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魔王の守人  作者: 木賊苅
1部
19/33

6-3


 両手で頭を抱え込み、上体を屈めている煌の姿を見下ろしたローズクイーンは、あともうひと押しかと彼女の正面に移動し、その血の気が引いて青白い頬を閉じた扇子で撫でた。



「遅くはない。今からでも妾の物になると一言言えば………………っ!?」



 勝利を確信し、くすくすと楽しそうに笑っていた彼女の顔が固まる。

 この、とてつもない力の奔流は何だ。何処から来ている?

 慌てて煌から体を離し周囲を見回し、力の源を探す。その視線が、ある一点で止まった。ローズクイーンの目が、これ以上ない程に見開かれる。

 彼女の視線の先にあるのは、荒い息で頭を抱えて震えている煌の姿。

 と、次の瞬間。



「あ゛ぁァアアア゛ア゛ア゛!!」



 煌が体を仰け反らせて叫ぶと、体内で燻っていた大量の魔力が一気に体外へ溢れ出し、爆発した。凄まじい衝撃波が玄関ホールを襲う。

 ローズクイーンはすぐさま後ろに跳び、直撃を免れた。扇子で顔を庇い爆風をなんとかやり過ごし、薄く目を開けて様子を窺う。

 煌は一人、渦巻く大気の中心に立っていた。だらりと両腕を下げ、俯いた顔は見ることが出来ない。



「こ、煌君……………?」



 今の衝撃で床に倒れこんだカークにしがみ付き衝撃をやり過ごした莉央は、目の端に涙を浮かべたまま呆然と煌を見た。しかし、彼女からの反応はない。もう一度声をかけようと口を開くが、



「はようその者を捕えよ!」



 莉央は言葉を発するより先にローズクイーンが手下に指示を飛ばした。表情が悔しげに歪む。まさか此処までの力を持っているとは、思いもしなかったのだ。

 莉央とカークを取り囲んでいた魔族達が、主からの命を受け煌に襲い掛かる。

 ふ、と煌が顔を上げ彼らを見た。

 感情も意思も何もない、ガラス玉のような空虚な瞳と目があった者は、全身を襲う悪寒に総毛立つ。思わず一瞬目を逸らし、戻した時にはもう彼女の姿はそこにはない。何処に消えたのかと困惑していると、突然背後から斬りつけられる。

 一瞬にして一人が戦闘不能になり、周囲に動揺がはしった。ふわりと体重を感じさせない動きで床に着地した煌は、いまだ感情が読めない。ただ手に持つ血の滴った剣が、先ほどの現象は彼女がやったものだと思い知らせる。

 再び、床を蹴った。



「ッひ!?」



 戦闘種族である魔族の彼らは恐怖から息を飲み、その場で体を硬直させた。煌は瞬き一つでその背後に移動すると、彼らを淡々と斬りつけていく。急所は外されているのか、床に倒れ伏しても誰も意識を失わない。が、このまま放置し続ければ失血多量でどちらにしろ死んでしまうだろう。



「―――――――ッ!!!」



 声にならない声を上げる煌。頭を抱えて上半身を縮めて、まるで何かに怯えているようだ。

 その時、三つの影がその場に現れた。ルシアに理事、そしてユーファだ。理事とユーファは現場の状況に呆然とし、ルシアはわずかに顔を顰める。

 ユーファが慌てた様子でカークに駆け寄った。カークの首筋に手を当てる。力強い脈を感じ、心配そうに見つめてきている莉央に頷いて見せた。



「周防さん、これは一体何が……………」



 困惑を隠しきらない様子で莉央に問いかける理事。莉央は眉尻を下げ、首を振る。



「わ、私、煌君と一緒に買い物行こうって約束してて。それで煌君待ってたら、急に襲われてっ。私を守りながら戦ってたせいでカークはボロボロだし、よくわからない術かけられて反応してくれないし、私、怖くなって。そしたら今度は、煌君があんな風に…………………」



