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もう一度、誰かの腕に抱かれると決めたから

作者: 秋月アムリ
掲載日:2025/11/28

 深い霧が王都を覆う、冷え込んだ朝だった。

 アーデイル伯爵家の北棟に追いやられたロレッタは、窓ガラスを伝う水滴をぼんやりと眺めていた。夫である嫡男アルフレドが、熱病でこの世を去って、はや半年。若き未亡人となった彼女の時間は、あの日から止まったままだった。

 嫁いでわずか二年の幸福な日々は、まるで幻のようだ。


(アルフレド……あなたがいなくなって、私は……)


 陽光の差し込む南棟の部屋はとっくに取り上げられ、今は物置同然のこの寒い一室が彼女の居場所だった。夫の思い出の品々も伯爵家の管理下という名目で持ち去られ、手元には何一つ残っていない。


 彼女は、この家で「不吉な女」と呼ばれていた。

 夫の早逝は、すべて嫁であるロレッタのせいだと。

 その悪意を隠そうともしないのが、亡き夫の妹、テッサ・アーデイルだった。


「あら、まだ息をしていらしたの、義姉様」


 甲高い声と共に、テッサが乱暴に扉を開けて入ってくる。ロレッタが、使用人が置いていった冷たいスープに口をつけようとした、その時だった。


「……テッサ様。ごきげんよう」


 ロレッタは静かに立ち、淑女の礼をとる。その痩せた肩を、テッサは嘲笑うように見下ろした。


「毎日毎日、飽きもせずその陰気な喪服をお召しになって。見ているだけで気が滅入るわ。兄様を殺したくせに、よく平気でいられるものね」

「……!」


 その言葉は、何度聞いてもロレッタの心を鋭く抉る。


(違う。私は殺していない)


「テッサ様。アルフレド様は病で……。そのような物言いは、亡き兄君への侮辱となりますわ」

「なんですって?」


 テッサは美しい顔を怒りで歪ませた。甘やかされて育った彼女は、自分の意に沿わない言葉を決して許さない。


「義姉様が不吉だから兄様は死んだのよ! この疫病神! それなのに、まだのうのうと我が家のパンを食べているなんて、どれだけ厚顔なのかしら!」


 テッサは叫ぶと、ロレッタの盆を力任せに払い除けた。

 ガシャン、と耳障りな音が響き、冷たいスープと硬いパンが、石の床に無残に散らばる。

 ロレッタの喪服の裾が濡れた。


「……っ」


「あら、手が滑ってしまったわ。でも、ちょうどよかったじゃない? 兄様を殺した女に、まともな食事など必要ないもの」


 勝ち誇ったように笑うテッサを前に、ロレッタはただ唇を噛み締めた。


(泣いてはいけない。ここで感情を見せれば、この人の思う壺だ)


 彼女は床に膝をつき、震える指で陶器の破片を拾い集め始めた。


「……お食事を、ありがとうございます。ですが、食べ物を粗末になさるのは、アーデイル家の名誉に関わるかと」

「まだ口答えするのね!」


 テッサは激昂し、床に落ちたパンを強く踏みつけた。


「そんなに食べたいなら、床から直接お食べなさいよ!」


 それは、貴族の淑女に対する行為ではなかった。それは、人間に対する仕打ちですらなかった。

 ロレッタは、ただ無言で床を見つめた。心の奥底で、何かが静かに、しかし確実に軋む音を立てていた。


 テッサの嫌がらせは、日を追うごとに陰湿さを増していった。

 ロレッタが実家から持参した数少ないドレスは、いつの間にか切り裂かれていた。実家からの手紙は「届いていない」と告げられ、彼女は完全に孤立させられた。


 屋敷の使用人たちも、テッサの意向を汲み、ロレッタの存在を無視するか、遠巻きに嘲笑した。

 ただ一人、ロレッタの味方であった実家からの侍女アンナも、数週間前に家の都合という曖昧な理由で暇を出され、無理やり実家へ送り返されてしまった。

 この広大な屋敷で、ロレッタは完全に一人だった。


 そして、決定的な夜が訪れた。

 折からの悪天候と、暖炉にくべる薪さえ満足に与えられない部屋の寒さで、ロレッタの体はついに限界を迎えた。

 高熱が彼女の意識を奪い、咳が止まらない。


(苦しい……誰か……)


 ロレッタは最後の力を振り絞り、ベッドから這い出て、冷たい扉を叩いた。


「誰か……お医者様を……お願い……」


 そのか細い声に応じたのは、皮肉にもテッサだった。


「あらあら、どうかなさったの? そんな床で。はしたない」


 扉の隙間から覗き込むテッサの顔が、熱に霞む視界の中で歪んで見える。


「熱が……どうか、お医者様を……テッサ様……」

「お医者様? まあ、義姉様は仮病がお得意なのね。そうやって兄様の気を引いていたの?」


 ケラケラと、テッサは楽しそうに笑う。


(違う……本当に、このままでは……)


「お願い……このままでは、わたくし……」

「どうなるのかしら? 兄様と同じように、あっけなく死んでしまうとか?」


 テッサの言葉は、氷の矢のようにロレッタの胸を貫いた。


(この人は……本気で私が死ぬことを望んでいる)


 絶望が、冷たい水のように足元から這い上がってくる。


「……お義父様は……伯爵様は、ご存知なの……?」

「お父様? お父様は私の言うことを信じてくださっているわ。『夫を失った悲しみで、ロレッタ殿は少々気が触れてしまったのだろう』って。だから、医者よりもまず安静にしていることね」


 その言葉が、ロレッタの最後の希望を打ち砕いた。

 義父である伯爵は、テッサの行動を見て見ぬ振りをしている。いや、黙認しているのだ。


(この家は……私を殺そうとしている)


「それじゃあ、ゆっくりお休みになって、お・義姉・様」


 テッサはそう言うと、扉を閉めた。

 カシャン、と無情な音が響く。外から、鍵がかけられた音だった。


「私が許可するまで、誰もその部屋には入らないから。どうぞごゆっくり」


 遠ざかっていく足音。

 ロレッタは、冷え切った石の床の上で、完全に一人になった。


(ここで、死ぬの……?)


 朦朧とする意識の中、優しかった夫アルフレドの笑顔が浮かんだ。病床で、彼は最後までロレッタの手を握り、「君を一人にしてすまない」と涙をこぼしていた。


(アルフレド……私は、こんな場所で、こんな人たちの悪意によって、あなたの後を追わなければならないの……?)


(嫌だ)


 心の奥底から、か細いが、確かな声が響いた。


(絶対に、嫌)


 それは、燃え尽きる寸前の蝋燭が、最後に一度だけ大きく燃え上がるような、強烈な生の意志だった。


(私はまだ生きている。私の人生は、まだ終わっていない)


 テッサに殺されるためでも、アーデイル伯爵家で惨めに朽ち果てるためでもない。


(私の人生は、私のものだ。誰にも奪わせはしない)


 ロレッタは、残る力をすべて振り絞り、床を這った。

 この部屋には、万が一のためにアンナが隠していった解熱剤と、水差しが残っているはずだ。テッサの知らない、古い箪笥の裏側に。


(生きる。何としてでも生き延びて、この家を出てやる)


