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ぐったりと意識と飛ばした煌に思わず顔を強張らせたルシアだが、苦しげながらもきちんと呼吸していることを確認し、細く息を吐いて本来の無表情へと戻る。それでも、見る者が見ればその顔が腕の中の少女を案じているものであることがわかるだろう。
『【死神王】が人間の娘についたという噂は真だったか』
一連のやり取りを無言で見守っていた炎鷲が呟いた。その声でようやく彼がこの場にいたことを思い出したルシアに、周りに気がいかぬほどやられておるな、とぼやく。
何処か呆れの混じった眼差しを送ってくる炎を纏う鳥に逡巡したルシアは、何かを思い出したようで訝しげに軽く眉根を寄せた。
「【五将】の一柱が何故、人間の娘に召喚される?」
『契約したからに決まっておろう』
無論召喚のだが、と炎鷲は鋭いルシアの眼光に臆することなく、何処か誇らしげに答える。煌を見るその目は、親が我が子を見るかのように穏やかだ。
【五将】というのは、魔界に住む魔獣の頂点を担う五体のことを指す。火・水・風・雷・氷の五属性おり、炎鷲はその名の通り火を司っている。
そして召喚とはそのまま、魔界から魔獣を別の界に呼び寄せることだ。同じ魔獣を何度も召喚するには、誓約ほどではないがそれでもある程度の契約が必要になる。その契約も、出来るかどうかは魔獣の方にかかっている。よほど気に入った相手でないと呼び掛けに応じないのだ。なんとか契約までこぎつけても、途中で切られてしまうこともしばしばである。たいていはギブ&テイク、等価交換を条件に契約はなされる。高位になればなるほど契約を結ぶのが難しいとされ、それなりに上位の魔獣と契約を結ぶことが出来た者は、俗に獣使いと呼ばれる。魔獣を召喚するには、召喚するための魔力と、彼らを人間界に留めるための魔力が必要となる。炎鷲がいまだに人間界に姿を現していられるのは、彼自身の意思で人間界に留まり、そのために彼自身の魔力を消費しているからだ。ゆえに意識を失ってしまった煌からの魔力の供給が途絶えてしまっても、彼は今この場にいることができる。
魔獣と魔物はまったく違う存在だ。魔物はその地の瘴気が集まり形を成した、人間に害を与える存在で、所謂災害と同じ。一方魔獣は、魔界に住む魔族や魔物ではない者達の総称だ。人間界の動物のような姿の者もいれば、何とも形容しがたい容姿の者もいるし、知能が高ければ意思疎通することも可能だ。ちなみに天界に住む場合は神獣とされている。
『煌が人前で気絶とはいえ眠るとは珍しい。知っているだろうが、こやつはなかなかの意地っ張りだ。今より酷い傷を負った時ですら我らの手を借りようとはせんかった。大人しくその腕に抱かれているとは、そなた、よほど信頼されているな』
本人に自覚はないようだが、と炎鷲。
煌と彼は、禁書を理事の部屋から持ち出した彼女が五年前に彼ら【五将】を初めて召喚した時以来の関係だ。幼い彼女の成長を見守ってきた、数少ない存在。
炎鷲から見た煌は、手のかかるお転婆娘。まるで父親のような心境だ。
それを聞いたルシアは、一瞬煌に視線を落としたかと思うと、すぐに炎鷲へと戻す。今までの態度から、彼女が自分を信頼してくれているとはとても思えないのだが。接触を試みれば拒絶され、後を付いて行くと怒鳴られる。
思わず内心苦笑した炎鷲だが、一瞬で身に纏う空気を変える。
『水のからの話だが、近頃水面下での“旧王妃派”の行動が活発化し始めたそうだ。そして微量ではあるが、先程の人間から王妃の魔力を感じた』
この言葉に、ルシアの瞳が険しく光る。
“旧王妃派”。それはルシア達にとって最も忌まわしい存在。革命軍に敗れながら、虎視眈々と玉座奪還を狙っている。
無意識のうちに力が篭っていたのか、腕の中の煌が苦しげに呻いた。慌てて力を緩めると、彼女の顔を覗き込む。幸い目は覚ましておらず、肩口の怪我も悪化した様子はない。
思わず安堵の息が零れた。
