4-2
煌はトイレには行かず、医療棟の屋上にある小さな建物の上に大の字に寝転がっていた。少し強い風に髪が煽られる。しくりと傷口が痛むが、まぁこの程度は我慢できる。
それよりも、今、あの場に戻ることの方に抵抗があった。
「……………………何やってんだ、オレ」
何処までも無駄に澄んでいる青空を見上げ、長い溜息を吐く。
両親のことを莉央に口にされ、思わず逃げるようにして部屋を出て来てしまった。トイレに行くなんて下手な嘘を吐いて、付いてこようとするルシアを置いて。
「あれじゃ気にしてるって言ってるよーなモンだろ、馬鹿か」
改めて自分のとった行動に自己嫌悪。
おそらくあの理事のことだ。何故か懐いてくれている莉央に勝手に昔話をしているのだろう。別に隠すようなことでもないし、この近辺ではわりと知られている内容なので話されても構わない。どうせいつか耳にしていただろう話だ。魔族に襲われ、両親を失った子供の話。元々住んでいた場所が学園からそれなりに離れた場所にあったためか、噂話程度に過ぎず、子供の特徴など細かいことは伝わっていないようだが、遅くまで外で遊んでいるとこわい魔族に襲われる、といった言い聞かせを母親が子供にしているのを、入用の物があって行った近くの町で見たことがある。
そうだとするなら、と煌は思考する。
莉央も、今までの人のように同情や恐れの篭った目で見てくるのだろうか。変なことに巻き込まれたくないと、自分から離れていくのだろうか。
…………ならいっそ、その方がいい。一人でいる方がマシだ。そもそも自分は一人を望んでいたはずで。
「オレのせいで誰かが傷付くなら、一人の方がいい」
左腕を目の上に置き、吐き出すように呟く、決して人前では見せない本音。
「………………戻るか」
そろそろ昔話も終わっている頃だろう、と顔から腕を下ろし、傷に障らないようゆっくりと上体を起こす。口に出したことによって気分は幾分か良くなった。
よし降りよう、と立ち上がりながら振り返ったところで、
「ぅあ!?」
目と鼻の先に男の顔があり驚いた煌は、咄嗟に大きく地面を蹴った。縁ぎりぎりのところに着地する。着地の衝撃が傷口に伝わり、軽く眉を顰めた。
にこにこと煌のことを見つめていた男は、彼女のその反応に嬉しそうに笑みを深めた。男の目元にかかった淡い水色の髪が風に揺れる。
「あぁ、やっと起きてくれましたか」
いつ起きてもらえるかと心配していたところです。
そう言いながら男は鬱陶しそうに視界を遮る前髪を手で払った。
「お前、いつからそこに……………つか誰だよ!?」
愕然としていた煌は苛立ち露わに男を睨み付ける。
この男はいつの間に近付いてきたのだろう。全く気配に気付かなかった。いくら気絶して目が覚めたばかりだとしても、気配には敏感なつもりだったのに。一日でこうも鈍るのか。
脳裏にルシアの姿が浮かぶ。全く気配を感じさせずに現れたりするところが似ている。
と、すると厄介だ。気配を完全に消すなんて芸当は、並大抵の者が出来ることではない。
目の前にいる男に、煌の警戒心が一気に高まる。
が、
「あぁ失礼、貴方にこうして会い見えることができたということに気分が高揚してしまい、申し遅れてしまいました。私はアルスという者です。どうぞ気軽に、アル、とお呼び下さい、姫」
恭しく一礼し、名を名乗る男、アルス。
一方、予想と真逆の方向のことをされた煌はというと、完全に気の抜けた表情を浮かべてアルスを見ていた。こうも簡単に、呼び名とはいえ名を教えてしまうのは如何なものか。
よく見ると、細められた彼の瞳は赤い。それも深紅。魔族の瞳は、色がより深い者ほどより魔力を有している。
「ひめ…………てまさか、オレのことか?」
ある程度の警戒を解き、それでも相手の一挙手一投足に注意を配るのを忘れずに問う。
自慢ではないが、煌は自分が見た目も中身も“お姫様”という類から著しく外れていると自覚している。そもそも、男物の制服を着ている相手に姫はないだろう。
「【白銀の戦舞姫】だからですよ。それに貴方は魔界の一部の者には有名なんです」
王を誘惑した悪女として、ね?
アルスの人懐っこく見える笑みが消え、目に冷酷な光が覗く。
ぽかん、と呆けたように言葉を失う煌。
「ゆー、わく?誰が?誰を?オレが?ルシアを?うっわ、ありえねぇ!」
鳥肌立った!と二の腕を摩る煌を見て、アルスの顔に笑みが戻った。
「えぇ、愚か者の戯言です。デタラメであると、しっかりこの目で確認致しました」
「わかってもらえて光栄だ」
そもそも悪女ってなんだ、悪女って。だいたいあのルシアが女に籠絡されるはずがないではないか。魔族ならば自分よりよほど彼に関しては詳しいだろうに、そんなこともわからないのか。というか、そんなことを言われるということはルシア、まだきちんと統一し終えてないのか?
