不知訳
2-21
「祥吾兄さん! 祥吾兄さん!! 祥吾兄さん!!!」
自分の机で音楽を聴きながら数学の宿題をしている祥吾の背中に、いつになくハイテンションな彰の声がぶつかってきた。
「なんだよ、彰? 大声出して……」
iPodの停止ボタンを押してイヤホンを外し、振り返りながら祥吾が尋ねる。
彰は興奮気味に「僕、見ちゃったんです」と秘密基地の場所でも告げるような口吻で切り出した。
「見ちゃったって、何を?」
「ゲーセンで遊んだ帰り道で」
「だから何を?」
「誠一兄さんが女の人と歩いてるところを!」
特ダネを発表する記者の如く声高に言い放つ彰。祥吾は学校で目撃した兄のことを思い出し、「ああ……」と呆れた声を漏らした。
「あれ? なんだかテンション低いですね、祥吾兄さん。大事件じゃないですか」
「だって、俺も学校で見ちゃったんだもん。茶髪のショートカットの子でしょ?」
シャーペンで彰を指しながら祥吾が言う。祥吾の指摘に、彰は「いえ、違いますよ」と首を横に振った。
「僕が見た時に一緒にいたのは、黒髪の女性でしたよ、ロングヘアの」
「え?」
「え?」
祥吾と彰は頭上に大きなハテナマークを浮かべ、同時に首を傾げる。
「どういうことでしょうね?」
「どういうことも何も、兄貴は学校と放課後で別の女の子といちゃついてたってことだろ」
嘆息しつつ、祥吾が言う。その言葉に彰は眉を顰める。
「一体どうしちゃったんですか、誠一兄さんは?」
「どうしたって、葵のこと以外にないだろ、原因は」
「……ですよね」
「きっとそのうち落ち着くだろうから、しばらくそっとしといてやろうよ」
祥吾は立ち上がり、俯いた弟の肩を優しく叩く。
彰は「はい」と答えるが、その表情は未だに晴れない。
「誠一兄さん、どうして僕たちには相談してくれないんでしょう? 葵の時も一人で行っちゃうし」
「この前行ってただろ、俺たちに自分の情けない姿を見せたくないって」
「それはそうですけど……」
なおも納得できない様子の彰に、祥吾は「甘え下手なんだよ、兄貴はさ」と言葉を重ねながら、彰の髪をくしゃくしゃに撫でた。
その数日後の朝、久留井祥吾はクラスメイトである飛鳥川琉奈と秋川浩太からも、兄が女性と一緒にいる現場の目撃報告を受ける羽目になった。
「昨日ね、放課後に化学の先生に呼び止められて、浩太と一緒に先生の資料を取りに化学準備室に行ったんだけど、そこで先輩とどこかのクラスの女子いて……。その、とにかくラブラブな感じだったの」
「実は俺、一昨日に駅の東通りでもあの先輩見かけたんだけど、昨日とはまた違う女と一緒にいたんだけど、いいのか?」
二人からの報告に、祥吾は眉間に深い皺を刻み、額に手を当てて俯いた。
「誠一先輩、何かあったの? 大丈夫?」
琉奈が不安げに尋ねる。祥吾は「だと思うんだけど」と自信なさそうに答えた。
「彰君の方は他に何か分かったことはあった?」
「それもなし。まいっちゃうよ」
祥吾は肩を竦め、自嘲的に苦笑する。
と、そこへ綾が教室のドアを開け、入ってくる。
「あ、綾! おはよー!」
「おはよう、松下」
「松下さん、おはよ」
三人が登校してきた綾に声をかける。綾は「うん、おはよう」と返し、さっさと自分の席に着いてしまった。
「なんか……今、松下さんに目を逸らされた気がしたんだけど。俺、松下さんの気に障るようなことしたかなぁ?」
祥吾が綾の背中を見つめながら呟く。
「そういえば、綾、最近元気ないんだよね。それとなく聞いてみても、何ともないって言うし……」
「そうなの? 松下さん、何かあったのかな?」
心配そうな琉奈の横で、綾が誠一と共に葵の元へ行ったことなど知る由もない祥吾は、不思議そうに首を捻った。