 震える手で薬を掴み、冷たい水で喉に流し込む。

 熱はすぐには引かない。だが、死の淵から彼女の精神を引き戻したのは、薬効ではなく、彼女自身の鋼の意志だった。


 三日後。

 ロレッタは、自らの足で再び立った。

 顔は青白く、頬は痛々しいほどこけていたが、その瞳にはもはや以前の諦観の色はなかった。そこにあるのは、研ぎ澄まされた刃のような、冷徹な決意の光だけだった。

 彼女は、持てる中で最も状態の良い喪服――とはいえ、テッサによっていくつかの刺繍が引きちぎられていたが――を身にまとい、乱れひとつないように髪を結い上げた。


 そして、迷うことなく伯爵の執務室へと向かった。

 許可なく北棟から出た彼女の姿に、すれ違う使用人たちは驚愕の表情を浮かべた。だが、今のロレッタが放つ凍てつくような気迫に、誰もあえて声をかけることはできなかった。


「失礼いたします、お義父様」


 ノックとほぼ同時に、ロレッタは重い扉を開けた。

 部屋の中には、執務机に向かう義父、アーデイル伯爵と、その傍らで優雅に焼き菓子を頬張っていたテッサがいた。


「なっ……! ロレッタ義姉様! 誰がここに来ることを許可したの!」


 テッサが金切り声を上げる。

 伯爵も、痩せ衰えているはずの嫁が、これほど毅然とした態度で現れたことに驚き、不快そうに眉を寄せた。


「……何の用だ。お前は北棟で静かにしているはずではなかったのか」


 その声には、彼女の生死を案じる響きなど微塵もない。ただ、厄介事が持ち込まれたことへの苛立ちだけが滲んでいた。


(やはり。この人も、テッサと同じ。私を家族だなどと、とうに思っていない)


 ロレッタは、最後の未練を完全に断ち切った。


「お義父様。そしてテッサ様。本日はお二人に、重要なお伝えしたいことがあり、参りました」


 ロレッタは、部屋の中央で深く、しかし背筋を一切曲げない完璧な礼をした。


「私、ロレッタ・アーデイルは、本日をもってこのアーデイル伯爵家を離れ、実家であるアシュベリル伯爵家に戻ることを決意いたしました」

「……なんですって?」


 テッサが目を丸くする。


「出ていく? やっと、この疫病神が出ていってくれるというのね! ああ、なんて素晴らしい日かしら!」


 テッサは手を叩いて、心の底から喜んだ。

 だが、伯爵は違った。彼は鋭い目でロレッタを射抜いた。


「……アシュベリル伯爵家に、戻るだと? 夫の喪も明けぬうちに、夫を弔う義務を放棄するというのか。アーデイル家の名を汚す気か」

「弔う義務は、生涯忘れません」


 ロレッタは静かに、しかし一語一語をはっきりと区切って答えた。


「ですが、この家でその義務を果たすことは不可能であると判断いたしました。先日、私が高熱で命の危機にあった折、テッサ様は医者を呼ぶどころか、私を部屋に監禁なさいました」

「なっ……! 嘘よ、お父様! このでまかせを! この女、気が触れているのよ!」


 テッサが顔を真っ赤にして否定する。

 だが、ロレッタはテッサを一瞥もせず、伯爵だけを見据えた。


「そして、お義父様がテッサ様のその言葉を鵜呑みにし、私を助けてくださらなかった事実も、私は知っております」

「ぐっ……」


 伯爵は言葉に詰まる。彼は確かに、テッサの報告を黙認した。この厄介な未亡人が、病で静かに消えてくれるのなら、それも良いとさえ考えたのだ。


「このままでは、私は遠からず命を落とすでしょう。それは、亡きアルフレド様の望むところではないと確信しております」

「……好きにするがいい」


 伯爵は、忌々し気に吐き捨てた。


「だが、ただでこの家を出られると思うなよ」

「ええ。もちろんです」


 ロレッタは、待っていましたとばかりに、次の言葉を紡いだ。


「私は、この家を出るにあたり、法と慣習に基づいた、私の正当な権利を要求いたします」

「……権利、だと?」

「はい。私が嫁ぐ際にアシュベリル家から持参いたしました、私の持参金の全額返還。並びに、亡き夫アルフレド様の遺産から、寡婦が相続する財産である『寡婦産』の供与。この二点を、速やかに実行していただきます」


 しん、と執務室の空気が凍りついた。

 テッサの嘲笑が止まり、伯爵の顔がみるみるうちに怒りで赤黒く染まっていく。


「……何を、言っているんだ、貴様は」


 地を這うような伯爵の声が響いた。


「持参金だと? 寡婦産だと? 夫を殺した女が、どの口でアーデイル家の財産を要求する!」

「お父様の言う通りよ! 義姉様は兄様を殺した疫病神! 財産なんて一片もお渡ししませんわ!」


 テッサも、待ってましたとばかりに激しく罵倒する。


(予想通りの反応。ここからが、私の戦い)


 ロレッタは、この瞬間のために、病に伏せながら何度も法と慣習の条文を頭の中で反芻してきた。

 彼女の武器は、もはや涙でも同情でもない。孤独の中で研ぎ澄ませた、貴族社会の法と慣習に関する深い知識。そして、何があっても揺らぐことのない、生きるという鋼の意志だけだ。


「お義父様。私がアルフレド様を殺したというのなら、その証拠をお示しください。証拠もなく噂を流布することは、アシュベリル伯爵家、ひいては私個人の名誉を著しく毀損する行為です」

「ぐ……証拠などない! だがお前が来てから、我が家は不幸続きだ! それが証拠だ!」

「それは事実ではございません。法的な根拠にもなりませんわ」


 ロレッタは、感情を一切排した声で続ける。


「まず、持参金についてです。私が嫁いだ際の婚約契約書には、万が一婚姻が解消、あるいは夫が早逝した場合、持参金はアシュベリル家に返還されると明記されております」

「何を言うか!」


 伯爵が机を強く叩いた。


「アルフレドは生前、借財を抱えていた! その清算に、お前の持参金はすべて充てられた! よって、返還する資産など、一銭たりともない!」

 テッサも「そうよそうよ! 兄様は義姉様のせいで浪費したんだわ!」と根拠のない非難を重ねる。


 ロレッタは、一切の動揺を見せず、静かに首を横に振った。


「お義父様。その主張は通りません」

「なんだと?」

「婚約時の取り決めに従い、私の持参金はアーデイル伯爵家の資産と明確に分離して運用されることが保証されていました。その管理文書は、お義父様が今まさに目の前になさっている、その執務室の金庫に保管されているはずです」

「……!」


 伯爵の目が、驚きにわずかに見開かれた。まさか、その保管場所まで正確に把握しているとは思わなかったのだ。


「嫡男個人の負債と、妻の持参金を混同することは、貴族間の信義に反します。もしその文書の存在自体を否定なさるのであれば、私は実家であるアシュベリル家を通じて、王家の法務局に資産保全の調査を依頼することになりますが、よろしいでしょうか?」

「……貴様……」


 伯爵は歯ぎしりした。いつもはおとなしく虐げられているだけだった嫁が、まさかこれほど鋭い牙を隠し持っていたとは。


「それに……」


 ロレッタは、冷ややかな視線を義父とテッサに向けた。


「お義父様は、家の名誉を口にされますが。果たして、どちらがその名誉を傷つけているのでしょう? 私を『不吉な女』と呼び、根拠のない噂を流し、病の私を監禁し、命の危機に晒した。この事実がもし社交界に知れ渡れば、アーデイル伯爵家の信用は、一体どうなりますことか?」

「お、脅す気!?」


 テッサがヒステリックに叫ぶ。


「脅しではございません、テッサ様。事実の確認です」


 ロレッタは、凍てつくように冷たい声で言い放った。


「家の名誉を地に貶めているのは、根拠のない噂を流し、法を無視して私を虐げる、貴方たちご自身です。私の持参金と寡婦産の即時返還こそが、これ以上アーデイル伯爵家の名誉を汚さない、唯一にして最善の策ですわ」


