その2
厨房で働く調理師のスレッダは空に恋していた。そう、既に過去形なのである。
第一印象は最悪だったが、気が付けば彼女ばかり目で追っていた。明るく健気で可愛い空が放っておけず、ついつい手を差し延べてしまう。
彼氏がいないという情報を信じて、懸命にモーションをかけた。
藍色の髪の剣士といい雰囲気だが、まだチャンスがあると思っていたのだ。
あの日までは……。
メイルとの騒動からしばらくして、トレスが近衛隊から外されたと噂を聞いた。なんでも、新しい任務は城へはあまり帰ってこれないらしい。
-空を支えるのは俺しかいない!!
寂しげな彼女の横顔に誓って、それからまもなくのことだ。
ある日、菜園から戻らない空を心配して行ってみると、若い男女が口づけを交わしている場面に遭遇した。
-白昼堂々とよくやるよ。こっちは彼女もいないっていうのに。
腹立ち紛れに、出てきて邪魔をしようかと垣根を越えようとした時だった。
見覚えのある女性の顔に再び身を隠す。
-ソラ!?
顔半分出して、もう一度確認したがやはり空本人だった。
-な、なにやっているんだよ!! 相手の男は誰だ!? ぶっ飛ばしてやる!!
だが、その相手がトレスと判明すると、スレッダは意気消沈してしまう。
背を向けているトレスの表情は分からなかったが、空は恍惚の表情で身を委ねているではないか。
恐らく、束の間の愛を確かめ合っているのだろう。
こうして、スレッダの恋は終わったのである。
「スレッダさん?」
いつの間にか物思いに更けていたらしく、空が怪訝な顔で覗きこんでいた。
「えっ? なんだい?」
「フローラさんに用があるなら呼んできましょうか?」
「い、いや、いいんだ。大したことじゃないし」
口では言ってみたものの、スレッダにとっては大したことだった。
失恋から一週間、立ち直れない彼の前に赤毛の女剣士が現れた。
「ソラはいないのか?」
「彼女なら使いに行っていますが、なにか?」
「頼みたいことがあったんだが、また来るとしよう」
深紅のコートに赤い髪。その美貌で知らない者はいない上級剣士フローラ・エバーだ。
シャープな顔立ちに切れ長のブランの瞳、形のいい唇は空とは違った魅力がある。
剣士が厨房を訪ねるのは少ないが、空がここで働き始めて最高位の剣士までやってくるようになった。
調理師と剣士とでは世界が違うと思っていただけに恐縮する。
帰ろうとしたフローラが足を止めた。
「これはなんだ?」
台に置いてあった野菜を手に取ると、鼻に近付けて匂いを嗅ぐ。
「うわ!! なんだ、これは!?」
刺激臭が嗅覚を襲い、フローラが慌てて台に戻した。
「生だと匂いがきついですけど、加熱すると消えて美味しいですよ」
ふうん、と相槌を打つがまだ匂いが残っているのか顔をしかめたままである。
「これだと生でも食べられますが……」
スレッダが次々と食材の説明を始めたが、フローラは黙って聞いていた。
「料理は奥が深いな」
すっかり感心した彼女が腕組みして唸った。
滅多に会えない上級位の剣士を目の前に興奮したのか、失恋の痛手を癒したかったのか。一気に捲し立てて少し気が楽になったところへ、空が戻ってきた。
「フローラさん、こんにちは」
「やあ。頼み事があって来たんだ。ところで、料理というのは大変だな」
「大変だけどやりがいがあるんですよ。フローラさんも今度一緒に作りましょうよ」
空の提案にフローラが苦笑する。
「いやあ、私は苦手なんだ。食べる方が合っている」
場所を変えようと歩き出したフローラが振り向いた。
「ありがとう。お陰で楽しかった」
「あ、いや、こちらこそ引き止めてすみません」
