方舟からの贈り物
今回ちょっと変な終わり方をしますが、予定通りです。
物語よりもカテゴリがすごい困るんですよね……。分からないカテゴリは大抵文学につっこんでしまう癖があります。
ここ最近、何度も夢に出てくるものがある。
全くどこかわからない海洋の中心に一隻の船が浮遊している。その船は何かを乗せるものではないらしく、非常に小さいものだ。ひょっとしたら一片の細胞すら入らないかもしれない小さな船が荒波の中で揺れているのだ。その小さな船にはなにか繊維のようなものが幾つも伸びていて、それ以外は何もない。何も存在しない虚ろな船、最終的にその船は荒波に飲まれて消えていってしまう。だがその船は沈没したわけではない。恐らく、何も言うこと無く消えてしまったのだろう。
どうしてこんな夢を繰り返し見るのか、自分にはわからない。だが、あの船はきっと何かを運んでいるのだ。何を思うでもなく、私はその方舟にそんなイメージを抱いた。何を乗せているのだろう、あの夢を見るたびにそう思う。
方舟の夢を見る度、変化するのは私の心境だけだった。普通、繰り返し見る夢には何かしらの変化が生じるもののように感じるが、方舟の夢は何度見ても同じ光景しか見せない。暫く荒波を漾った後、そのまま波に飲まれて消えてしまう。何を訴えるわけでもなく、方舟は消えては現れ、また消えてしまう。
いや、なにか訴えているのかもしれない。この方舟が運んでくるものは一体何なんだろう、私が感じる違和感は、方舟のことよりも方舟が運ぶ正体不明のなにかだった。
***
けたたましい目覚ましの音で目が覚めるのは久しぶりだった。というのも、方舟の夢を見るようになって睡眠時間が格段に少なくなっていた。
いくら深い眠りについても、どうしても船が消えると同時に目が覚めてしまう。時間はまちまちで、まだ深夜の時もあれば夜明け後のこともある。しかも一度目が覚めてしまえばどうにも再び眠りにつくことが出来ない。深夜に目が覚めた時は最悪だ。仕事まで時間があるにも関わらず眠りにつくことが出来ず、ただただ暗い部屋の中で方舟のことについて考え続けるだけ。不思議とそれ以外にやる気が起きない。
それなのに、今日は目覚まし時計の時間通りに目が覚めた。たまたまだとしても、久々の目覚めの良さに白石灯は思わず笑みを零した。
そんな気持ちとは裏腹に妙な熱っぽさが体に残っている。鼻風邪を疑ったが、下痢などの症状があったことから断定はせず安静にしていた。だが下痢に関しては未だに続いている。そんな不安定な身体状況が続けば、精神状況も悪くなってくる。ここ最近の夢のことも相まって、灯は丁度溜まっていた有給を使って一時の休息を得ることにした。
その休日の一日目、それが今日だった。そんな日に目覚まし通り起きられるのは幸運なことだった。それとも休みの初日だから目覚ましで起きることが出来たのか、正直灯にとってそんなことを考えることのほうが無粋だった。時間通り起きることが出来た、その事実だけが彼女にとって意味のあることだ。
ベッドから上半身を起こし、真横のブラインドを勢い良く上げた。微かに溢れていた太陽光が一気に窓を介して室内に降り注ぐと、灯は体をベッドの外に移動させてゆっくりと立ち上がった。その日は稀に見る快晴だった。休みの日は外に出ず家でゴロゴロしていることが多い灯すら、散歩に出かけたくなる程良い天気で、強すぎず弱すぎず丁度いい太陽の光が温かく窓からこぼれる。
少し高くなった視線から外のアスファルトをみると、はっきりと陽炎が揺れている。それほど強い日差しでもないのに、空間を不気味に歪める陽炎はやけにはっきり見える。その現象に対して小さな違和感を感じながら、似ている日の記憶を手繰る。
灯はしばし、印象強い出来事が起こった時の環境に似た光景を見るとそのことを思い出してしまう癖があった。それが良いことでも悪いことでも、白昼夢のような映像が浮かぶのだ。それに対して一喜一憂することも多く、灯はその自分の体質を恨めしく感じていた。
「(……命ってなんだろうね)」
ふと、言葉に出ない本音が浮かんだ。あまり強くない日差しとそれで生まれるはっきりとした陽炎、春の代名詞とも言える桜が飛び交う中、灯は男性に対して大きな嫌悪感を抱いたことを今でも鮮明に覚えている。