 彼女の透き通るような、しかし鋼鉄の芯が通った声が、静まり返った執務室に響き渡った。

 ロレッタの冷徹な宣告が、アーデイル伯爵の執務室を支配していた。

 持参金の分離管理という、婚約契約書の核心を突かれ、伯爵はぐうの音も出ない。だが、長年貴族社会の権力構造の中にいた彼が、このまま引き下がるはずもなかった。

 彼は赤黒かった顔から血の気を引き、今度は冷酷な交渉人の顔つきになった。


「……なるほど。アシュベリル家は、娘に金の勘定だけはしっかり教え込んだと見える」


 侮辱的な言葉にも、ロレッタの表情は変わらない。


「では、持参金については精査しよう」伯爵は言った。

「だが、寡婦産は別だ」


(……やはり、そう来る)


「寡婦産として具体的にどの領地や財産をお前に与えるかについては、我が家の家訓にも、貴女との婚約時の文書にも、明確な規定はない。この決定には、一族での協議が必要であり、相当の時間がかかる。それがいつになるかは、保証できかねるな」


 それは、事実上の支払いの先延ばし、あるいは拒否の通告だった。

 テッサが、勝ち誇ったように鼻を鳴らす。


「そうよ! 兄様の財産は、すべてアーデイル家のもの! 義姉様のような疫病神に渡すものなんて、何一つないわ!」

「……テッサ様のおっしゃる通り、家訓や文書に明確な規定がないのであれば」


 ロレッタは、待っていましたとばかりに即答した。


「婚姻に関する王国の法廷、並びに教会法に従わせていただきます」

「なに……?」

「法は定めております。嫡男が子なくして早逝した場合、その寡婦は、夫個人の遺産の三分の一を受け取る権利があると」


 伯爵の目が、わずかに揺らいだ。庶民ならいざ知らず、貴族間の問題に王国法を持ち出すなど、前代未聞だったからだ。


「馬鹿を申すな! 貴族家の相続に、平民の法を持ち込む気か!」

「法は、貴族も平民も等しく縛るものと存じますが? もしお義父様が、アーデイル伯爵家は王国の法を超越するとおっしゃるのであれば、私はその言質を法務局に報告するまでです」

「き、貴様……っ!」

「寡婦産三分の一の請求。これが私の正当な権利です。決定が遅れるほど、法的手続きの開始を検討する時間が増えるだけですわ。それとも、アーデイル伯爵家は、法務局の査察官がこの屋敷の資産台帳を隅々まで調べることをお望みでしょうか?」


 執務室の空気が、張り詰めた弓のようにきしんだ。

 ロレッタは、病み上がりで痩せ衰えているはずなのに、その存在感は、目の前の伯爵やテッサを遥かに凌駕していた。

 伯爵は、これが単なる脅しではないことを悟った。この嫁は、本気で実行する気だ。

 彼は、最後の、そして最も感情的な脅しに出た。


「……そこまで言うか」


 伯爵は、悲嘆に暮れる父親の仮面を被った。


「嫡男の未亡人である貴女は、息子アルフレドを弔う義務がある。その神聖な義務を放棄し、あろうことか財産だけを要求して実家に逃げ帰るというのか。そのような道義にもとる女に、寡婦産を受け取る権利などない!」


 テッサも、ここぞとばかりに涙を浮かべてみせる。


「そうよ! 兄様が可哀想だわ! 貴女は兄様を愛してなどいなかったのね! だから殺したのよ!」


 その言葉に、初めてロレッタの眉がピクリと動いた。


(愛していなかった? 私が、アルフレドを?)


 脳裏に、夫の優しい笑顔が蘇る。病床で、熱に浮かされながらも彼女の手を握りしめた、その感触。

 だが、ロレッタはその痛みを心の奥底に押し込めた。


「夫を弔う義務は、生涯理解しております」


 彼女の声は、不思議なほど穏やかだった。


「ですが、お義父様。貴伯爵家が、私を家族として扱ってくださらない以上、その義務をこの家で果たすことは、もはやできません」


 彼女は、自らの首筋にうっすらと残る痣――監禁された夜、扉を叩き続けた拍子にぶつけた痕――に、そっと触れた。


「私は、アルフレドを弔う義務を放棄するのではありません。貴方たちに殺されることから逃れ、私の人生を守り抜いた上で、亡き夫を静かに悼む自由を選ぶのです」

「……」

「私はアーデイル伯爵家に縛られるのではなく、私が本来持つべき私の持参金を元手に、新たな生活を築きます。それが、彼に応える、私なりの弔い方です」

「……口の減らない女だ」


 伯爵は、すべての理屈が通用しないことを悟り、ついに本性を露わにした。


「よかろう。そこまで言うなら、この家から出ていくがいい。だが貴様が法廷だの教会だのに訴え出たとして、それが認められるまでに何年かかると思っている? その前に、貴様は路頭で飢え死にするだろうな!」

「お父様、その通りよ! こいつを今すぐ叩き出して!」


 テッサが狂喜したように叫ぶ。


(最後の脅し。これで、私が怯むと思ったのね)


 ロレッタは、ゆっくりと息を吸い込んだ。そして、彼女が用意していた、最後の、そして最強の切り札を切った。


「お義父様。もし本日中に、持参金の返還と寡婦産の供与に関する確約書にご署名をいただけない場合」


 彼女は、伯爵の目を真っ直ぐに見据えた。


「私はこの足で、王都の教会本部、並びに王家の法廷に直々に出向きます」

「……まだ、その戯言を」

「これは、戯言ではございません」


 ロレッタの言葉は、静かだが、部屋の隅々にまで響き渡った。


「私は、アーデイル伯爵家による『嫡男の寡婦に対する不当な監禁』『生命維持の放棄』そして『財産の不法な侵害』について、正式に訴え出ます」

「なっ……!」

「貴族の私的な問題が公の場に晒される。それも、嫡男の嫁を殺そうとしたという、おぞましいスキャンダルと共に。そうなれば、アーデイル伯爵家の信用がどうなるか……お義父様が一番よくご存知のはず」


 伯爵の顔から、完全に血の気が失せた。

 法務局の査察など、まだ可愛いものだ。もし教会が「人道にもとる家」という烙印を押せば、アーデイル家は社交界どころか、貴族社会そのものから抹殺される。


「私は、静かに去りたいのです」


 ロレッタは、最後にそう付け加えた。


「どうか、円満な解決を、お願い申し上げますわ」


 それは、完璧なまでに計算された笑顔だった。




 数時間の後。

 ロレッタは、一枚の羊皮紙を手に入れていた。

 そこには、アーデイル伯爵の震える署名で、彼女の持参金の全額返還と、寡婦産としてアルフレドの個人資産であった王都の小さなタウンハウス、及び当面の生活に困らないだけのまとまった現金を譲渡することが、明確に記されていた。

 遺産の三分の一には及ばなかったが、ロレッタは即決で受け入れた。これ以上長居することのリスクと、王都に確実な拠点を手に入れる利益を天秤にかけた結果だ。


「……覚えてなさい、ロレッタ!」


 執務室を出る彼女の背中に、テッサの金切り声が突き刺さった。


「この泥棒猫! 疫病神! 財産だけ奪って逃げるなんて許さないわ! 王都中の誰もが、貴女を『夫を殺した不吉な女』だと知ることになるわ! 貴女が二度と社交界の土を踏めないようにしてやるから!」


 ロレッタは、振り返らなかった。


(ええ。貴女はそうするでしょうね)


 彼女は、財産と共に、アーデイル伯爵家から「不吉な女」という、重く、粘着質な負の肩書きも受け取って去るのだ。


(実家には戻れない。私の醜聞に巻き込むわけにはいかないわ。……でも、もう負けない)


 彼女は、胸を張って、一度も振り返ることなく、陽の当たらない北棟へと最後の荷物をまとめに戻った。

 その日の午後、ロレッタ・アーデイルは、粗末な馬車一台に最低限の荷物を積み、誰に見送られることもなく、半年間地獄の苦しみを味わったアーデイル伯爵家の門を、静かにくぐり抜けた。



