこそという囁きまで耳に入ってくる始末だ。
煌は思わずため息を吐いた。誰かとすれ違うたびにこうなのだ。どうせなら堂々と、本人に向かって言って欲しいものである。こそこそと陰で言うのは、弱い者がすること。正面から来たなら嬉々として返り討ちにしてやるものを。
煌は気付かない。噂されているのは自身のその、中性的な容姿であることを。
煌は知らない。“柊煌”という名前は知っていても、容姿までは知らない生徒が多数いることを。
皆に注目される中、やっと己の教室に辿り着いた煌は、ガラッと勢い良く前の扉を開ける。ざわざわと騒がしかった教室内が、一瞬にしてシーン……と静まり返った。一斉に入口に注目する。
煌はそれに一切頓着せず歩みを進めると、己にあてがわれた席にドカリと腰を下ろす。
すると、まるでそれを待っていたかのように三人の女子生徒たちが彼女の机を取り囲んだ。周りの生徒たちはまるで他人事のように振る舞っているが、視線はちらちらとそちらに送られている。
「柊さん?貴方、やっと誓約を交わすことが出来たそうね?」
うちの一人――女子Aとでもしておこう――が腕を組み、見下したように座った煌を見下ろしながら話しかける。彼女たちは煌が教室に現れると毎回何かと嫌味をぶつけてくる存在だ。いわく、誓約すらまともに交わせない脳筋が特Aクラスにいるのが理解できない許せない、誓約すら交わせないほど落ちこぼれなのに理事長の関係者だからと図に乗るな、とか。彼女たちに興味関心のない煌は、いつもなら全て無視して聞き流しているのだが、今回ばかりは少し違った。
「………それが?」
ぎろりと鋭い、殺気すらも籠っているようにも思える眼差しで、三人を睨み付ける煌。嫌なことを思い出させるな、とでも言いたげだ。
そんな煌の視線に、彼女たちは一瞬怯えたように体をビクつかせる。
「ぁ、貴方みたいな人と誓約を交わすような人なんだもの、きっとろくでもない人に違いないわね!」
声を恐怖に震えながらも嫌味を叫んだ女子Aに続き、そうよそうよ、と他の二人もしきりに相槌を打つ。
それに、煌は思わず黙り込んだ。
確かに、ルシアは色々とろくでもない奴だろう。何せ魔王だ。他にも守人の意思も何もお構いなしに何処にでも――トイレや風呂にまで付いてこようとした時にはさすがに蹴り出したが――引っ付いてくるわ、考えていることはさっぱりわからないしで最悪だ。確かに彼は誓人なのだから、常に守人の傍に控えているのは何もおかしいことはない。むしろ当然のことと言えよう。が、物事には限度というものがあるわけで。守人というものには、自由というものがないのか。プライバシーの侵害にもほどがある。
ルシアのことを思い浮かべ、煌の表情がだんだんと険しくなっていく。
女子三人は無言を肯定と取ったのか、満足げな顔をしている。が、次の瞬間彼女たちの表情は見る見るうちに恐怖へと染まっていった。
それに気付いた煌は顔を上げると、不思議そうに教室内を見回した。教室中の生徒たちの顔が、皆彼女たちと同様に恐怖に歪んでいる。
彼女はこの表情を見たことがある。たとえば、そう、二週間前の理事とか………………
「………此処にいたのか」
背後に新しい気配が湧く。それはここ二週間のうちにすっかり馴染んだものだった。
煌は少々、いやかなり不機嫌な声で一言呟いた。
「………げぇ、見つかった」
心底嫌そうに顔を顰める煌。そのまま椅子の背もたれに背中を預け顔を後ろに向けると、目の前が真っ黒になる。よくよく見るとそれは真っ黒い生地の服だ。そのまま視線を上げていくと、何処か不機嫌そうなオーラを身に纏ったルシアの顔があった。それはもう、出会ってこの二週間で見たことがないほどに。
「し、ししし【死神王】だ!?」
「何でこんなところに!?」
教室内の男子たちが騒ぎ出す。そして今の今まで煌に嫌味を言っていた女子たちを含め、生徒たちは一斉に壁際まで避難する。一糸乱れぬ動きだった。教室の中央にいる煌とルシアを中心に、半径二メートルほどの円形状の空間が出来上がった。中には椅子や机などで、一瞬でバーケードを築き上げた強者までいる。さすがは特Aクラス、器用に魔術を使う、といったところだが、この労力を他に回せないものだろうか。
「嫌われてんなァ、お前。つか、よく此処がわかったし入って来れたな。此処一応、対天魔族結界が張られてんだけど」
今回は逃げ切れたと思ったんだけどなぁ、とつまらなさそうに上半身を机上に投げ出し、ふてくされる煌。
そんな彼女に、ルシアは一切表情を変えずに言った。
「あれぐらいのものなら、力を注ぎこめば簡単に決壊する。それに何度も言うが、俺はお前の誓人だ。この敷地内ぐらいなら、力を辿れば場所などすぐ特定できる」
「じゃあオレも何度も言ってるが、オレに自由はないのかよ!?」
お前はオレを監視してんのか!?オレの自由を返しやがれ!