『我ら【五将】は、煌の頼みとあらば協力は惜しまぬ。あの女の傲慢さには我らも思うところがある。だが魔族の王よ、もし煌を護ることが出来なかった場合や煌を裏切った場合、我らは魔族の敵になるということを、覚悟しておくことだ。そのこと、ゆめゆめ忘れるな』
鋭く険しい視線と言葉を送ると、ではそろそろ失礼する、と両翼をばさりと広げる炎鷲。しかし魔界へと戻る直前で再びルシアを見遣る。
『煌は我らにとって、そなたたちの言う家族も同然。常には傍に居られぬ我らの代わり、頼むぞ』
それだけ言うと、炎鷲は一瞬で炎に包まれ消えた。彼のいた場所には、白い灰だけが積もっている。自力で魔界へ帰ったのだ。
「言われなくとも…………………」
それを黙って見ていたルシアは誰にともなく呟くと、煌を静かに抱え直す。先程よりは幾分穏やかな表情をしているが、依然顔色は優れず、時折顔を顰めて呻いている。肩の傷口に視線を移すとそこは未だ血が止まっておらず、滲み出た紅が衣服を濡らしていた。
「……………手当てが必要か」
このままでは危険だと判断し、ルシアは忌々しげに舌を打った。感情を表に出す習慣がない彼にとって非常に珍しいことだったが、それを知る者は今この場にいない。
滅多に感情を動かさないルシアの唯一の例外が、現在彼が腕に抱いている少女だ。
ルシアは煌を抱えたまま何処かへ転移した。次に姿を現した所は、人気の一切ない部屋。普段煌が生活している彼女の自室だ。
荒い息の煌をそっとベッドに横たえると、ルシアはその傷口に手を翳した。淡い紫の光が彼の手を包み、流れ込むように傷口へと移動する。
彼がしているのは魔力の移動。傷口から直接魔力を送り込み、細胞の働きを活性化させることによって傷口を塞いでいくという、荒業に近い応急処置をしているのだ。互いの魔力を取り込み馴染みやすくさせている守人と誓人だからこそ、出来ることである。
「ぅ……く、ぁっ…………」
強制的な再生による痛みが酷いのか、額に大粒の汗がいくつも浮べる煌が苦しそうに呻いた。何かを求めているのか、彼女の手が宙を彷徨う。そしてルシアの裾に触れると、それをぎゅっと握りしめた。
ルシアは困惑した表情で自身の服を掴む彼女の手を外そうとする、が、思いの外力が強く一向に放す気配がない。
信頼している、という炎鷲の言葉が脳裏に浮かんだ。
本当にそうだろうか。彼女は自分を信頼してくれているのだろうか。もしそうだとしたら、それはとても嬉しい。
「煌」
名を呼びながら額に張り付いた前髪を掻き上げ、浮かんだ汗を袖口で拭いてやる。傷口は血が止まる程度には塞がっていた。しかし傷口をふさぐことは出来ても、失った血液を補うことは出来ない。応急処置をしてやる事は出来ても、完全に治してやる事は出来ない。
魔族は治療は、得意ではないから。
生まれて初めて、自分が魔族であることを恨んだ。天族であったなら、彼女の傷を自分が癒してやることが出来るのに。
悔しげに顔を顰めたルシアはもう一度煌を落とさないようにしっかりと抱え上げると、今度は医師がいるであろう医務室へと転移した。
「妾が力を貸してやったというに、使えぬ奴じゃ」
しょせんは人間、役に立たぬ。
だが、あれだけの手傷を負わせて弱めた。そこは褒めてやろうか。
闘技場での様子を水晶を通して見ていた女は、口元を扇で隠しうっそりと笑う。
此処は魔界の外れにある古びた洋館。そこが今、彼女たちの隠れ家になっている。
それにしても………………
「ほんにしぶとい小娘じゃのぅ」
女はそう億劫そうに呟きながら水晶に手を翳す。すると、ぼんやりと映像が浮かび上がった。
大量の冷や汗を流し、時折苦痛に顔を歪める一人の少女。
さて、次はどのようにして追い詰めてやろうか。
「妾に歯向ったこと、後悔するがいい」
猫がネズミを甚振るように、じわりじわりと苦しめてくれる。
続いて水晶に映し出されたのは、意識を失ってもなお苦しそうな少女の手を握り、髪を梳く全身黒づくめの長身な男。
「その顔が歪むのを見るのが楽しみじゃ、我が息子よ」
女は楽しげに目を細めながら、ゆっくりと水晶の表面を指で撫でた。