 *



 季節は二度巡った。

 アーデイル家を追われるように出てから、一年半。夫アルフレドの正式な喪が、明けた。


 ロレッタは、寡婦産として得た王都のタウンハウスに住んでいた。そこは、伯爵家とは比べ物にならないほど小さかったが、日当たりが良く、何より彼女の自由になる場所だった。

 彼女はまず、かつて無理やり暇を出された侍女のアンナを呼び戻した。アンナは、変わり果てた主の姿に涙したが、その瞳に宿る鋼の意志を見て、生涯を捧げることを改めて誓った。


 ロレッタは、この一年半、決して無為に過ごしてはいなかった。

 アーデイル家から奪い返した資産を元手に、アンナの信頼できる縁故を頼り、堅実な商会に投資した。知識だけが武器であるこを、彼女は骨身に沁みて知っていた。法律、経済、そして何より、自分を陥れようとする者たちに対抗するための、社交界の複雑な力学と情報を徹底的に学んだ。


(もう、ただ虐げられるだけの私ではない)


 彼女は、自分の人生を取り戻すために、戦う準備を整えていた。


 そして、王都の社交シーズンが開幕する、春の夜。

 貴族たちが集う、王立劇場での観劇の初日。

 ロビーを埋め尽くす華やかなドレスと、宝石のきらめき。誰もが、新たな出会いと、あるいは新たなスキャンダルを求めて、噂話に花を咲かせている。


 その喧騒が一瞬、水を打ったように静かになった。

 入り口に、一人の淑女が立ったからだ。

 彼女は、深い紫紺のドレスを身にまとっていた。それは未亡人であることを示す控えめな色合いだったが、上質なシルクの光沢と、無駄を削ぎ落とした完璧なデザインが、着る者の気品を際立たせていた。

 肌は陶器のように白く、頬はまだ痩けていたが、その背筋は王妃のように真っ直ぐに伸びている。

 そして、その瞳。

 そこには、かつての怯えも、悲しみも、諦観もなかった。ただ、すべてを見透かすような、静かで揺るぎない光だけが宿っていた。


「……あれは」

「まさか……ロレッタ・アーデイル?」

「アーデイル家の? あの不吉な未亡人が、なぜここに?」


 囁き声が、さざ波のように広がっていく。

 彼女こそ、ロレッタ・アシュベリル。あえて、亡き夫の家名ではなく、実家の名を名乗り、社交界に再び姿を現したのだ。


(大丈夫。私は、私の足で立っている)


 嘲笑、好奇、侮蔑。あらゆる種類の視線が矢のように突き刺さる。だが、ロレッタは顔色一つ変えず、堂々とロビーを進んだ。


 その時だった。


「まあ、ご覧なさい! あんな女が、よくも神聖な劇場に足を踏み入れられたものですわね!」


 甲高い、誰もが知る声が響いた。

 テッサ・アーデイルだった。

 彼女は、流行の最先端である薄桃色の華美なドレスを着こなし、取り巻きの令嬢たちを引き連れて、ロレッタの真正面に立ちはだかった。


(来たわね)


 ロレッタは、静かに足を止めた。


「ごきげんよう、テッサ様。お変わりないようで、何よりですわ」

「黙りなさい、この疫病神!」


 テッサは、周囲に聞こえよがしに声を張り上げた。


「兄様を殺した貴女が、よくもそんな……そんなドレスを着て、この華やかな場所に来られたものだわ! まだ喪が明けてすぐだというのに、もう次の殿方を探しにいらしたの? この恥知らず!」


 周囲の貴族たちが、これ以上ない面白い見世物だと言わんばかりに、二人を遠巻きにした。

 テッサは、ロレッタが泣き出すか、取り乱すか、あるいは逃げ出すことを期待していた。アーデイル家でそうであったように。

 だが、ロレッタは違った。

 彼女は、扇でゆっくりと口元を隠し、その冷徹な瞳でテッサを真っ直ぐに見据えた。


「テッサ様」


 その声は静かだったが、テッサの金切り声よりも遥かに強く、その場を支配した。


「私の亡き夫、アルフレド様は、病で倒れました。その診断書は、王家の侍医が発行したものです」

「そ、それは……!」

「貴女が今おっしゃったような、根も葉もない噂を公の場で流布することは、今は亡き兄上に対する最大の侮辱ですわ」


 ロレッタは、一歩前に出た。その気迫に、テッサは思わずたじろぐ。


「家の名誉、家の名誉と、貴女はいつも口になさる。ですが、今この瞬間、アーデイル伯爵家の名誉を著しく傷つけているのは、一体どちらでしょう? 亡き兄君を『殺された』などと触れ回り、家の恥を自ら晒している貴女こそが、アーデイル伯爵家の名を地に貶めているのではありませんか?」

「な……な、なんですって……!」


 テッサの顔が、怒りと屈辱で真っ赤に染まった。

 彼女がヒステリックに反論しようと、大きく息を吸い込んだ、その瞬間だった。


「――実に、興味深い議論だ」


 低く、豊かに響く声が、すべての喧騒を切り裂いた。

 その声が発せられた瞬間、ロビーの誰もが、凍りついたように動きを止め、一斉に声の主へと(こうべ)を垂れた。

 ロレッタも、その声の持つ尋常ならざる力に、ゆっくりと振り返った。


 そこに立っていたのは、一人の男だった。

 長身痩躯。夜の闇をそのまま切り取ったような黒い軍服に、最低限の勲章だけが鈍い光を放っている。切り揃えられた黒髪の下、彫りの深い顔立ちは冷徹と噂されるにふさわしく、その灰色の瞳は、まるで万物を見透かすかのように鋭い知性を宿していた。


 ヴィンセント・ラエルゴ公爵。

 この国で、王族に次ぐ最も強大な権力を持ち、その冷徹さと類稀なる頭脳で、若くして宰相の座も噂される男。

 彼が、社交の場に姿を現すこと自体が、稀だった。


「こ、公爵閣下……!」


 テッサが、慌てて淑女の礼をとる。その顔は、先程までの怒りが嘘のように、憧れと恐怖で上気していた。

 だが、公爵はテッサには目もくれなかった。

 彼の視線は、ただ一人、ロレッタだけに注がれていた。


「アーデイル伯爵家の名誉、か。面白い」


 公爵は、ゆっくりとロレッタに向かって歩を進めた。


「……レディ、貴女の名は?」


 ロレッタは、この男の圧倒的な存在感に一瞬息を呑んだが、すぐに淑女の礼をとった。深く、しかし一切の媚びも怯えもない、完璧な礼を。


「ロレッタ・アシュベリルと申します。以前は、アーデイル伯爵家に嫁いでおりました」


 あえて、アーデイル家ではなく、実家のアシュベリルの名を名乗った。それは、テッサの言葉を暗に否定し、自身がすでにアーデイル家とは無関係であるという宣言だった。

 公爵は、その答えに満足そうに、わずかに口の端を上げた。


「ロレッタ嬢、か」


 彼は、ロレッタの瞳を真っ直ぐに見据えた。


「貴女は、この社交界(戦場)において、噂という毒矢を恐れず、慣習という盾を正しく構えているようだ。その胆力、気に入った」

「……恐れ入ります」

「他の令嬢たちは、噂に怯え、世評に縋るか、あるいはテッサ嬢のように感情的に喚き散らすだけだ。だが、貴女は違う」


 公爵の言葉は、テッサを公然と愚かだと断罪するものだった。テッサは、屈辱に唇を噛み締めたが、公爵相手に何も言えるはずがない。


「貴女は、自らの確固たる意志を盾に、この戦場を闊歩している。その清々しいほどの孤独な強さに、私は心から敬意を表しよう」


 そう言うと、公爵は、誰もが予想だにしなかった行動に出た。

 彼は、白い手袋に包まれた手を、ロレッタに差し伸べた。


「ロレッタ嬢。もしよろしければ、次のワルツを、私とお相手願えるだろうか」


 ロビーが、今度こそ完全に静寂に包まれた。

 あのラエルゴ公爵が? あの「不吉な未亡人」ロレッタに? ダンスを?


