その8
「相手が化け物だから、危険も伴うが近衛隊がついているし微力ながら私もいる」
恐怖を微塵に感じさせず笑うフローラを空が切なく見つめている。
「フローラさんも戦うんですね」
「剣士だからな」
当然の義務だと彼女は言う。
-みんな、命懸けで立ち向かっているのに私は何も役に立てない……。
闘いには無縁で異世界から来た空にできることは何一つないのだ。フローラは剣士としてトレスの助けになるだろうし、アザリアだって……。
己の無力さに嫌悪する空を察したのか、フローラが両肩に手を置いた。
「ソラは皆の為に祈っててくれ。そして、美味しい料理で生きていると我々に実感させてくれないか?」
「そんなこと、私じゃなくても……」
言った後に後悔した。フローラのブラウンの瞳が藍色のそれと重なったからだ。
「他の人では意味がない。トレスはソラじゃないとだめなんだ」
一人っ子の空にはフローラは姉のような存在で、悩んだ時はいつも励ましてくれる。
「ありがとう、フローラさん」
ここで、フローラが剣士の一人に呼ばれた。きっと彼女にも召集がかかったのだと、慌ただしく通り過ぎる剣士達の様子で想像できる。
「気を付けて」
片手を上げて応える赤毛の剣士が小さくなるまで見送った。
水を浴びて妖獣の血を洗い流すトレスは、じっと己の手を見つめる。
先程の闘いで剣を手放すほど、心臓を直接掴まれたような激痛だった。気のせいとは考え難い身体の異変に漠然とした不安を抱える。
浴室を出て着替えている所へ、ノックの音と共に支度を済ませたノーサが現れた。
「準備ができたか」
「ああ」
二人の格好は、それぞれコートと同じ色の密着した服である。重々しいロングコートを羽織っていない身軽な姿にお互い苦笑した。
「あれがないと物寂しいな」
「まったくだ」
見事に染まった獣の血は果たして落ちるだろうか。今頃、侍女達が悲鳴を上げて洗濯しているに違いない。
「すまない。俺が不甲斐ないばかりに」
「いや、お前の一撃は確かに急所をついていた」
慰めではなくトレスの本心だった。ノーサの剣の腕前は、彼だけでなく近衛隊の皆が認めている。
「一体、妖獣とは何者なんだ?」
「『時の泉』から召喚された獣よ」
答えあぐねていたトレスの代わりに女の声が割って入った。
「アザリア!?」
「彼もメイルと関わっているなら、真実を知っていた方がこの先楽じゃないの?」
いつの間にいたのか、気配を消していた彼女にトレスは眉をひそめる。
「勝手に入ってくるな」
「失礼ね。さっきから表でずっと待っていたのよ」
勢いよくソファーに座ったアザリアが、すらりとした足を組んで頬杖をついた。
「『時の泉』だと!?」
トータム・メイルが絶命した泉から現れたと聞いて、ノーサの顔が曇る。
ついこの間まで、文明もままならない村がやってきたばかりだというのに、このわずかな日数で極秘事項まで調べたとは思えない。
「このお嬢さんは、どこまで知っているんだ?」
小声で訊くと仏頂面のトレスが答えた。
「そこそこ知っているから、適当に合わせておけ」
「適当ってなによ!! 全部聞こえているんだから!!」
おまけに地獄耳も兼ね備えているらしい。トレスとノーサが顔を見合わせて肩を竦めた。
「では、泉を封鎖して妖獣の入り口を塞いではどうだ」
ノーサが言うと、そのてがあったかとトレスがアザリアに振り向き意見を求めた。しかし、彼女は首を横に振る。
「無理なのは、あなたが身をもって体験したでしょう?」
おどけた口調から一転、真剣な眼差しを向けられたトレスが息を飲んだ。
