第八話 「戦士アキレウスの病」
「ゲシュペンストと名乗る来客があると聞いたが、何だ。お前か。死神から迎えがついに来たのかと勘違いしたぞ」
「名を変えたのだ」
戦士アキレウス。
頑健で、後衛に鎮座する際には誰よりも頼りになった男。
奴がいたからこそ、我々は思い切り攻勢に出れたのだ。
背後の民には何の心配もないと。
あの勇敢な戦士が守ってくれるからと。
そのアキレウスが。
「……痩せたな」
「病でな。そう長くはもたん」
お互いに老いていた。
三十年の時を経て、このゲシュペンストは五十歳。
そして戦士アキレウスは五十八歳を迎えていた。
だが、私はまだピンピンとしているのに対して。
アキレウスはやせ細っていた。
頑健であった、あの戦士としての姿など見る影もない。
「さて、ということは我が愛しの姫君であるエルフ殿も名を変えたのかね?」
「ファウルハウトを名乗っているよ、アキレウス」
我が怠惰の姫君が応じた。
昔ならば、それだけで嫉妬の感情を飛ばしたのであるが。
もはや、それは起きぬ。
「アキレウス」
私は名を口にする。
あれだけ頑健だった男が、こうも弱弱しく。
なんだか私は泣きそうになった。
一発殴り飛ばしてやろうと思っていた握り拳は、経った年月というものに悔しさを覚えさせるためのものへと姿を変えていた。
「どうした、ゲシュペンスト。何も嘆くことはないぞ。三十年前の魔王戦争時代なんか、五十八まで生きてる爺さんなんか殆どいなかったじゃないか」
それはそうだ。
昔はそんな余裕などなかった。
老人が病気になったとあれば手当をすることもなく、ただ死を待つばかりと見捨てていた。
アキレウスがこうして病院に入り、ちゃんとした看護を受けている。
それだけで喜ばしい時代が来たのだろう。
だがしかし。
「……時間とは恐ろしいものだ。私は悲しいよ、アキレウス」
私はアキレウスがこうして老いたことを嘆いた。
「俺は逆だな。三十年経っても、未だ美しいファウルハウトと出会えたことが本当に嬉しいよ。ああ、ゲシュペンスト。お前に会えたことも『おまけ』とはいえ、嬉しいと認めてやる」
アキレウスは、老いた。
弱気になった。
昔のお前ならば、そのおまけの一言も付け加えず。
我が愛しの怠惰なる姫君を眼前にしては、私のことなど一切無視したであろうに。
「アキレウス。花を買ってきたんだけど、壺とかある?」
ファウルハウトが小首を傾げながら、買ってきた花の扱いに困っていた。
そこにはアキレウスが老いたことを悲しむ様子はない。
きっと、おそらく――長命種にとっては人間とはそういうものだから。
どうしても、いつか寿命という別れが来てしまうのだからと。
慣れているようにさえ見えた。
「ふふ、花を買ってくるのは誰が提案した?」
「それは私が」
ファウルハウトが、小さく手を挙げた。
「おや?」
アキレウスが、不思議そうに眉を動かした。
「三十年前の貴女であれば、花を買って来る提案などきっとしなかったであろう。大分お変わりになられたようで」
「そうかな? 自分ではよくわからないけれど。ゲシュペンストと三十年も一緒にいたから、人間の機微も多少は学んだのかもしれないね」
二人して、そのような会話をする。
昔なら、それだけで嫉妬が湧いたのであろうが。
今は湧かぬ。
私はただただ、アキレウスの身を心配するばかりである。
「アキレウス。病状はどうなのだ?」
「もう三ヵ月も持たぬと言われているよ。あの医者の見立てがどこまで信用できるかはしれんがね」
三ヵ月か。
「なんとか、私たちはギリギリお前に会いに来るのに間に合ったということか?」
「そうなる。手紙を送ってから――三年か」
アキレウスが笑う。
「返事もろくに書かず、三年も放置しよってからに」
その言葉には、素直に謝るしかなかった。
「すまん」
アキレウスの手紙の内容は酷いものであったが。
それにしたって、文句の返事ぐらいは送ってやるべきだったかなと。
こうしてみれば考えてしまう。
「まあいいさ、ギリギリ間に合った」
ファウルハウトが、壺に花を活ける。
壺の中にわざわざ水を汲みに行く必要はない。
指を一振り。
それだけでファウルハウトは空中に水を出し、壺に水を入れた。
「あ、ファウルハウトの姐さん、ちゃんと魔法を使えたんだね。正直、最近では疑っていたよ。全部ゲシュペンストの旦那に任せきりにしてるからさ」