「貴女の言う、名誉についての見解を、ぜひともっと近くで伺いたい」


 それは、庇護の申し出ではなかった。ましてや、同情などでは断じてない。


(この人は……私を、対等な対話相手として見ている?)


 ロレッタは、差し出された手を見つめた。


(これは、チャンスだ)


 アーデイル家への復讐のためではない。自分の人生を守り、確立するための、最大の好機だ。

 彼女は、この男を利用できる限り、利用すると決めた。

 ロレッタは、公爵の手の上に、そっと自分の手を重ねた。


「――光栄ですわ、公爵閣下」


 ヴィンセント・ラエルゴ公爵は、その細く、しかし芯の強さを感じさせる手を、力強く握り返した。

 ロレッタは公爵に導かれ、唖然とするテッサと、好奇に満ちた社交界の人々の視線を一身に浴びながら、ダンスフロアの中央へと、堂々と進み出た。


 音楽が流れ出す。それは、今シーズン最も注目されている新しいワルツだった。

 ヴィンセント・ラエルゴ公爵は、その強靭ながらも優雅な腕で、ロレッタの腰を軽く、しかし確実に支えた。

 ロレッタの体は柳のように細かった。だが、公爵が感じ取ったのは、その繊細さの奥にある、決して折れることのない一本の鋼鉄の芯だった。


 二人は、ダンスフロアの中央へと滑り出す。

 周囲の視線が、痛いほどに突き刺さる。

 驚愕、嫉妬、好奇、そして侮蔑。


 ――あのラエルゴ公爵が、なぜ、あの『不吉な未亡人』と?

 ――公爵は、変わったご趣味をお持ちだ。

 ――きっと、あの女が何か良からぬ術で誘惑したに違いない。


 テッサ・アーデイルは、取り巻きたちの中で、爪が食い込むほど拳を握りしめていた。自分が受けるはずだった注目、自分が望んでいた公爵からの誘いを、あの忌まわしい疫病神に奪われた。その屈辱に、彼女の体は怒りで震えていた。


 だが、ロレッタは、その渦巻く悪意の中心にいながら、まるで嵐の目の中にいるかのように静かだった。

 彼女の意識は、目の前の男、ヴィンセント公爵にのみ集中していた。


(この人は、一体何を考えているの……?)


 公爵のリードは、完璧だった。強引すぎず、甘すぎず、ただロレッタの次の動きを読み取り、導いていく。それはまるで、高度な知性の応酬のようだった。


「……恐縮ですわ、公爵閣下」


 ロレッタは、平静を装い、先に口火を切った。


「私のような者と踊っては、閣下のご名声に傷がつきかねません」

「名声、か」


 公爵は、その灰色の瞳でロレッタを射抜いたまま、低く笑った。


「私の名声は、私が成した事実によってのみ築かれる。他人の噂によって左右されるほど、安くはない」


 その言葉は、テッサが振りかざした「家の名誉」という言葉がいかに空虚なものかを、暗に示していた。


「アシュベリル嬢。貴女は、アーデイル伯爵家から実に見事に奪い取った(・・・・・)そうだね」

「……!」


 ロレッタの体が、一瞬硬直した。


(この人、知っている。あの日の執務室での出来事を)


 公爵は、彼女の動揺を楽しんでいるかのように続けた。


「あの冷酷で強欲なアーデイル伯爵から、一分の隙もない論理で財産を奪い取った女性は、この国広しといえど、貴女が初めてだろう」


 その言葉に、侮蔑の色はなかった。あったのは、純粋なまでの、称賛。


「その知性と胆力は、並の男では持ち合わせていない。一国の財政を任せられるほどだ」


(この人は、私を……評価している?)


 ロレッタは、戸惑いを隠せなかった。

 彼女が必死で手に入れた知識と、死の淵で振り絞った決意。それは、生き延びるための、ただそれだけのためのものだった。誰かに褒められる類のものでは、断じてない。


「……買い被りですわ。私はただ、生き延びるために、法と慣習に定められた権利を主張したまで」

「権利、ね」


 公爵は、ロレッタを軽やかにターンさせた。ドレスの紫紺が、シャンデリアの光を受けて深くきらめく。


「その『権利』を行使できず、泣き寝入りするか、あるいは無様に朽ち果てていく者を、私は何人も見てきた。貴女は、泣かなかった。そして、朽ち果てることも選ばなかった。自らの意志で、立ち上がった」


 公爵の灰色の瞳に、初めて熱のようなものが宿った。


「アシュベリル嬢。私は、貴女のその強さに惹かれている」


(……!)


 それは、愛の告白と呼ぶにはあまりにも無機質で、しかし、どんな甘い言葉よりもロレッタの心を揺さぶる響きを持っていた。


(この人は、私を……一人の人間として、その内面を見ている)


 曲が、クライマックスに差し掛かる。

 公爵は、ロレッタの耳元に、周囲には決して聞こえない声で囁いた。


「他の令嬢たちは、私に財産や地位、庇護を求める。だが、貴女は違う。私が貴女の力になりたいのは、貴女を守りたいからではない。貴女のような稀有な才覚を持つ女性を、私の隣に置いて、対等な相談相手として迎えたいからです」


(プロポーズ……? いいえ、これは、スカウトのようなもの……?)


 ロレッタは、この男の真意を測りかねた。だが、一つだけ確かなことがあった。


(この人は、利用できる。いや……この人と組めば、私は、私の人生を完全に確立できる)


 曲が、終わりを告げた。

 二人は、フロアの中央で完璧な礼を交わす。

 周囲の貴族たちは、もはや好奇の囁きすら忘れ、ただ呆然と二人を見つめていた。

 公爵は、ロレッタの手を取ると、その甲に形式的なキスを落とすのではなく、彼女の手を力強く握った。まるで、契約を交わすかのように。


「今宵は、貴女という類稀なる知性に出会えたことを、神に感謝しよう」


 そう言って、公爵はロレッタをバルコニーへと続くテラスへとエスコートした。

 ロレッタ・アシュベリルの社交界再デビューは、こうして、王都中の貴族たちの度肝を抜く形で、鮮烈な幕開けを飾ったのだった。



 *



 だが、公爵という後ろ盾を得たことは、ロレッタに新たな試練をもたらした。

 テッサ・アーデイルが、このまま黙っているはずがなかった。


 ――公爵閣下の寵姫

 ――あの不吉な未亡人が、今度は公爵に取り入った

 ――きっと、寝所で誘惑したに違いない


 テッサが流した悪意に満ちた噂は、瞬く間に社交界を駆け巡った。

 以前の「夫殺し」という噂が侮蔑と恐怖を含んでいたのに対し、今回の噂は、嫉妬と、より下世話な好奇心を含んでいた。

 ロレッタは、夜会に招かれても、令嬢たちからは遠巻きにされ、夫人たちからは値踏みするような視線を浴びせられた。


(寵姫……。私と公爵閣下は、あの夜、ダンスを一曲踊り、知的な会話を交わしただけ。それなのに……)


 だが、ロレッタは動じなかった。彼女は、向けられる悪意に微笑みで応え、侮辱には無言で通り過ぎることで対処した。彼女の目的は、社交界の友人を作ることではない。自立した貴族女性としての地位を確立することだ。

