4-1
「……んぁ……………?」
ゆるゆると目を開けた煌は、ぱちぱちと数回瞬きした。顔に当たる白く明るい光に、眩しそうに目を細める。微かだが、つんと鼻を刺すような匂いがする。
ぼぅ、とぼんやり天井を見つめていた煌だが、突如慌てて飛び起きるようにして上半身を起こした。直後、右肩に激しい痛みが走る。
「つ、ぅ…………!」
思わず呻いた煌は、巻かれている包帯の上から傷口を押えた。
あれから、どうなったのだろう。
痛みが和らいでくると、手を傷口にやったまま背中を壁に預け、考える。
隼との試合に苦戦の末何とか勝利した後、血の流しすぎで貧血状態だったのか、何故だかルシアの腕の中が心地よく思えて気を抜いてしまい、煌はそのまま気を失ってしまった。
一生の不覚である。
死ななかったのはいいが何であいつの前で意識を飛ばしたのかと、もう最悪だと言わんばかりに頭を抱えて唸ったかと思うと、煌はぐるりと室内を見回した。全体的に白で統一された配色の部屋。想像するに、見覚えのある此処は病室だ。
全寮制であるこの学園は、わざわざ離れた町まで行かなくてもいいようにと、まるで一つの小さな町のようになっており、医療棟と呼ばれる病院のような物や大きな図書館などの公共施設も備わっている。中でも医療棟の医療技術は国内屈指の高さ。此処はそんな医療棟の中の一部屋、といったところだろう。
久しぶりに来た、と思わず懐かしそうに部屋を見ていた煌だが、ふと自分が着ている服に目をやる。
今着ているのは当然試合で着ていたものではなく、いかにも入院患者だと言わんばかりの病衣だ。右肩の傷は、どうやら剣が骨と大事な神経を見事避けて貫いたらしく、かなりきつめに包帯が巻かれているだけ。とは言ってもしばらくはまともに動かせないだろう。身じろいだだけでもかなり痛い。
「…………誰が着替えさせたんだ?」
首を傾げながら顔を顰め、呟く。勿論、自分でやったわけはない。ユーファか看護師辺りだろうか。もしかしたら理事と校医総務長のどちらかかもしれないが、その場合は遠慮なく一発いっておこう。いくら中性的な外見といえども女なのだ、これでも。
そうしよう、と煌が一つ頷いたその時。
「…………目が覚めたのか?」
「あぁ、たった今な」
いつもの如く、突然自分のいるベッドの横に姿を現したルシアに驚いた様子もなく、煌は首を動かして隣を見る。と言っても長身な彼の顔を見るにはかなり上を見なければならないが。
相変わらずの無表情を目に入れた煌は、はて、と首を傾げた。
「お前、何か疲れてないか?」
別に何の深い意味もなく発した言葉だったのだが、煌がそう口にした瞬間、ルシアは驚いたように目を瞠った。それに煌も驚いた。
「………何故、そうだと?」
「?勘」
眉を顰めた渋い顔で問うてくるルシアに、煌は不思議そうに視線を送る。自分は何かおかしなことを言っただろうか。何となくそう思ったから、口にしただけなのだが。
一方そんな煌をルシアは複雑そうな顔で見る。考えを読まれないことが立場上必要なのが一目で見破られてしまい、何とも言えない。しかし他の者にはいまだ読まれたことはないのでいいのだろうか。
「何でそんな疲れてんだ?魔王業ってそんな疲れるのか?でもお前今までそんな疲れた顔してたことなかった………………」
ぶつぶつと呟いていた煌が、はっと言葉を止める。そして、おずおずとルシアを見上げた。
「…………オレの、せいか?」
声が震えそうになるのを可能な限り抑え、問い掛ける。
ルシアは無言で煌を見つめるだけで、その問いに答える様子はない。どう答えたものかと考えあぐねているようにも見えるが、その沈黙は肯定しているも同然だった。