 頭の中がぐちゃぐちゃに混乱する。実際のところ、莉央にも何が起こっているのかわからないのだ。襲われた理由も、煌の様子がおかしい理由も。



「とにかく今は、煌ちゃんと止めないと…………………」



 傍らに立つルシアを見上げた理事が、思わず口を閉じる。背に何やら冷たい物が滑り落ちた。彼の瞳が、いつになく紅く輝いている。

 隣で怯えている理事のことなど意識にも留めず、ルシアはある一点を睨み付けて低く唸る。



「何故貴様が此処にいる…………………ローズクイーン」

「実の母に対し、貴様はないと思うんじゃがの。我が息子よ」

「俺は貴様らを親だと思ったことは一度たりともない」



 鼻を鳴らし答えるローズクイーンに、ルシアは忌々しげに吐き捨てる。

 両者はしばし睨み合った。沈黙を先に破ったのはルシアだ。



「あいつに何をした………………いや。言った、か?」



 ローズクイーンから片時も視線を外すことなく問う。

 その言葉に、ローズクイーンは楽しげに口角を上げた。



「そなたが何かに心を向ける日が来るとはのぅ。そんなにあの娘が大事かえ?」



 頭を抱えて身動き一つしない煌に閉じた扇子の先を向ける。全員の目が彼女に注がれた。

 ルシアは煌に目を向け、もう一度ローズクイーンにやると、視線を戻す。



「………………あぁ。とても、大切なものだ」



 ――――魔王としては失格だとわかっていても、魔界よりもこの命よりも、何にも代えがたい大切な人。



 皆が言葉を失くしている中、ルシアは目を細め、とても愛おしいものを見るように煌を見つめる。

 だから……………



「貴様の始末は、あいつを落ち着かせた後だ。あいつを傷つける奴は、俺が赦さない」



 その間にせいぜい逃げているといい、とルシアは向き合っていたローズクイーンから完全に背を向けると、煌と正面から向き合う。

 と、その時。



「っぐ………ぁ、う゛ゥ……………っ」



 煌の様子が変わった。恐怖を耐えるような叫びから、何かを抑え込もうとする呻きへと。

 皆の視線を受ける中、煌は突然脱力し上半身をだらりと下げた。ぴくり、と肩を震わせ、ゆっくりと上体を起こす。

 顔が正面へと向けられた瞬間、理事、ユーファ、莉央の三人は息を詰めた。



 煌の瞳の色が変わっている。深い海を思わせる蒼から、日光を切り取ったかのような金色へと。

 煌は自身の掌を見下ろし、それを何回か開閉すると、よしと呟いた。顔を上げ、不機嫌そうに眉間に皴を寄せているルシアに不敵な笑みを浮かべる。



「こうして相まみえるのは久方ぶりだな、殿下。いや、今は王か。随分と様子が変わったものだ」



 それもこいつのおかげか、と煌はその胸をとんと親指で叩く。次に、忌々しげに顔を顰めているローズクイーンへと視線を移した。



「そして前王妃。貴様は相変わらずと見える」



 あえて“前”を強調してにやりとあくどい笑みを浮かべる。

 びきり、とローズクイーンの持つ扇子に大きなひびが入る。



「獣如きが、随分な口のきき方じゃのぅ、獣王」



 苛立ちを隠すことなく、むしろ殺気を込めた眼差しで煌を睨む。

 部外者のような状態になっている三人は、一体何が起こっているのかと顔を見合わせる。完全に蚊帳の外だ。そこでユーファが何かを思い出したように、ぁ、と声を漏らす。



「獣王と、まさか………………」



 獣王。それは魔界最強と謳われる、白き毛並を持つ魔獣。しかしそのあまりにも強大な力とは対称に、戦いをあまり好まないという、魔獣にしては変わった考えを持つことで有名だ。

 ローズクイーンの嫌味に堪えた様子もない煌は、つまらないと言わんばかりに大きな欠伸をした。



「もうその名は捨てた。今は、こいつがくれた“雪華”だ。いい名だろう。俺の毛並からとったらしい」



 何処か誇らしげに胸を張る煌―――――いや、雪華。

 ローズクイーンの扇子を握る力が更に強くなった。ひびは更に広がり、小さな欠片が床へと落ちていく。

 そんな彼女を見て笑みを深めた雪華は、すぐにルシアへと視線を戻す。



「まぁ、今はそんな戯言を交わしている場合ではない。なぁ、王よ……………」



 すぅ……っと雪華の目が険しく細められる。その、まるで狼が獲物を追い詰める時のような視線に、莉央は自分が見られているわけでもないのに身震いした。見た目は同じ煌なのに、普段の彼女より何倍もの威厳と迫力がある。