 しかし、テッサの妨害は、噂話だけでは終わらなかった。

 それは、ロレッタの生命線である財産に対して、より直接的かつ悪質な形で襲いかかってきた。


 ある嵐の日の午後、ロレッタがタウンハウスで帳簿をつけていた時だった。

 アンナが、青ざめた顔で客の来訪を告げた。

 現れたのは、見るからに柄の悪い、しかし上等な服を着た二人の男だった。彼らの後ろには、法務局の執行官を名乗る役人も控えている。


「ロレッタ・アシュベリル様ですな」


 男の一人が、嫌らしい笑みを浮かべて言った。


「我々は、故アルフレド・アーデイル様の債権者である、ゴールディ商会から依頼を受けて参りました」

「……債権者?」


 ロレッタは、胸騒ぎを覚えながらも冷静に応じた。


「アルフレド様の個人の負債については、アーデイル伯爵家が相続したものと認識しておりますが」

「それが、違うのですな」


 男は、一枚の羊皮紙をロレッタの目の前に突きつけた。


「故アルフレド様は、生前、我らゴールディ商会から借金をなさっていた。そして、その担保として……このタウンハウスの所有権を、我らに譲渡するという契約書に署名なさっている」

「なっ……!」


 そんなはずはない。このタウンハウスは、アルフレド個人の資産であり、ロレッタが寡婦産として正当に相続したものだ。


「これは、偽造ですわ! 夫が、そのような契約を結ぶはずがない!」

「偽造、と申されますか」


 男は、わざとらしくため息をついた。


「ここには、アルフレド様の直筆の署名と、アーデイル伯爵家の印璽も押されております。法務局の確認も済んでいる」


 執行官が、冷ややかに告げる。


「ロレッタ・アシュベリル殿。この契約書が有効である以上、貴女はこの家屋の不法占拠者にあたる。一週間以内に、退去していただきたい」

「そんな……!」


 アンナが、その場に崩れ落ちそうになるのを、ロレッタは片手で制した。


(偽造よ。絶対に。それに……アーデイル伯爵家の印璽? なぜ、それが?)

(……テッサ様!)


 ロレッタの脳裏に、あの執務室での義妹の憎悪に満ちた顔が浮かんだ。


(あの人は、本気で私から全てを奪い取る気だ)


 テッサは、父である伯爵の印璽を盗み出し、闇の公証人を使ってこの偽造契約書を作成させたに違いなかった。


「お待ちください。これは……」

「議論の余地はありませんな。では、一週間後」


 男たちは、勝ち誇ったように笑い、嵐の中へと去っていった。

 ロレッタは、冷たい部屋の中で、その偽造された羊皮紙の写しを握りしめ、立ち尽くした。


 追い打ちは、それだけではなかった。

 翌日、ロレッタが資産の多くを投資していた堅実な商会から、緊急の連絡が入った。


「アシュベリル様、申し訳ありません! アーデイル伯爵家から、強い圧力がかかりまして……!」


 テッサが、伯爵の名を使い、ロレッタの投資先である商会に対し、取引を停止しなければアーデイル家の領地から締め出すと脅しをかけたのだ。


「このままでは、当商会も破産しかねません。誠に申し訳ありませんが、アシュベリル様からの投資は、一旦清算させていただきたく……!」


 それは、投資の失敗を意味した。彼女の資産は、この一撃で、ほぼ底をつくことになる。

 住む家を奪われ、資産も失う。


(……また、あの日に戻るというの? あの、寒くて、何も食べられず、誰にも助けてもらえなかった、北棟の部屋に?)


 ロレッタの膝が、初めて震えた。

 彼女は、寒さに耐えるように、自らの両腕を抱きしめた。


(泣いてはいけない。絶望してはいけない。これは、テッサ様の罠。私が公爵閣下に泣きつき、その醜態を晒すことを望んでいる。あるいは、このまま、王都から惨めに消え去ることを……絶対に、そうはさせない)


 ロレッタは、法廷に訴え出る準備を始めた。偽造契約書の矛盾点を、自ら探し出すために。

 彼女は、公爵に助けを求める手紙を書かなかった。

 これは、彼女自身の戦いだったからだ。


 だが、ロレッタが三日三晩、法律書と睨み合い、偽造文書のインクの染みや署名の僅かな癖を調べていた、その時だった。


「お客様です、奥様」


 アンナの声が、緊張に強張っていた。

 ロレッタが書斎から出ると、そこには、嵐の夜に不釣り合いなほど静かに、ヴィンセント・ラエルゴ公爵が立っていた。


「……公爵閣下。このような時間に、いかがなさいましたか」


 彼は、濡れたマントを執事に預けながら、まっすぐにロレッタを見た。その灰色の瞳は、彼女の疲労困憊の顔色と、書斎に山積みになった法律書を、一瞬で見抜いていた。


「アシュベリル嬢。貴女は、私を頼らないつもりらしいな」


 その声には、非難ではなく、むしろ感嘆の色が滲んでいた。


「……これは、私の問題ですわ。閣下にご迷惑をおかけするわけには」

「迷惑、か」


 公爵は、ロレッタが握りしめていた偽造契約書の写しを、彼女の手から静かに抜き取った。


「アーデイル伯爵家の印璽。なるほど、テッサ嬢も、愚かながら大胆な手に出たものだ」

「ご存知なのですか!?」

「貴女が思っている以上に、私は知っている」


 公爵は、まるで自分の手柄のように、淡々と事実を告げた。


「テッサ嬢は、伯爵家の財産を自らの遊興費で使い込み、その莫大な穴埋めのために、貴女の持参金と寡婦産を狙った。彼女が接触した闇の公証人は、私の情報網がすでに押さえている」


 ロレッタは、息を呑んだ。


(この人は、私が劇場で出会うずっと前から、アーデイル家の内情を……? いいえ、テッサ様の動向を監視していた?)


「なぜ、そこまで……」

「言ったはずだ、アシュベリル嬢」


 公爵は、ロレッタの前に一歩近づいた。その長身が、ランプの光を遮り、ロレッタは彼の影に包まれた。


「私が貴女の力になりたいのは、貴女を守りたいからではない。貴女と共に闘いたいからだ」

「私と……?」

「貴女のその状況判断の速さと、決して諦めない精神力。それこそが、私の求めるものだ」


 公爵は、ロレッタが調べていた法律書を手に取った。


「貴女は、この契約書の偽造を、法廷で証明しようとしている。正しい判断だ。だが、時間がかかりすぎる。その前に、貴女の資産が尽きるか、テッサ嬢が次の手を打つ」

「では、どうすれば……」

「舞台を、用意する」


 公爵の灰色の瞳が、冷徹な光を放った。


「法廷という閉ざされた場所ではない。最も残酷で、最も効果的な、公の舞台をだ」

「舞台……」

「三日後、私の誕生を祝う夜会を開く。王都中の貴族が集まるだろう。もちろん、テッサ・アーデイルも、得意満面でやってくる」


 公爵は、ロレッタの目を見据えた。


「その場で、我々は、テッサ・アーデイルの罪をすべて暴き、彼女を断罪する」


 それは、あまりにも大胆不敵な計画だった。

 ロレッタは、この男の底知れない力と、その計画の冷徹さに、わずかな恐れさえ感じた。

 だが、それ以上に、彼女の心は高揚していた。


(この人となら、勝てる)


「……承知いたしました。私は、何をすればよろしいでしょうか」

「貴女は、貴女のままでいればいい」


 公爵は、ロレッタがまとめた偽造の証拠のメモを手に取った。


「貴女のこの緻密な分析と、私の持つ絶対的な証拠。それらを組み合わせれば、テッサ嬢に逃げ場はない」


 公爵は、ロレッタのその知的な反撃計画に、満足そうに頷いた。


「貴女の、その一切の妥協を許さない矜持は、私の領地さえ買えない価値がある。アシュベリル嬢、貴女は、私のパートナーにふさわしい」


(パートナー……)


 その言葉は、ロレッタがずっと求めていた響きを持っていた。


(私は、利用されるのではない。庇護されるのでもない。対等な、パートナーとして……)