突然、礼を言われてスレッダは面喰った。
-上級位の剣士というから怖いイメージがあったけど、美人だし、結構いい人だな。
こうして、スレッダは再び恋に落ちたのだった。
一方、村ではトレス達が城へ向かう準備を進めている。妖獣を荷馬車に乗せると、手綱はアザリアが取った。
「じゃあ、行ってきます」
「道中気を付けてな」
「大丈夫。こっちには最高位の剣士がついているんだから」
横で馬に跨るトレスを見やると、相変わらずの仏頂面だ。
長老が二人に何やら呟いて印を斬った。
「何をしているんだ?」
「門出のおまじないよ。健康と無事を祈願するの」
この村は文明が発達していない代わりに、まじないや霊感の存在が根強い。
村人達の見送りを背に二人は出発した。
初めての旅にアザリアは興奮を隠せず、流れる風景に目を輝かせている。
「なんかわくわくするなあ」
「村を出るのは初めてと言っていたな」
「みんなそう。よそ者と触れ合うと自分達の風習が汚されると思っているのよ」
少し不満げに呟いた。若い彼女には、閉鎖的な生活はうんざりしていたに違いない。
「だから、トレスが来てくれて感謝しているわ」
妖獣の噂がなかったら訪れることもなかったし、アザリアにも出会わなかっただろう。
「腕、大丈夫?」
自分を庇って怪我を負ったことをまだ気にしているようだ。
「薬が効いているようだ。痛みはない」
よかった、とアザリアが胸を撫で下ろす。
「ねえ、一つ聞いてもいい?」
「なんだ」
「恋人、いるの?」
一瞬、トレスが見開いて少年の表情が現れた。
「何故、そんなことを聞く!?」
「そんな仏頂面じゃ女の子も寄ってこないでしょ?」
「余計なお世話だ」
それだけ言ってトレスが黙ってしまったので、アザリアは肩を竦めてまた前を向いた。
恋人と聞いて、馬上のトレスは空を思い出す。
無理はしていないか、それだけが心配だ。恋人らしいことを何一つしてやれないのがつらい。
夜も更けて、二人は川の畔で野宿をすることにした。簡単な夕食を済ませて、アザリアを先に寝かせるとトレスは焚火の番をして夜を明かす。
彼がいるお陰で安心して眠るアザリアだったが、覆い被さる気配にふと目が覚めた。次第に目が暗闇に慣れてそこには真剣な顔をしたトレスが目の前にいる。
-えっ!? 寝込みを襲う気!? やだ、心の準備が!!
悶える彼女の口をトレスが手で塞いだ。
「静かにしろ」
-強引なんだから……。
ゆっくりと抱き起こされて、目を閉じてその瞬間を待っていたがどうも様子がおかしい。
「何かいる」
「へっ?」
険しい表情で闇の彼方を凝視する彼の視線を追った。
風もないのに草むらが靡き、姿を現したそれに二人は驚愕する。
「妖獣!?」
「一匹だけじゃなかったのか!!」
焚火の灯りに照らせれたその化け物は、低く唸ると白銀と漆黒の毛を震わせて威嚇していた。
「お前は離れていろ」
怪我させた手前、一緒に戦うとは言えずアザリアは素直にその場から離れた。
先に仕掛けたのはトレスで、剣を抜くと地を蹴る。巨体を物ともしない俊敏な動きで回避した妖獣は反撃に出た。
鋭い爪を煌めかせて襲い掛かるが、間一髪剣で受け止める。
彼等が戦う度に焚火の炎が大きく揺らめいた。動きが素早いので風を巻き起こしているのだ。
静寂の夜に、劈く金属音だけが鳴り響く。
見切ったはずの相手の動きが暗闇で鈍り、トレスは焦りを感じた。塞がり掛けていた腕の傷口が開いた感覚に顔をしかめる。
「トレス、下がって!!」
アザリアが彼の前に現れると、二本の指で印を結んだ。
左右の掌を前に突き出すと、突風が吹き焚火の炎が勢いよく舞い上がる。まるで、龍の如く空に登り妖獣を包み込んだ。