6-1
ルシアがカークを引き連れ魔界へと帰ったあの日から十日目の夜。何かを振り切るように日中はがむしゃらに体を動かした煌が、いつものように眠りについた時だった。
――――……ぅ。こう…………煌、起きろ。
自分を呼ぶ声が聞こえ、煌は寝惚けた目を擦りながら体を起こした。大きな欠伸をして、重い瞼をこじ開ける。
ぽつり、と呟いた。
「……………何処だ、此処?」
そこは寝ていた筈の自室ではなく、一寸先もわからないような真っ暗闇の中だった。
とりあえず何があっても対処出来るよう、よっこいせとその場で立ち上がる。立ち上がることが出来るということは、少なくとも地面は存在するらしい。辺りを見回し、ぶるりと体を震わせた。寒さは感じない。が、どうも自分以外の生き物の気配を一切感じないというのは妙な気分だ。
と、その時。
――――やっと起きたのか。相変わらず寝坊助な奴だ。
名を呼んでいたのと同じ声が空間に響く。二十代半ば頃の、若い男の声だ。
「……………誰だ?」
きょろきょろと周りを見回して声の主を探すが、それらしき姿は見当たらない。それどころか、自分以外の物は相変わらず何も見えない。自分の姿だけは見えるなんておかしな闇だ、と首を傾げる煌。そもそも一体何処から話しかけてきているのか。
そんな彼女に、声の主は耐え切らない様子で笑いを噛み殺す。
「笑うな!」
――――くくっ、あぁ悪い。あまりに変わってないものだから、ついな。
何処かで言われたようなことを言われ、煌の怒りは徐々に鎮火していく。
「…………で?此処、何処だよ」
むすっとした表情で居場所のわからない相手を探す。此処まで馬鹿にされた態度をされると、さすがに腹が立つ。
――――そう怖い顔をするんじゃない。此処は、そうだな。言うなら、お前の心の中、といったところか。お前の心を、空間として具現化した。
「心…………?」
男の声に、煌はもう一度ぐるりと辺りを見回した。何もなくて、一筋の光さえも通さず、暗く深い、漆黒の闇。それが煌の心。どんな光も拒む、彼女の中の闇。
――――此処まで暗いと何も出来ない。だから、さっさと明るくしろ。
「いや明るくしろと言われても」
突然そんなことを言われても、一体何をどうしろと言うのだ。
明らかに困惑している煌に、男はこともなさげに告げる。
――――簡単なことだ。生きることを楽しめ。人を信じろ、自分を信じろ。そうすれば万事解決だ。
煌はますます眉間の皴を深めた。そんなこと、しろと言われて出来れば苦労しないだろう。しないのではない、出来ないのだ。人と深く関わることに、恐怖に近い感情を抱いている。信じ、裏切られることが怖い。心を許した人がいなくなるのは、きっと耐えられない。そもそも記憶もない。信じる相手を選ぶ基準が、わからない。
そこまで考えて、煌は思考することをふと止めた。なんか、物凄く消極的な方向に考えがいってないか。
思わす気分が沈んだ。
――――今、自分には記憶がないから無理だ、とか思っただろう。
男が呆れたような声で、ため息を吐いた。
「なん………」
――――何で考えていることがわかったのかって?お前と十年以上共にいるからな、顔など見なくともわかる。
驚き言葉を失っている煌に、男はごく当たり前のことのように苦笑を滲ませて言ってのけた。
十年以上一緒にいる?ありえない。記憶を失う前だとしても自分は五歳にもなってなくて、もちろんなくしてから今まで、今ある記憶の限りではこの声を聞いたことがない。
『まぁ手助けぐらいはしてやろう。お前には大きな借りがあるからな』
今まで空間に響くようにして聞こえていた声が、突然前方からはっきりと聞こえてきた。
ハッとして顔を上げ、目を凝らして前を見る。十メートルほど先に、真っ白い雪のような毛並をした大きな狼が立っていた。
『力を貸して欲しければ、心の中で呼ぶといい』
煌の近く、目の前まで歩み寄ると、狼は足を止めた。目の前まで来ると本当に大きく、目線が煌とさして変わらない。
『俺はいつもお前の中にいる。お前は一人じゃない』
闇の中でもなお、光り輝く黄金の双眸に見つめられ、煌は身動きが出来なくなった。絞り出すような声で問いかける。
「お前は、何だ……………?」
狼の目が細められる。それが何処か悲しげに見えて、煌は無性に居た堪れない思いに駆られた。
『俺の名は雪華(せっか)…………お前がつけてくれた名だ、煌』
それだけを言うと、狼の姿がだんだんと薄れていく。
「おい、ちょっとまっ………………!」
彼の体に触れようと手を伸ばすと、足から力が抜けてがくりと地面に膝をついた。そこでようやく、狼の姿が薄れているのではなく、自分の視界と意識が霞んでいっていることに気付く。
たった今教えてもらったばかりの名を叫ぼうとするも、声が出ない。
『忘れるな、煌。そして思い出せ。俺はお前のすぐ近くにいる』
再び深い眠りにつく寸前、狼の声が先程までより幾分優しくなったような気がした。