依存
1-17
翌日。月曜日。
二年A組の教室へと足を踏み入れた飛鳥川琉奈は、室内に普段とは異なる、不穏な空気が充満していることに気付いた。
クラスメイトたちは皆、数人で固まり、遠巻きにある人物を見ながら小声で何か言い合っている。
四方から注目されているのは、久留井祥吾。
「アスカ! ちょっと!」
眉間に皺を寄せ、ドア付近に立ち尽くしている琉奈の腕を誰かが強く引く。
「! 綾、これ何なの?」
琉奈は自分の腕を引いた人物――松下綾に尋ねた。
祥吾のモテっぷりに嫉妬していた男子生徒たちはもちろん、今まで散々祥吾に付きまとい、事あるごとに黄色い歓声をあげていた女子生徒たちまで祥吾から離れ、こそこそと何か話し合っている。
一体これほどの変化を及ぼすほどの何が祥吾にあったのか、琉奈には皆目分からなかった。
「これじゃまるで久留井くんがいじめられてるみたいじゃん」
「それがね……その、「久留井祥吾はイケメンなのに、男としては役立たず」って噂が朝から流れてんの」
「は!?」
琉奈は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「あたしがその噂を聞いたのは、新聞部の同級生から。その子はうちのクラスじゃないから、多分他のクラスにもちらほら広まってると思う」
「そうなの? ていうか、なんて下世話な噂……」
男として役に立たないとはどういう意味なのか、さすがの琉奈にも分かる。
考えれば考えるほど辟易し、琉奈は肩を竦めた。
何故そんな噂が広まってしまったのか。
誰がそんな噂を流しているのか。
「……ねぇ、綾、もしかして」
考え始めてすぐにあるクラスメイトの顔が脳裏に浮かび、琉奈は綾に声をかける。
綾も同じ顔が浮かんでいるらしく、二人は教室の隅で他のクラスメイトたちと話している一人の女子に視線を向けた。
妙にすっきりした表情で談笑している彼女の名前は、江田留菜。
昨日祥吾と一緒に出かけていただろう女子だ。
「こんなことするの、あの人ぐらいしか思いつかない」
「だよね。アスカにも嫌がらせしたし。あんな噂流すってことは、よっぽど酷いふられ方したのかな?」
琉奈と綾に見られていることに気付いていないらしい江田留菜はいつもの取り巻き面々と楽しそうに会話している。
一方、不名誉な噂を流されている祥吾は周囲の様子など全く気にすることなく、革のブックカバーをかけた文庫本を熟読している。
ホームルームの時間が近づき、二年A組の生徒たちは続々と自分の席へと戻る。
「お、おはよう、久留井くん」
「あ、おはよ、飛鳥川さん」
琉奈が声をかけると、祥吾はいつもと変わらぬ様子で挨拶を返す。
「昨日はボーリングとカラオケ行ったんだって? 楽しかった?」
「う、うん。彰くん、ボーリング上手いね。先輩も歌上手いし」
「彰の投球フォーム、ふざけてるでしょ? あれでストライク連発っておかしいよね」
明るく微笑む祥吾につられ、琉奈も昨日の彰のボーリングを思い出して笑う。
「カラオケでは大変だったみたいだね。みんな怪我とかなかった?」
「うん。先輩と彰くんのおかげで無事だったよ」
「そっか、良かった。八月二十四日だっけ、あの日のことは何か分かった?」
「……ううん、何も」
「そうなんだ……。多分飛鳥川さんの身に起こってることと何か関係あると思うんだけど」
「それより! 久留井くんは大丈夫なの?」
琉奈と祥吾の会話に綾が口を挟む。
すぐに綾が言わんとしていることを察したらしい祥吾は、笑顔を崩すことなく「大丈夫だよ」と明言する。
「俺は別に気にしてないし、大丈夫なんだけど。……このこと、あの人の耳に入ってなきゃいいけど」
三時間目の授業が終了し、数学教師が去っていった。
次の授業が始まるまでの十分間は休憩時間となる。
その短い休憩時間中に事件は起きた。
各々仲のよい友人の席に集まって話したり、次の授業の準備をしたりしている教室に、一人の男子生徒がやってきた。
大半のクラスメイトたちには見知られていないだろう彼はドアを開けるなり、真っ直ぐに江田留菜へと歩み寄る。
彼女を見つめるのその目に激しい怒りの炎が宿っているのは、誰から見ても明らかだった。
自分の席で次の授業の予習をしていた祥吾は彼の姿を見るなり、「ほら来た!」と形の良い唇から漏らし、すぐさま立ち上がる。
「あんたが江田さん?」
「そ、そうですけど……。あなたは?」
「あんた、俺の弟に何してくれてんの?」
江田留菜の問いを無視し、男子生徒――久留井誠一が抑揚のない声で、江田留菜を見下ろしながら言い放つ。
圧倒的な威圧感に江田留菜は言葉を失い、茫然と誠一を見つめる。
「なぁ、あんた、俺の弟に何してんの?」
「あ……あの……」
「何? よく聞こえないんだけど?」
「兄貴!!」
祥吾が誠一と江田留菜の間に割って入る。
「! 祥ちゃん!」
「頼むから落ち着いてよ、兄貴。俺は大丈夫だから、兄貴がこの人にキレる必要ない。分かった?」
「けど、こいつは……」
「誠一兄さん」
有無を言わせぬ祥吾の強い口吻に、誠一は返そうとした言葉を飲み込む。
「これは俺が招いた事態なの。十分想定もしてた。怒ってくれるのは嬉しいけど……俺は大丈夫だから。誠一兄さんは自分のクラスに戻って」
祥吾が言う。反論を許さぬ強い語気に気圧され、誠一は「分かったよ」と渋々祥吾に同意する。
「心配してくれてありがと」
「……ん」
誠一は微笑み、祥吾の頭を撫でた。
そうして無言で二年A組の教室を後にしようとした時。
「祥吾兄さん! 大丈夫ですか!?」
慌てて教室に駆け込んできたのは、中等部の制服を着た長身の男子生徒。
彼の姿に誠一と祥吾は思わず苦笑した。
「落ち着いてよ、彰」
「そうそう。もう済んだから、帰るぞ」
「へ? そ、そうなんですか? なんだ、せっかくマッハ2で走ってきたのに」
残念そうに呟く男子生徒――久留井彰を、「お前は飛行機か」とツッコミを入れた誠一が引き連れ、二人は二年A組の教室から去っていく。
彼らの様子を茫然と見つめるA組の生徒たちの頭上を、スピーカーから流れたチャイムの音色が暢気に通り過ぎていった。
「あの兄弟、なんか変だよ」
全ての授業とホームルームが終わった清掃の時間。
やる気なく箒で教室のごみを集めていた秋川浩太がそんなことを口にした。
「変って何が?」
隣で塵取りを手にしている琉奈が言う。
「なんか仲良すぎっつーか、べったりしすぎっつーか。俺も兄貴いるけど、休日まで四六時中一緒にいないし、もし俺が久留井と同じ状態になったとしても、うちの兄貴はあんなふうに教室来たりしないよ」
「あたしも同感」
琉奈と浩太の会話に綾が割り込む。
「あたしも妹いるけど、姉妹でもあそこまでべったりしないよ。べったりっていうか、互いに依存し合ってるように見えるね、あの三兄弟は。でも、誠一先輩カッコ良かったなぁ」
教室に突入してきた誠一の姿を思い返し、うっとりとした目で宙を見つめる綾の横で、琉奈は「依存か……」と彼女の言葉を繰り返した。