満足げに頷いていた煌は、ずっと見ていましたし、と続けたアルスに一転して剣呑に目を光らせる。少し薄らいでいた警戒心が再び芽生えた。
「いつから監視してやがった」
低い声で唸る煌。鋭い視線でアルスを睨み付ける。
しかし彼はそんな彼女の視線にも笑みを崩さず、軽く受け止める。
「どうぞ無礼をお許し下さい。とある人物の命令でして。前もって、魔王陛下ではない、とだけ、伝えておきましょう。勘違いされては陛下が不憫ですので。えぇ、今でさえいささか不憫でありますから」
とある人物、と言われ真っ先にルシアを思い浮かべた煌は、こちらの思考を読んだかのように入った即座の否定に、とりあえず心の中でルシアに謝罪した。しかし疑われるほどストーカーに近い行動をとるのもどうかと思う。
いつでも逃げ出せるように体勢を整える。敵意が向けられている感じはないが、何が目的なのかも一切わからない。怪しさ満点にもほどがある。
アルスは誰かからの命令を受けて此処にいると言う。それはつまり、彼の上に立つ者が少なくとも一人はいるということ。その中にルシアは含まれてない。ということは、この辺りにまだ彼以外の伏兵がいる可能性もある。彼一人でも侮れないというのに、その他複数の魔族に襲われるなど、堪ったものではない。
アルスに対する警戒を緩めることなく、辺りの気配を探る。
それを見たアルスは、にっこりと笑った。
「ご安心下さい。御心配なさらずとも、この場にいるのは私だけですよ、姫」
「………………本当だろうな?」
「えぇ、我が真名に誓って。ついでに言うと襲うつもりもありません」
胡乱げな眼差しを送ってくる煌に、万歳をするように両手を頭上に上げ敵意がないことを見せるアルス。ポケットの中身もすべて出しましょうか、と笑顔で首を傾げ、今度は上着といいズボンといいあらゆる箇所のポケットをひっくり返し始める。未使用のちり紙、皴一つない四つ折りにされたハンカチ、飴やクッキーなどのお菓子、毛糸玉、様々な形の眼鏡四本……………
煌は思わず脱力した。今の今まで張りつめていた糸が切れてしまった。とりあえず、食べますかと差し出された飴玉に黙って首を振る。信用ならない人物からの食べ物など、受け取るはずもない。アルスは気にした様子もなく、そうですか、とすぐに引き下がったので、予想できた対応だったのだろう。
少し考えた後、とりあえず彼の言うことを信じることにし、周囲への警戒の為に放っていた気を静める。それでも体勢だけは崩さなかった。
「じゃあ、何でオレの前に現れた?」
監視を任されているのにその相手の前に現れ、ましてや監視していることを教えてしまってもいいものなのか………………ダメだろう、普通。
問い掛ける煌に、アルスは嬉しそうに笑った。先程までの嘘くさいものと違って、何処か輝いているように見えるのは気のせいか。キラキラとしたエフェクトが見える。思わず目を擦る煌。消えていない。疲れているのだろうか、それとも魔術の一種なのだろうか。あぁ、背後に花びらまで舞い始めた。
ずいと乗り出してきたアルスに、煌は思わず上半身を引く。
「一度、貴方と話がしてみたかったんです。これでも私、【柊煌ファンクラブ】の会長を務めていまして」
いやぁ、貴方の傍には近頃、王を筆頭に亜麻色の髪の少女やその誓人、貴方の保護者だったりと常に誰かがいるので。特に王が他のことに気が向いているなんて滅多にない機会でしょう?なので、思わず。
満面の笑みでそんなことを言うアルスに、煌は今度こそ本気でずっこけそうになった。何てまぁ、自分本位な理由だろう。私用>仕事らしい。
そんなことより、
「何なんだその、柊煌なんたらっつーのは」
完全に戦意喪失してしまった煌は、右肩を庇いながらその場に腰を下ろす。この男は隙を見て攻撃、なんてことは今はしないように思えた。
「ファンクラブ、そのままの意味です。残念ながら今のところ、会員は私一人ですが」
「いやそれクラブ言わねぇだろ」
やれやれとため息を吐きながら心底残念そうに肩を竦め首を振るアルスに、呆れと混乱が一周回って冷静に突っ込む煌。まさかこんなわけのわからない男に見張られていたのか。自分が間抜けに思えて少し悲しくなった。
しかしいつまでも落ち込んでいる場合ではない。がしがしと頭を掻くと、持ち前の立ち直りの速さで気を取り直して彼を見る。
「まぁそれはどうでもいいとして。お前に聞きたいことがあるんだが」