「こいつは見ての通り、我を失い魔力を暴走させている」



 何故かわかるか、と雪華はルシアに視線で問い掛ける。ルシアは相変わらず沈黙したままだ。しかしそんなことは気にせず、彼は先を続けた。俯き、胸元の衣服を握りしめる。



「叫んでいる。心の中で、ずっと。オレのせいだ、と。オレがいなければ、こんなことは起こらなかったのか、と」



 悲痛な声で泣いているのだ。表には一切出さず、ずっとずっと心の中で。そんな負の感情が抑えきれなくなり、そして魔力という形で暴走した。



「だから俺が出てきた。俺がこうして表層意識に出てきている間は、俺がこの体を操ることが出来るからな。魔力の方もまた然り。ただ、俺が引っ込んだ後の今のこいつは自我を意識の奥底に沈めた状態で、いわば本能の塊だ」



 敵意を向ければ容赦なく牙を剥く、と周囲に転がった魔族たちに目をやった雪華は、不意に顔を顰め右手で目を押さえる。小さく舌を打った。

 皆が怪訝な視線を送る中、彼は文句を言うようにぶつぶつと呟く。



「相変わらず力が強い………やはり無理矢理では、そう長くはもたないか。出来るならもう少しもっていて欲しかったが……………こればかりは、仕方がないな」



 はぁ、と深い溜息を吐いた。目元を押さえていた手を外す。

 瞳が蒼と金、二色交互に点滅している。その異様な光景に、莉央と理事は言葉を失くした。



「残念ながら時間だ。本音を言うとそこの元凶を噛み殺してやりたい気分だ……………仕方がない。後は任せたぞ、王。何もしてやれない俺の代わりにこいつを………煌を止めてやってくれ。ぎりぎりのところで内側に引きずり込んだから今はまだもっているが、このままでは……………………」



 煌の魂が、修復不可能なほどに壊れてしまう。



 告げられた言葉に、莉央達は息を飲んだ。ローズクイーンが、雪華が現れて初めて笑みを浮かべる。

 ルシアは無言で頷いた。



「約束、だ。俺の封印が完全に解けるのは、何もなければこいつの命が尽きる時。もし万が一、近いうちに封印が解けたりなんぞしたなら、俺が直々に八つ裂きにしてくれる。だが、まぁ、」



 俺より先に、こいつに刻まれるかもしれんがな。

 訝しげに眉を寄せる周囲に、にやりと口元に笑みを乗せ、



「せいぜい耐えろよ、王よ!」



 楽しげに叫んだ雪華は、ゆっくりと目を閉じた。

 一瞬の静寂が玄関ホールを包み込む。

 そして、



「あ゛ァああああああああ゛ぁぁ゛!!!!!!」



 体を仰け反らし、頭を抱えて絶叫。前置きなく発せられた叫びに、数人が肩をびくりと震わせる。

 叫びと共に放たれた目に見えぬ衝撃波により、窓という窓が砕け散る。降り注ぐ大小さまざまなガラスの破片を、ローズクイーンとルシアは危なげなく炎で消し去り、莉央達はユーファによって築かれた結界に守られた。

 と、叫ぶのをやめ、上半身をだらりと俯かせていた煌の姿が消える。直後、一帯に金属が激しくぶつかり合う音が響き渡った。



「煌……………っ!」



 振り下ろされた剣を己のそれで間一髪防いだルシアが低く唸る。目の前には、何の感情も移さない深い蒼。

 ぎりぎりと音をたてて為される鍔迫り合いの後、煌は床を一蹴して大きく間合いを取った。無言で正面に構える。

 ルシアは苛立たしげに眉を寄せた。ちらりと手元に視線を落とすと、右の肘辺りの袖がすっぱりと裂かれている。ほんの少しでも反応が遅かったなら、右腕は持って行かれていたに違いない。