勢い良く体を起こすと、煌は後ろを振り返りルシアに向かってがおぅと吠える。
その瞬間、教室内の空気がピシリと固まった。
彼女は何故、あの【死神王】にあんな物言いなのだ。聞いている方の寿命が縮んでいく。
そんな周囲の心境など露知らず、煌とルシアは睨み合っていた。
「わざわざ人が用事で目を離した隙にいなくなっておいて何を言う」
「あんな四六時中べったりされたら嫌になって当然だろうが!」
オレのしたことは何も間違ってない、おかしいのはお前の方だ!と喚き散らす煌。
ぴくり、とルシアの眉間が動いた。
そんな彼の行動一つ一つに、生徒たちはいちいち竦み上がった。中には悲鳴を上げ、あまりの恐怖に気絶する者もいる。
ぎゃんぎゃん騒ぐ煌から、やれやれ、といった様子で視線を逸らしたルシアは、ふと、教室内を見回した。そして、とある場所で動きを止める。
煌はそれを不審に思い、喚くのをやめてつられるように彼の視線の後を追った。辿り着いた先にいたのは、三人の女子生徒。先程煌の机を取り囲んでいた者達だ。ルシアの感情の籠らぬ眼差しに怯えているのか、目に見えるほどにガタガタと震えている。
「お前と言葉を交わしていたのはあれか?」
「“交わす”ってほど喋ってないけど……………てか、何で知ってんだお前いなかっただろ」
確かめるように見下ろしてきたルシアに興味なさげに返した煌だが、はたと聞き返す。しかしルシアはそれに答える様子はない。唇を尖らせた煌はじっと彼女たちの顔を見た。
彼女たちはそれはもう顔面蒼白だ。それでも気絶していないだけマシなのだろう。なんせあの、冷酷無慈悲と名高い魔界の王、【死神王】に睨まれて――本人に睨んでいるという自覚は全くないのだが――いるのだ。例えて言うならば、蛇に睨まれた蛙、といったところか。いっそ気絶してしまえた方が精神的にはいい気がするが。
と、突然ルシアは煌の襟首をむんずと掴み、そのまま引きずりながら三人の前に移動した。煌が苦しいだの放せだのとぎゃあぎゃあ騒ぎ暴れて抗議するが、全く聞く耳を持たない。
女子たちの前に着いたルシアは、手を襟首から頭に移動させ、煌を物凄い力で押さえ付ける。これにはさすがの煌も悲鳴を上げた。
「いだだだだだだだだっ!放せルシア!!この馬鹿力!!!」
「放したら逃げるだろう」
頭潰す気か!?と己を涙目で睨み上げてくる煌に、ルシアは仕方がないといった様子で手に込める力を少し緩めた。彼女が手を振り払うことは出来ない程度の力は残して。
それでも煌は何とか逃れようとバタバタ暴れる。しかしそれは無駄な足掻きらしく、ルシアの手が離れる気配はいっこうにない。
そんな彼女を心なしか呆れた眼差しで見ていたルシアは、思い出したように目の前でガタガタ震えている少女たちを見た。
「これと誓約を交わすとろくでもない、というのはどういう意味だ?」
直接ルシアに話しかけられ、ひぃっ!と息を呑む彼女たち。
何をしても無駄だ、とようやく悟り逃れるのを諦めて大人しくした煌は、そんな彼女たちを胡乱な目つきで見た。
どうして皆はこんなにもルシアのことを恐れるのだろう。ただ顔の造りが人形のように整っていて、無表情のせいでその人形っぷりに磨きがかかっているだけだと思うのだが。確かに彼から発せられる力は凄まじい。いるだけでも迫力がある。さすがは魔王だ。しかし、敵意も何もないのだから、それだけでここまで怖がらなくとも………………
「………何だ?」
己のことをじっと見つめている煌の視線に気付いたルシアが、彼女に視線を戻し、何処か困惑した色を声に乗せて問う。
その問いに、煌はハッと我に返った。そしてようやく自分がルシアの顔を睨みつけるように凝視していたことに気付く。
「いや、何も。あー………コイツらがあぁ言った理由は簡単。オレが問題児の上に体動かすのだけが得意で、しかも特Aのくせに中級レベルの力しか持ってねぇから。だろ?」
その場を適当に誤魔化すと、何やら言いたげなルシアの意識をこの話から逸らすため、女子たちに視線を戻して問う。彼女たちは凄い勢いで頷いた。