煌の頭の中に、一つの映像が浮かび上がる。
霞んでいる視界の中、思わず伸ばした手の先には彼がいた。右肩の辺りを何か温かい物が包んでいて、真横に立ち薄紫に光る手を傷口に翳しているルシア。痛みがだんだん和らいでいくのに安心した記憶がある。悔しげな表情で耐えろと言う声が、混濁した意識の中で聞こえた。
「………どうした?」
わずかに表情を曇らせた煌に、ルシアが訝しげに声をかける。
それに煌は我に返った様子で瞬き、彼を見上げた。
「なんでも、ない。ゴメンな、迷惑かけて」
ゆるゆると首を振り、申し訳なさそうに小さく笑う。そして布団の中で両手を強く強く握りしめた。
もう二度と、周りに迷惑をかけないと決めていたのに。両親が死んだと聞かされたあの時に誓ったのに。誰にも守られず一人で生きて行こうと。そのためにただ強くあることを望みこの学園に通う一方、誓人と誓約しないようにして、努力してきたのだ。理事に関しては、決意する前から世話になっているし、突き放そうにも某害虫並みにしぶとく食らいついてきたので別枠とする。
それなのにまた、迷惑をかけている。不可抗力で、誓人と守人という関係なら当たり前だろうと思われることでも、煌にとってそれは関係ない。自分のせいなのに変わりはないのだから。
魔族のルシアは治癒の魔術は得意じゃない。むしろ苦手だ。苦手な魔術を使うと魔力のコントロールがうまくいかず、無駄に消費するので疲れるだけ。それなのに、使わせてしまった。あの時自分は、彼の前で気を失うべきではなかったのだ。這ってでも自分の足で医療棟まで行っていれば、彼を無駄に疲れさせることはなかったのだから。
「だから――――………っ!」
ぎりっと音が鳴るほど強く歯を噛み締める。誰にも聞こえない程の音量で唸った。
顔を顰めたルシアが口を開いたが、すぐに閉じて二三歩大きく移動した。不明な彼の動きに煌が首を傾げた、その時。
「こ~う~く~んん~っ!」
「うぉわ!り、莉央?」
ガラッと勢い良く引き戸タイプの扉が開いたかと思うと、疾風の如く部屋の中に飛び込んできた莉央は、ベッドの上で驚き目を丸くしている煌に、押し倒さんばかりの勢いで抱き着いた。そして、突然ぽろぽろと涙を流し泣き始めてしまった。
「ぇ、あ、莉央?」
なんで泣くんだよ、とどうしたらいいのかわからない煌はおろおろと困惑した表情を浮かべる。何故泣かれているのか見当もつかない。とりあえず、怪我していない方の手でぽんぽんと幼子をあやすように彼女の背中を叩く。
「丸一日寝てたんだよ!?もう起きなかったどうしようって…………心配したんだから!」
死ななくてよかったぁ~!と先程よりも強い力で煌の背に腕を回し、胸に顔を押し付けるようにしてぎゅうっと抱きしめる莉央。
それを聞いた煌はまた苦い物を口に含んだような顔になったが、すぐに苦笑を浮かべた。
「勝手に殺すなよ……………悪かったな」
抱き着いて離れる様子のない莉央の頭をそっと撫でながら軽い調子で言った煌だが、後半は無意識に声が沈む。だが気を落ち着けることに手一杯の莉央は気付かなかった。
そして煌は早く解放してもらえないだろうかと天井を仰ぐ。顔にも声にも態度にも出さないが、折れてしまっている肋骨のおかげで息をするにも胸の奥がつきつきと痛むのだ。抱き着かれているとなると、痛さは倍増する。
しかしそれを言うと面倒な事態になるのは目に見えているので言えない。
煌は深く息を吐いた。
そこに、
「生き返ったんだね、煌ちゃぁあああぁん!」
「だから勝手に殺すな抱き着くんじゃねェ!!!」
入ってくるなり莉央と同じように抱き着いてこようとした一人の男を、煌は瞬時に莉央を脇に避難させ、そのまま全力で足蹴にした。苛立ちに塗れた一撃は男の顎にクリーンヒットし、彼は床に引っくり返った。