当時付き合っていた男性との間に、子どもが出来た。だが付き合っていた男性が灯に望んだものは、中絶だった。よくある話だ。まだ若いうちに子どもが宿ってしまった。結局その子を育てる手段がなくて、中絶を選ぶ。灯はその判断に従った。従うしかなかった。灯自身経済的余裕はなく、ましてや子どもを生むための費用すら捻出する事ができなかった。
現代においてこのような問題は普遍的に存在する。灯もそのことについては納得していた。だが、許せなかった。間接的とはいえ命を摘んだことに変わりなく、それをしてしまった自分とあの男が許せなくて、一時は自殺も考えた。結局、その度胸もなくずるずると生きていることが今でも嫌だった。
選んだ道はその記憶を抑圧して、なかったものとして扱うことで精神を保った。だけど時々、中絶の日と似ている時、あの日を思い出す。自分が始めて人を殺した日だ。
それからだ。男性というものが、完全に信じられなくなった。どうして自分はこんな生き物を好きになってしまったんだ。そもそも好きなんて感情を持っていたのか、それすらも曖昧になる。最初から好きなんて感情がなかった。ただただ否定的な感情を並べるだけで気持ちが晴れるような気分になる。勿論晴れたような気分になるだけ。完全に断ち切ることは不可能であることを知っている。だけどその不可能に抗うために、抗っていたいから忘れた気分になるだけ。
感傷に浸り続けるのもよくなく、灯は暫く窓枠で悶々とした後、いつも飲んでいる銘柄の紅茶を淹れた。渋みが強く、ミルクティー向けのその紅茶を砂糖も入れずに飲み干すと、眠気と苛立ちがどこかに消えてしまう。いや、溶けてしまうと表現したほうがいいのか。
どちらにしても、休日の朝に罪悪感に駆られ続けるのはよくないし、そもそもそんなことのために大切な休暇を使ってそんなことをしたいわけではない。
今回の休日は、夢に出てきた船を調べることが目的のはずだ。いちいち感傷に浸るなんてつまらないことをするために休んだわけじゃないんだ、灯はそう言い聞かせながらパソコンを立ち上げ、とりあえず方舟で検索をかけた。
「あの船、どっかで見覚えあると思うんだけどなぁ」
夢に出てきた船は四角く、非常に小さい木製の船だった。恐らく何か運ぶことを目的として作られているのは確かだが、如何せん船そのものが小さく何を運ぶにしても全く意味を成さないものだった。形状こそ小さかったものの、その形には覚えがあった。何処かの美術館で見た絵画の一つ、丁度ノアの方舟をモチーフとした船の絵に描かれていたものにそっくりだった。そのこともあり、方舟で検索をかけることにした
暫くインターネットを探し回っていると、自分が美術館で見たものとそっくりの画像が出てきた。確かに自分が見た絵とそっくりであったが、改めて見てみると夢の船と幾分異なる。確かに美術館の絵も長方形状の小さな木製の船だったが、夢で出てきた船は長方形と言うよりも正方形に近く、船と呼ぶにはあまりにもお粗末なものであったように感じる。美術館の絵の船を直方体を加工したものとするなら、夢の船は立方体を加工したものと言えるだろう。
少なくとも一般的な船ではない。特定の何かだけを運ぶために作られたようなもののように感じる。
「(いや、運ぶための船じゃないのかも)」
唐突に灯は、船の目的そのものを見誤っていたように感じた。理由として夢の中の船は立方体に近い形状だったことで、夢と言ってもあまりに抽象的な船のイメージのように思ったからだ。通常の船は方舟を含めて基本的には長方形である。正方形状の船なんて、SFか何かでしか見たことがない。
あまりにも非現実的であるが、灯にはその立方体の浮遊する物体が船にしか見えなかった。船と定義してもよいものか正直迷うが、少なくとも現実の灯ですらそれを船として定義する程度には船だ。だけどその船はなにかを運ぶ目的で作られたものではないのかもしれない、もっと別の明確な目的が存在するのではないか。灯が出した答えは別の答えの模索だった。
結局、その日は夢の答えを出すことは出来なかった。そもそも夢なのだから、適当な答えを出して自分の中で納得するだけでいいはずなのだが、不思議とそんなことをする気も起きなかった。どうにも、反復的に起きる船の夢は自分に何かを伝えるために存在しているのではないかと思って止まない。それだけでも調査に十分値する、灯はそう考えることにして残りの休暇も継続して夢について調べることにした。
***
その夜も同じ夢を見た。やはり、小さな立方体の船が海洋の中で揺れていて、次第に荒波に飲まれて消えていく。相変わらず夢そのものには変化はなかったが、一つ今まで気が付かなかった事に気がついた。