前に言ったように、特Aクラスは成績優秀者のクラスだ。何かに特出して秀でていたり、総合成績の上位者が集められている。煌の場合は実戦授業だ。武術魔術、使えるもの全てを使って魔物を狩ったり対人戦を実際に行う授業。その中でも魔術をあまり使わずに参加する煌は、魔道学校に通っているくせに魔術の苦手な落ちこぼれ、という認識をクラスメイトからされていた。
それにルシアは怪訝そうに目を眇める。
「中級?それはないだろう」
彼は確かに感じた。煌の蹴りを受け止めた際、その足から迸る多大な力を。もしその力が緊急的に編み上げられたほんの一部なのだとしたら、並大抵の人間では比べ物にならない程の力と技能を持ち合わせていることになる。
それを聞いた煌はぽりぽりと頬を掻いた。
「………あ~、やっぱバレたか。他の奴は騙せても、まぁお前は無理だわな」
誓約交わしちゃってんだし、と遠い目をしてぼやく煌。
彼女が最も得意としているのは、己の体一つ、単身で相手とやり合うことが出来る体術だ。しかし彼女の場合それはただの体術ではなく、体中に力を張り巡らせている。簡単に言えば、全身に送った力で体に刺激を与え、攻撃力はもちろん、スピードや防御力までも増幅させるという、体術と魔術を混ぜ合わせたもの。問題は能力が上がる分体にかかる負担が大きいことと、常に力を全身に送り続けなければならないのでかなりの力を消費するということである。しかしこのおかげで、女だてらに屈強な男と同等以上の戦いが出来るのだ。
遠距離なら通常の魔術を使い、接近戦となればこの強化魔術と体術剣術などを織り交ぜる。強化魔術が煌のオリジナルのものなので、彼女独自の戦闘スタイルだ。
力が異常なほどに高いと知れれば色々厄介なことになると考えた煌は、理事と話し合い、随時体から溢れる力を道具を身に着けたり可能な限り抑制し、実戦の時にも極力魔術を使わず、仕方のない場合は初級魔術や中級魔術を使うようにして、その事実をひた隠してきた。魔力量の多い学生は、卒業すれば半ば強制的に王城にスカウトされることが多い。権力だの国だのに興味のない煌からしたら面倒事でしかない。
しかしこうなってしまっては仕方がない。ルシアという存在と誓約を交わしてしまったのだ。厄介ごとの一つや二つは変わらない。それに、どうせいつかはバレる。隠し事は永遠に隠しておけるものではない。それが少し早まっただけのこと。
しかし、である。
「お前と誓約交わしたってことで、既に魔力量に関してはバレてると思ってたんだがな」
洗いざらい全て白状した煌は不思議そうに首を傾げた。誓約というものが確立されてから長い時が経ち、昨今の誓人と守人は互いの魔力量が多少釣り合っていなければ誓約を交わせなくなっている。守人よりも誓人の方が魔力量が上なのは当然で、その差が大きければ守人への負担が大きくなるのだ。人間の体は脆い。
つまり、歴代最強の魔王と謳われるルシアと誓約を交わそうと思えば、かなりの魔力を持っている人間でないといけない。そして煌は彼と誓約を交わした。つまり、そういうことである。
指摘されて初めてそのことに気付いたクラスメイトは愕然とした。なぜ、そんな基礎的なことを忘れていたのだろう。掘り出されていく煌の新事実に、ただただ唖然とするばかりである。
きっと明日には全校中に広まっている事だろう。
「でもまぁ、これでオレは校内で隠してることは何もなくなったわけだ」
おかげでもう色々と手加減しなくていい。と実に晴れ晴れとした顔で言う煌。実を言うと夢中になって何度かボロが出そうになったり、生徒同士の実習で思わず本気になりかけたことがあったりしたのだ。
そんな彼女に今度こそ完全に呆れた空気を身に纏ったルシアは、その頭から手を離してやる。
やっとのことで解放された煌は、ゴキゴキと首を鳴らした。どうやら思いのほか首に来ていたらしい。
不本意だが誓人を連れての初登校。その瞬間、校内一の問題児である柊煌と【死神王】ルシアの主従は、生徒たちの間で超危険人物であると認識された。