第五章 渡と拓哉の間で
しばらくの沈黙。佐和子はうつむき、渡は立ったまま流しに視線を落としていた。
 
ふすまが開く音。
拓哉が足音を忍ばせ、居間に入ってくる。
影が灯りに伸び、テーブルの縁で形を変えた。
 
「どうした」
渡が言うと、拓哉は小さく息を吸い、視線を落としたまま、ぽつりと口にした。
「……学級委員、やめようと思う」
その声は乾いていて、どこか遠かった。
 
その言葉に、佐和子は思わず顔を上げた。
声を出そうとして、一瞬うまく息ができなかった。
「どうして……」
かすれるような声だった。
驚きと戸惑いが入り混じり、ようやく音になった。
 
「なんか……めんどうだし」
“めんどう”。
その一言が、渡の額の皮膚にじわりと汗を呼んだ。
 
「めんどうって、何が」
自分の声が、驚くほど静かに聞こえた。
拓哉は少し間を置き、目線を落としたまま言った。
「学級委員なんてめんどうだよ。それに、駿平くん、やりたがってたし。本当にやりたい人がやればいいと思うんだよね」
精一杯の虚勢を張っているようにも見えた。けれど、言葉そのものには隙がない。
 
“めんどう”という言葉の刃が自分に向いていないことに安堵しながら、その瞬間に滲んだ自分の卑しさに、思わず目を伏せた。
「……そうか。拓哉の好きにすればいい」
ようやく出た声は、わずかに掠れていた。
いつも通り“自主性を尊重する父親”の言い回しが、今夜だけはまるで、他人の言葉のように感じられた。
 
拓哉は軽くうなずき、「おやすみ」と言って部屋へ戻った。
ふすまの閉まる音が、家のどこかを細く締めつけた。
 
静寂が戻る。
佐和子は茶碗を重ね、陶器の擦れる音をひとつずつ夜に沈めていく。
渡はその音を聞きながら、自分の呼吸だけがこの家に取り残されているように思った。
社宅という場所を“煩わしい”と思ったことはない。
上司と隣り合って暮らすことも、気を張ることも、渡にとっては小さな社会の延長にすぎなかった。
 
——家族を職場の力学に巻き込まない。
それが自分の信念であり、矜持だった。今、それが音を立てて壊れていくのを感じた。
 
食卓の上には、冷えきった味噌汁の椀がひとつ。湯気はとうに失せていた。
渡はそれを手に取り、唇を寄せる。
舌の上に残る塩気は、どこか他人の感覚のように遠かった。
 
<おわり>
感想聞かせていただけると嬉しいです
 