 ふ、と口元が目に見えて歪む。実の母親であっても見たことがない、彼の獰猛とも思える笑みに、その場にいた全ての者の背に冷たい物が滑り落ちた。



「止めたくば倒せ、か?いいだろう」



 右手に持つ剣の先を煌へと向ける。

 まだひと月も経っていない、バトルトーナメント後の炎鷲の言葉と、先ほどの雪華の言葉が脳裏に蘇る。

 本能の塊になった状態で、敵意を向けていない自分に襲い掛かってくるのなら。止めてくれと、彼女が願うなら。自分ならそれが出来ると、彼女に認められているのなら。

 喜んで、相手をしよう。他の誰にも、この役目は渡さない。



「十年ぶりか……………遊んでやる。来い」



 まっすぐに煌を見つめ、言う。

 これが合図になった。

 前傾体勢の煌が床を蹴り、一直線にルシアへと突っ込む。大きく振りかぶり、彼の脇腹目がけて打ち込んだ。

 ルシアはそれを難なく受け止める。

 が、



「炎拳………」



 がら空きとなった胴を、至近距離から炎を纏った煌の拳が襲う。噛み合った剣を煌と共に弾き飛ばし、その勢いを利用して下がることによってその攻撃を避けるルシア。裾が炎に炙られ軽く焦げる。

 しかし煌の攻撃は止まらない。

 膝をつくことなく着地した煌は、手を剣身に添え、足を肩幅に開いて構えた。



「火炎双蛇……………」



 二匹の巨大な蛇が剣身から勢いよく飛び出す。大きく口を開け、ルシアを飲み込まんと躍りかかった。

 対するルシアもそれらに掌を向ける。



「水砕。川を流るる激流の如く」



 掌の前の空間から、突如大量の水が溢れ出す。水は二匹の炎の蛇を優々と呑みこむと、そのまま煌へと向かう。

 煌は両手を前に突き出し、足を踏ん張って不可視のバリケードを築き上げる。が、堪え切れずに砕かれ、彼女の姿は激流に呑みこまれ消えた。



「捕えろ」



 ルシアが突き出していた掌をぐっと握り締める。煌を飲み込んだ水の奔流は彼女を中心に集まり、大きな球体の形状をとった。

 しかし次の瞬間。水の球体は勢い良く弾け飛び、中から風を身に纏わせた煌が飛び出した。音なく降り立つと、再び剣を構える。

「…………相変わらず、タフだな」



 思わず呆れた声色で呟いたルシアも構え直した。さて、今度は此方から仕掛けるとしようか。






「なんでぇ………?何で煌君は、王様ばっか……………二人は守人と、誓人なのに…………っ」



二人の戦闘をユーファの結界の中から呆然と見つめていた莉央が、ぎゅぅっとカークの服を握りしめながら、今にも泣きだしそうな顔で呟く。事実、目には一旦は収まっていた涙が再び滲み、声は震えていた。

 だって、守人と誓人は言わば互いが半身のようなモノ。契約したその瞬間から、片方の生涯が終わるまで続く関係。そんな二人が殺し合う勢いで刃を交えるなんて。

 そんな彼女の肩に、傍らにしゃがみ込んだ理事がそっと手を置く。莉央が顔を上げると、彼もまた悲しそうな悔しそうな目で二人の攻防を見つめていた。



「きっと心の何処かで、彼なら自分を止めてくれると思っているんだろうね。彼だけに向かっていっているのはきっと、彼を信じているからだよ。煌ちゃん自身は、気付いてるかどうかわからないけど………………」



 そして莉央を見下ろし、痛ましげに小さく笑った。

 莉央はその言葉に、再び目の前で繰り広げられる凄まじいやり取りに意識を向ける。

 信じているからこそ、命を預けることが出来ると思えるからこそ、彼女は彼へと向かっていく。

 次いで腕の中のカークに視線を落とす。彼一人ならきっと、あれだけの人数は軽くあしらえた筈だ。なのに、自分を守り全身ボロボロになってしまった大切な自分の誓人。彼はいまだに目を覚ます素振りを見せない。