「あ、握手してもらっていいですか?」
「話聞けよ!」
煌の前に正座しうきうきとした表情で人差し指を立て、満面の笑みで小首を傾げて見せるアルスに、堪らず煌はがおぅと吠えた。
「あぁ、そんなに怒らないで下さい。傷に障ります。それに、これは取引ですよ」
落ち着いて、と暴れ馬を落ち着かせるように掌を煌へ向けてくる。馬鹿にしてんのかとまたしても怒鳴りたくなったが、傷に響くのも事実。大きく深呼吸して、鈍い痛みに小さく息を詰めた。
「…………つまり?」
「簡単なことです。つまり貴方が私と握手さえしてくれるのなら、私は貴方の問いに答える。シンプルでしょう?」
貴方に損はないと思うのですが、と笑顔を崩さず己の提案を告げるアルス。
煌は眉間に皴を寄せて考え込んだ。
とても魅力的な案だが、相手の罠だとも考えられる。手に触れた瞬間に何らかの術に掛けられ、攻撃されたり攫われる可能性だってある。
ちらり、とアルスを見遣る。彼は変わった様子もなく腹の読めない笑顔を浮かべていた。
この機会を逃せば、もう二度とこのような好機が訪れることはないかもしれない。しかし、情報を得るために死んでしまっては本末転倒だ。
あまり使い慣れない頭をフル活用した結果、
「………………やめた」
考えることを放棄した。
煌は元々物事を考えたり悩んだりすることが苦手だ。普段滅多に使わない頭を使っても疲れるだけ。そもそもアルスについての情報が皆無に等しい中、相手の本意を知るのは不可能だ。
「その話、のった。ただし、お前からの情報提供が先だ。この条件が飲めないなら、この取引はなし」
もし、この条件を向こうが飲まなかった時は潔く諦めよう。生きてこその命だ。
煌の言葉を聞いたアルスは、にっこりと笑顔で了承する。ただし、質問の数は二つまで。ただの握手で聞きたいことが聞けるのだ、破格の条件だろう。こちらも頷く。取引成立だ。
「まず一つ目。昨日のバトルトーナメントでの決勝戦で当たった相手。アイツを操ってたのも、十年前にオレの家を襲ったのも、お前の主か?」
前に突き出した左手の指を一本立て、アルスの顔を見ながら問い掛ける。面倒臭いが、疑問は一つ一つ潰していくしかない。
剣を合わせるたびに彼から感じた、彼以外の気配、というか魔力に、あの時は目先のことに集中していて気付かなかったが、冷静になった今思い返してみれば、何処か身に覚えがある気がした。それが何処で触れたものなのかは思い出すことはできない。が、無性に込み上げてくる嫌悪感に、今の自分にはない、封じ込めた記憶の中にその理由があるのではないかと検討をつけた。此処まで強い嫌悪感を示す出来事と言えば、今の自分に思いつくことは一つしかない。自分が一度すべてを失ったあの日の、その原因。
ほぅ、と興味深そうに煌の顔をまじまじと見つめたアルスは、何処か満足そうに頷いた。
「主と言われると頷きがたいですが、同一人物というなら、そうですね」
あっさりと答えるアルス。多少ははぐらかされたり渋られたりするのではないかと思っていただけに、少し拍子抜けしてしまう。特に嘘を言っているようにも見えず、ますます彼の考えていることがわからない。
だがまぁ、素直に答えてくれるのならそれはそれで好都合である。
「それじゃ二つ目。そいつがオレを狙う理由は何だ?」
二本目の指を立てる。
これが、煌にとって一番大切で、疑問に思うこと。彼女はこの容姿と戦闘能力から、一方的な敵意を抱かれたり蔑まれたりすることは多々ある。どうも見ているだけで生意気に思えるらしい。確かに素直な可愛らしい性格をしていないのは重々承知しているがしかし、命まで狙われるようなことをした記憶はない。
何故、人間だけでなく魔族にまで敵意を抱かれて、ましてや命を狙われなければならないのか。
自分には、生きている価値がないとでもいうのか?
煌はぶらりと下げていた右手で拳を作り、強く握りしめる。掌から伝わる痛みで、暗い思考から逃れようとするかのように。
「残念ながら、今の私にはそれを教えることは出来ません。それに関しては、ご自身で思い出すのが一番かと」
「思い………?何言って」
申し訳なさそうに眉尻を下げたアルスの言葉に煌は困惑する。
思い出すとはどういうことだ。それは元々自分が命を狙われる理由を知っていたということか。いや、それよりもアルスは、自分が記憶喪失であることを知っている……………?