莉央は事態についていけず、蹴り倒され床に伸びている男と煌を混乱しきって交互に見ている。驚きで涙も止まったらしい。
一方莉央が来てから一言も発していないルシアも、呆れたような視線を男に向けていた。
「ぃ、いたたたっ…………煌ちゃん、いきなり酷いよ」
「それはこっちの台詞だこのクソ理事。普通に出て来い普通に!!」
後頭部と顎を痛そうに摩りながら上半身を起こし、涙目で睨んでくる男――この学園の理事長を、傷口がずきりと痛んだことなど一切表に出さず冷たい目で見ると、ふんと鼻であしらう煌。いきなり抱き着こうとするのが悪い、当然の報いだ、ばかりに睨むと、隣で固まっている莉央に目をやる。
「どうした、莉央?」
首を傾げて不思議そうな顔をする煌。
彼女の言葉に我に返った莉央は、あわあわと一人慌て出す。まぁ、当然の反応だろう。
「ぁ、あの人大丈夫!?と言うか理事って………………え!?」
「あいつは害虫並みにしぶといから大丈夫だ。それより一回落ち着いてから喋れ」
ほれ深呼吸、と明らかに混乱して思考がぐちゃぐちゃになっているであろう莉央の肩に手を置き、目で促す煌。それに莉央は律儀に一回大きく深呼吸をする。思わず、素直だなぁ、と感心した眼差しを送った煌だった。
「ぁ、あの人、誰?」
ようやく落ち着いた莉央が、煌の視線に堪えたのか、しゃがみ込んで床に“の”の字を指で書いて拗ねている理事を横目にちらりと覗き見ながら質問する。いや、誰なのかわかるにはわかるのだが、どうも頭の整理が追い付かない。
「ん?あんま人前に出ることねぇけど、説明会の時とかの書類に載ってたりするだろ?」
「えーと、校風の方に目がいってて人の絵のことは覚えてない、かも」
「あぁまぁ、年に数回しか生徒の前にも顔出さねぇしな。これでも、此処の理事長」
全っ然見えねぇけど、と理事を見もせずに容赦なく言う煌。
莉央は今度こそ理事を凝視した。
「酷いよ煌ちゃん、仮にも育ての親に!」
いつのまにかショックから立ち直ってベッドの近くに来ていた理事が口を挟んだ。
この言葉に莉央はさらに驚いた。本当に信じられない。
彼の見た目は三十代半ば。この年で有名魔術学校の理事であるというのにも驚きだというのに、煌の育ての親だという。開いた口が塞がらないとはこのことだった。
莉央が唖然としている間に義理の父娘の会話は続く。
「育てたのはユーファだろ?あんたに育ててもらった覚えはない」
「な!?僕だって頑張ってるだろう!?」
「全部空回ってんじゃねェか」
「うぅっ、皇夜さん、燁子さん、あんなに純粋で可愛かった貴方達の娘が今はこんなに、こんなに…………」
「こんな時だけ親出してんじゃねぇよ」
「ぅわわっ、煌ちゃん痛い!ギブ、ギブっ!」
右の手首を器用に捻り上げられて、バンバンとベッドを叩き悲鳴を上げる理事。不機嫌そうにしながらも解放された時の彼の安堵した顔は何とも言えなかった。
この様子を見て莉央は納得した様子で頷く。
煌が思ったことを半ば八つ当たり気味に遠慮の欠片もなく言っている。彼女がこのような物言いをしているところは、今離れたところで煌を見つめているルシアしか見たことがない。と、言ってもまだここ数日の関係なので、彼女について詳しくは何も知らない。それでも莉央には、この二人が煌と近しい者であることが良く分かった。
そこで莉央はふと思いつく。
「理事長さんが育ての親なら、煌君の本当の親はどうしたの?」
莉央のこの何気ない一言に、室内の空気が固まった。
不機嫌そうだった煌の表情はなくなり、痛がりながらも苦笑を浮かべていた理事の顔が固まる。唯一変化が見られないのはルシアぐらいだ。