 嵐は、いつの間にか過ぎ去っていた。

 公爵が帰った後、ロレッタは、窓から差し込む月光を浴びて、静かに立っていた。

 彼女は、もはや一人ではなかった。

 最強の共闘相手を得た彼女の心は、アーデイル家を出たあの日と同じ、鋼の意志で満たされていた。




 そして、運命の夜会の日。

 ラエルゴ公爵の屋敷は、王都中の貴族たちで埋め尽くされていた。

 テッサ・アーデイルは、その中心で、蝶のように舞っていた。

 彼女は、最新流行の真紅のドレスを身にまとい、勝利者の笑みを浮かべていた。


「まあ、お聞きになって? あのロレッタとかいう女、とうとう住む家も追い出されるそうですわ」


 取り巻きたちに、聞こえよがしに囁く。


「公爵閣下も、さすがに疫病神の本当の姿にお気づきになったのよ。あんな女、すぐに飽きられて捨てられるに決まっているわ」

「テッサ様こそ、公爵閣下のお眼鏡にかなうのでは?」

「まあ、いやだわ!」


 テッサが甲高い笑い声を上げた、その瞬間だった。

 会場の音楽が止まり、扉が、ゆっくりと開かれた。


「皆様、お待たせいたしました。今宵の主役、ヴィンセント・ラエルゴ公爵閣下と――」


 執事の声が、厳かに響く。


「そのパートナーであられる、ロレッタ・アシュベリル様のご入場です」


 しん、と会場が静まり返った。

 テッサの嘲笑が、顔に張り付いたまま凍りつく。


 ヴィンセント公爵が、その黒い軍服姿で現れた。

 そして、その腕にエスコートされていたのは、ロレッタだった。


 彼女は、喪服の紫紺でも、控えめなドレスでもなかった。

 月光そのものを織り込んだかのような、気高い白銀のドレス。それは、公爵が彼女の「戦装束」として特別に贈ったものだった。

 そのドレスは、彼女の痩せた体を隠すのではなく、その内にある揺るぎない意志の強さを、まるで輝く鎧のように際立たせていた。


 ロレッタは、胸を張り、背筋を伸ばし、王妃のような威厳をたたえて、公爵と共に大階段を降りてくる。

 その瞳は、まっすぐに、一点を射抜いていた。

 ――金切り声を上げる寸前で固まっている、テッサ・アーデイルを。

 逆転の舞台は、整った。


 大理石のホールは、水を打ったように静まり返っていた。

 先程までテッサ・アーデイルの甲高い笑い声が響いていた場所には、今や息を呑む音だけが満ちている。

 全ての視線が、大階段の上に立つ二人に注がれていた。


 黒い軍服のヴィンセント・ラエルゴ公爵と、その腕にエスコートされ、白銀のドレスをまとったロレッタ・アシュベリル。

 その姿は、まるで闇夜を統べる月と、その月光を一身に浴びて輝く夜の女神のようだった。


「……な……」


 テッサは、目の前の光景が信じられないといった風に、口を半開きにして立ち尽くしていた。


(嘘よ。捨てられたんじゃなかったの? 家を追い出されて、惨めに物乞いに来るはずじゃ……!)


 嫉妬と混乱が、テッサの美しい顔を醜く歪ませた。


 公爵は、ロレッタをエスコートしたまま、ゆっくりと階段を降り切った。

 彼の灰色の瞳は、ホールに集まった王都中の貴族たちを見渡し、その視線がテッサの上でピタリと止まった。


「今宵は、私の誕生を祝う夜会に集まっていただき、感謝する」


 低く、しかしホール全体に響き渡る声だった。


「だが、今宵の主役は私ではない。私の隣にいる、この淑女だ」


 公爵は、ロレッタの手をそっと持ち上げた。


「ロレッタ・アシュベリル嬢。貴族の矜持と、類稀なる知性を併せ持つ、真の淑女である」


 会場が、ざわめいた。

 公爵が、一人の女性をここまで公然と称賛するなど、前代未聞だったからだ。


「そして彼女は……」


 公爵の声が、温度を一度下げた。


「ある卑劣な陰謀によって、その名誉と財産、そして命までも奪われようとしていた、被害者でもある」

「公爵閣下!」


 その言葉に、ついにテッサが耐えきれず叫び声を上げた。


「そ、その女は……! その女は疫病神ですわ! 兄を殺し、アーデイル家から財産を盗み出した泥棒猫です! 閣下は騙されていらっしゃるのです!」


 感情をむき出しにして叫ぶテッサの姿に、周囲の貴族たちは眉をひそめた。公爵の言葉を遮るなど、狂気の沙汰だ。

 だが、公爵は待っていたかのように、冷静にテッサを見据えた。


「テッサ・アーデイル嬢。貴女の言う『盗み出した』とは、アシュベリル嬢が正当な寡婦産として相続した、王都のタウンハウスのことかな?」

「そ、そうですわ! あれは兄の、アーデイル家の資産です! それを、この女が!」

「では、この書類に見覚えは?」


 公爵が合図すると、控えていた執事が一枚の羊皮紙をテッサの目の前に突きつけた。それは、あのゴールディ商会が持ってきたいかさまの借用書、その原本だった。


「そ、それは……! それこそが、あの女が不法占拠者である証拠ですわ!」


 テッサは、自分の計画が公爵の知るところとなったことに気づかず、勝利を確信して叫んだ。


「それには、兄アルフレドの署名と、我がアーデイル家の印璽が押されています! 法務局も認めた、正式な書類です!」


 ロレッタは、興奮するテッサを冷たい目で見つめた。彼女は自ら、墓穴を掘っている。


「ほう。正式な書類、か」


 公爵が、氷のように冷たい声で言った。


「では、なぜ、この書類に使われているインクは、アルフレド卿が亡くなった()に開発された、最新のインクなのかな?」

「……え?」


 テッサの甲高い声が、裏返った。


「テッサ様。貴女は、ご自分でその書類を偽造なさったので、お気づきにならなかったようですね」


 ロレッタが、静かに一歩前に出た。その声は、マイクもなしに、ホール全体に凛と響き渡った。


「私が調べ上げたところ、このインクが王都の市場に出回ったのは、夫が亡くなってから三ヶ月も後のこと。そして、署名の筆跡。夫は熱病で右手が利かず、晩年は左手で署名をしておりました。ですが、この署名は、完璧な『右手』の筆跡ですわ」

「な……あ……」


 テッサの顔から、急速に血の気が引いていく。


「そ、そんなこと……! 偶然よ! 似たようなインクだっただけかもしれないじゃない!」

「偶然、かね?」


 公爵が、とどめを刺した。


「では、この書類を作成した公証人、ギデオンをここへ」


 公爵が指を鳴らすと、ホールの隅の扉が開き、衛兵に両脇を固められた、青白い顔の男が引きずり出されてきた。


「ひぃ……! こ、公爵閣下……!」

「ギデオン。お前が、テッサ・アーデイル嬢の依頼で、この偽造契約書を作成し、見返りにアーデイル家の宝石を受け取ったことは、すでに自白済みだ。法廷で証言するか、ここで証言するか、選ばせてやろう」

「しゃ、喋ります! 全てお話しします!」


 ギデオンは、その場に崩れ落ち、テッサを指差した。


「あ、あの御令嬢です! テッサ様が、私に『故アルフレド様の筆跡を真似て、タウンハウスを差し押さえられる書類を作れ』と! アーデイル伯爵家の印璽も、テッサ様が持ってこられました!」