 そっ、とカークの傷付き血に濡れた手を握る。両手で包み込んで、頬を寄せた。



「カーク……………………」



 お願い、目を覚まして…………………………

 瞬いた彼女の眦から、一筋の雫が零れ落ちた。






 火が、水が、風が。さまざまな物が煌とルシア、二人の間をいくつも飛び交う。

 音を立てて二つの剣がぶつかった。目の前の煌と目があったルシアは、思わず息を止めた。他の者も、動きが止まっていることで見ることが出来る彼女の顔を見て目を見開く。

 煌の瞳から、ぽろぽろと止めどなく溢れ零れ落ちているのは………………



「……の…ぃ……………」



 小さな声で紡がれる言葉。初めこそ聞き取りにくかったそれは、段々と声量が大きくなっていき周囲の耳にも入る。



「オレの、せいだ……父さんが、母さんが、ルーナがいないのも………、………が怪我したのもいなくなったのも、カークが倒れてんのも…………!全部全部、全部、オレの………………!」



 今まで聞いたことがないような、弱弱しく震えた声。

 雪華によって意識の底の方に沈められた彼女の心が、垣間見えた瞬間だった。ルシアと刃を交えることで、彼の思いが届いたのか。

 この言葉に、ユーファと理事の二人が驚いたように目を瞠る。ルーナというのは、彼女の両親の誓人だった者の名だ。その名を口にするということは、つまり――――……



「記憶が戻った、のか…………?」



 こちらもわずかに震えた声で、ルシアが呟く。しかし煌はそれが聞こえているのかいないのか、何の反応もせずに言葉を続ける。



「ずっと……一緒って約束、したのに…………なのに、みんないな、く………………」



 煌が無意識に今まで親しい者を作ろうとしなかった根底の理由の一つ。自分の近くにいた者は、大好きだった存在は、ことごとく消えてしまった。置いて行かれるのは悲しい。苦しい。なら、初めからそんな存在を作らなければいい。幼かった彼女は寂しいと訴える心に蓋をした。壊れなかったのは、記憶を失ったことと、たとえ拒絶されようと食らいついた理事やユーファの存在があってこそか。

 何はともあれ今の状態は、彼女の中の闇の部分を取ってしまうチャンスだ。沈めた心と共に引き上げられた、封じ込められていた幼い彼女の記憶。

 煌の持つ剣から力が抜け、一瞬彼女の体が後退する。と、思ったら構え直してルシアの懐に飛び込むように、前へと足を踏み込む。切っ先が狙うのは、彼の腹だ。

 ルシアは虚を突くようなその攻撃を体を捩じって紙一重で避ける。剣先が服の脇腹部分に引っかかり、音を立てて大きく裂いたが気にしない。そのまま後ろへ跳び退ろうとした煌の剣を持つ腕を掴み、ぐいと力任せに引き寄せた。逃げないよう、上から覆い被さるように胸の中に抱き込む。

