その1
仕事が終わり、共同風呂から戻ってきた空は部屋で髪を乾かしていた。以前よりも長くなって手入れにも手間がかかるが、切らないのは理由がある。
それは、ある日偶然に城の廊下でトレスと会った時だった。いつもは一つに束ねている髪を下ろしていると、トレスが驚いた顔をした。
「どうしたの?」
「見ないうちに髪が伸びたな」
「切りたいんだけど、つい」
ふっとトレスの腕が栗色の髪へと伸びる。
「似合っているのに勿体ない」
「えっ?」
二度は言わず、髪を撫でているトレスに胸がときめいた。
そのまま引き寄せて、空の唇に自分のそれを重ねる。さりげなく、そして短く……。
「笑顔でいろよ」
耳元で囁いたトレスが行ってしまう後ろ姿をただ見送るしかなかった。
仏頂面で口が悪いが、時々見せる甘く優しいトレスに空は未だに戸惑う。それだけ二人で過ごした時間が足らないのだ。
-トレスと逢うまで髪は切らない!! よし、決めた!!
願掛けにも似た空の決意は固かった。
アザリアの強引な誘いで、この村に宿泊することになったトレスは長老の家に世話になった。
夜になると、電気が通っていないこの村は闇に包まれる。その代わり、家の入口には松明が焚かれて獣から身を守っていた。
夕食には、トレスを歓迎する宴が開かれていた。
「これはペペッカという酒で、お客様が来たら出す特別のものじゃ」
盃に入っている白濁の液体から漂う匂いに顔をしかめる。
「……断ったら失礼か?」
小声でアザリアに尋ねると、気の毒そうに頷いた。覚悟を決めて一気に飲み干すと、体中の水分が滾るような熱さに見舞われた。
「さすがは剣士。いい飲みっぷりじゃ」
もう一杯勧める長老を手で制して、たまらず外へ飛び出す。
「大丈夫?」
心配して来てくれたアザリアにトレスは苦笑した。
-みっともないところを見られたな……。
酒は弱い方ではないが、あれは酷い。飲んだ途端に喉が焼けるようで、熱いというよりもはや痛い。頭は鈍器で殴られたかと思うほどくらくらする始末だ。
「一口飲めばいいのに、一気に飲み干すなんて前代未聞よ。大したものね」
−それを先に言え!!
憮然としたトレスがその場に座り込む。
こんな時に襲われたら命の保障はないと不安がよぎった時だった。
茂みの草が揺れてかき分ける音に、トレスは剣の柄に手を掛けて構える。
「アザリア、ここから逃げろ」
「えっ?」
訳を聞く暇もなく、目の前に現れた化け物に彼女の足がすくんだ。
オオカミが巨大化した姿は、漆黒と白銀が入り雑じった長い毛並み、よだれが滴る大きな口には鋭い牙が光っている。赤く不気味な眼光を向けられたアザリアは、まさに蛇に睨まれた蛙だ。
アザリアを背で庇い、剣を抜いたトレスが前へ進み出た。
「あれが妖獣か!?」
怯えて頷くを背中で感じる。
初めて見る異形の敵にトレスの喉が鳴った。人間ならある程度の動きは予測できるが、獣となると難しい。
互いに間合いを計っていたが、妖獣が先に仕掛けてきた。二人目掛けて突進してくると、トレスはアザリアを突き飛ばして真っ向から受ける。
凄まじい衝撃にトレスの体がいくが、剣を地面に突き立てて辛うじて停止した。すかさず、長く鋭角な爪を振り回すと、トレスの得物とぶつかり耳を劈く金属音を立てる。
皮肉にもその音がアザリアを正気に戻した。懐の短剣を取り出して、妖獣へ襲い掛かる。
「よせ!!」
トレスの制止は間に合わなかった。妖獣に振り払われた短剣は、くるくると回転しながら宙を舞った。
猛然と迫る獣に丸腰のアザリアは成す術もなく立ち尽くす。
-私、死んじゃうの!?