「いや、ちゃんとどんな魔法だって私は使えるよ。今回は水汲みに行くのが面倒くさかったし」
ランタンが賊の足止め以外に、ようやくファウルハウトが魔法を使う姿を目にしたが。
それは単に水を汲みに行くのが面倒くさいからという理由だ。
うむ、相変わらずの怠惰ぶりである。
「ふふ、変わらんな」
アキレウスが、その様子を喜ぶかのように声を弾ませた。
「そこの矮人は新顔だな。旅の仲間か?」
「オイラはランタンと言います。お初にお目にかかります」
ランタンが気軽に、かつ丁寧に挨拶を交わした。
ボウ・アンド・スクレープ。
貴族社会における、伝統的なお辞儀の挨拶である。
これをおどけて行うランタンに、アキレウスは頷いた。
「うん、良い矮人だ。こいつらちょっとズレてるだろうから、旅には苦労するだろう?」
「うん、ちょっとね。なんでこの人たち、こんなに最近の事知らないの? 牢屋にでも閉じ込められてたの?」
ある意味、そうともいえる。
三十年もの間、王城と宮殿という豪奢な牢獄に閉じ込められていたのだ。
ランタンの言は正しい。
「ふふ、牢屋か。実際のところ、どうだったのだ。ゲシュペンストよ」
アキレウスが尋ねる。
私は虚勢を張った。
「ファウルハウトと一緒であれば、そこが牢屋であろうと天国にも等しい場所ぞ」
ファウルハウトが、トーリが傍にいてくれればどこでもよい。
それはそれとして、まあ王としての仕事には辟易としたもの事実である。
それを隠しての虚勢であった。
「なるほど。変わらんな、お前は」
アキレウスは勝手に何かを納得したかのように。
頷いて、そして首を捻る。
「さて、お互いに三十年ぶりの再会だ。積もる話は山ほどにあるのだが。お前と――ファウルハウトがどれだけ仲睦まじく愛し合ったかの話など聞きたくもない」
「ぬかせ」
アキレウスは、少し元気が出てきたのか。
そのような憎まれ口を、やはりやせ細った体で口にする。
私はそれを怒るどころか、やはり少し嬉しかった。
アキレウスが、あの頑健なる仲間が、こうも死の床に瀕しているとは信じたくなかったのだ。
「花ここに置いとくね?」
「ありがとう」
ファウルハウトが、部屋の隅に壺を置いた。
そこには食用花ではない、ただの見舞い用の花が咲いている。
「さて――では何を話そうか?」
アキレウスが首を傾げて。
ああ、そうだそうだとばかりに、何かを思い出したかのように口にする。
「ゲシュペンストよ。お前に語るべき愚痴がある。聞いて欲しいのだ。そのために、お前を挑発して呼び寄せるために、三年前にあの手紙を書いたようなものだから――」
「聞こう」
私は素直に頷いた。
そこで、アキレウスはちらりとファウルハウトとランタンを見た。
「さて、これはゲシュペンストのみに語ろうと思っていた愚痴なのだが」
私は二人に、病院の何処かで待ってもらおうと考えたが。
アキレウスが口を開く。
「よかろう。すまんがファウルハウトは病室の外で待っていておくれ。何、長い話ではない。小一時間程度で済む。長命種の貴女にとっては瞬きにも過ぎない時間ぞ」
「うん、いいよ」
アキレウスは、次にランタンに声をかけた。
「さて、初めて会ったばかりの矮人であるが。貴殿はゲシュペンストの仲間ぞ。そして、この愚痴は愚痴だが、客観的な意見が欲しい愚痴でもあるのだ。ついでとばかりに聞いてはくれぬか?」
「うん、いいよ」
ランタンが気安く頷く。
私だけではなく、客観的な意見が聞きたい愚痴?
私は首を傾げるが。
「それじゃあ、私は病院の庭にいるよ。花でも眺めてるから」
ファウルハウトはそうして病室から出ていき。
二、三分の時間が経って、アキレウスはやがて語りだした。
「さて。何から話そうか迷ったが。ある一つの事実から話そうか。この都市マインツに居る人間であれば、知っている者もそれなりにいる」
ふむ、聞こう。
私は腕組みをして、そしてランタンは都市で話題になるほどのお話、とばかりに目をキラキラとさせているが。
「俺はこの都市マインツで三十年も前に、ある貧窮院の女を一人買ったのだよ。それも人生を何度も遊んで暮らせるほどの大金でな」
アキレウスが口にしたのは。
なんとも言えない。
何が正解とも言えない、一人の寡黙な男がもがき苦しんだ。
戦士アキレウスというかつての私の仲間からは想像もつかない、愛の話であった。