何故なら、時空を越えて行き来できたのは『奇跡の石』を所有する『番人』のティアラ・トレスただ独りだったのだ。
この事実はトレスと空、そして、アザリアしか知らない。
「厄介だわ」
と、呟くアザリアに二人の剣士も頭が痛かった。
フローラに励まされて少し気が楽になった空は、半日の休みを利用して久々に森を散策した。
もうすぐ、木イチゴがなる時期で、マーサのジャム作りを手伝う約束している。その下見も兼ねてのことだった。
木々を吹き抜ける爽やかな風が、空の以前より伸びた栗色の髪を揺らす。
-うーん。気持ちいいなあ。トレスも一緒に来れたらいいのに。
近衛隊にいた頃は、休みになると二人で馬に乗りこの辺りを歩いたものだ。最近のトレスは、女王の命令違反で別の任務を与えられて、日を追うごとに疲労の陰を濃くしている。まだ、少年っぽさは残っているが、ますます精悍な顔立ちになってきた。
気の向くままに歩いていると、いつの間にか森の奥へ導かれるように入って行く自分がいた。
-あれ? ここって『時の泉』がある場所じゃないかな……。
あの忌まわしい出来事を思い出して身震いすると、急いで引き返そうとした時である。
泉の畔にたたずむ人物がいた。
ライムグリーンの髪を靡かせて立っているその者は少年だった。細身で少女と見間違う中性的な美しい容姿に空は見惚れた。
気配に気付いた彼がゆっくりとこちらへ振り向く。
「こんにちは」
澄んだ声で挨拶されたので、空も応えた。
「こんにちは。ここで何しているの?」
「うん? 泉が騒がしいから様子を見に来たのさ」
真っ赤な瞳に見入られて、彼女はその場から動けない。
それにしても、誰も近付かない禁断の泉に、この少年は何をしていたのか。修羅場を幾度もくぐってきた空だ。警戒しつつ相手の真意を探るべく言葉を続けた。
「ここは来ちゃいけない所なの。早く帰った方がいいよ」
「そうなんだ。ありがとう」
少年は素直に従って泉から遠ざかり歩き出して、再び空に振り返る。
「道に迷ったみたい。一緒に行っていい?」
人懐っこい笑顔で言われて、断る理由がない空は頷いた。
「一人で来たの?」
「はぐれちゃって」
背は空よりも十センチほど高く、歳は空の方が上かも知れない。白いシャツに若草色のズボンが線の細さを強調していた。
二人は会話を交わすことなく森を抜けていく。すると、少年が急に笑い出した。
「何が可笑しいの?」
「ぼくのこと、怪しいと思っているでしょ?」
心を見透かされて空の顔が上気する。
「あんな所にいたら、誰だってそう思うよ」
「ティエラ・トレスがいても?」
ますます警戒心を露わにする彼女に、真っ赤な瞳が悪戯っぽく笑った。
「ごめん。悪ふざけが過ぎたね。だって、ほら」
少年が体つきと同じほっそりした指が差した方向には、馬でこちらへ向かってくるトレスがいる。
「空!!」
彼女を心配して迎えに来たのだ。
「ここに来るなと言っただろう!!」
怒鳴るトレスに肩を縮こまらせる。メイルとのことがあったばかりで、彼の怒りも無理はないのだ。
「ごめん。男の子がいたから一緒に森を抜けてきたの」
「男の子?」
「うん」
しかし、隣にいたはずの少年が忽然と消えていた。
「あれ? さっきまでいたのにどこへ行っちゃったかな?」
あれは幻だったのか。否、言葉も交わして姿も確認している。狐につままれたかのごとく空が茫然としていると、トレスが手を差し延べた。
「行こう。もうすぐ日が暮れる」
掴んだ手が力強く引き揚げられて、彼の後ろに乗馬する。
-確かにいたんだけどなあ。
遠くなる森にもう一度見やる空を、高い木の枝から見送っているのはあの少年だった。
「また会おうね。アオイソラさん」