数学さんの無人島
数学さんとは、その名の通り数学に精通している人物なのだが、だからといって、数学の権威だとか、大学の教授だとか言うわけではない。
ただ彼は、数学が好きだからそう呼ばれている。言ってしまえば、渾名である。実際にどんな職業に就いているのかは把握していない。僕らは全員、名前も年齢も職業も、プロフィールについては一切打ち明けてはいないのだ。だけれど、間違いなく言えることは、享年およそ四〇代半ばとなってしまった彼が、中途半端ではない金持ちだ、ということだろう。
何しろ。僕たちが招待されたこの場所は、数学さん所有の島なのだから。
太平洋に浮かぶ小さな島。
僕からしてみれば、そもそもどうやって島なんて買うのかという疑問から始まってしまう。
コンクリートの湾にクルーザーを停め、両側から林の枝に包まれた幅広な石階段を登って高台に登ると、古式ゆかしい日本家屋が現れるその島は、現在数学さん一人しか在住していないらしい。
まあ、在住とは言っても、普段からこの誰もいない島で生活をしているわけではないだろうし。数学さん亡き今、島民は零だ。もはや無人島と言っても差し支えないかも知れない。
今回。
数学さんはとあるインターネットゲームのトッププレイヤーを自分の島に招待し、二泊三日のオフミーティングを開催した。今日はその初日で、集まったのは、数学さんを除いて五人。
先ほど全員を代表して、僕のことを「疑わざるを得ない」と提言したのは柱木さん。三十代半ばほどのスーツを着こなした男性だ。流石に始め、数学さんの遺体を見たときには動揺が見て取れたけれど、招待されたメンバーの中で一番年上という自覚もあってか、今はこの場のまとめ役を買って出てくれている。しかし、僕は自分が犯人ではないことを知っているのだから、黙っているわけにもいかなかった。
「ちょ、っと待ってくださいよ柱木さん。いくら何でも、それは証拠として」
「だいたい。証拠を出せ、なんてのは犯人のセリフだよな」
僕の言葉を遮ってそう言ったのは、木造建築の柱に寄りかかって腕を組んでいる青年。前髪が顔にかかっている二野さんだ。彼は、僕と同じくらいの年齢だけど、あまり世間ずれしていない印象がある。知識もインドアな趣味のものが多そうだ。
言葉を続けられず、つい彼の方を睨んでしまう。
そんな僕たちの間をとりなす様にして、分道さんが言葉を挟んだ。
「あ、ぅ。ふた、二人と、も落ち着いて。えっと、糸束さん。まだあなたが犯人だと決めつけているわけではないの」
落ち着いて、と言った彼女こそが、この場で一番落ち着きが無いような印象が僕にはあるのだが。しかし、自分より落ち着きがない人間がいると、なんとなく冷静になれるのは、人間心理的に真理かもしれない。
分道さんは、僕と二野さんより少し年上の三十手前くらいの女性だ。黒のアンブレラプリーツスカートは膝下まであり、ブラウスは手首のボタンまでしかりと締められている。一目見た限りでは落ち着いた大人の女性なのだが。実はただのあがり症なヒトだった。
「あ、はい。すみません」
二野さんとのにらみ合いをやめ、分道さんに五度だけ首を垂れる。
しかし、分道さんは、少しでも場の空気を悪くしないために「犯人だと決めつけているわけではない」と、僕に言ってくれたが。その前に柱木さんが言ったように、僕以外の全員が僕のことを疑わざるを得ない、というのは、意味不明な意見というわけではなかった。
というか。
お気持ちお察しします。
だ。
足裏の汗が、畳を濡らす。
じっとりという擬音が聞こえそうなほど重たい空気感に、誰も口を開けずにいた。
と。
ここで、僕たちのいる大広間(僕の感覚が役立つのなら畳百枚はありそうに見える)の、下座にある入り口の襖を押し広げ、ジャージ姿の女が闖入してきた。
「みなさん無理でふふぁがあ」
女は転んだ。
「……」
「……」
「……」
「……」
ヒトは、そこまで親交が深いわけでもなく、切迫した状況で顔面から転んだ相手に対して、なんと声を掛ければいいのだろう。
「掛ける言葉もねえ」
意外にも、話の口火を切ったのは二野さんだった。前髪が長く、やや陰鬱なイメージのある彼であるが、会話内容はやたらと喧嘩腰なところがある。さっきだって、わざわざ僕の言葉に嫌みを被せてきたし。しかし、今は僕も二野さんの発言に「異論はねえ」と、言いたいところだった。
まあ。異論どころか、ジャージ姿の闖入者――雅さんのせいで、誰も口を開けずにいるのだが。
「いたた。あはは、転んじゃいました」
「大丈夫ですか」
唯一の女性仲間である分道さんが助け起こしにゆく。あがり症な所はあるが、彼女はまた、気遣いのできるヒトでもありそうなので、転んだヒトの対処は任せてしまおう。
「これで、被疑者がそろいましたね」
あくまでも僕が犯人ではないことを主張しつつ、一旦まとめる。
さて。