「ただ一つ、教えられることがあるとすれば………………」
言葉を続けたアルスの姿が一瞬で消える。呆然としていた煌は咄嗟に身構える。
しかし、彼の方が速かった。
「彼女は貴方の中に眠っているモノを欲している。早く怪我を治した方がいい、彼女はそれさえ手に入れれば貴方の命など気にもしない」
とん、と目の前に現れたアルスは煌の鎖骨より少し下の部分を軽く指で突いた。
彼の体から発せられる空気に呑まれ、煌はその場で身動き一つ出来ずに固まっていた。万全ではない体に歯噛みする。
と、ぴくり、とアルスの形のいい眉が動く。そして楽しげな笑みを口元に浮かべた。
「残念ながら、お迎えが来たようですね」
体に纏わりつくような空気が霧散する。
思わず肩から力を抜いた煌の左手を、アルスは両手で掬い上げるように握った。
「特別ヒントは“薔薇の女王”ですよ。私は貴方のファンですので、出血大サービスです。では、握手ありがとうございました、しばらく手は洗いません。また、機会があれば」
「はぁ?て、ちょ、おい待て!」
事態を把握しきる前にアルスの姿が消え、慌てて声を上げるがもう遅い。
そんな彼と入れ替わるように、珍しく扉から屋上に入ってきたのはルシアだ。煌の位置を確認したルシアは、軽い跳躍一つで彼女の元に降り立つ。
「こんなところで何をしている?」
「………………ぁ?別に、ただ気分転換してただけだけど」
つかいつの間に来たんだお前、と今の今までアルスがいた場所を睨み付けていた煌は、たった今ルシアの存在に気付いたように彼を振り返った。気配に敏い彼女が珍しい。
ルシアはわずかに顔を顰める。煌の様子がいつもと違う。険しい表情のまま、大股で彼女に歩み寄る。
その迫力に、煌も思わず体を引いた。
「………………誰かといたのか?」
煌の前で足を止めると、用心深く辺りを見回す。今の今まで煌の魔力を探る事のみに意識を集中させて
いて他の感覚及び思考を一切遮断していたので気が付かなかったが、微かに彼女以外の別の魔力が場に残っていた。何処か身に覚えのある魔力だ。彼の性格からすれば、あえて痕跡を残したといったところだろうか。しかし何故、彼が煌に接触したのか。
ルシアが視線を戻すと、煌は罰が悪そうに目を逸らした。
「どうなんだ」
「………一人だよ。オレの他には誰もいねぇ」
問い詰められ、そっぽを向いたまま首の後ろに手をやる煌。
そんな彼女に、ルシアは不機嫌そうに眉間の皴を増やした。
「嘘を吐くな」
目を逸らし首を触るのは、何か後ろめたいことがある時の煌の癖だ。普段の彼女はまっすぐ相手の目を見て話す。あまりにもあからさまな癖だ。
断定された煌は、むっと顔を顰める。
「嘘じゃねぇよ。そもそも、誰かとオレがいたとして、お前には関係ないだろうが」
そう勢いで口にしてから、煌は酷く後悔した。ここまで突き放すような言い方をするつもりはなかった。
そろそろと視線を上げ、その思いは更に深くなる。普段感情の一切を浮かべないルシアの顔が一瞬だけ、悲しそうに歪んで見えた。すぐに元の無表情になってしまったが。
「ぁ………………」
言いすぎた、ごめん。そう口にすればいい。それなのに、そのたった一言が喉の奥に絡まって声にならない。
「………………怪我が悪化する。戻るぞ」
何処か泣きそうな顔で言い淀む煌に背を向けると、ルシアは先に屋上へと降りた。しかし煌が降りてくる気配が一向にない。振り仰ぐと彼女はまだ俯いている。
「煌、行くぞ」
「ぁ、あぁ」
もう一度呼び掛けられ、ようやく顔を上げ彼のいるところまで降りる。着地する一瞬風が身を包んだ気がしたが、もしや体を気遣ったルシアがやったのだろうか。
煌が来たことを確認したルシアは、再び背を向け歩き出した。そんな彼の後姿を、煌はじっと見つめる。
傷つけるつもりは毛頭なかった。ただ、自分が嘘を吐くのが下手だということは煌自身良く知っている。あれ以上問い詰められていたら、アルスとの会話まで洗いざらい吐かされていたのは目に見えている。それを聞いたルシアは、“薔薇の女王”というヒントを頼りに犯人を捜し出してくれるだろう。しかし、それでは駄目なのだ。すでに理事やユーファに甘えてしまっている分彼には、いや他の者には誰一人として迷惑はかけられない。
「…………ごめん、ルシア」
心配をかけてしまったということは痛いほどわかった。しかしこればかりは彼を巻き込むわけにはいかない。自分で解決させなければならないのだ。
密かに決意を固めた煌は、先を行くルシアの後を駆け足で追いかけた。