苦悩源
2-16
閉ざしていた瞼を開けると、そこには一面、新緑の世界が広がっていた。
強烈な既視感を覚える琉奈と彰。
『おやおや……』
呆れ返った声が木々の合間から漏れ出した。
『またこの老婆に会いに来るなんて、随分と物好きな子達なのねぇ』
琉奈たちの前に聳え立つ巨木の向こうから現れた、一人の老婆。それは紛れもなく、先日琉奈と彰がこの空間で出会った老婆だった。
『気が変わって、私に食べられに来たのかと思ったけど、どうやらそうじゃないみたいね』
老婆は見慣れぬ青年――久留井祥吾を舐めるように見上げる。
新たな戦力の出現。
それは以前彰と戦った際、やや劣勢だった老婆にとって、己の確実な敗北を認めさせるのに十分な要素だった。
「僕たちはあなたと戦うつもりは毛頭ありません。あなたを散らせるつもりはないんです」
彰が老婆に説明する。
『じゃあ一体何しにわざわざこんなところへ?』
「訊きたいことがあるんです。あなたが出会ったという、僕にそっくりの女性について」
『? あの子は知り合いじゃないの?』
「僕には姉も妹もいませんから。いつ、どこでその女と会ったんですか?」
『かなり前のことよ。あの子は突然、私の森へやって来たの。他人と話すなんて久しぶりのことだったから、随分長話をしたわ。その話の中で言ってたの。生者の魂を喰らい、自分の中に取り込むと、更に強大な力を得ることができるって。
じゃあ、まずお前を食べてしまおうかしらって言ったら、あの子は笑って、「あなたに私は倒せないわよ」なんて言ってたっけ』
そう話す老婆もまた、楽しげな笑みを浮かべていた。
細田葵。
誠一はそう書かれたプレートの横にあるドアをゆっくりと開ける。
彼の顔は、緊張の糸に縫い付けてあるのかのように強張っていて、それを見た綾まで思わず身を引き締める。
病室へ足を踏み入れる二人。
白い室内。白いベッド。白い顔の少女。
「! 誠一くん、来てくれたのね」
夥しい数のチューブにその身を絡め取られたまま眠っている少女のベッドの横に佇んでいる中年女性が誠一に気付き、歩み寄る。
「葵もきっと喜んでるわ。……あら、後ろの子は?」
見知らぬ少女――綾へと視線を向ける女性。
「あの……ええっと……」
「知り合いの子です。さっき、たまたま下で会ったもんで」
どう説明しようか困惑していた綾に代わり、誠一がさらりと嘘をついた。
茫然とする綾をよそに、「あら、そうなの。初めまして」と女性は綾に笑顔を向ける。
「おじさんはまだなんですか?」
「そうなのよ。こんな日に限って仕事が片付かなくて。けど、もうじき来るはずよ」
「おじさんが来たら、ですか」
「ええ、そうよ」
会話を交わす誠一と女性。
口を挟むことができない綾は、じっとベッドに横たわる少女を見つめていた。
雪のように白い肌の少女。
眉一つ動かさず、ずっと眠りに落ちている。
体中から伸びるチューブ。それらは全て、点滴や彼女のベッドの周囲に置かれている大小様々な機械と繋がっている。
どの機械がどんな役割を担っているかは分からないが、それらによって彼女の命が現世に留まっているのは明らかだった。
「幼馴染なんだ」
一旦病室の外に出て、エレベーターホールのすぐ近くにある休憩スペースに設置されている椅子に腰掛けるなり、誠一が口を開いた。
「うちの――本家のすぐ近くにあるマンションに住んでて、小さい頃、俺たち三人といつも一緒に遊んでた。俺たちより男勝りで、明るくで、活発で、いっつも笑ってたよ。
そうしていつも一緒にいるうちに、だんだん葵のことを異性として意識し始めて。葵のこと好きかもって祥ちゃんと彰に話したら、二人も俺も好きだって言い始めてさ。そのせいでケンカしたこともあったよ。あれはびっくりだったね。 でも、結局二人は身を引いてくれて、俺が葵と付き合うことになったんだ。中二の時のことだったかな。
付き合うっつっても、今考えるとママゴトみたいなもんだったよ。擬似恋愛っていうか、子供の恋愛だね。ただ毎日一緒に登下校して、たまに公園でずっと喋ったり、川原で遊んだり。それだけでも十分楽しかったし、幸せだった。
中三の冬だったよ、葵があんなふうになったのは。現世で悪さしてたトコヨノ国の魂を散らしたんだけど、完全には散らせてなくて、その魂は再結合した。でも、俺はそのことに気付かなかった。何日か後、再結合した魂は下校中の俺をトコヨノ国に引きずり込んだ。一緒にいた葵ごとね。その魂はどうにか、今度は再結合させることなく散らしたんだけど、俺がそいつと戦ってる間に別の魂が現れて……葵の魂を奪っていったんだ」
「魂を奪ったって……でも、葵さんは死んでない、ですよね?」
「それが、どうやら葵の魂を奪った魂が、あいつの魂を保管してるみたいなんだ」
困惑する綾に誠一が言う。
「なんでかは分かんないけど、葵の魂自体はまだ無事なんだ。そういう趣味でもあるのか分からないけどね。ただ、肉体と魂が離れてしまってるせいで、葵は植物人間状態になってしまった。……全部、俺のせいなんだ」
「そんな……」
悪いのは誠一ではなく、彼らを襲った奴と、葵の魂を奪った奴の方。
綾はそう言って慰めようと思ったが、自分の慰めなど何の役にも立たないことあ、誠一の悲痛な表情を見てすぐに分かった。
誰が一番悪いのかなんて、誠一だって本当は分かっている。
けれど、全て自分が悪いと思わずにはいられないほどの罪悪感に囚われているのだ。これまでずっと。
誠一の表情はそんなことを無言で綾に語りかけていた。
「今日、これから葵の生命維持装置を止めるんだって。前、本家にきたついでに見舞いに来た時に聞いたんだ」
「……え?」
「三年近く経っても変化がないってことは、もう一生このままだろうから、自分たちの我侭で機械使って生かし続けるより、静かに眠らせてあげた方がいい。葵の両親はそう考えたんだ」
「! そんな……。葵さんの魂を取り返すまで待ってもらえないんですか!? 魂を取り返せば、目を覚ますんでしょ!?」
「かもしれない」
「だったら――」
細田葵の病室へ戻ろうと立ち上がる綾。しかし、誠一は彼女の腕を掴み、制止する。
「もういいんだ、綾ちゃん」
「誠一先輩……」