明心
2-22
放課後。屋上。
この時間、訪れるもののほとんどいないこの場に、久留井誠一の姿はあった。
屋上の数箇所に置かれたベンチの一つ。そこに、長い黒髪の女子生徒と共に腰を下ろしている。
不意に途切れる会話。絡み合う視線。自然と触れ合う手。
感情のままに互いの唇を重ねようとした時だった。
誠一は第三者の、矢の如き視線を感じ、そちらを見遣る。
女子生徒もつられて同じ方向に目を向け、「あ」と小さな声を漏らした。
「彰じゃん。どうしたの?」
目撃された場面のことなど構うことなく、普段通りの口調で、誠一は弟の久留井彰に声を掛けた。一方、女子生徒は気まずそうに視線を逸らす。
「誠一兄さん。少し話があるんですけど、いいですか?」
「いいよ。何?」
「久、久留井君っ、あたし、先に帰るね!」
女子生徒は慌ててその場から脱兎の如く走り去る。その背中を見送り、彰は改めて兄に向き直る。
「話って?」
「祥吾兄さんからはそっとしておいてやれって言われましたけど……僕はもう我慢できません! 誠一兄さん、一体何してるんです!? 女性とふしだらなことを公衆の面前で、しかも女性はとっかえひっかえ!」
「ふしだらって……お前、ホントに中学生?」
「そんなことどうだっていいでしょう!? 誠一兄さんの不名誉な噂、僕たちの方にまで届いてるんですよ!?」
「いやー、どうでもよくないっしょ。だって、お前中学生じゃなかった年齢詐称……」
「誠一兄さん!」
話の方向を逸らそうとする誠一の言葉を、彰の怒号が断ち切る。
「誠一兄さん、一体何がしたいんですか? どうしたいんですか?」
「……俺にもさー、よく分からないんだ、彰」
「分からない……?」
「そ。なんか寂しそうにしているから慰めてあげる、とか、楽しいことしよう、とか色々言われて、言われるがままにしてるんだけど。実際のところ、自分で何がしたいのかよく分かんないんだよね」
「……そうですか」
「うん。ごめんな、彰」
「さっき彰くんとすれ違ったんですけど、ずい分疲れた顔してましたよ」
彰が去った後、視界全体を覆う大空に描かれる、橙色から濃紺色へのグラデーションが変化していく様を、ぼんやりと見つめていた誠一に、そんな台詞が投げかけられた。
振り返った誠一の目に映ったのは、松下綾の姿だった。
「綾ちゃん……」
「何か彰君をがっかりさせるようなことでも言ったんですか?」
「うん。多分ね」
「そうですか」
綾は誠一の元に歩み寄り、その隣に腰を下ろした。
「綾ちゃんも俺を叱りに来たの?」
「彰君には叱られたんですか?」
綾の反問に、誠一は「まぁね」と苦笑する。
「兄さんのしてることはおかしいって。一体何がしたくて、どうしたんですかー!? ってさ。でもね、自分でもよく分からなくて」
「……分からないんですか?」
「うん」
「そうですか。私には分かりますけどね」
「そうなんだ。……って、え?」
咀嚼せずに飲み込もうとした綾の言葉の違和感に、誠一はきょとんとする。その表情を見て、綾は「誠一先輩、今、すっごく鳩が豆鉄砲喰らった顔してますよ」と笑う。
「私、よく振られるんです。好きっていう気持ちが重いとかって言われて。そんな時、私は次の恋を探すんです。そっちに夢中になって、さっさと忘れちゃおうって。誠一先輩、それと同じです。忘れようとしてるんです、葵さんのこと」
「!」
葵の名前を出され、誠一は気まずそうに俯く。
「久留井くん……祥吾君も同じようなこと言ってましたよ。最近辛い別れをした友達がいて、その子のことを忘れようとしてるんだろうって」
「そう、かな……。そうなの、かな。……そうなんだろうね、きっと」
「で、しばらくすればおちつくだろうとも言ってました。けど、私はそう思わないんです」
「え?」
自信満々に告げられた予言に、誠一は眉を顰めた。綾は更に続ける。
「だって誠一先輩、きっと葵さんのことを忘れられないから。誠一先輩はそれくらい葵さんが好きだから。ってことで、今みたいなこと続けても意味ないですよ」
「でも、葵はもう……」
「この世にいないから忘れた方がいいって? 死んでるとか死んでないとかって、そういう気持ちには関係ないんですよ! 死んでる人でも好きなものは好きなんだからしょうがないんです! 忘れようとしたって忘れられないんです! 消そうとしたって消えないんです!!」
一気に話し続けた綾はそこでようやく息をついた。
誠一はしばらく、茫然と綾を見つめていたが、やがて力の抜けた笑みを浮かべた。
「……そっか。消えないんだ」
「そうですよ。薄くなったりはするかもしれませんけど、きっと一生消えませんよ。……だから、もう無駄な努力はやめて下さい」
「……うん。そーするよ、綾ちゃん」
誠一は天を仰ぎ、目を閉じる。そして再度、「消えないんだ」と呟いた。
その目尻から涙が零れ落ち、誠一の頬を伝い落ちるのを、綾はじっと見つめていた。