そこで莉央は思考が漏れていたことに気付き、慌てて両手で口を塞いだ。が、時すでに遅しである。口から飛び出た言葉はなかったことにはならない。
「ご、ごめんね!?わ、悪気はなかったんだけど空気読めなくて………………!」
「………いや、謝んなくていい。オレ、トイレ行ってくる」
眉尻を下げ、心底すまなさそうな莉央に小さく笑うと、煌は理事を押し退けベッドから降り、部屋の外に向かう。ルシアが付いて行こうとするが、トイレにまで付いてくんじゃねぇよ、といつもの調子で押し留めて単身出て行ってしまった。莉央は縋るようにその背に手を伸ばしたが、結局何も出来ずぱたりと膝の上に落ちる。
何とも言えない空気が病室に流れる。
居心地の悪い雰囲気の中、初めに口を開いたのは理事だ。
「ところで君は、煌ちゃんのお友達、なのかな?」
自己嫌悪に陥っている莉央に、質問、というより確認をするように問い掛ける。
理事の言葉に顔を上げた莉央は、慌ててベッドから立ち上がり、一礼した。
「今年こちらに編入した、高等部一年の、周防莉央です。私は、友達になれたらいいなぁ、って思ってるんですけど」
今はまだ私が煌君を追いかけて相手してもらってるような感じで、と苦笑する。
煌は優しく接してくれる。先ほどのように突進して抱きついても嫌な顔はしないし、むしろこちらの負担にならないように受け止めてくれる。軽口だって言うし、避けたりもしない。しかし、だからといって気を許してくれているとは思えなかった。全てが莉央からのアクションで、煌の方から近付いて来たり話しかけたりはしない。まるで他人との間に高い高い壁を築いているかのように、一定以上の距離から踏み込ませない、そんな感覚。
だから、だろうか。辛辣な態度をとられていようが、遠慮も容赦もない対応をされているルシアと理事が正直羨ましく思う。
扉を見つめながらぽつぽつと呟くように吐き出される言葉に、それを聞いた理事は満足そうに頷くと、少し考え悲しく笑う。
「一つ、昔話をしようか」
でもこの話を聞いても、どうか今までと同じように接してあげてね。どうか諦めずに、あの子の傍にいてあげて。そう言う理事に、莉央の顔が怪訝そうに歪められる。
理事はそんな彼女に、ちょっと長い話になるから、とベッドに腰を下ろすように勧めた。言われたとおりにする莉央を見届けると、目を閉じ壁に背を預けて立っているルシアへと目をやるが、彼が近付いてくる様子はない。しかし話を聞くつもりはあるようで、意識がこちらに向けられているのがわかった。
思わず、苦笑。
「僕は煌ちゃんのご両親の友人だった。いや、煌ちゃんのお母さんが言うには、親友、かな」
少し恥ずかしいけどね、と静かに口を開き、語り始める。
「だから勿論あの子、煌ちゃんが産まれた時も一緒にいた。あの時はまるで自分のことのように嬉しかったよ」
その時のことを思い出しているのか、窓の外を見つめる理事は幸せそうに微笑む。
彼の耳に、煌の母親の声が蘇る。
――――あのね彰、この子に名前を付けてほしいの。
愛しい子供の名前を、大切な親友である貴方に。そう言って笑う女性とその後ろで頷いている男性に、思わず涙を零したのは忘れられない。だから考えに考えて、二人の名から一字ずつもらい、煌めくような笑顔で笑う女の子の名を、煌と名付けた。
目を瞑ると、仲睦まじい二人の姿が今でも容易に思い浮かべることが出来る。己を人に伝えることが苦手な不器用な皇夜と、明るく誰とでも仲良くなる、ただしトラブルメーカーでもある燁子。そして毎日通っては見ることが出来た、幼い煌の目まぐるしく変わる表情。
