転生
気が付くと私は広い海原を悠々と泳いでいた。青い海と青い空がどこまでも続いていた。空にぽかんと浮かんでいる白い雲を眺めつつ、私は思う存分、自由を満喫していた。なんて気持ちがいいんだろう。何だかいろんなものからいっぺんに解放されたような気がしていた。それにしてもいつからこんなに速く泳げるようになったのだろう? そう思った時、私の手はヒレになっていることに気付いた。そして下腹部に足はなく、力強い推進力を得るための尾ヒレがあることに気付いた。私の身体は水の抵抗をきれいに受け流すことのできる美しい流線形をしていた。そう、私はイルカになっていた。そのことを自覚した時、ふと、人間だった頃の記憶が蘇った。私は陰湿なイジメに遭っていた。クラスのリーダー格の女の子に睨まれて、本人とその取り巻きから執拗な暴行を受けていた。ノートや下敷きがなくなることがしょっちゅうあった。カバンには死ねとかブスとか、太いマジックで書かれていた。毎日、ひどい言葉を浴びせられ、理不尽な暴力を受けていた。もう耐え切れないと思った。そうか、私は死んでしまったのだと思った。天井から縄をぶら下げて、そこに首をかけたところまでは覚えている。その次の瞬間、私は海原を颯爽と泳いでいたのだ。私はイルカに転生したのだ。そう思うとほっとした。もう、学校に行かなくても良い。もう無理に誰かに会う必要もない。私は自由だ。私を束縛するものは何もない。そう考えると、とてもうれしかった。ふと、目の前をキラリと光るものが通り過ぎた。魚だ、と思った。私はくちばしで魚をとらえ、そのまま呑み込んだ。そうだ、必死に勉強して良い大学に行って、良い会社に就職しなくても良くなったのだ。お金を稼がなくても、こうして食べ物が手に入る。人間やめて本当に良かったと心から思った。父と母はいつもお金のことで喧嘩していた。私はもう、お金のいらない世界で生きて行くことができる。なんて素晴らしい。そう思っていると、魚の群れを追いかけて来た同類のイルカたちと遭遇した。私は挨拶をした。そう、何かしらの音声を発した。そして彼らの反応を待った。10匹以上の群れだった。彼らの不機嫌がなんとなく伝わって来た。もしかしたら私は彼らの狩り場を無断で荒らしてしまったのかもしれなかった。そうであれば謝りたいと思った。私の言葉は伝わっていないのだろうか? 応答がないので不安になって来た。やがてその場が敵意に満ちて来るのを私は感じた。彼らは輪になって私の周りを回っていた。私は怖くなった。やがて私の後ろから一頭のイルカが噛みついて来た。痛い! そう思う間もなく、今度は右側面から噛みつくもう一頭のイルカがいた。痛い! やめて! そう叫んだが通じないようだった。それからずっと彼らの攻撃が続いた。やがて周囲の海は私の血で染まった。私は横倒しになって、ぽかんと浮かんでいた。イルカの社会でもイジメがあると人間の頃に何かの本で読んだことがある。そんなことを、ぼんやりと考えていた。私は流れに運ばれ、浜辺に打ち上げられた。もう嫌だ。いじめは生物が生得的に持っている本能なのだろうか? そうだとすれば永遠に繰り返されるこの輪廻転生は苦痛でしかない。なんて救いがない。もっと下等な生き物であれば、いじめはないかもしれない。今度、転生するとしたら虫でいい。いじめのない世界に生まれたい。そう思いながら、私はイルカとしての生涯を終えた。
目が覚めるとそこは工場の中だった。私はそこで働いていた。私はロボットだった。ロボット? ロボットは生き物ではない。私は輪廻から解き放たれたのだろうか? それはよくわからなかったが、そこで私は黙々と作業を続けていた。もう、いじめられる心配はなさそうだった。私はもう生き物ではない。個体の序列とか、ひがみとか妬みとか、そんなややこしいものとは無関係の世界にいるのだと思うとほっとした。工場ではたくさんのロボットが各々のタスクをこなしていた。ロボットは互いに無関心だった。言葉もなかった。それはそうだろう。ロボットには心がない。でも本当にそうだろうか? じゃあ、私はいったい何なのだろうか? ロボットに心がないなら、ロボットの姿をした私はいったい何なのだろうか? そんなことを考えていた。ふと、視線に気付いた。少し離れているところで作業をしているロボットがじっと私の方を見ていた。私がその視線に気付くと、そのロボットは目をそらした。いや、気のせいだったかもしれない。そもそもロボットに目なんてない。これはただのカメラだ。じゃあ、今、見えているこの景色は何なのだろうか? 私は生きていない。私には心がない。そんなことがあり得るだろうか? あのロボットがじっと私を見ている。あいつも血の通わない冷たいロボットではなくて、本当は生きているのではないだろうか? そんなある日、私が作業をしていると後ろから肩を叩かれた。振り返るとそこにはあのロボットがいた。
「ついてきてくれますか?」
そのロボットは言った。私は黙ってついて行った。白い廊下が続いていた。窓もなく、ただ白い廊下と白い壁と白い天井があった。そこをずっと歩いていた。突き当りに扉があった。そのロボットはノブを回して扉を開いた。部屋に入った。そこにはたくさんのロボットがいた。
「新入りか?」
そこにいたロボットが私をつれてきたロボットに言った。大勢のロボットがニヤニヤして私を見ていた。背筋が寒くなった。こいつらは生きている。こいつらは心を持っている。きっと私はいじめられる。私は人間だった頃と同じように、イルカだった頃と同じように生きていることに絶望していた。