船の中に格納されていた繊維上のものは一つ一つ独立しているのではなく、二つで一つのグループを組んで独立しており、決して一本単体の繊維は存在しなかった。数までは分からないが、二つで一つのグループにしても数はそこまで多くない。30本にも満たない、もしくは20本程度の少数の繊維だ。
どうして灯がそのことに気がつくことが出来たのか、それは繊維が徐々に船の外に移動しているからだ。最初に夢に出てきた時はこんなにも船の外に繊維が出てきてはいなかった。それが今晩の夢では大部分の繊維のグループが船の外に出ようと我先に移動している。
その僅かな異変を理性で認識したとき、船はいつもと同じように荒波の中に消えていった。やはり沈没ではなく、期待のように荒波に飲まれたかと思えばそのまま消失していた。
全くもって奇妙な消え方だ。不気味といっても言い。船で不気味と言えば出てくるのはメアリーセレスト号位のものだが、それに勝るとも劣らない不気味さだった。
やがて夜が明けると、いつもと少し違う風景が辺りに広がっていた。
鼻腔に残るのは強い消毒液の匂い、それに右腕に感じる異物感、清潔感のあるシーツが自宅のものでないことくらいすぐに理解できた。
ゆっくりと重い体を起こすと、体の節々が軋むように痛んだ。まるで長いこと眠っていたように体は硬く、動かそうとすれば激しい痛みを伴った。仕方がなく体を右に倒して側臥位になり、視線を右側に移す。するとそこには看護師が後ろ向きに作業している所が見え、その時ようやくこの場所が病室であることを知った。
状況がうまく把握出来ず、灯はただただ素っ頓狂な声でその看護師に声をかけた。
「あの……ここは?」
「あら、お目覚めですか? 白石さん、栄養失調が原因で自室で倒れている所を発見されたんですよ?」
丁寧に原因まで教えてくれたが、灯は納得できず暫くの間頭に疑問符が浮かんでいた。栄養失調が原因と言っても、栄養失調になるほど栄養を取っていないわけではない。そんな症状とは無縁のはずだった。
違和感はそれだけではない。一体誰が病院に連絡を入れたのだろう。灯は自分を尋ねてくる可能性のある人間がいるとは思えなかった。友だちはたしかにいるが、家は誰にも教えていない。看護師の説明だけでは納得出来ない要素があまりにも多すぎる。
そんな疑問まみれの灯に助け舟を出すように、灯の担当の看護師は更に情報を提示する。
「有給を取られていた白石さんが出勤してこなかったことを心配して、同僚の日坂さんが白石さんの家まで来てくださったみたいですよ?」
「日坂さんが? って今何日ですか!?」
「8月21日ですけど……」
その答えを聞いて灯は青ざめた。休暇を取得して最初の休み、つまり記憶が残っている日の日付は8月18日、仕事は21日から。その間の記憶は一体何処にいってしまったのだろうか。そしてその間、自分が何をしていたのかさっぱりわからない。
途端に現実味の薄れる現実に対して、灯はどのような反応をすればいいのか分からず、ただただ狐につままれたような気分がそのまま表情にあらわれていた。
「あの……落胆されている最中なんですけど、一つ報告しておきたいことがあるのですが……」
「な、なんでしょう……?」
「妊娠なさっているみたいで、一応胎児の方も順調ですよ」
***
妊娠、その響きは、灯にとって、特別な意味合いのある言葉だった。新しい命の誕生と死が常に隣り合わせにある。
それに対する喜びと畏怖、恐らくあの方舟は、生命を運んでくる舟なのかもしれない。
しかしそれは、灯の中にある迷いを断ち切るものであることは間違いない。そもそも妊娠するとはどういうことだろう。愛しあった上で形成されるものなのだろうか、それとも愛なんて存在しなくとも形成されるものなのだろうか。
この問の答えは永遠に出ることはない。だが灯は、少なくとも愛があったからこそ生まれてくるものがあるのではないか、という結論に至った。そしてそれは、今回の舟が運んできたものに対する答えにしても同じものであったと確信している。
ここまでご覧下さった皆様有難うございます。ちょっと変な終わり方に頭に疑問符が浮かんだ人もいるでしょうが、これから先の話は存在しません。なのであの終わり方で正解です。
と言うよりもこの物語はあの終わり方が正解かなっと思いました。気に入らなかった方、どうぞラストシーンを自分の想像力で補ってくださいませ。