しかしそんな幸せな日々は、すっと遠ざかり小さくなって消えてしまう。
「楽しかった日々は終わりを告げた。十年前、煌ちゃんが五歳の時、二人は殺されてしまった…………………魔族によってね」
「え?」
嫌な物を吐き出すように言った理事の言葉に、莉央は言葉を失う。ルシアは目を細める他は何の反応もしない。
莉央にとって、魔族や天族は誓人であろうとなかろうと人間と最も親しい存在。それが人間を殺すだなんて信じられなかった。
「二人の誓人は……………?」
「最後まで二人を護って消滅したよ………………」
誓人として役目を全うした、と視線を落とす理事に莉央は息を呑む。
魔族や天族は命が尽きると、亡骸は粒子となり元の世界へと戻り、大地に還る。言葉通りの消滅だ。人間のように体の一部などが残ることはなく、体を構成するものは全て消えてしまう。
守人と親しくなると、自動的にその誓人とも親しくなる。彼は複数の友人を同時に失ったのだ。
「死ぬ間際に誓人の彼らは僕へと伝言を飛ばした。何が目的かは知らないが、魔族の目的は煌ちゃんだったらしいよ。寄越せと言われて抗った結果、煌ちゃんの目の前で殺された」
「そんな…………」
「そして煌ちゃんはその時のショックが大きかったのか、それまでの記憶の一切を失った」
くしゃり、と顔を歪める莉央。まさか煌が記憶喪失だとは思いもしなかった。そうとは思えないほど、彼女は堂々と日々を過ごしている。
もし、自分がそれまでの記憶の一切をなくしたのなら。ましてやその時に大切な人たちを失っていたのなら。多分、自己の確立もままならず、人と交流することに恐怖して外を歩くことも出来なくなる。煌の立場に自分を置き換えて考え、莉央は唇を噛みしめた。
たった五年。煌にとっては失ってからの時間の方が長い。人間の一生から見ても、どちらかと言うと短い年月。しかし煌にとっては大好きな両親と共に過ごした、とても大切なものだったに違いない。無条件に愛されていた記憶がないのだ。親代わりの理事がいたとて、結局は代わりでしかないのだから。
「でも、煌君が狙われていたのに、どうして無事だったんですか?」
親とその誓人が死んでしまっては煌を守る者がいなくなる。それなのに何故元気に――今はとても元気とは言いがたいが――此処で暮らしているのだろうか。
この質問に、理事はゆっくりと頭を振った。
「わからない。もしかしたら煌ちゃんなら知っているのかもしれないけど、事件前の記憶と共に失われてしまった。それに仮に覚えていたとしても、あの子のことだから言ってくれないだろうね」
あの残酷な事件を境に、事件の記憶もない筈の煌は周囲と距離を置くようになった。軽く笑ったり憎まれ口を叩くこともあるが、一定の距離を保ち続け、それ以上は決して近付かせようとはしない。ましてや自分から歩み寄ることなど絶対にない。何故、と学園に入学しても親しい友人の一人も作ろうとはしない煌に尋ねたことがある。その時の答えは、迷惑をかけたくないから、だった。その瞬間、当時のことを聞くためとはいえ、事件のわかっている限りのことを彼女に伝えたことを理事は心底後悔したものだ。自分を狙って両親たちが殺されたなら、親しくなった者がまた何かに巻き込まれるのではないのか。自分と関わることによって、不幸になるのではないか。そんな考えを幼い彼女に芽生えさせ、意識の底に根付かせてしまったのは、他でもない自分なのだと、理事は今でも思っている。