「い……いやぁぁぁぁぁっ!」


 テッサが、耳を塞いで金切り声を上げる。

 もはや、誰も彼女を擁護する者はいなかった。取り巻きだった令嬢たちは、汚物から逃れるように、彼女から距離を取っている。


「そして、テッサ嬢」


 公爵の冷徹な声が、彼女の悲鳴を断ち切った。


「貴女は、なぜそのようなことをしたのか。それも、我々は掴んでいる」


 公爵の執事が、今度は分厚い帳簿を広げて見せた。


「貴女が、伯爵家の資産を秘密裏に使い込み、自らのドレス代や遊興費に充てていた記録だ。その額、伯爵家の年間収入の四分の一に達する」

「あ……あ……」

「その穴埋めのために、貴女は、法的に守られたロレッタ様の持参金や寡婦産を横領しようと企てた。違うかね?」


 テッサは、もはや言葉にならなかった。

 その時だった。


「……そこまでにしてくれないか、公爵閣下」


 人垣をかき分けて、青ざめた顔のアーデイル伯爵が、よろよろと現れた。彼もまた、公爵から「重要な話がある」と、この夜会に密かに呼び出されていたのだ。

 彼は、娘の愚かな行いと、その完璧な証拠を前に、すべてを悟った。


「テッサ……! お前、なんということを……!」

「お父様! 違うの! 私は、家の名誉のために……!」

「黙れ!」


 伯爵は、初めて娘を怒鳴りつけた。だが、それは公爵に向けられた、必死の命乞いだった。


「公爵閣下……! 娘の、愚かな行い……! この父の監督不行き届き、何とお詫びしてよいか……! どうか、アーデイル家の名誉だけは……!」


 公爵は、その醜い保身の姿を、冷ややかに見下ろした。


「名誉、か。伯爵。貴殿は、ロレッタ嬢が貴家で虐げられ、命の危機に晒されていた時も、その名誉とやらを理由に彼女を見殺しにしようとした」

「ぐっ……!」

「テッサ・アーデイル嬢による、伯爵家印璽の盗用、公文書偽造、そして財産の不当な侵害。これらは、アーデイル家内部の問題ではない。王国の法秩序に対する、重大な挑戦である」


 公爵は、テッサに向き直り、最終宣告を下した。


「衛兵。テッサ・アーデイルの身柄を拘束せよ。彼女は、王都法務局の裁きを受けることになる」

「い、いやあああああ! 離して! 私は伯爵家の娘よ! お父様、助けて! いやあああ!」


 テッサは、見苦しく暴れ、泣き叫んだ。だが、屈強な衛兵に両腕を掴まれ、引きずられていく。彼女が誇った真紅のドレスは床を引きずられ、その高価な生地は無残に汚れていった。

 彼女が連れ去られた後、ホールには重苦しい沈黙だけが残った。

 アーデイル伯爵は、その場に崩れ落ち、公爵は、集まった貴族たちに向き直った。


「皆様。今宵は、醜いものをお見せした。だが、私は、不当な権力が、法と正義を踏みにじることを許さない。そして何より」


 彼は、再びロレッタの手を取った。


「私の大切なパートナーが、二度と誰からも不当な侮辱を受けることを、許さない」


 その宣言は、王都の社交界全体に向けられた、絶対的な庇護の誓いだった。

 ロレッタ・アシュベリルは、もはや「不吉な未亡人」ではない。「ヴィンセント公爵が、その知性と胆力に惚れ込み、命をかけて守る女性」として、この瞬間、社交界の頂点に立ったのだ。



 *



 騒ぎが収まり、貴族たちが動揺を隠しながらも夜会が再開された頃。

 ロレッタは、一人、バルコニーに出て夜風に当たっていた。

 眼下には、王都の美しい夜景が広がっている。


(……終わった)


 アーデイル家での虐待。テッサの執拗な妨害。そのすべてが、今、終わりを告げた。

 彼女は、自らの手で、自らの人生を取り戻したのだ。

 ロレッタは、胸に下げていた小さなロケットを、そっと握りしめた。そこには、亡き夫アルフレドの小さな肖像画が収められている。


(アルフレド……私は、生き延びました。

 貴方がいなくなったあの日、私は絶望の底にいました。この冷たい世界で、もう二度と誰も愛することなどできないと、心を閉ざしていました。

 でも、私は決めたのです。貴方が最後に守ろうとしてくれた、この私の人生を、私自身の力で守り抜くと。

 貴方への感謝と、短い間でしたが分かち合った愛は、決して、決して消えません。それは、私の心の中で、永遠に輝き続ける光です)


 彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、悲しみの涙ではなかった。過去のすべてを受け入れ、乗り越えた証の、温かい涙だった。


(でも、アルフレド。私は、前を向かなければならない)


 彼女は、先程ホールで、自分のために全てを賭けて戦ってくれた、あの冷徹で、しかし誰よりも熱い心を持つ男の姿を思い浮かべた。


(……もう一度、誰かの腕に抱かれると決めたから)


「……過去を、弔っているのか」


 低い声がして、ロレッタは振り返った。

 いつの間にか、ヴィンセント公爵が、彼女の隣に立っていた。


「公爵閣下……。今宵は、本当に……ありがとうございました」


 ロレッタは、深く頭を下げた。


「礼を言う必要はない。言ったはずだ、我々は共闘したのだと」


 公爵は、彼女の隣に並び、王都の夜景を見下ろした。


「貴女が伯爵家で味わった苦渋は、想像に難くない。だが、その試練こそが、貴女を磨き上げた。私は、傷つきながらも立ち上がり、自らの知性だけを武器に戦い抜いた貴女の、その全てを……愛している」

「……!」


 ロレッタは、息を呑んだ。

 愛している。

 あの劇場の夜、「惹かれている」と言った男が、今、はっきりとそう言った。

 公爵は、ロレッタに向き直った。その灰色の瞳には、もう冷徹な色はなく、ただ深い情愛だけが揺らめいていた。


「私は公爵として、多くの財産と権力を有している。だが、貴女の、あの絶望的な状況から立ち上がった無私の決断力と、一切の妥協を許さないその矜持は、私の持つ領地全てと引き換えにしても得難い、唯一無二の価値がある」


 彼は、ロレッタの前に、静かに片膝をついた。

 それは、この国の最高権力者の一人が、決して誰にも見せることのない、最大の敬意の表れだった。


「ロレッタ・アシュベリル嬢。どうか、私の人生に、その無二の強さを、隣に置いてはくれないだろうか」

「……」

「貴女が、私との結婚を政治的に利用するのだとしても構わない」


 公爵は、彼女の戸惑いを見透かすように、続けた。


「だが、いつか貴女の心が、私という男を選んだ真の愛に変わる瞬間を、私は、永遠に待とう」


 ロレッタは、膝をついた公爵を見つめた。


(利用……? 確かに、最初はそう思っていた。

 でも、違う。

 この人は、私の弱さも、強さも、私が生きるために必死で研ぎ澄ませた牙も、その全てを理解し、受け入れ、そして「愛している」と言ってくれた。

 この人となら、私は、もう偽りの仮面を被る必要はない。ロレッタとして、ただ、ありのままに、生きていける)


 彼女は、握りしめていたロケットを、そっとドレスの中に戻した。

 そして、亡き夫に、心の中で最後の別れを告げた。




 ロレッタは、公爵に向かって、その手を差し伸べた。


「ヴィンセント様」


 彼の名を呼んだ。


「私の意志は、もう、貴方を選んでいます」


 彼女は、泣き笑いのような、しかし、この世の誰よりも美しい笑顔を浮かべた。


「貴方のその無二の強さの隣に、私の人生の全てを、置かせてください」


 ヴィンセント公爵は、彼女の言葉に、初めて心の底からの笑みを浮かべると、その差し出された手を力強く握りしめた。

 彼は立ち上がり、彼女を優しく、しかし決して離さないと誓うように強く、その腕の中に抱きしめた。


 白銀のドレスをまとったロレッタは、もう「不吉な未亡人」ではない。

 過去を乗り越え、自らの意志で未来を選び取った、一人の女性として、今、最も愛する男の腕の中で、輝いていた。

 虐げられた未亡人の社交界再デビューは、こうして、王都で最も祝福される真実の愛の成就として、完結したのだった。




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