 しばらくは何とか逃れようと暴れ回った煌だが、次第に大人しくなっていく。ガシャン、と手から滑り落ちた剣が音を立てた。



「死んだのは、お前のせいではない。カークが傷付いたのも、あの女が命じたからだ。お前は何も悪くないし、俺の傷はもう痕も残っていない。だから落ち着け」



 煌、と名を呼び後頭部に手を回しぎこちなく撫でながら、ルシアは言い聞かせるように彼女の耳に囁く。

 ぴく、と肩を震わせるが、煌が抵抗する様子はない。ふるふると震える手を上げ、ぎゅっとルシアの背中の服を握り締めた。



「ル……ャ?」

「あぁ」



 弱弱しく呟かれた言葉に、ルシアは小さく頷く。少し体を離して、濡れて冷えている頬を両手で包み込むように視線を合わせる。

 濁ったガラス玉のようだった煌の瞳に、小さな光が灯っていた。



「置いてかれるのは、いやだ………………」

「あぁ、すまなかった」

「ひとりは………こわい」

「………あぁ」



 あぁ、これでもう大丈夫だ。再び涙を流し始めた煌の目の下を親指で拭い、ぎゅっと強く抱きしめる。



「傍にいる。もう、お前をひとりにはさせない。…………約束だ」

「ほんと、か………?」

「あぁ、真名に誓って」



 その言葉に、そっか、と煌の顔が安堵したように緩む。ゆっくりと目が閉じられ、ふっと体から力が抜けた。

 ルシアは崩れ落ちた体を慌てて支える。



「ごめ、ん……わすれてて、ごめん、な………ル、シャ………………」



 謝罪の声が段々と小さくなっていく。耳を澄ましてみれば、小さいながらもしっかりとした寝息が聞こえてきた。どうやら寝てしまったようだ。

 ルシアは小さく息を吐き、頭に頬を擦り寄せる。ようやく落ち着いてくれたという安堵と、辛い過去を思い出してしまったという苦さ、そして自分のことを思い出してもらえたという喜びが、ぐちゃぐちゃになって胸の内に広がっていく。

 完全に寝入ってしまった煌を抱え上げようと体を屈めた、次の瞬間。首の後ろに、鈍い衝撃がはしった。次いで襲う小さな痛みに眉を顰める。



「き、さま……………っ」



 殺気の篭った目で、ホールの隅に身を隠すようにして立っているローズクイーンを睨み付ける。首の後ろに手をやり、刺さっていた物を乱暴に引き抜いた。見るとそれは一本の真紅の薔薇。

 徐々に意識が薄らいでいく。茎の先に麻酔でも仕込んでいたのだろうか。体にも上手いこと力が入らない。がくり、と両膝をつき、せめて煌が傷付かないようにと彼女を自分の体で庇いながら、ルシアは床の上に倒れた。



「こ、ぅ………………」



 眦に残っている雫を指で掬い取る。



「なく、な………………」



 くしゃりと頭を撫で、ルシアの意識は完全に途切れた。それでも、煌を抱くその腕は彼女を守るかのように回されたままだ。

 ローズクイーンは口元に笑みを浮かべながら、かつかつと踵を鳴らし、倒れている二人に歩み寄った。



「さすがは守人。こやつの隙を、こうも容易く引き出すとは」



 新しい扇子で口元を隠しながらほっほと笑い、二人を見下ろす。泣いた跡の残る煌にふんと鼻を鳴らすと、ローズクイーンは幸か不幸か今頃意識を取り戻した数人の部下達に目をやる。煌に襲われながらも目を覚ました彼らは、運よく致命傷となる傷を受けなかった者達だ。



「他の厄介な者達が来ても面倒じゃ。撤退するぞ、こやつらも連れて参れ」



 はようせい、と動き出せて早々の命令に慌てる部下達に喝を飛ばすローズクイーン。

 魔族の一人が煌を担ぎ上げようと手を伸ばした。

 が、



 バチィッ



 彼女に指先が降れた瞬間、激しい電流のようなものに阻まれ、慌てて手を引く。

 結界だ。しかも並大抵の強度ではない。

 困惑した表情を浮かべ指示を仰いでくる部下に、ローズクイーンは忌々しげに顔を顰めた。



「獣王め、小賢しい真似を……………仕方がない、こやつだけ連れてゆくぞ」



 二人掛かりで肩を貸すような形で担がれているルシアに視線をやりそう言うと、現状を呆然と見守る事しか出来ないでいる莉央達に目をやった。



「縁があればまた会おうぞ、人間」



 ふ、と何も出来ない彼女達を嘲笑うかのように笑みを浮かべ、ローズクイーンとその手下達は、捕えたルシアと共に姿を消した。



「煌ちゃん!!」



 ローズクイーン達の姿が完全に消えたと確認し、ユーファが結界を解除すると同時、理事は転げるように煌へと駆け寄った。慌てて抱き起こし、異常はないか確認する。



「………良かった。本当に寝てるだけだ」



 聞こえてくる静かな吐息に、知らず止めていた息を吐き出した。そのまま横抱きにして立ち上がると、カークを看ているユーファと莉央を振り返る。



「とにかく、カーク君も医務室に運ぼう。話は二人が起きてからじゃないと無理そうだからね」



 その言葉に、ユーファと莉央は同時に頷いた。




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