煌も、昔はごくごく普通、とはちょっと言いがたいが莉央のような女の子だったのだ。それなのに、あの事件が彼女の運命の歯車を狂わせた。幼い頃の太陽のような眩しい笑顔は失われ、誰にも迷惑をかけず守られずとも一人で生きていけるよう、ただ己を鍛えることを強く願った。理事も彼の誓人ユーファも、彼女が昔のように戻ることが出来るよう努力を尽くしたが効果は出ず、逆に理事などは必死すぎてウザがられ呆れられる始末。その分、傍にいても迷惑なことなどないし不幸にもならないと信じてもらえたことだけは、本当に僥倖であったといえる。友人だった父親そっくりの幼子にガラス玉のような目で見つめられるのだ、あの時期は本当に参った。
「た、例えばどんなことをしたんですか?」
怒涛の日々を思い出し黄昏る理事に、莉央は慌てて話題を変えた。
そのことに気付いた理事は、そうだなぁ、と本来の柔らかい笑みを浮かべる。
「ぬいぐるみとかケーキとか、とにかく女の子が喜ぶ物を片っ端から買って帰ったよ」
煌ちゃんも昔大好きだったしね、と笑う理事に、莉央は目を丸くした。
「意外だろう?今と趣味とかは変わってないけど、そんな女の子っぽい物も好きだったんだ」
ぬいぐるみをあげるたびに笑顔を見せてくれて、それがまた可愛くて、と親馬鹿ならぬ義父馬鹿っぷりを披露する理事。満面の笑みをにこにこと浮かべている。
それを見る莉央は、いいお父さんしてるなぁ、と何処かずれた感想を抱く。
「でも確かに、背高くてスタイル良いし顔も綺麗だから、髪伸ばして女の子っぽい格好すれば煌君、凄い美人さんになれるのに」
「だろう!?僕が何度もそう言ってるのに、全然聞いてくれないんだ!目腐ってんじゃないか?とか本気で言うんだよ!?」
煌ちゃんは可愛いから何着ても似合うのに!と胸の前でガッツポーズをする理事は、顎に手をやり納得した様子で呟いた莉央に対して熱く、そして何やら果てしない内容を熱弁する。世間の親以上の愛情の注ぎっぷりだ。
そこから二人は何故か、どうすれば煌に女らしい格好をさせられるか、という作戦について熱を入れ始めた。
寮の部屋に侵入して全ての服を入れ替えるか。
――――そんなことをしてバレたらいくら何でも殺されるだろう。理事が。
いっそのこと学園あげてのパーティを開催するというのはどうだろう。
――――まずそんなものに出ないだろう。出ても絶対にドレスの類は着てくれない。
どれも許容量を超えるものばかりだ。もう少しまともな案は出ないものか。
それを傍から聞いていたルシアは二人に対して呆れた眼差しを送りながら、先程の理事の言葉を思い返していた。
「記憶、喪失………………」
ぽつりと呟き、煌が出て行った扉を見る。
気づいては、いた。正式に誓約を交わしたあの日に、自分のことを忘れていることは。でもまさか、自分のことだけでなく当時のこと全てを忘れているとは、思いもしなかったのだ。
ルシアの頭の中に、一人の少女が思い浮かぶ。太陽のような眩しい笑顔で笑っていた。魔術や体術に興味を持ち、教えてくれと言って目を輝かせた表情。
記憶の中の少女と、ベッドの上で苦しげに吐き捨てた少女の姿が重なった。
――――だから誓人なんていらないって言ったんだ…………………っ!
一人でよかったのに、と聞いている此方まで泣きたくなるような、苦しく悲しい、己を責める声。
目の前で殺されていく両親たちを見て、記憶を失くしながらも煌は守られる、救われるということに敏感になっていた。庇われることで、大切なモノが目の前で失われていくというトラウマ。これが煌が他人を自分から遠ざける最大の理由。
もう、自分のせいで誰かが失われるのは見たくなかったから。これ以上、傷付きたくなかったから。
「……煌……………」
もう一度瞑目したルシアだが、またすぐ目を開き、いまだにあぁだこうだと二人には一切目を向けることなく、あまりにも長すぎるトイレに行っている煌を迎えに行くべく部屋を後にした。