死を覚悟した刹那、トレスが彼女を抱き締めると横っ跳びで攻撃を回避した。
「無茶するな」
咎める藍色の瞳にアザリアは気まずさで声を荒げる。
「馬鹿にしないで!! これでも戦闘部族の血を引いているんだから!!」
「そういう問題じゃない」
「なら、どういう……」
トレスの腕を掴んだ時だった。べとつく感触に思わず掌を見ると赤い液体で汚れていた。
「……怪我したの?」
「大したことない」
紫紺のコートで気付かなかったが、出血の具合からかなり傷が深そうだ。
-私を庇った時に怪我したんだ……。
無表情でいるのは、剣士の意地か彼女への気遣いか。目の前の敵と対峙する精悍な横顔からは測れない。
妖獣は巨体を物ともせず高々と跳躍して襲い掛かると、アザリアが落下地点であろう場所に癇癪玉を放りこんだ。
ダメージは少ないが意表を突くには効果があったようで、音に怯んだ妖獣の胸にトレスの剣が突き刺さる。
返り血と断末魔の叫びがより深く貫く彼に降りかかった。
妖獣がゆっくりと倒れて絶命すると、物音を聞きつけた長老と村の人々がそれを目撃して驚愕している。
全身を赤く染めたトレスがアザリアに向き直った。
「お陰で助かった」
「私の方こそありがとう。早く傷の手当てをしなくちゃ」
「この先に井戸がある。そこで清めるのじゃ」
長老がトレスを案内するようアザリアを促す。
井戸の傍で、半裸になったトレスに彼女は目のやり場に困った。均整のとれた身体、鍛えられた腹筋と見事な肉体美にアザリアは顔を赤らめて傷口を見た。
案の定、深く痛々しい。水を掛けて潰した薬草を塗ると、沁みたのか彼の表情が歪んだ。
「この薬草を擦りこんでおけば、すぐ傷が塞がるわ」
「妖獣を城へ持っていきたいのだが、腐れにくくする薬はないか?」
「あることはあるけど、もう帰るの?」
「ああ。むこうで色々と調べて貰った方が都合がいい」
「それなら、アザリアを連れていくがいい。霊力も強いうえに薬草にも詳しいから、何かと役に立つ」
長老の提案に、アザリアのブラウンの瞳が輝いた。
「この村を出てもいいの!!?」
「しっかりと自分の役目を果たすんじゃ」
-連れていくこと前提じゃないか!!
当事者の意向は無視して、勝手に話を進めていく二人にトレスは憮然とした。
剣士達に軽食を届けた帰りに城の廊下を歩いていると、むこうから赤毛の女性がやってきた。
切れ長の瞳に整った顔が凛々しいフローラ・エバーである。
「やあ、ソラ」
「フローラさん、こんにちは」
「こんな所に何を?」」
「上級位の剣士さん達に差し入れを届けた帰りです」
そうか、と小さく笑うフローラに、時々申し訳ない気持ちになる。他でもないトレスことだ。
フローラとトレスは幼馴染で、彼女はトレスを追い掛けて剣士となった。彼を慕っているのに、空を助けたり見守ってくれるフローラの優しさがつらい。
二人が恋人となった時も、笑って祝福してくれた。
「あのトレスが、どんな顔して愛を囁くのか見物だな」
少し寂しげなその笑顔が忘れられない。だから、彼女には幸せになってもらいたいと心底願うのだった。
「元気がないな。疲れているんじゃないのか?」
物思いに更けて黙ってしまった空を心配そうに覗きこむ。
「トレスに逢えないから無理はないか。私でよければ話相手になるぞ」
「有り難うございます。後でドーナツを持ってきますね」
「ああ。楽しみにしているよ」
二人は笑い合って、それぞれの場所へ戻っていった。
「ただ今、帰りました」
空が厨房へ帰ってくると、スレッダが慌てた様子で駆けてくる。
「ソラが差しいれ持って行ったのか?」
「はい。スレッダさんは忙しそうだったので代わりに……。いけませんでしたか?」
「いや、いいんだ」
思いっ切りため息をついたスレッダが肩を落とした。