心闇
2-13
「んなにいいぃぃ!?」
帰宅して間もない久留井誠一の絶叫が、夕食時を迎えた閑静な住宅街に響き渡った。
「近所迷惑ですよ、誠一兄さん」
あんぐりと口を開け、一点を見つめたまま呆然としている兄を、弟である彰が窘める
「驚き過ぎでしょ、兄貴」
「だ、だってなんでこいつがここに!? てか、なんで祥ちゃんも彰もそんな平然としてられんの!?」
混乱しきりの誠一。その切れ長の瞳に映っているのは、転校してきたばかりの従妹・佐虎野乃。
しかも彼女はルームウェアに着替え、ソファの上ですっかり寛いでいる。
「うるさいわよ、誠一。今日から野乃はここに住むの」
「はあ!?」
誠一はますます開いた口が塞がらなくなり、ショックのあまり、肩に下げていた鞄を床に落とした。
「祥ちゃんも彰も知ってたの?」
「知りませんでしたけど、なんとなくそんな気はしていたので」
「女子高生に一人暮らしさせる訳にはいかないでしょ、普通に考えて」
至って冷静に分析していた弟たちに誠一は絶句する。
「読みが甘いのよ、誠一は。だからトコヨノ国の奴らに対しても、いつも直情的な攻撃しかできないのよ」
野乃が溜息混じりにマグカップいっぱいのアールグレイを啜る。
「そういうことだから、よろしく頼むわね、誠一」
キッチンにいる恭子が手を合わせる。
誠一はうなだれながらも「ハイ……」と答えるしかなかった。
「それにしても、誠一だけ帰りが随分遅かったわねぇ」
五人で囲む食卓。
白い平皿に、大半を祥吾が作ったクリームシチューを装いながら恭子が言う。
「あー……実はさ、友達何人かと掃除の時間中にふざけてたら、うっかり備品壊しちゃって。化学の先生にがっつり搾られちった」
後頭部を掻きながら苦笑する誠一を、呆れかえった八つの目が凝視する。
「何やってんの、兄貴……」
「いやー、つい白熱しちゃって。弁償とかは大丈夫だったんだけど、先生が超っ怖かった。篠田先生っつったっけ、あの女の先生。目とかこんなだったもん」
中指で自分の目じりをつり上げながら力説する誠一に、「僕、あの先生が怒ったところ見たことないですよ」と彰が溜息を漏らす。
「なんて男なのかしら。久留井家の恥さらしね」
年下に罵られたものの、反論することができない誠一は小さく「うるせっ」と呟く。
「危ないことしちゃダメじゃない、誠一。今度そんなことしたら、誠一だけ一週間三食全て私の手料理にするからね」
「! やめて、恭子さん! それだけはやめてぇ……!」
「つーか、料理オンチの自覚あったんだ、恭子さん」
夕食後、三人に一部屋ずつ割り当てられていた子供部屋の部屋割りを、誠一・野乃・祥吾&彰、という割り当てに変更したこと、家具などは野乃の荷物を届けに来た業者と既に行ったこと、そして、部屋割りの変更ついでに各人の部屋の簡単な掃除を行ったことが恭子の口から説明された。
説明が終わり、各々夕食の片付けや入浴準備、自室へ戻るためにダイニングを離れていく。
「誠一兄さん」
自分の部屋に戻るため、二階への階段を上っていた誠一を彰が呼び止める。
「何? どうしたの、彰?」
笑顔と共に振り返る誠一。彼を見つめる彰の眼は穏やかなものではなかった。
「なんだよ、怖い目ェして」
「どうしてそんなにはしゃいだんです?」
「んなこと言われても……。はしゃいじゃったもんはしょうがないじゃん」
「はしゃいで、何を紛らわそうとしてるんですか?」
刹那、誠一の顔から笑みが消える。最初からそんなものは存在していなかったの如く。
感情の読めない、漆黒の瞳が彰を見つめる。
彰はその眼と正面から向かい合う。
「このところ、無理してますよね。今日のこと然り、プリンス決めの話のとき然り。本家から戻った頃からでしょうか。あの時、何があったんですか? 誠一兄さんは何から目を逸らそうと――」
「彰」
誠一が彰の話を遮る。
たった一言。ただ名前を呼ばれただけだった。
なのに、彰は話の続きを声として紡ぎ出すことができなくなった。
抑揚のない声。
暗い瞳。
それだけで、先の見えない奈落の底に叩き落されんばかりの恐怖に全身を支配された。
あと一歩でも進めば、闇の中へ落ちていく。
あの一言は、そんな己を制止するものだったのだと、彰はようやく理解した。
「ヤだなぁ。俺、隠し事とか下手なの知ってんだろ? 何でもないってば」
普段と変わらぬ口調で誠一が言う。
「……そうですか。ならいいです」
「そうそう。じゃ、俺は部屋に戻るから」
「分かりました。あ、誠一兄さん、母さんに見られたらまずそうな本やDVDは僕の部屋に避難させておいてあるので、後で取りに来て下さい」
「ん。サンキュ」
弟の気遣いに感謝し、誠一は再び階段を上り始める。
が、その途中でぴたりと立ち止まり、
「あいつ……いつの間に新しい隠し場所見つけたんだ?」
と首を傾げた。
「すみません、遅くなりました」
恭子と祥吾が夕食の片づけをしているキッチンに彰が戻ってくる。
「大丈夫だよ、もうほとんど終わったし。……彰、何かあった?」
眉を顰める兄に、彰は「何でですか?」と問い返す。
「汗すごいよ」
「――あ、本当ですね」
祥吾に指摘されて初めて、彰は自分の体が汗に塗れていることに気が付いた。
「大丈夫か? 何があった?」
「いえ、何でもないですよ」
祥吾がいくら問いかけても、彰は詳細を話そうとはしなかった。
話してはいけない気がした。